MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

消えた犬飼さん

2010-08-26 00:00:00 | まるチャンの「何だ、これ!?」

08/26    まるチャンの「何だ、これ!?」 (76)



           消えた犬飼さん




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 やあ、ボク、まるだよ。 ワン、ワン!

 みんな、元気? ボク、とても元気だよ!



 最近、maru のやつがね、パソコン、なかなか触らせて
くれないんだ…。

 「二人で変わりばんこに、プログ、書こうね?」…って、
自分で言ってたのに、それって、いけないよね?




 "犬" の字のつく苗字、地名…、そのほか色々見てきたよね?



 そのうち、愛知県の"犬山" さんは、かくれんぼが好きだった
の、覚えてる?

 最初は犬山だったのに、一度無くなっちゃったんだ。 でも
犬山になって現われたの。 今ではとうとう犬山になっちゃ
ったね、ワン。




 ほかにもね、かくれんぼはしないけど、いつも頑張ってる
ワンちゃんだっているんだよ?

 それ、犬飼さんなの。




 まず大分県から行こうね。 ここにも昔から "犬飼" が
あったの。 でも最初はね、小さな "犬" だったんだよ。

 その頃の犬飼町はね、大野郡犬飼町って呼んで区別
してるんだ。 周りには、大野郡長谷村、大野郡戸上村が
あったんだけど、この "古いワンちゃん" に「パクッ!」て
食べられてね、無くなっちゃったんだ…。

 名前はそれまでと同じ、大野郡犬飼町のままなんだけど、
前より太っちゃったの! 1955年 (昭和30年) 3月28日のこと
なんだ。



 それから50年経った2005年3月31日に、豊後大野市
出来たんだ。 でも犬飼っていう地名はね、市の中心部を
始めとして、たくさん残っているの。




 同じ "犬飼" でも、その地域は時代によって違うんだ。

 犬、飼ってる人、ここ、今でも多いのかな~。




 ところがね、本当に無くなっちゃった犬飼さんもあるんだよ。
それ、今は長野県松本市の一部になって消えちゃったの。

 寂しいよね…。 由緒ある地名で、きっと何百年も続いて
いたんじゃないかな…。



 もう百年以上昔の話になるけど、島之内 (しまのうち) 村って
いうのが新しく出来たときがあったの。 それはね、たくさん
の村が合併して出来たんだよ?

 その名前を見てみようね。 安曇郡小宮村、高松村、青島
村、北中村、南中村、北方村、東方村、上平瀬村、下平瀬村
などと並んで、犬飼町村犬飼新田村があったんだって。
その犬飼さんたちがいなくなったのは、1874年 (明治7年)
10月25日のことだよ。

 ちょうど1年後の1875年10月25日、"之" が取れて島内
村になったけど。 その頃のこと、知っている人は、もう
誰もいないよね。



 その島内村がね、さらに松本市に編入され、犬飼町村の名
は消えちゃっちゃったの。 1954年4月1日のことなんだって。
この市は若くて、ずっと後に出来た (1907年) のに、犬飼村を
飲み込んじゃったんだ。

 犬飼新田村の方はね、"松本市大字島内犬飼新田" として
何とか名前が残っているよ。



 これ、主に[島内村(しまうちむら)]っていうサイトの内容
を転載したんだ、ワン。




 "犬飼" のついた地名はね、町名などでは消えても、実際は
幾つも残ってるんだ。 特に多いのは島内 (松本の市街地北西部)
近辺なの。 "犬飼の御湯" と言われた浅間温泉や、"犬甘
(いぬかい) 城山
" も有名だよ。



 市内には、"犬飼八か村" なんてのもあるらしいんだけど、
どこかなー?

 maru のやつが好きそうな名前だねー。 でも行っても、
ハチくんが八匹飼われている」わけじゃないぞ。

 でもこれ、何て読むの? ひょっとして、『犬神家の一族』や
八つ墓村』と関係があるのかな…? ボク、怖いよ~~…。




 やはり長野県には「"犬替" というところがある (上伊那郡
宮田 (みやだ)
)」…って聞いたけど、何て読むのかな~?




 飯山市へ行くと犬飼神社があるよ。

 「犬飼神社は、犬飼郷の総産土神。 犬飼郷は天応元年
(781)朝廷から信濃にて20戸の封戸を受けた葛木犬飼(養)
神に由縁のある所と考えられており、その事に基づいて往時
より、この諏訪神の境内にカツラを植えたといわれている。」
         長野県神社庁~犬飼神社

…なんて書いてあったよ。 これ、奈良時代だ! ワン。




 詳しい歴史に興味ある人は、ページの最後をクリックしてね、ワン。




 それから栃木県にはね、昔は上都賀郡北犬飼村
下都賀郡南犬飼村があったの。

 このうち北犬飼村はね、元々は村がたくさん集まって
出来たんだ。 1889年 (明治22年) 4月1日のことで、
「上石川村、下石川村、茂呂村、深津村、白桑田村、
池之森村が合併した」って書いてあるよ。

 でもね、この北犬飼村は、1954年10月1日、周辺の
菊沢村、東大芦村、北押原村、板荷村、西大芦村、
加蘇村と合併して、鹿沼市になっちゃったんだ。



 南犬飼村の方はね、下都賀郡壬生町に編入されて、
やっぱり消えちゃったの。 こちらは1955年7月28日
だから、同じ頃なんだね…。



 "犬飼" の名前が栃木県にいつ頃からあったのか、
正確には分らないの。 でも、「1316年 (正和5年)
輪王寺文書の中に、"犬飼郷" の名が見られる」って
書いてあるから、遅くとも700年前にはあったことに
なるよね。

 この犬飼さん、640歳まで生きたんだなー…。 さっきの
飯山市の犬飼郷では「781年に朝廷から」…なんて書いて
あったから…、ひょっとすると 1,200歳以上!? ワーン!

 でもね、"市立北犬飼中学校" のように、今でもちゃんと
名前は残っているみたいだよ? ワン。




 犬飼郡、犬飼城、犬飼郷、犬塚、犬塚新田村、犬塚村、
犬伏、犬伏上町、犬伏下町、犬伏新町、犬伏中町…。

 これ、栃木県で検索すると出てくる、犬の字がある
地名などだよ。 犬飼城や犬飼郷があるね。 由緒が
あるんだなー、ワン。

        角川日本地名大辞典
               ↓
全国版で "" って検索すると、こんなにあるよ? ワン。 → [




 でもね、犬飼さんだけじゃないんだよ? 消えて
無くなっちゃったのは。



 京都府相楽郡には、田村、上町、高麗 (こま) 村が
あったの。 でも川西村っていうのが出来たときに (1931年
10月1日)
無くなったのが狛田村。 山城町が出来たとき
(1956年8月1日)には上狛町と高麗村が消えちゃったの。




 それから静岡県ではね、1956年9月30日に周智郡春野町
が出来たんだけど、このときに、同じ周智郡の中で無くなった
のが、犬居町と熊切村なんだって。 ありゃー!

 この犬居町はね、昔、町制施行で犬居から昇格したの。
1928年 (昭和3年) 11月15日だって。 犬居村があったのは、
1889年 (明治22年) 4月1日の頃かららしいよ。



 もっと古い記録ではね、「中世、天野氏が犬居城を築き、
この山中を領したため犬居山中 (やまなか) と呼んだ」…
なんて書いてあるの。

 "中世" って、いつ頃のことなのかなぁ?



 別のサイトではね、「人工造林が始まった地は、静岡の
天竜地区。 それは (犬居町の) 秋葉神社で、社有林に
スギ、ヒノキを植林したのが最初とされています。」…って
書いてあるの。

 これ、1469年 (文明元年) のことだっていうから、それよりも
前から "犬居" さん、居たことになるんだ。

 室町時代なんだって。 へ~え!



    この犬居町については、[SUUMO]、[きらく辞典]、
   [Yahoo!百科事典]、[木を植えた日本人の歴史]、
   [サカモトの家]から転載させてもらったんだ。

          ありがとうございました、ワン!





 最後は犬川さんだよ。



 山形県には "犬川" っていうと、それに駅名が、今でも
あるの。

 「駅から少し離れたところを "犬川" という川が流れており、
この川は下流で最上川と合する。」 [All About




 記録を見るとね、

 「1889年 (明治22年) 4月1日、町村制施行に伴い、東置賜
(ひがしおきたまぐん) 犬川村、大塚村が発足 (1町19村)。」

 「1955年 (昭和30年) 1月1日、小松町・中郡村・犬川村
・大塚村が南置賜郡 (みなみおきたまぐん) 玉庭村と合併し、
東置賜郡川西町 (かわにしまち) が発足 (4町9村)。」



 この1954~55年はね、町制が全国的に変更された時代
なんだって。 maru のやつが言ってたよ。




 ほかにも知っている人、いたらボクに教えてね?




 以上、特に断ってない箇所は、[日本の廃止市町村一覧
を参考にさせてもらったの。

 これ、見ていると飽きないほど色々書いてあるんだ、ワン。




 明治時代にが出来て、昭和に入るとになり、そして
に編入されて消えていく…っていう形、多いんだなー。




参考サイト 古城の歴史 から 犬甘城 (いぬかいじょう)
        (信濃国守護職小笠原氏の重臣であった犬甘氏の居城)

   ↓  (一部抜粋してあるから、歴史の好きな人は見てね、ワン。)



 犬甘城は、古代よりこの地に栄えた豪族である犬甘氏の居城として築かれ、戦国時代を通じて重要な城砦であった。 しかし、江戸時代には犬甘城はすでに廃城となっていて、この山城跡は松本藩の展望台として使われており、領民の立ち入りを禁じていた。

 犬甘城跡である城山公園から北に延びる尾根筋の散策路を0.9kmほど登るとアルプス公園に至るが、城山公園とアルプス公園の中間地点に743mの犬飼城山が存在する。

 犬飼城山は鳥居火山ともいい、毎年4月に犬飼城山の西側斜面で鳥居火(とりいび)の祭事が3日間おこなわれる。 これは500年以上昔から続く伝統行事で、松本市の重要無形民俗文化財に指定されている。 鳥居火の始まりは、室町時代に小笠原氏の一族がこの地にあった鳥居の南に城砦(犬甘城)を築いて守備していたが、応仁年間(1467-69年)小笠原氏の内乱が起こったことがきっかけとなる。




 古代の信濃国には10郡があり、松本平には筑摩郡が置かれていた。 筑摩郡には、良田(よしだ)、崇賀(すが)、辛犬(からいぬ)、錦服(にしきべ)、山家(やまが)、大井(おおい)と6郷あったといい、この中の辛犬郷の地は現在の松本市のあたりとされている。

 この辛犬郷には、辛犬甘(からのいぬかい)氏という渡来系(帰化族)の有力氏族がいたことが判明しており、のちに犬飼(犬甘)氏という豪族に発展していった。 ちなみに松本市の浅間温泉は、天慶2年(939年)この地を領有していた豪族の犬飼半左衛門によって発見され、「犬飼の御湯」と呼ばれたと記録されている。

 犬飼および犬養姓の起源は、官位の名称とされており、朝廷の狩猟犬を飼育する役職だったという。 犬飼氏の飼っていた猟犬は狼の血を引いていて、十分に訓練を積んだ特別な狼犬である。

 奈良の長岡宮には12の門があってそれぞれ名前が付けられていたが、その中に県犬養(あがたいぬかい)門、海犬養(うみいぬかい)門、稚犬養(わかいぬかい)門というものがあった。 県犬養氏は県(あがた)の穀物倉庫の番人、海犬養氏は港の倉庫の番人だったとされ、稚犬養氏は犬を飼育して交配、繁殖させる職業だったと考えられている。

 この3つの氏族は吉野の古代豪族である大伴氏の郎党であったといい、古代豪族にとってこのような特殊技能を持った郎党を抱えておくことが勢力の源泉であった。 また、『日本書紀』、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によると、犬養部(いぬかいべ)を統率した伴造(とものみやつこ)に、犬養連(こおりのいぬかいのむらじ)、犬養連(あまいぬかいのむらじ)、犬養連(わかいぬかいのむらじ)、阿曇犬養連(あずみのいぬかいのむらじ)の4氏が存在したことが伝わっている。

 一方、日本全国に犬による大蛇退治の伝説が多く残っている。 古代の犬飼たちは開拓地が広がるごとに狼犬を連れて全国に移住していき、入植先では開拓地で非常に重要となる水源を警備した。 水源をめぐっての争いは絶えず、武装した農民達が水門を占拠したり、対立する村同士で武力衝突することもあり、犬飼の人々は狼犬を使って暴動を鎮圧していた。 大蛇というのは農民暴動の隠語としてもよく使われ、大蛇退治の伝説は犬飼の狼犬の活躍を伝えるものである。




 犬甘氏国衙領の経営や租税徴収、軍事力の提供を行うことで国司に貢献した。 平安中期以降(11世紀~12世紀)在庁官人の多くは、在地領主として、そして武士として成長していくことになる。 また、犬飼衆の多くは地方で地侍になっていくが、狼犬を使いこなす特殊技能を活かして忍者のように諜報活動に従事する犬飼衆もいた。 実際に戸隠流忍術すなわち戸隠修験の中心である戸隠神社の宮司も犬飼氏という。

 松本市の北西地区は、奈良井川と梓川の川中島の内側であったため島内(しまうち)と呼ばれているが、中世には犬甘氏が支配していたため犬甘島と呼ばれており、盛んに開発されたという。 当初は、深志城(松本市丸の内)の地に犬甘氏の城館があり、南北朝時代の正平年間(1346-70年)頃に犬甘城を築いて移ったと言われるが詳細は不明である。 平瀬城(松本市大字島内)の平瀬氏、桐原城の桐原氏などは犬甘氏の同族といい、犬甘一族によって松本一帯がおさえられていた。

 建武元年(1334年)足利尊氏(たかうじ)に従った小笠原貞宗(さだむね)は、建武の新政によって信濃国守護職に任命され、信濃国府中の井川館(松本市井川城)に入った。 この頃、犬甘城は近くに放光寺があることから放光寺城とも呼ばれ、南北朝争乱の時期に小笠原氏がこの城に立て籠もって戦ったという史料があり、そこには「放光寺城の戦い」と記述されている。

 室町時代において、犬甘氏は同族の平瀬氏と向背をともにしており、永享12年(1440年)の結城合戦では、室町幕府の命を受けた小笠原政康(まさやす)に属して出陣している。 そして、応仁文明の乱を経て、信濃国守護職であり弓馬および礼式の名家として名高い小笠原氏の麾下に属するようになった。 のちに犬甘氏は小笠原氏の家老となり、犬甘城は小笠原氏の属城として機能した。




 小笠原長時は、包囲する武田軍の降伏勧告を断り、天文21年(1552年)再挙をはかって中塔城を脱出、越後国の長尾景虎(かげとら)を頼って逃れた。 天文22年(1553年)には村上義清の葛尾城も武田晴信によって陥落した。 挽回をはかる村上義清は何度か挙兵するが、武田軍の猛攻に耐えられず、小笠原長時のあとを追うように長尾景虎を頼って亡命した。 これらが遠因となって、のちに上杉謙信と武田信玄が川中島にて激突することになる。

 一方、犬甘氏はその後も小笠原氏に仕えており、犬甘政徳の長男は政信(まさのぶ)といったが、天正10年(1582年)小笠原長時の三男である貞慶(さだよし)に従って木曽義昌(よしまさ)と戦った時に討死している。 犬甘氏の家督は三男の久知(ひさとも)が継承し、この犬甘久知は小笠原貞慶の侍大将として、数多くの合戦で活躍した。 また犬甘久知は、小笠原貞慶、秀政(ひでまさ)、忠真(ただざね)と小笠原氏3代にわたって仕えており、その後の犬甘氏も豊前国の小倉藩小笠原氏の筆頭家老として代々続いている。(2006.10.08)