まさおレポート

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スペイン人リカルドの問い 仏教ってペシミズムじゃね

2024年05月18日 12時00分43秒 | 紀野一義研究
佐々木閑はYoutubeで誠実に、実に誠実に仏教に対する世間の錯覚を述べる。仏教は生きるのが辛い、どうしようもない人に対する病院だと。希望を持つこと、この人生で幸せを求めることを助けてくれる宗教ではないのでそんな期待は捨てろ。諦観し、次に輪廻しないことが最上であり、それが仏教の本質なんだと繰り返し繰り返し説く。この世を生きることが楽しくて、来世もまた生まれ変わってきたいと思う人には仏教は必要ないと . . . 本文を読む
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紀野一義 講演筆記録1法華経 如来寿量品 永遠のいのち

2024年03月02日 11時29分35秒 | 紀野一義研究
紀野一義氏の講演録がYoutubeで500本近くあり、若い時に氏の講演を聴いているわたしにとってこれを聴けるのが大変嬉しい。しかし提供者はおそらくご高齢のためにいつ廃止されるかもわからない。そうなると聞けなくなる可能性もないわけではない。それを恐れて膨大な講演録を少しづつメモとして記録していきたいと念願しました。文責はわたしにあります。聞き取れないところは省略しています。 如来寿量品という章 . . . 本文を読む
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仏教法話【法華経 如来寿量品】 永遠のいのち(3) 紀野一義

2024年02月28日 11時41分33秒 | 紀野一義研究
仏教法話【法華経 如来寿量品】 永遠のいのち(3) 紀野一義 大人三人ぐらいでやっと届く松の木が広島の本性寺という私の育ったてらにありました。同じような大きさのイチョウの大木もありました。この大木をぽんぽんと叩いては学校から帰ってきたのですが昔のお母さんはこう言うタイミングがすぐにわかるんですね。ガラガラと開けると玄関の入り口に必ず座っているんですね。1日も変わらない。早くくるわけでもなくどう . . . 本文を読む
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仏教法話 法華経如来寿量品 永遠のいのち 紀野一義 書き起こし①

2024年02月27日 11時49分36秒 | 紀野一義研究
仏教法話 法華経如来寿量品    永遠のいのち   紀野一義 書き起こし① 如来寿量品という章に入ることになります。まあこの章だけが大切だというわけではないんですけど昔からの人たちが如来寿量品という章が法華経の最高峰だと考えているわけで、大勢の人がそう考えるにはそれなりの理由があると思いますので私なりにそういう理由について近づいていってみたいと思います。 この . . . 本文を読む
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轉法華

2023年12月02日 17時17分31秒 | 紀野一義研究
十方佛土中者、法華の唯有なり。 ただ法華それだけ存在という世界 諸仏は法華を転じる 転ぜられる 同じことだ 芝居や能 演じる演ぜられる 心迷えば 転ぜられる 悟って転ずる 同じこと 迷うのも悟るのも仏の世界  動詞を名詞に表す 本行菩薩道で括られる 海に波が起こるように 肯定して取るか悲観的に取るか 法華経 みんな肯定する 軍隊 体を鍛えることが第一だろうが 戦場で死ぬ方は否定派が多い これ . . . 本文を読む
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自ら光る 照らされて光る

2023年11月26日 21時55分12秒 | 紀野一義研究
藤原定家 光源氏 薫大将 坐禪箴の共通項は何かという謎解きに紀野一義が挑む。 ・白栲の袖のわかれに露おちて 身にしむ色の秋かぜぞ吹く   色のない世界に一点の色あり。 ・正法眼蔵 坐禪箴 佛祖の光明に照臨せらるるといふは、この坐禪を功夫參究するなり。おろかなるともがらは、佛光明をあやまりて、日月の光明のごとく、珠火の光耀のごとくあらんずるとおもふ。日月の光耀は、わづかに六道輪廻の業相なり、さら . . . 本文を読む
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安心して死ぬ秘訣は「あの世に行っても楽しいことがある」

2023年11月12日 20時25分33秒 | 紀野一義研究
生きていることは楽しいがあの世に行っても楽しいことがある。紀野一義氏はいつもそう思っていたという。死んだら過去の時間もひょっとしたら未来の時間も無くなるのでいろんな人に出会える。歴史上の有名人や自らの多くの先祖にも出会って楽しい話ができる。 一見能天気な話に聞こえ、出鱈目も大概にしろと言いたくなりそうな人もいるだろうがご本人は60を過ぎたお年の頃から何回も何回も講演で本気になってそう話し続けてい . . . 本文を読む
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年齢を重ねると人生の虚しさや人生の徒労を覚えない人はいないだろう

2023年11月06日 15時39分53秒 | 紀野一義研究
年齢を重ねると人生の虚しさや人生の徒労を覚えない人はいないだろう。覚えてこそまともなのだと思う。お気楽なわたしも周りで身近な方がバタバタと亡くなり人生の虚しさや人生の徒労を覚える日もある。 トップの座について俺がいなければこの会社は回らない、この国は回らない、この仕事は回らないなどと思いがちだが実際はその人が去って数ヶ月、長く持っても3年で忘れられるのが現実だ。例えばあの人は、この人はどうだった . . . 本文を読む
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まぐわいを連発する吉野秀雄と歎異抄あるいは紀野一義

2023年10月19日 21時16分28秒 | 紀野一義研究
「小説 吉野秀雄先生」の面白さを紀野一義の講演録から聞いた。又聞きだがメモしておく。 吉野秀雄は弟子の山口瞳に盛んに恋をしなさい、交合をしなさいと教えた。マグワイをしなさいとは凄まじい先生だ。 吉野秀雄は慶応大学在学中に結核に冒され、歌道に精進した。子供四人を残して死んだ夫人の後に、吉野家に家事の世話に来た詩人八木重吉の妻とみ子である。 とみ子は自活しながら天涯孤独の身であったが、秀雄の兄の . . . 本文を読む
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法華経の名句 常懐悲感 心遂醒悟とレットイットビー

2023年08月25日 07時24分00秒 | 紀野一義研究
常懐悲感 心遂醒悟(じょうえひかん しんすいしょうご) いつ聞いても法華経の名文中の名文だなと胸に沁みる。   どんな悲感があろうとそれを大切に胸の奥深くにしまって懐いていると、その悲感がやがてあなたの心を醒まし悟りに至らしめてくれる。   常に悲感をいだいて、心ついに醒悟す 法華経寿量品 「カラマーゾフの兄弟」アリョーシャの悲しみ、源氏物語の光源氏の . . . 本文を読む
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師が地獄に落ちたら自分も地獄に落ちる覚悟でついていかないと一定のレベルには至らない。道元も日蓮も親鸞もそうした。それから一本の道を歩み出した。

2023年03月26日 21時34分04秒 | 紀野一義研究
師を決めたなら一生その道を歩む。これが日本の古来から現代に続く人の生き方だが果たしてそうなのかとの疑念が昨今のカルト問題やオームを見て湧いてくる。 師を決めたなら一生その道を歩むということを否定したら宗教は成り立たない。よく言われるように師が地獄に落ちたら自分も地獄に落ちる覚悟でついていく。しかしこれは極めて危険だということも既に多くの現実で学んだ。 途中で師に疑念を抱いたらどうすれば良い . . . 本文を読む
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谷中界隈を歩いてぶらり全生庵に

2023年03月09日 18時41分00秒 | 紀野一義研究
パスポートの切り替えで都庁に行き、ふと思い立って日暮里まで足を伸ばしてみた。 全生庵です。山岡鉄舟の碑文 かつて彼の書いた著作を読み耽ったことが。毎日夜明けに鎌倉まで出向き帰るという修行をしたとか。座禅したまま亡くなったがネズミが体に這い上がり怖がらなくなっていたとか。山岡鉄舟に桃太郎の話をして聞かせたが不評で、そのうちなんとかお褒めをいただいたとか。これは孫文が山田良政を顕彰した碑 勝海舟の . . . 本文を読む
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紀野一義 ろくでなしにも優しい

2022年08月09日 11時48分19秒 | 紀野一義研究
友人は自らの持っている(授けられた)宝に気が付かなかった。ひと時の楽しみで、そこで力を蓄えて再び生きていくことが大事だ。ジョバンニは菩薩の救済の憐憫、慈悲に溢れている。その人に出逢ったから本当に生まれてきてよかったという。呻いたことのあるあらゆる人間に友情をもつことが大事。全てが空であると腹をすえる。人間にはそれぞれ、弱さというものがある。懐かしい人。仏教はほかならぬ自己のことが語られている。「あるがままにものごとを見る」だけで十分 . . . 本文を読む
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紀野一義 まっすぐで柔軟な心、馬鹿丸出し

2022年08月09日 11時42分37秒 | 紀野一義研究
利口な者は人を幸せにできない。まっすぐで正直で柔軟で感じやすい心を持つことだけが大事。自らをさらけださない話は絶対に人の心を打たない。役割の仮面で生きていくのは御免だ。この世界はうたかたのようなものだが(馬鹿みたいに)この世界に明るく生きていくしか無い。「わたしがわたしをわたしする」。人生を仏に歩かされている。戦場に送られて戦死するものは圧倒的に否定派が多い。全く相対立する二つのものが同時に相手とひとつである。日本は敵を持たないという生き方に問題がある。譬喩でしか表現できない世界がある。。 . . . 本文を読む
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紀野一義 あるときその意味がパッとわかる時が来る

2022年08月09日 11時38分05秒 | 紀野一義研究
文学的才能のあるものは自分たちで釈尊が生きていたら作ったであろう経文をあらたに作る。大乗教団の基盤になつているのは、資産者階級・商人階級である。当今の「仏教はなんら答えるべきものを持っていない」。釈尊以前から仏教はあった。宗派で論争している場合ではない、あら懐かしやと言って手を取り合うようになる。法華経の究極を渡す人になることだ。「そろそろそういう人がでてきてもよいころです」。市井にひっそりと存在していて誰からも注目されない。法華経はロゴスで理解するものではない、イメージで理解するものだ。すごろくのあがりに安住せず。意味も分からないままに唱えることで、あるときその意味がパッとわかる時が来る。一切の苦、一切の病、一切の生死の束縛を解く。道元は永遠の生命を生きているととらえた。あるとき、あるときがあるだけです。「ええなあ ええなあ」。教えはただ一つなのだ。「おとうさん、ほとけさんて僕のなかにいるようなきがするんだけど」「そうだよ」。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。。ははーんとわかること。酒は飲む、女をからかったりする、人生にはどちらも大事なのだ。一年のうちに二、三度富士山が異常に美しい、普通の日じゃない日がある。過去のことは全部覚えている。 . . . 本文を読む
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