1947年 アメリカ 118分 アカデミー賞
現代はちょっとしたユダヤ人ブームで、その知恵は書物として広く読まれ、ユダヤ人の力も必要とされているが、ユダヤ人迫害の歴史は長い。キリスト教、ヒトラー、など、宗教的な問題で複雑な背景がある。
日本人にはピンとこないテーマかな、と見る前はあまり期待していなかったが、これは人間の本質に迫る非常に興味深い映画だ。偏見や差別が古今東西でなくならないのは、確かに問題であると思う。それに対して、異を唱える人、当たらず触らずの人、差別にのっかる人、さまざまであるだろうが、この映画は当たらず触らずの反ユダヤ主義を黙認する紳士協定はどうなのか、行動すべきではないかと語りかける野心作だ。
登場人物それぞれの立場がまた良くて、6ヶ月間ユダヤ人になってみる、という記事に挑戦した記者のフィル(Gペック)、同居する母親、死別した妻との10歳の子供、恋人のキャシー(ドロシー・マクガイア)、ユダヤ人の親友デヴィッド(ジョン・ガーフィールド)、新聞社の秘書的な役割の女性(セレスト・ホルム)など、それぞれが各々の立場からユダヤ問題を捉えている。
恋人は否定はしないが、いつの間にか黙認(肯定)してしまっている、という言わばよくありがちな女性である。自分では気にしていないが、いつの間にか差別的な意見が出てきてしまう。ユダヤ人の立場になってみることで、子供もユダヤ人だという噂が広まると学校でいじめられ、世間からの偏見の目を感じ始めるフィルはだんだんと彼女の言葉が気になり始めやがて二人の間には溝ができてしまう。
フィルのやりきれない気持ちを理解する親友のデヴィッドは、そんな二人の橋渡し役になるのだが、彼の行動しようという言葉にはつらい立場を生き抜いてきた強さがあり、この映画のメッセージ色の部分をセレスト・ホルムと共に担っている。
大部分がフィルの暖かい家庭が舞台であるため、堅苦しさはない。子供にフィルが説明する場面で見た映画を引用したり、子供に考えさせるように言っていたのが印象的だ。また最後のフィルの母親のそのうち差別が無い世界が来る、そのときから見ると今は激動の時代なんだ、という言葉が50年経った現代ではどうなのか、と考えさせられる。
個人的な考えだが、差別がなくならないのは、人間は社会的動物であり、一人では生きられないこと、一人では生きられないが、自分(の中で決着をつけて)で生きていかねばならないこと、があると思う。自分に起こるすべてのことに自分で納得し責任を負えれば問題ないのだが、他人から巻き起こされた物事や自分の力の及ばないことに対しては他人のせいにしてしまいがちだ。そんなときに簡単に誰かのせいにしてしまおうと、対象を差別に向けてしまうのが根源にあると思う。時には他人のしたことも自分の責任として考えねばならないこともあるし、そしてそれを行動に移さねばならないこともある。身近なところから変えていくことはたくさんあるかもしれない。
現代はちょっとしたユダヤ人ブームで、その知恵は書物として広く読まれ、ユダヤ人の力も必要とされているが、ユダヤ人迫害の歴史は長い。キリスト教、ヒトラー、など、宗教的な問題で複雑な背景がある。
日本人にはピンとこないテーマかな、と見る前はあまり期待していなかったが、これは人間の本質に迫る非常に興味深い映画だ。偏見や差別が古今東西でなくならないのは、確かに問題であると思う。それに対して、異を唱える人、当たらず触らずの人、差別にのっかる人、さまざまであるだろうが、この映画は当たらず触らずの反ユダヤ主義を黙認する紳士協定はどうなのか、行動すべきではないかと語りかける野心作だ。
登場人物それぞれの立場がまた良くて、6ヶ月間ユダヤ人になってみる、という記事に挑戦した記者のフィル(Gペック)、同居する母親、死別した妻との10歳の子供、恋人のキャシー(ドロシー・マクガイア)、ユダヤ人の親友デヴィッド(ジョン・ガーフィールド)、新聞社の秘書的な役割の女性(セレスト・ホルム)など、それぞれが各々の立場からユダヤ問題を捉えている。
恋人は否定はしないが、いつの間にか黙認(肯定)してしまっている、という言わばよくありがちな女性である。自分では気にしていないが、いつの間にか差別的な意見が出てきてしまう。ユダヤ人の立場になってみることで、子供もユダヤ人だという噂が広まると学校でいじめられ、世間からの偏見の目を感じ始めるフィルはだんだんと彼女の言葉が気になり始めやがて二人の間には溝ができてしまう。
フィルのやりきれない気持ちを理解する親友のデヴィッドは、そんな二人の橋渡し役になるのだが、彼の行動しようという言葉にはつらい立場を生き抜いてきた強さがあり、この映画のメッセージ色の部分をセレスト・ホルムと共に担っている。
大部分がフィルの暖かい家庭が舞台であるため、堅苦しさはない。子供にフィルが説明する場面で見た映画を引用したり、子供に考えさせるように言っていたのが印象的だ。また最後のフィルの母親のそのうち差別が無い世界が来る、そのときから見ると今は激動の時代なんだ、という言葉が50年経った現代ではどうなのか、と考えさせられる。
個人的な考えだが、差別がなくならないのは、人間は社会的動物であり、一人では生きられないこと、一人では生きられないが、自分(の中で決着をつけて)で生きていかねばならないこと、があると思う。自分に起こるすべてのことに自分で納得し責任を負えれば問題ないのだが、他人から巻き起こされた物事や自分の力の及ばないことに対しては他人のせいにしてしまいがちだ。そんなときに簡単に誰かのせいにしてしまおうと、対象を差別に向けてしまうのが根源にあると思う。時には他人のしたことも自分の責任として考えねばならないこともあるし、そしてそれを行動に移さねばならないこともある。身近なところから変えていくことはたくさんあるかもしれない。
この映画、いろいろと考えさせられましたね・・・。
私は、そもそも6ヶ月間ユダヤ人に成り済ます・・っていうのが疑問でした。
結果的にGペックは成りすますことで何かを得たわけですが、その発想自体はどうなのかというと・・・。
まだ考えることがありますね。
当時のことはよくわかりませんが、そういう差別がおかしいと感じられない時代だったんでしょうね。
社会に対する風刺映画はたくさんありますが、この映画は結構ストレートに響きました。