陽だまり

孫の成長と
大好きなワライナキと
日々の出来事を素直な言葉で綴っていきます

福島&仙台へ・・・ボランティアを経験して③

2013-03-24 14:41:03 | 日記

3月20日(祝)

この日は私たち仮設住宅での自主活動に参加する5人以外は、沿岸部の荒浜地区での活動に出かけていった

お彼岸ということで、お参りに出かける方も多いということで、午前中の活動はなくなって、私たちはボランティアセンター内の掃除、片付けをさせてもらった

女子棟、共有スペースのトイレ、シャワールーム、キッチン、そしてミーティングルームなど、分担しながら行い11時くらいに若林地区にある仮設住宅に行くメンバー5人が集まって打ち合わせと準備をした

主に兄が科学遊び教室を行い、私が歌や手遊び、そしてバルーンを使っての遊びなどレクレーションを担当して、あとの3人はサポートをする

兄は主に小学生対象に行ってきた経験があり、最近地元の高齢者グループ対象にもおこなったら好評だったということで今回仮設住宅で試みることになった

「科学教室」では、簡単な工作をして、仮説を立てたり、実験をしたりして考えたり意見を出し合う活動となる・・・もと教師なので慣れているとはいえ、まったく経験したことのない環境でおこなうということで緊張すると言っていた

今回は「おきあがりこぼし」と「ヨット」を作り、おもりをつける位置、また大きさなどを変えながら仮説があっているかどうか検証したが、いろいろな考えを出してくださる方もいて楽しまれていた。

また兄が持参した、不思議なおもちゃも紹介して、それぞれ、手にとって確かめたり、兄に質問する方もおられた

小学生2人を含み、70歳以上の方が中心の参加で全部で20名、他に自治会長さん、市の担当職員さんもおられた

そんな中、私は、専門は乳幼児だし、用意した遊びが通用するのかと不安やった

でも、始まる前に前に座られた方が「京都から?ご苦労様ですと笑顔で迎えてくださって、一気に気持ちがほぐれて、あとは皆さんの表情を見ながら楽しくすることができた

兄の科学教室で頭を使ったあとは、妹の私にバトンタッチ♫ほかのメンバーにも助けてもらいながら一緒に歌ったり、「大阪うまいもんのうた」の手遊びをして和やかになった

関西弁の歌や、オチに笑顔が見られて嬉しくなった

「なんでやねん」の突っ込みを上手にしてくれはって拍手拍手☆

アレンジして、「仙台にはうまいもんがいっぱいあるんやで〜♫」とやってみたりもした

そして、大阪名物やなくって京都名物の「おたべ」をお土産に持っていき、食べてもらうこともできた

「わ〜嬉しい、おたべ大好きです」と言ってくださった方もおられて「ヤッター」って心の中で万歳やった(笑)

 

あと全員で輪になって、職場で借りてきた風呂敷で作ったバルーンを使い、ツタヤでレンタルしてきた「365歩のマーチ」のCDに合わせて手を動かし、腕を動かしバルーンを揺らしたりあげたり、おろしたりしながら遊んでいただいた

 

また、いつもそこで行っている体操「青い山脈」があるとのことで、教えていただいて、一緒に踊り、楽しい時間を過ごすことができた

 

なんとか無事に終わることができて、片付けをしていると「ぜひ、コーヒーを飲んでいってください」とお菓子やコーヒーを用意してくださって、皆さんとお話するなど交流する時間もあり、嬉しかった

その中でたくさんの知人、友人が流されて亡くなったと寂しそうに話された方もあった

ここにきて2年がたったけど、これからどうなるのかと不安を口にされた方もあった

親子で参加された方は、いつもは部屋にこもってなかなか出てこないけど、今日は来てよかったと言ってくださる方もいた。ここに出てくる人はいいが、出てこれない人もたくさんいると教えてくださった

 

この日は、お彼岸で、お参りに行かれた方も多かったようだ

 

仮設での2年間の暮らし・・・ひとことで2年と言ってもいろいろんな苦労や葛藤を抱えての2年間やったと思う。先が見えない不安もあると思う。喜びをなかなか見いだせないのも現実にあると思う

私たちがたった数時間いても、何もわかることなんてできないと思う

悲しみや苦しみに寄り添うなんておこがましいし、私たちがしていることなんて、単なる自己満足かもしれない

でも、たとえ、ひと時でも笑顔になってもらえたらそれでいい・・・それだけしか自分にはできないんやもん。

「ありがとう」「嬉しかったです」その言葉を貰って、そのまま私もそんな言葉が出てくる

お互いの「ありがとう」の言葉で繋がる心

これから、被災地への支援はソフト面に移行していくと思うけど、私も自分でできることの引き出しを増やして、また訪れたいと思う

 

 

この夜はボランティアセンターのミーティングルームでスタッフさんや、参加メンバーが(外に飲みに繰り出したメンバーも半数あり)お酒も入って一気に仲良くなって大盛り上がり(^^♪

真面目な話あり、爆笑話ありで12時近くまで起きていた

長期ボランティアをされている方の話で印象的やったこと

「被災された方との絆はなかなか作れないけど、ボランティア同士の絆は本当に強くなる」

すごくわかる気がする・・・

 

 

部屋に貼られていたボランティアの心得を改めてじっくり読んでみた

とても、考えさせられる

 

 

 

 

 

 

 


福島&仙台へ・・・ボランティアを経験して②

2013-03-23 21:11:41 | 日記

3月19日(火)

 

6時起床で荷物をまとめ、慌ただしくおにぎりを食べて、7時すぎには出発した

8時半に小高地区の社協会館で受付をするまでの間、先発入りをしていたメンバーのNさんの案内で海岸沿いに行き、その地域一帯を見てまわった

 

 

 

 

半壊、全壊のままの家があちこちにある

田んぼの中に車が横転している

この景色を見れば「復旧」「復興」の言葉がむなしく響く

何も始まっていない

2年間、放置されたままの地域

まず、帰れる状況にはないことが目の前に広がる景色を見ればはっきりわかる

先がまったく見えない

希望の光はどこにあるのだろう

 

前日、話をしてくれたボランティアさんの言葉が頭の中をぐるぐる回った

住民が帰ってこれないかもしれない場所でなぜボランティアをするのか・・・

家の周りの草刈りをしたりするそうだが、ボランティアが誰も入らなくなったら「誰も助けてくれない」と見捨てられた気持ちになる・・・少しでも被災された方の心を軽くするために活動するのだ・・・と

そんな言葉を何度も思い出しながら私たちも活動した

内容は「竹の伐採」だった

5人の男性が草刈り機、チェーンソーなどの機械を使って切った竹を、ほかのメンバーが運ぶという活動

前日から活動されていた関東の方2名と私たちのグループ9名での作業やった

 

気温がどんどん上がって汗ばむ陽気の中、休憩をはさみながら、黙々と活動した

みんな何を思いながら作業していたんやろ?

私は、朝に見てきた景色と、昨夜聞いた話を思い出していた

(実は、始まって30分もしないうちに、貧血状態で気分が悪くなってきて、肝心な時にヤバいって思えば思うほど焦ってしまったけど、倒れたら迷惑がかかると思って、申告をして少し座らせてもらった。すぐにすーっと楽になって、あとは最後まで一緒に作業できてよかった〜)

 

午後3時ごろに終了して、仙台から迎えに来てもらったバスで小高駅周辺に向かった

2年前から放置されたままの自転車・・

可愛い三輪車が置き去りになっていて胸が締め付けられる

何か動物の骨のようなものも目に入った

警戒区域となり、飼い主とも離れ離れになり、食べるものもなく、誰に見守られることも亡くなっていった動物たちもいるという現実を垣間見て、堪らなかった

報道や、FBなどで情報は知っていたが、自分がその場に立つと「この現実から目をそらしてはいけない」と改めて思ったし、心に刻まなくてはと思った

通学通勤の足となっていた電車の線路も駅も閉鎖されたまま・・・

ここはいったいこの先どうなっていくのか?

愛する故郷に帰れない人達の思いはどこに向かえばいいのか?

 

 

第一原発から14キロ地点まで案内してもらった、ここは、ゲートで封鎖されていて警察官が配備されていた

この先の警戒区域は、今どういう状況なのだろうか?

何かやりきれない気持ちでいっぱいになった

原発のこと何もわかっていない・・・肯定も反対もしなかったというより、知らないことだらけやし、今もよくわかっていない

ただ、あの光景をみると、もしも自分の立場に置き換えて考えてみれば、絶対いやだって思うし悲しすぎる。

私だけでない・・・誰もがもしも自分の家が、家族が、故郷が・・・と思えば容認できるはずがない

原発の問題は、他人ごとではないと痛切に思った

今回活動に参加できたこと、現状を自分の目で見て感じることができて心からよかったと思う

 

その後温泉に立ち寄りさっぱりして仙台に向かった

目指すは、「東北教区災害ボランティアセンター」

 

西本願寺系列のお寺が経営していた幼稚園の園舎がボランティアセンターとして運営されている場所

ここは仙台の市街地にあり、荷物をおいたあとは遅めの夕食に繰り出した。

仙台と言えば牛タン・・美味しかったです〜(*^_^*)

 

ここではお布団でゆったり眠れるはずなのに、寝苦しくなかなか寝付けなかった

 

 

 


福島&仙台へ・・・ボランティアを経験して①

2013-03-23 15:22:51 | 日記

3月18日〜3月21日の日程で福島県南相馬市、宮城県仙台市でボランティア活動に参加した.

丸2日間は移動に時間を要し、実質的には2日間の活動だったので、、もう少し長く滞在したかった

 

今回は兄が代表を務める「ゆるボラ丹後の会」に参加せてもらい今回で「第8便」となるボランティアバスに乗って現地に向かった

 

ボランティア通信を読んだり、ブログなどでその活動を知っていたので、とっても興味があった

今回ちょうど日程もタイミングがあったこと、なかなか自分では行けなかった福島での活動もあると知り、この機会に、自分の目で今の現状を見ておきたいと思った

3月18日(月) 

3月18日の5時半出発やったので実家に前泊した

兄以外は全員知らない人ばかり・・・

3人の若者(18歳 19歳 21歳)以外は、ほとんど私より年上の人達。若者は春休み中で、あとの方は退職されて時間の都合がつきやすい方ということなのだろう・・・初参加は8名だったそうで、8回とも参加されている人もおられた

行きのバスの中では、私も緊張もあったし、何を話せばいいのかわからなくて、おとなしく座っていた(笑)

何度かの休憩をはさみながら福島駅に着いたのはすでに4時半ごろやったと思う

そこで、仙台組と分かれ8人のメンバーは寝袋や長靴、大きな荷物を抱え福島駅から出発する南相馬に向かう高速バスに5時半ごろ乗り、終点の原町駅で降りて、さらにタクシーに乗って宿泊所の「グリーンパーク」に向かった、到着したのは8時ごろになっていた

すでに2日前に現地入りされているメンバーのNさんもおられた

前回この場所に来た人が「11月に来た時は、電気も自家発電だったし、トイレの水もくみ水で流さないとダメだったし、ストーブもなかったのに、ずいぶん環境がよくなっている」としきりに感動されていた

ついこの前まで過酷な環境の中で活動を続けてこられる方がおられて、今があるんやなあと頭が下がる思いでいっぱいやった

そして、震災後の避難所生活も、水も電気もガスも復旧しない厳しい日が続いたんやなあと改めて、想いを巡らせた

買い込んでいた遅めの夕食を食べる頃、長期滞在しているボランティアさんたちがてきぱきと動きキムチ鍋を作りふるまってくださった

 

 

食べているとき、30代の札幌から何度も足を運ばれているボランティアの方が私たちのグループのところに来られて、いろいろな話をしてくださった

可愛らしい雰囲気の女性やったけど、言葉に重みがあり芯の強さが感じられた。彼女が話されたことで印象に残っていることがある

・この地域では「復興」は、何も始まっていない

・津波被害と、原発被害の両方に苦しんでおられる

・昼間は立ち入れても夜間は立ち入れない区域で、ボランティア活動する中で自分たちのしていることは意味があるのかと思うこともあるが、誰も何もしなくなったら、この地域の方たちは「自分たちは見捨てられた」と思ってしまう

・実際、将来的に避難していた人たちが帰ってこれるようになるのか?子どもを抱えた人たちに、ここで生活することを望むことはできないし、帰ってきてとは言えない苦しみがある

・同じ福島の被災地の中でも「原発の恩恵を受けていた」と差別扱いを受けたり理解しあえず人間不信に陥っていたり、仮設住宅に閉じこもっている人もいる

・放射線量のことを気にするならボランティア活動はしないほうがいい

・ボランティア活動中に絶対にケガをしないように細心の注意をしてほしい。痛いのは自分自身だが、ボランティアセンターの責任でもあるし、何より、依頼をされた方が自分がお願いをしたからケガをされたと責任を感じる・・・そのことで次から頼めなくなり、二重に傷つく結果になる。ボランティアとしての心構えなどを改めて念押しされた

 

その夜は長旅で疲れていたこともあり、寝袋にくるまり、布団を一枚かけて朝まで眠った

 

 


映画「遺体 明日への十日間」を観て

2013-03-16 07:31:58 | 日記

「遺体 明日への十日間」

TVでこの映画の紹介をしているのを見て、すごく気になっていました

でも、怖かったし、ちゃんと観ることができるか不安でした

でも、やっぱり東日本大震災で実際にあった事実を知ることも大事やって思って・・・来週、被災地に行くのでその前にちゃんと観ておこうと決心して観てきました

覚悟はしていたものの、かなり苦しかったです
気づけば全編にわたって泣いてしまいました(泣きすぎて、今も目が痛いです)

映画は、岩手県釜石市の遺体安置所で実際にあった出来事が描かれています

釜石市といえば、私は2011年6月に宮古市に住む友人を訪ねた時、友人の運転で市街地を通りました。あの光景は今もはっきり蘇ります。夢ではないかと思いました

現実に起こったことなのに、目の前の果てしなく広がる悲惨な光景にただただ信じられない思いでいっぱいでした。まるで映画のワンシーンのように町全体が壊滅していました

気づけば「ひどい・・・」とか「すごい・・・」としか言葉がでてきませんでした

私は、一生あの光景を忘れることはないと思います


 

 


亡くなられた方が運ばれてきた遺体安置所は、ある学校の体育館でした

そこで起きた出来事や、関われら方たちの戸惑いや辛さ、ご遺族の方のやり場のない深い悲しみ・・・
想像はしてみても、簡単にわかるなんて言えないし、それは経験したものにしかわからない気持ちやと思います

あの状況の中でも、西田敏行さんが演じる民生委員さんであの安置所でボランティアをされていた方は少しでも人としての尊厳を守ろうと懸命に努力されていました。

「死体ではない・・ご遺体なんです」と亡くなって運ばれてきた方に優しく話しかけ、ご遺族の方の悲しみに丁寧に寄り添っておられた方がいたという事実・・・深い悲しみの中でも一筋の光であったことと思います

他にも、次々と運ばれてくる遺体の搬送をされた方、地元のお医者さん、歯医者さん、役所の方の戸惑い傷つきながらも、懸命につらい作業をされていた事実も心に刻んでおきたいと思います

その姿に頭が下がる思いでいっぱいになると同時に、亡くなられた方ひとりひとりにその方の人生があり、家族があり、たくさんの方と繋がりを持って生きてこられたんやと思うと、ある日、突然多くの命を奪ったあの東日本大震災、大津波のむごさを思わずにはおれません

重く、厳しいテーマの作品やと思います

でも、私は、この映画を見て、初めて今まで知らなかったことを知ることができました

昨年夏に、亡くなった母を思うように

ひとりひとりの命の重さを改めて感じました

悲しくて、つらくて、苦しくなったけど、私は観てよかったと思います


<映画の解説>

東日本大震災直後の遺体安置所での出来事を、西田敏行主演、君塚良一監督で描いた人間ドラマ。震災で甚大な被害を受けた岩手県釜石市の遺体安置所を取材した石井光太氏のルポタージュ「遺体 震災と津波の果てに」(新潮社刊)をもとに、震災直後の混乱のなか、次々と運ばれてくる多くの遺体に戸惑いながらも、被災者である釜石市民の医師や歯科医たちが、犠牲者を一刻も早く家族と再会させてあげたいという思いから、遺体の搬送や検視、DNA採取や身元確認などのつらい作業にあたる姿が描かれる。主演の西田のほか、緒形直人、勝地涼、國村隼、佐藤浩市、柳葉敏郎ら。

 

原作を書かれたノンフィクション作家の「石井公太」さんは、次のように言っています

 「原作は、遺体安置所を書いたものでも、津波の恐ろしさを描いたものでもないのです。亡くなった方を全力で「遺体」として送り出した釜石の人々の良心を描いたものなのです。」

今度、原作を読んでみようと思います

 

映画化にあたり、石井氏は君塚監督に「現場に行ってもらいたい」とだけお願いしたそうです

「彼らに実際に会うということは重みを背負うことであり、見たことがないと色々と劇化してしまい、想像に委ねてしまう部分があると思う。本当に思いを背負った時、作り手というのはそういうことができなくなってしまうもの。それが本来、ドキュメンタリーやノンフィクションといわれるもの」と持論を展開。これに賛同した君塚氏も現地を訪ね、「取材はしなかった。ただ関係者の皆さんに『原作を映像化をすることをどう思うか』を聞いた。1人にでもやめてくれと言われたら、そこでやめようと思っていた。だけど、『この町であったことを日本中の人に伝えてほしい』と言っていただき、責任を取らなければという覚悟をもって撮った」という。そして、「遺体安置所となった体育館に行った時、これはもう今までやってきた技術や方法論が全く通用しないと思った。ありのまま俳優に演じてもらい、ドキュメンタリーのように撮っていくしかないと思った」

この映画に関わられた方に敬意を表します

 

そして改めて、犠牲になられた多くの尊い命に対して心よりご冥福をお祈りします


東日本大震災復興支援ワライナキライブ2013・3・3

2013-03-08 15:25:19 | ワライナキ復興支援ライブ

 2013.3.3京都府長岡京市の長岡京中央生涯学習センター3Fメインホールで開催した「東日本大震災復興支援ワライナキライブ」は、400人の参加で無事に終わった

 

数日前に会場の定員を上回りそうやと、慌てて予約をストップしてもらうことになった。まさに嬉しい悲鳴とはこういうことなんやね

 

ライブ自体はワライナキの2人やゲストのわたなべゆうさんにお任せしておけば絶対大丈夫って信頼してるんやけど

短時間での会場設営から受付、入場までをどうすればスムーズにいけるのか?昨年の経験があるので、イメージできるものの、やっぱり人数が増えた分、緊張する。なかなか会えない実行員会のメンバーなので、ネット上で何度もやりとりをしてシュミレーションをして当日を迎えた

 

まず、別室で最終会議で準備〜ライブ〜片付けのタイムスケジュールと自分の役割の確認をした

メンバーのおかりんが作ってきくれたおにぎりを頬ばりながらも、緊張感のあるしんけんな顔のみんなやった。

すぐそばで、音響のうめちゃん、そしてワライナキの2人、わたべゆうくんが打ち合わせをしたり音を出したりする。ついつい耳がそっちにいきそうやったけど(笑)なんとか会議終了!!ドタバタしながら、時間が来て猛ダッシュで会場設営をおこなった。

メンバー以外のワライナキファンの友だちも手伝ってくれた

ステージ看板、立て看板、「復興の狼煙ポスター」の掲示、被災地の様子の写真掲示など、分担しながら並行しておこなって、いよいよ受付開始!!

そんな時、種子島のみやちゃんから、お花が届いて、嬉しさとともに心が和んだ

そして、たくさんの人から受付にも差し入れが届いた・・・みんなが応援してくれていることがすごく有難かった

予定より5分ほど遅れて開場!!

ホール内でも誘導係がいたので昨年同様、すごくスムーズな入場ができて、予定通り開演することができた。(チームワークバッチリ☆)

私が、初めの挨拶をすることになっていたんやけど、いざ、原稿を読もうと思ったら、暗くて、手元が全然見えなくて、このときはめっちゃ焦った

そういえば、昨年は照明のこと、打ち合わせをしていたっけ?今回は受付にいたのですっかり忘れていたわ

急遽、先に開演の場内アナウンスをしてくれていた苺ちゃんがライトで原稿を照らしてくれて無事に乗り切った(原稿の文字を老眼対策で(笑)数日前に大きくしていて正解やったわ^^;

でも原稿を読み終わるのに、ワライナキもゆうくんもステージにいない・・・読みながら、あれ?あれ?ってドキドキ・・・ほんまは、昨年同様、私が挨拶している間にステージに立っていてもらうことになっていた

そうや・・・苺ちゃんがここにいるから、ステージにどうぞ・・・っていう声掛けをする人がいなかったんや・・・ってことがわかった(笑)

というわけで、いきなりのアクシデントに慌ててしもたっていうエピソードがあります

 

でも、スーッといい感じで3人が登場してきてくれて、ライブスタート!!これで、ほぼ私の役割は終わってほっとして、一番後ろでライブに参加した。ホッとしたのと、ワライナキとゆうくんのセッションの一曲目の「風の行く先」が素晴らしくて、感動して泣けてきた。重圧の挨拶が無事に終わったしライブに浸れるわ^^;隣のみかちゃんは、ラストの挨拶を担っていたし、落ちつかない(笑)

 

ギターの音色がすごく優しくて、溶け込んで今までとはまた違う「風の行く先」やった。この曲のセッションはこのライブのために依頼して実現したもので、まさにとっておきの一曲やったと思う

 

その後、ワライナキとゆうくうんのステージが交互にあった

 

ワライナキは遠く被災地を想い心いっぱい歌った。力強く、そしてとっても優しかった。心が震えるような熱い歌やったと思う。

 

スクリーンが降りてきて、震災の映像が始まった

そして、音が途切れたところで、映像のBGMはゆうくんの生演奏

スクリーンには、震災、そして津波がもたらした辛くて悲しい光景があった

現実にあった出来事

3・11あの日を忘れてはいけない

 

そのメッセージをより視覚的にも伝えるために作ったものやった(アルけん作成)

そして、後半には復興の確かな足音も聞こえるような写真もある

 

当たり前の暮らしは、当たり前ではないことを私たちはこの震災で学んだ

でも、遠く離れたところで、普通に暮らしていると、その記憶も感情も薄れていく。忘れていく・・・風化はごく自然に進んでいく・・・

だからこそ、私たちは「あの日を忘れない」をいうことを改めて伝えたかった

東日本、被災地に想いを寄せてほしかった

命、生きる、幸せの意味・・・それぞれが考えてほしいと願った

 

震災からまだ2年・・・まだたった2年しかたっていない

復興は始まったばかり

いや、何も始まっていないと感じてる人だってたくさんいる

愛する人を亡くした人にとって、その悲しみや痛みは永遠に続くと思うし

被災地、被災者ってひとくくりになんてできない

それぞれの「今」があるんやと改めて心に刻みたい

 

 

ゆうくんの演奏は優しくて暖かった

吸い込まれるような音色やった

被災された方の心に寄り添うような、語りかけるようなそんな力があった

 

映像のラストに桜の写真・・・

そして、再び、ステージにあがったワライナキとゆうくんのセッションは「サクラフブキ」

以前、ワライナキワンマンライブのゲストでゆうくんが参加したとき、サクラフブキのセッションを聴いて感動したことがある。このセッションは絶対にはずせなかった。期待通り、いやそれ以上の感動やった。

 

アンコール、Wアンコーㇽと最後まで拍手いっぱいでライブは終わった

 

義援金BOXにもたくさんの心をよせていただき、感謝でいっぱいやった

参加できないけどと届けてくれたり、後日会ったときに託してくれはった人もいる

改めて、ワライナキHP.ゆうくんのHPで報告させてもらいます

 

セットリスト

*風の行く先(セッション

 ☆ワライナキ

*がんばってる君へ

*少しずつ

 

わたなべゆう

*ガーベラ

*ふるさと

*Airblanket

 

ワライナキ

*花・風・愛

*手をつなごう

*gone with this song

 

<映像>☆わたなべゆう*Memento Mori

 

*サクラフブキ(セッション

 

<アンコール>

ワライナキ

*明日世界が終わるなら

*あなたのぬくもりでありますように

 

 

 

今回、大きな会場で開催するのは2回目やった・・・壁にもぶつかったし、悲喜こもごもの日々を昨年同様経験した。2回目やからこそ、失敗は許されへんみたいな、自分がとにかく頑張らなあかんみたいな気負いもあった。

 

だけど、実行委員会のメンバーが適材適所で大きな力を発揮してくれて、支えられていることを実感した。

みんなにありがとう!!

 

ワライナキの大ちゃん、志麻ちゃんにありがとう!!

わたなべゆうくんにありがとう!!

 

会場に足を運んでくださった皆さんにありがとう!!

遠くから心を寄せて応援してくれた皆さんに、ありがとう!!

 

私の心の中にいっぱいの「ありがとう」が溢れている

私たちの小さな一歩が誰かの笑顔につながると信じて、これからも自分のできることを模索して歩いていきたい

 

 

 

 

 

 


復興支援ライブチケット完売☆満員御礼☆

2013-03-01 11:26:21 | ワライナキ復興支援ライブ
嬉しいお知らせです(^O^)/
3月3日の復興支援ライブは、会場収容可能人数のいっぱいになったので、予約受付を終了しました☆
ありがとうございました(≧▽≦)

今週に入り、実行委員会ではラジオ局へのリクエストと合わせて、告知する強化週間と位置付けて頑張ってました!(^^)!

Twitterやfacebookでの宣伝もみんなが頑張って、それにまたメンバー以外の友達もいっぱい協力してくれて、完売という嬉しい結果に結びつきました

また、今まで迷っていたり、予定が立たなかった人たちも次々と参加の連絡をくださって、何か、大きな力が動き出したようで、なんか鳥肌がたつ感じです

初めは不安だらけで、ただ突き進むだけでした

東北を応援したい
たくさんの人と被災地に想いを寄せたい
そしてみんなで改めて「あの日を忘れないでいよう」って伝えたかった
そこにワライナキの歌がどうしても必要やった

当日は、絶対に感動のライブになること間違いないと信じてます

さ、私たちは、ワライナキの2人とわたなべゆうさんに気持ちよく演奏してもらえる準備をして
たくさんのお客さんに気持ちよく参加してもらえる環境を準備することを一番に考えてメンバー心ひとつにして頑張ります
 
 
 
 
さっき、大槌で出会って以来交流させてもらっている香川県の常井先生から電話が入った
3月9日〜11日まで地元の丸亀市でうどん作りをして復興支援活動をするし遊びに来ないかと・・・
行きたい気持ちは山々やけど、3日間とも予定が詰まっていてゴメンナサイをしました
 
でも、先生が被災地に足を運べなくても、地元でやっぱり自分にできることを頑張っておられて嬉しいし元気がもらえます
先生が作ったうどん、また食べたいな〜
 
 
 
それから、昨日みんなのありがとうを繋ぐ「復幸本」が届きました
この前、facebookでこの本のことを知り
「離れていてもできる新しい支援のカタチ」という言葉に惹かれ「10000人の応援団」の会員参加をしました
 
隔月でこの本が届き、「被災地の今」を知ることができる
メディアではなかなか取り上げられない生の声や情報が載っている
 
さっそく届いたばかりの本を広げたら、すごく読みやすくて暖かさが伝わってきて、さらに、興味が湧いた
年間6冊届いて年間3000円は安すぎるくらいやわ
 
 
復幸本で検索してみてね!(^^)!
 
周りのみんなにも広げていきたい!!
この前、申し込みをした時点ではまだ京都では私で2人目やったので、本気で広げたいって思ってます