村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

ファニッシングブームに遅れるな

2007年04月09日 | Weblog
2.進行中、明日をつくる大作戦

昨秋、アメリカをひと回りしてきた。そのときの印象だが、わずか一、二年のうちに、またもアメリカは進んでいるという感じがあった。

変化はあらゆる面に見られたが、その中でもきわだった特徴は、ホーム・ファニッシング(furnishing=家具の備え付け、住まいづくり)の傾向が、ムードとして消費者の間に高まっているということであった。

これまで、アメリカ人は、元気がよいというか、大ざっばというか、住まいのムードを高めるということにあまり注意を払わなかった。そこがヨーロッパ市民の生活感覚と少し違ったところだった。しかし、ここにきて、アメリカ市民にも、自分の住まいの環境をよくしようという気持が急に高まってきたようである。

これはなぜかというと、やはり、外部に情熱をそそぐ対象が少なくなってきて、まず身のまわりから生活をつくっていかなければならなくなったということであろう。

自由世界の警察という役目を朝鮮戦争とベトナム戦争で果たし、やがて国内で反戦ムードが支配的になるという一連の流れがベトナム敗戦という形で終わったとき、アメリカ市民はそれぞれ自分たちの生活時点で、新しいアメリカ作りをはじめざるを得なくなったのである。

そこで、日本はどうかというと、こちらは少し違っていて、GNP至上主義時代においては、まだ市民生活レベルでの住まいのファニッシングは不可能という段階であり、そのまま不況の泥沼の中で沈滞化していった。

だが、国の経済政策が輪出型から内需型に切り替えられるにおよんで、原因は異なっていても、現象的にはまたもアメリカに追従する形になりつつある。

アメリカはいま土地ブームの初期に当たっている。昭和五十二年現在の数字を見ると、日本全体の土地評価額は三百六十兆円。ところがアメリカでは、日本の二十五倍もの国土がありながら、土地評価額は円換算で三百兆円を少し越したばかりである。しかし、このところ、急に高まったホーム・ファニッシングの意識を背景に地価がどんどん上りつつあるのだ。

アメリカの専門店は、この住宅及び住宅関連事情の急変に対応しようと、いま必死の転換をはかっているのである。さて、日本だが状況が似ているということであれば、基本的な戦略は同じであろうと思う。基本を踏まえて、あとはより日本的な住まいの環境づくりを考えていくということになる。

そこで、日本ではどうなのか。はっきりいえることは、もう家具だけをどうのこうのという時代は去ったということである。いかに大型化していっても、家具専門店というスタイルでは、時代の流れに対応できない状況になりつつある。

消費者はいま何を望んでいるのかということをはっきり見きわめ、その需要に合わせた商品構成を行なわなければならない。家具店は、家具専門店の枠から離れて、ますますホームセンター化していくのである。

また、ホームファニッシングは個人レベルではできない。消費者一人一人の頭の中でイメージ化することは不可能に近い。どのような住まいにするかという統一したイメージを、消費者が一人でつくり出すのは困難なのだ。

そこで、これらの多様なイメージはホームセンター側が作らなければならなくなる。消費者は数多くのモデルルームの中から選択するという作業を行なうことになろう。

そのためには、ホームセンター側に、優秀なインテリアデコレーターがいなければならない時代感覚と美的感覚の両方が優れたデコレーターは、そう簡単には養成できない。しかし、できないから、そのままで指をくわえていては時代にとり残されてしまう。

私の今後の最大の仕事は、早急に多くのインテリアデコレーターを育てることである。

アメリカとは、細部ではかなり生活感覚が違う日本で、インテリアデコレ一ターを育てるのは大変である。アメリカヘ行って見てきたものを、そのまま「サルマネ」するというわけにはいかないのである。

その発想でやればたちまち、前に書いたようにテレビのセット調になってしまう。「ゴールド・ブラッツではこうディスプレイしている」などという調子では本当のものはできない。日本の生活に調和していて、さらに美的な、夢のあるモデルルームがつくれなくては、一人前のデコレーターとはいえない。

こんな才能を持っているのは、ヤングの中でも百人に一人というところだろうとは容易に想像できる。ジェフサ会あたりとタイアップして、かなり本格的な学校をつくっても、モノになるのは百人に一人といえるだろう。これはロでいうような簡単な事業ではない。腰を据えて、大がかりなシステムを実行に移さない限り、かけ声倒れになるのは目に見えている。しかし、ホーム・ファニッシングという時代の大波はすぐそこまできているから、とにかく手をつけざるを得ないのである。 次へ

これからは毎日が戦争だ

2007年04月08日 | Weblog
アメリカでもうひとつ感じたことは、不利な状況に追い込まれても、それをはね返してしまう活気に満ちた国民性である。日本人も逆境には強い。しかし日本人の強さは、しぶとく二枚腰を使って、マイナスを徐々にプラスに転ずるという強さである。だが、この粘り強さは一面で、完全に腐り切ってどうにもならなくなるまで、ずるずると深みに沈み込んでしまうという面も持っている。その典型が徳川幕府末期である。

危険であるとか不都合だと思っても、すぐに手を上げて改革に乗り出す人間が少ない。下手に出しゃばって周囲とトラブルを起こすより、いまのところは大人しくして様子を見ようという姿勢が強いのが日本人の国民性である。前にいった村落共同体的な発想だが、これはひとつ間違うと取り返しがつかなくなる。あまり内部の調和ばかりに気を取られていると、全体としてとんでもないことろへ行ってしまうということは、わずか三十年前にいやというはど思い知らされたばかりである。「一億一心」の火の玉は、暴走するか燃えつきるか、のどちらかであろう。

それではいまの日本はどうか、全体としては不況で沈滞ムードである。その上、国家の管理能力が現代国家では非常に強力になっているので、出る釘はすぐ打たれるということもあり、調和こそが第一というムードになってきた。

これはアメリカヘ行ってみるとすぐわかる。アメリカ国民全体に、まだフロンティアスピリットのようなものが多分に残っていて、比較してみると、日本が調和だけに傾きすぎているのがはっきり見えてくるのである。

現代日本の調和の傾向は、どうみても「火の玉」型ではない。徳川幕府型-管理型である。このままなら、昭和元禄もすぎたことだし、アラブやアメリカの黒船も来たし、古典的な革命などというスタイルを取るはずはないにしても、また大騒ぎが持ち上りかねないのである。

さて、一介の中小企業主の私が国家の大計を演説したところで、何の意味もなさそうだし、下手をすると皆さんに笑われかねない。とにかく、私は私の企業だけは沈没させてはいけないという使命があるわけだから、時代に流されないための方法論を考えなければならないのだ。

村内ホームセンターの昭和五十三年度のテーマは「競争による充実」である。社外でも社内でも競争を積極的に行なって、グループとしてのカをつけていこうというのである。気の弱い社員や同業者の方はギョッとされるに違いない。しかし、商売は常に競争によって健全さが保てる、という根本的な事実に目を向けていただければ、私がそうぶっそうなことを考えているのではない、ということがわかっていただけるはずである。

「競争による充実」とはどういうことか。まず、これまでの「村内商法」をいっそう強化していくという戦略を取る。消費者に対して、良い商品を少しでも安く提供することによって支持を得る。ゲリラ商法などに対しては戦争も辞さない。そのためには、国際的な視野に立って商品開発を行なう。販売面では前の項で述べた、ホーム・ファニッシングの方向にそって、よりよい住まいの環境のイメージを追求していく。

社内的には、調和、協調を無視するわけではないが、当面は競争ということに主体を置く。社内コンテストも、なるべく競争を重視した形にしていきたい。ゲーム的要素も扱くして、全社員に乗ってきてもらうようにする。まず、社内の無気力ムードを完全になくしてしまわないと、全体としての活力が生まれてこないからである。

「競争による充実」は、早急に効果を上げていかなければならない重要な課題である。時間の回転が早くなっている現代では、のんびり構えて「そのうちに」などといっていると、たちまちマイナスの方へ転落しはじめる。アメリカのフロンティアスピリットは、すぐにも取り入れていかなければならない情勢に来てしまっているのである。

競争の意識がはっきり社員に認識されれば、それは直接的な形で売場に表現されるはずである。現代の他業種大型安売り店の店頭が、非常に攻撃的で華やかな顔を持っているのは、競争による活気のあらわれであり、意識されて作られたというより、必然的にあのような顔になってしまったのだといえる。

村内ホームセンターも、時代の沈滞の中に没してしまうわけにはいかない。日本一の郊外ショッピングセンターを目ざす道のりはまだまだ遠いのだから、毎日が戦争という状態にまで、常に活気を表現していかなければならないのである。 次へ

あとがき

2007年04月07日 | Weblog
おそろしく変化の多い時代である。経済情勢の動きの早さは、新聞を注意して見ていても、うっかりするとついていけなくなってしまう。

商売は世の中の動きに素早く対応しないと成り立たない。動きを見ながらどんどん手を打っていくことで、かろうじて成長しているのが村内ホームセンターのいまの姿である。

以前は、国内だけの動きを見ていれば何とかなったのが、最近では諸外国が身近に来すぎて、日本だけというわけにいかなくなった。それだけ明日を読むのがむずかしくなったわけで、最近は家庭サービスも手を抜きがちになってしまっている。もともと本を読んだり絵を見たりするのが好きで、あまり外へ遊びに出たりしないから、何とか情報に取りつく時間もある。「飲む」「打つ」「買う」が好きだったら村内ホームセンターはたちまち倒産である。

この本も人にすすめられるままに、時間をみて書きはじめたのだが、経済情勢がくるくる変わるのには閉口した。一週間前に書いたことが、情勢の変化で「あれはちがうな」ということになる。

とくに円高パニックが起きて、経済を基本的に見直さなければならなくなり、この本だけでなく、現実の商売でも対応を迫られて、それこそ蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまった。

本書を書くに当っては、消費者の皆様、メーカー、住まいの商品の流通にたずさわる方々、村内ホームセンターの社員諸君をも含めて、できるだけ多くの人々に、村内商法のありかたを知ってもらい、その当否をご判断願うつもりであった。また、私自身もこれまでのあり方を活字にすることによって、これからの礎にしたいという気持もあった。

書き終えてみると、あちこち欠陥だらけである。どうみても読者の皆様方に満足していただけるような代物ではないような気がする。いささか図々しいという気もするが、素人の本ということで大目に見ていただければ幸いである。

なお、本書の発行に当っては、㈱ロングセラーズの村山三郎社長をはじめ、多くの方々にと助力、ご教示をいただき、深く感謝している。

昭和五十三年六月

村内 道昌

まごころ求道(1)

2007年03月31日 | Weblog
平成七年三月一日 この日は村内個人にとっても、企業にとっても、大切な記念日の一つとなるだろう。

かねてから計画していた八王子本店・アネックスが完成、既設売り場と増床部分を合わせて杓一万三千平方メートルという日本最大の家具インテリア店舗をリニューアルオープンするとともに、家具企業が世界一級の絵画を集めた美術館を運営するという、世界に例のない新村内美術舘のスタート日であった。

そのオープンセレモニーのために、続々と訪れる招待客の人達と挨拶を交わしながらも、村内は自分が長い年月をかけて追い求めてきた理想実現の一段落に喜びを感じるとともに、新たな目標に向かって、心の底からフツフツとわきあがってくる闘志を抑え切れずにいた。

昭和二十三年三月、道昌は戦後の混乱の最中、父万助とともに家具づくりを目指して加住木材工業を設立。昭和二十七年に木工所から家具店へ事業を転換、翌二十八年に名称を村内家具店に改称。

村内ファニチャーアクセスの原点ともいうべき加住木材工業は、自宅前の豚小屋を改造したそれこそにわか仕立ての作業場からスタートした。

また、いつしか家具を仕入れて坂売するようになった、その当初の商品陳列場といえば、自宅の十二畳二間と六畳一間を利用、タンスや鏡台が並んでいるその庭先を鶏がせわしなく動き回る、今にすれば珍妙な農家店であった。招待客を新美術館から売り場へと案内しつつ、そんな企業の歴史が走馬灯のように村内の頭の中を巡る。

まごころ求道(2)

2007年03月30日 | Weblog
家具を作りつつ、それだけではお客の要望に応えることができず既製品の仕入れ販売にも、徐々に手を染めはじめた頃の商品陳列場は自宅であった。屋敷内にあった豚小屋を改造した作業場で家具をつくり、仕入れ商品は八王子の典型的な農家づくりの自宅の居間に並べた。

それはまさに家具店というよりも、農家店と呼ぶにふさわしい様相であったが、村内は、このいかにも農家然とした店のあり方を、アネックスを完成させ、店舗面積日本一の八王子本店を作りあげた今日でも、なお商売の原点として深く胸に刻み込んでいる。

父萬助とともに、村内は八王子駅から遠く離れた交通の便の悪い自宅店に、お客が訪れてくれることに対し、心底頭が下がり、お客を別室に案内し、茶菓を出したり、時には洒でもてなすこともあった。

良品廉価に徹した商品の提供を心がけたこともさることながら、そうした心からお客をもてなす商いの姿勢が、結果として、お客がお客を呼ぶ連鎖現象を引き起こし、宣伝一つすることなく、加住村の山奥店は、同業者の目から見れば、まさに不思議なにぎわいを見せる。

昭和二十七年、村内父子は、その自宅店から百メートルほど離れた場所に、売り場面積二百八十平方メートルの店を建てることになるが、そのかなりのスペースを割いて、お答との交流の場 ″商談室″を設覆する。普通ならば、一点でも多くの商品を陳列して、売り上げに結びつけたいところだ。

その点、村内父子は利に走りやすい商人というよりも、麦を一拉一粒地道に育てあげていく百姓タイプであった。

まごころ求道(3)

2007年03月29日 | Weblog
「乱世が英雄を生む」といわれる。逆にいえば、よく治まった時代には、英雄の生じるスキ間はなく、英雄気質の人間は逼迫せざるをえないということだろう。

産業や商売にも同じことがいえそうだ。持代が大きく変転する時に、新しい産業や商売の芽が生じ、思わぬところから新しいタイプの経営者が成長してくる。

今日の家具産業、そしてそれをリードする大手家具企業も、まさに戦後の荒廃の中から産業としての、そして企業としての芽を吹きはじめたといってもよいだろう。

村内ファニチャーアクセスも、まさにそうした持代、いってみれば、荒廃という乱世の中で、産ぶ声をあげ、成長してきた。

村内道昌が、終戦の最中で考えたことは「日本一の百姓になろう」であった。しかし、その夢は、昭和二十二年からはじまった農地改革で挫折した。それまで、かなり広い田畑を抱えていた村内家も、農地改革により二町二反の田畑を残すのみとなり、「日本一の農家」どころか、自作農として汲々とした生活をしていくのが精一杯、
という現実に直面せざるをえなかった。

そこで、父萬助と道昌は窮状打開のために、裏山の雑木林を活用して家具を作って売ることを考えた。

それまで全く家具作りの ″か″の字も知らない親子のこうした発送は、あまりに唐突ともいえたが、時代がその唐突さを許容したのだ。

まごころ求道(4)

2007年03月28日 | Weblog
人にせよ、企業にせよ ″転機″は必ずあるものだ。そして多くの場合、転機は苦労、苦痛や苦悩を伴い、同時にそうした苦労や苦悩は、その人やその企業の土台を形成していくことが多い。

昭和五年、村内萬助の長男として生まれた道昌は、終戦の昭和二十年、満十五歳で上級学校に進むか、他の道を歩むかの岐路に立つ。府立二中の担任教師は、道昌の能力を高く評価し、進学を強く勧めるが、道昌は眼を患っていたこともあり、進学をあきらめた。

幸い村内家は、江戸時代には八王子千人隊の一家として、また明治以降は名主的な役割を果たす豪農として広い田畑、森林をもっていた。道昌は、そうした代々受け継がれてきた土地を自分なりに生かし、「日本一の百姓になる」ことを目指した。

その希望は、農地改革によってあえなく潰れたが ″百姓″の精神だけは、その後も道昌の心に深く残り、商売の、そして事業の心象を形成していくことになる。

農業はあせらず、忍耐強くが基本であり、自然が相手だけになまじの才覚は通用しない世界だ。道昌とともに家具の製作販売に踏み込んだ父、萬助はログセのように「麦をつくるつもりで商売しろ」と道昌に説いた。その言葉の裏には、自然を相手に身心をすり減らしても、農業からあがる利益はタカが知れているが、家具の商売は、それとは比較にならないほど利幅が大きいことに対する畏れがあった。

その父の畏れの心は「百姓」を目指した道昌の心には、痛いほど理解できた。

まごころ求道(5)

2007年03月27日 | Weblog
父萬助が道昌に語り続けた「麦をつくるつもりで商売しろ」の言葉は、今日なお、道昌の心に生きている。

同じ穀物づくりとはいえ、時に冬の凍てつくような寒風の中で茎踏みし、肥料をやり、やっと収穫しても、手にする実利は、米よりもはるかに低いのが麦づくりであった。

そうした麦つくりの心で商売にのぞめば、たいがいの苦労には耐えられるし、カネもうけのための刹那的な暴利食いから、身を遠ざけておくこともできる。

とにかく店に商品を並べておけば、右から左へ飛ぶように売れた。売ることよりも、商品をどこからどのようにして仕入れてくるか、つまり、商品の手当てを、いかに図るかの方が、大問題の時代であった。

そうした暴利をむさぼろうとすれば、いくらでもできた時代に萬助、道昌父子はむしろ、少しでも良質の商品を、より安く売ることに徹した。他店で一万円で販売している仕入れ元値五千円のタンスを、五千五百円で売ることに「百姓の心」をもった父子は、むしろ喜びを感じた。

もとより、いま流行りの価格破壊商法とは似て非なる商法だ。食べること、そして生活必需品の、それも最低限のモノを揃えることに窮々としていた人々に「少しでもよいものを、より安く提供する」ことで喜んでいただき、売り手としてその喜びを共有する商売の原点に萬助、道昌父子はドドッシリと立っていた。

そして、その麦作りにも似た百姓商法は、結果として道昌を商売人としてきたえあげ、お客さまの信用というかけがえのない財産を蓄積させていくことになる。

まごころ求道(6)

2007年03月26日 | Weblog
木工所から家具店へつまり、家具作りから家具の仕入れ販売へ、本格的な転換を囲ったのが昭和二十七年、道昌二十二歳の時であった。

翌二十八年に、社名を加住木材工業から村内家具店に変更、今日の村内ファニチャーアクセスにつながる新たなスタートが切られることになる。

父萬助の説く「百姓の心」と母正子の蔭での労を惜しまぬ協力を支えに、道昌は良品廉価の商法で、着実に周囲の信用を築きあげていく。

しかし、仕入れ原価五千円の商品を、五千五百円で売るという良品廉価商法は、口でいうほど易しいものではなかった。当時、お客さんへの配達は道昌がオート三輪で行っていたが、ガソリンは配給制で、ヤミで買えばリッター当たり百十円にもなり、今と同じコスト計算になる。遠くへ配達すれば、良品廉価商法はたちどころに利益を食ってしまった。

さすがの道昌も、これには頭を痛めたが、しかし「良いものを安く売る」村内商法は、次第にロコミとなって客が客を呼び、信用がさらに信用を招くことにつながり、いつの間にか「高級家具は村内で」という評価が市場に定着していく。

道昌は、そうした実直ともいうべき商法に徹する一万で、果敢に集客のための革新商法にも取り組んだ。昭和三十年にはいち早く新聞広告、電柱広告を活用するとともに、昭和三十五年には、全国で初めての女性による乗用車送迎サービスを開始、世間に話題を提供する。

道昌が"十等地"と自ら評価する立地の悪い店へ来店してくれるお答さんへの感謝の心が、その底にあった。

まごころ求道(7)

2007年03月25日 | Weblog
人の成長は学ぶところから始まるといわれる。学ぶとは学校教育を受けることばかりではなく、耳学問、目学問もそのうちの大切な要素である。自らの知らないこと、自分よりすぐれたことを謙虚に学び、自分の血肉としていく。

その点、道昌は天性の学徒であると同時に、学んだことを取捨選択し、経営に生かす感性と決断力をもっている。

村内の時流を適切につかみつつ、なお時流に押し流されない店づくりをはじめとする経営手法をみて、人はよく「村内にはすくれた外部ブレーンがいるのではないか」という。

しかし、村内に特定の外部ブレーンがいるわけではなく、生涯学徒の姿勢と学んだことを経営という実践に取り込み、生かす力を道昌がもっているにすぎない。

昭和四十四年九月に道昌は現八王子本店を加住から移転オープンする。この八王子本店は当時、家具専門店としては初の本格的な郊外ショッピングセンターの機能をもった大型店で、家具業界はもとより、他の小売り業界からも、大きな注目を集めるほどにセンセーショナルなものであった。

道昌が当持の家具小売り業界としては、破天荒ともいうべき八王子本店の開設に挑んだ動機は昭和三十七年、道昌三十二歳の時、スイス・チユーリッヒの郊外四十キロにあるフイスターという巨大家具店を訪れた時の感動にある。

まさに目で見、経営の内容を耳で聞いた実学が、道昌の心を強く揺り動かしたのだ。