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村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

テレビの次は新聞である。

2007年04月19日 | Weblog
▽村内家具店(本社八王子)は八王子市の中央高速道路インターチェンジ近くに「ホームセンター」を完成、今月十五日開店する。これは住まいとくらしの関連商品を集めた総合店舗で、住宅・家具・台所設備・電気・照明器具などのメーカー、専門店が十数社出店するほか、外車コーナー、旅行あっせん所、レストランもできる。また千台収容の駐車場を設け、米国並みに自動車客を主体にした買い物施設づくりをねらっている。(後略)

日本経済新聞、昭和四十四年九月二日夕刊のオープン予告記事である。この記事をはじめとして、オープン予告、オープン翌日にはとんどの新聞が村内ホームセンターの記事を写真入りで乗せてくれた。もちろんほとんどがパブリシティではなく、記事扱いであった。

念のために付け加えておくと、パブリシティとは、日本語で記事広告と訳される有料の記事であり、日本では、紙面の信用にかかわるという意味で、一流紙はパブリシティは扱っていない。一流紙の場合、広告とことわっていない限りパブリシティではないのである。

オープンのとき、一流各紙が記事にしてくれたのは、それだけニュース価値があったのであり、マスコミの報道は私に自信を与えてくれることになった。

昭和四十五年の三月から四月にかけて、読売新聞の多摩都民版に『頭脳で売ろう、シンクセール時代』という連続コラムがあった。その一部を少し引用させていただこう。

▽「あれから二年たちましたが、お買い上げの家具のぐあいはどうですか。もし悪ければすぐ直します」-と受け取り人払いの返信はがきを同封したダイレクトメール(DM)を出して客に安心を売っているのが、村内ホームセンター。(東京・八王子市)

「家具は寿命が長く、半永久的に使える。それだけに、引き出しのぐあいが悪いなどといった“欠陥”をそのままにしておくと、お客にいつまでも不愉快な思いをさせることになる。それは結局うちの店のイメージを悪くしてしまう」村内道昌同社社長はアフターサービスをきわめて重視する。

だから、全商品は一年間保証つきで、搬入後一週間以内なら返品、交扱自由。一年後には、前記のようなDMで、うかがいを立てて、“無理”して使っている客に、遠慮なく修理を申し出ることをすすめる。

しかもこれで終わらない。保証期間は過ぎても、サービスは、“セミパーマネント・サービス”、つまり、半水久的に責仕を持ってめんどうみようという。“永久”だとオ一バーになる。

「使える間、あるいは使っている間」だから、“半永久”と表現したわけだ。(三月十七日)

▽東京・八王子の村内ホームセンターのように、家具・インテリア、照明器具などを設置した四~十畳のモデルルームを店内に二十九室も展示して“生活空間を売る”店もある。これも部屋の中身そっくりを売ろうというわけである。

それぞれ、ねらう対象は違っても、客層や用途、目的あるいは、来店のひん度を基準にセグメント(細分化)したうえで、相互に関連した商品をそろえた店の特徴を印象づけている。単なる材料別や、物の属性別に売るのと違い、いわゆる“システムを売る”ことになる。(四月十四日)

この連続コラムで村内ホームセンターを紹介した部分は、シリーズ全体のごく一部分にすぎない。しかし、その内容は、シンクセールにふさわしいものだった。 次へ

新聞は消費者のエージェント

2007年04月18日 | Weblog
もうひとつ、別の新聞記事を抜き書きしてみよう。

▽東京・武蔵野市に住むAさんと妻のB子さんは、昨年結婚したばかりの新所帯。最近、その家庭に生後一力月のかわいい仔牛が仲間入りした。

この仔牛は、Aさんが八王子のある家具店で買物をした呈示品に当ったもので、ホルスタイン種のメス。

「店では牛乳一年分にしますか、仔牛にしますかといわれたが、ウシ年にちなんで、ペットとしてもらってきました。なにしろ慣れぬことで大変ですが……」とAさんは大張切り。(朝日新聞 昭和四十八年一月二十九日夕刊)

主人に連れられて住宅街を散歩中に、犬に吠えられて途方に暮れている仔牛のユーモラスな写真つきであった。

この年、村内ホームセンターは新春初売出しのお年玉として仔牛二十頭をプレゼントしたのである。そのうちの一頭が街を散歩していて評判になった。この記事は珍事を扱ったのであって、商法の記事ではないから村内ホームセンターとは書いていない。しかしチラシが配ってあったから知っている人は多かったはずだし、ある家具店というのはどこだろうと思われるだけでも大助かりなのである。他人に迷惑がかかるようなことでないかぎり、珍事の演出も広告作戦の一部といえるだろう。

話題性が大きいため、大新聞でも、まったく無償でこちらの広告記事のようなものをつくってくれるケースさえある。

▽八王子市内の家具のデパート「村内ホームセンター」で、時価四百八十五万円、庶民には気の遠くなるような応接セットが話題を呼んでいる。

同センターで開かれている「イタリア・フェア」の “目玉”。なにしろ十七世妃のバロック様式をそのまま再現したという六点セットで、木材は三十三年間、自然乾燥させたノーチェ、布地はイタリア最高のコモシルクを使い、クッションは水鳥の羽毛。さらにスプリングの代わりにはシマウマのしっぽを使ってあるそうな。木部は三百年以上の伝統を誇るサンタ・マリア社の手作り。職人はごまかせても、神の作り給うた時間は絶対にごまかせないと、いくら注文をせっつかれても三十三年間の乾燥が終わらなければ絶対作らない職人気質で作り上げた逸品とか。それだけに「三百年は保証」しますと品質には自信満々。

品といい値といい、あまりの豪華さにクギづけになってタメ息をつく人もいるそうだが、マイ・ホームに四苦八苦している人たちにとっては“目の毒、気の毒”。同フェアは十五日まで。(毎日新聞 昭和四十八年四月五日朝刊)

同じ記事は読売新聞も書いてくれた。

こうなると、意地の悪い見方をする人は、一流紙だってパブリシティを出しているじゃないかと考えるだろう。しかし、そのような取引きはあり得ないのである。四百八十五万円もする応接セットが売り出されたということ自体、ニュース価値が大きく、読者に読まれる話題だったからなのである。

次から次へと一流紙の記事を書き出していくときりがないし、新聞社のほうからおしかりを受けるかもしれないからこの辺でやめておこう。

記事は広告とは比べものにならないほどの信用度がある。さらに三大紙のひとつでも取り上げてくれれば、地域人口の三分の一の家庭へ情報がとどけられる。チラシだとそのままクズかごへ直行というケースも多いが、新聞をそのままクズかごへ入れる人はまずいないはず。一紙でも記事が出れば、地域の三分の一の人は村内ホームセンターの行事を詳しく知ってくれることになるのだ。

それでは新聞に催物を紹介してもらうにはどうしたらよいか。頼みに行ったってだめである。大売り出しをやりますといったところで、それでは勝手にどうぞ、と記事にはしてもらえない。大切なのは、ニェース性のある催物を行なう企画力があるかどうかである。ニュース性もきわだっていて、他にない試みでなければならない。デパートあたりがいつも行なっている程度のものではだめなのである。

たとえば仔牛の件にしても、可愛い仔牛が住宅街の真中を散歩していたからニュースになったのであって、犬年に犬を景品にしても誰もおもしろがってくれない。もっとも寅年に虎の仔を景品に出せばまちがいなく記事になる。

しかしタイトルは“迷惑商法”とでもなって、警察の談話入りになるだろう。催物作戦はこの辺のバランスがむずかしいのである。 次へ

アンケートで作る人気商品

2007年04月17日 | Weblog
メディアの話はこの辺で終わりにして、次は村内ホームセンターの広告はどんな発想で行なわれているか、少しばかり説明しておこう。

▽すっ裸でベッド・イン……ジンジロゲまで見せちゃつたの(タイトル)
 村内ホームセンターの<ラブラブベッド>のCMで、すっ裸になってベッドに走っていく、ムキ出しの後ろ姿を見せているのは-(後略=平凡パンチ 昭和四十七年十月十六日号)

同様の記事は二月一日号のプレイボーイにも掲載されている。いまでは裸など珍しくもないが、当時としてはかなり新鮮な広告である。「アレッ?」という目を、一瞬ブラウン管に引きつけるには、十分な魅力を持ったCMだったはずだ。

このCMの発端は、来店客を対象にしたアンケート調査から出てきたものである。村内ではときどき消費者の意識を知るためにアンケート調査を行なう。時代によって、家具に対する消費者の意向も少しずつ変わってくるが、昭和四十五、六年頃の大きな特徴は、若い女性のベッド志向が非常に強かったことである。アンケートにあらわれた数字では未婚女佐の七十パーセント以上が、「いま一番欲しい家具」としてベッドをあげたのである。

ベッドについては前にもちょっとふれたが、オリジナルベッドの開発に際して「ラブラブ」というブランド名をつけたのも、購買層を若い女性と見たからであった。

商品開発、ブランド名、ここまでの作業はそうむずかしくない。大切なのは、ブランド名を知られることである。

前にも、知られることは容易ではないと書いた。テレビのCMでも、新鮮さ、ンョック、期待感、話題性などあらゆる方面から検討していかなければならない。またそれらが十分に満たされて、下手をすると商品イメージに結びつかない場合もある。イメージはよく覚えていても、あとになって、そのCMがいったいどんな商品の広告だったかさっばり思い出せないものも多いのである。きれいすぎたり、ムードに流れすぎた広告はえてしてそういうことが多い。「ラブラブ」の広告もテレビコードとの関連があって、きれいになりすぎたきらいもあった。しかし、当時としては最大限に新鮮さを追求したことによって、成果を上げたことも確かである。

時代には常に流れがあり、時代の状況は毎日のように変化している。今日の新鮮さも明日にはもう飽きられて捨てられる。また、新鮮なものも、いきなり誰かの思いつきでポンと出てくるのではなく、国民全体の要求のもとに必然的に出てくるのである。

たとえば、不況になって、国民全体の活力のようなものが押さえつけられ、無気力ムードが高まってくると「バイオレンス」という言葉が流行する。明日に夢が持てなくなると逆に「エンターテイメント」が叫ばれる不況の時期が長くなり、世の中が暗くなると「笑い」が喜ばれる。

広告、とくにテレビのCMは、時代の要求にいかに答えるかで勝負がきまる。いま、ほとんどの消費者がどんな気持で生活しているかということを知らずに、有効な広告を打つことはできないのである。

広告について、「時代の先取り」が必要とよくいわれる。これをそのまま真に受けると三年も、五年も先を読んで、未来予知のようなことをしなければならないということになるが、広告こおける時代の先取りとは、庶民大衆の今日から明日にかけてということであって、とてつもない先走りということではないのである。

アメリカやヨーロッパを歩いて、実際に向うの世相にふれていると、日本もやがてはこうなるだろうと思うことはたくさんある。その代表が郊外型のショッピングセンターだったわけだが、こと広告になると、そんな五年、十年さきの現象を持ち込んでも無駄であろう。「家具は村内八王子」がなぜ当たったか。答えは簡単である。当時、自動車は庶民の明日の夢だったからである。ごく一般の市民が自分の財布で、車が更える時代にやっと入りつつあった時代だったからである。中央高速道路・東名高速道路という夢のハイウェイも完成したばかりだった。自動車、中央高速、村内ホームセンターの三つの要素がタイミングよく結びついたのである。もし、あのCMが二~三年遅かったら、おそらく当るどころかCMの嵐の中に呑み込まれて、影も形もなかったのではないかと思う。

知られるということは広告戦略の基本だが、これもまた、お客様の立場で考えることが大切なのである。村内は技術的に広告がうまかったのではない。村内商法がそもそも“相手の立場を考える”商法だったから、その延長線上にある広告であればこそ、必然的に受け入れてもらえたのである。 次へ

ブーム便乗広告も

2007年04月16日 | Weblog
知名度を高める方法のうち、一番効果的なものが、ブームづくりである。しかし、ブームづくりはそう簡学ではない。失敗するほうが多いのである。だが、自然発生的なブームに乗るというのなら比較的容易である。

▽何が商品になるかわからないご時世だが、東京・八王子市の村内ホームセンターと、同センター府中店にこのほど“水車”がデンと据えられた。

 同センターでは岩手県の民芸品コーナーを店内に常設しており、水車もその商品の一つ。ただし草深い田舎でゴットン、ゴットン米をついていた古物ではなく、本場・岩手県の大工さんに特別注文した“新品”。(後略=読売新聞 昭和四十八年二月二十四日)

▽手作りばやりのご時世。東京・八王子市の村内ホームセンター日曜大工教室で、第一期生が金づちをふるったり塗料を塗ったりの訓練を受けている。すでに教程のなかばを終え、今月末の卒業製作展を目指し腕をみがくのに懸命だ。(後略=読売新聞 昭和四十八年六月二日)

前者は民芸ブームヘの便乗、後者も前にふれたが、手づくりブームに乗ったものである。水また、車は一応商品ということになっている。しかし実際はそれを売って利益を出そうというわけではない。一種の「見せ物」である。ブームに乗った品物なら、そう珍しいものでなくても注目を集める。新聞記事にもしてくれる。わざわざ見に来てくれる人もいるわけである。下地に民芸ブームがあるからこそ広告的価値も出てくるのであって、ブームが去ったいま、水車を展示したところで誰も興味を持ってくれない。

日曜大工教室にしても同じで、いくら村内ホームセンターの無料サービスだからといっても、ブームからはずれていれば振り向いてくれる人はいないはずである。

これらのブーム便乗広告の狙いは、消費者に村内に対する共感を持ってもらうことである。広告の使命の第一は「知られること」だが、次に来るのは「同意してもらう」ことである。

アメリカあたりではよく新聞に大きな「意見広告」が出される。内容はさまざまだが、共通しているのは広告主がひとつの意見を紙面で述べ、読者の同意を求めることである。

商店が意見広告を行なう習慣は日本にはない。意見広告の目的とする「同意を得る」ためにはもっとソフトな形をとる。消費者に楽しみを提供し、その結果として「あそこはよくやってるな」という形の同意を得るわけである。

この種の同意-信頼感を得るにはブームに乗るのが一番効果的である。よりたくさんの人に楽しみを提供できるし、私個人も結局のところ便乗して楽しむことができるからである。商売は自分だけの都合で何かをしようというのではだめだと前にも述べたが、広告もまたしかり。こちらも渦中の人にならなければうまくいかないのである。

広告という意味あいは非常に少なくなるがこんな例もある。

▽「向うで解禁されたポルノを見てきたんですが、性につきまとう陰湿さのようなものはみじんも感じさせず、まさに愛の讃歌ともいうべきすばらしい作品でした」と語るのは、アメリカの家具デーラー界の視察から帰った村内ホームセンター(八王子市)の村内道昌社長。

新藤兼人監督が性をテーマにした映画「鉄輪(かなわ)」を制作するに当っては、ベッドをはじめ多くの小道具を提供するなど“理解あるところ”を示している。(後略=日刊工業新聞昭和四十七年十月十八日)

ポルノに関しては平均的な意見だとは思うが、時代の流れの中で世界を見ていくためには、性は企業イメージをそこなう、などという固い考えにしがみついてはいけないのである。経営者が時代を見たくないという姿勢を出せば、たちまち若い世代に置いていかれてしまう。同意-信頼感を得るための発想も枯渇してしまうのである。

広告の原点は技術論ではない。少し古い人間なら頭から毛嫌いしそうなPARCOのイメージ広告が若い世代にやたらに受けている。あのような広告は技術論からはけっして出てこない。若い世代と共に考え、共に喜ぶ感覚を経営側の人間も常に持っていてこそ、最もむずかしいイメージ広告も成功するのである。

商店は若い世代に背を向けることはできない。経営者が精神的に年をとっていけば、顧客も高齢化していく、それはとりも直さず、企業の老化につながっていくのである。 次へ

広告でも消費者へ利益還元ができる

2007年04月15日 | Weblog
広告とは何かと考えるとき、大まかにいえば活気の渦巻のようなものだと思う。内容をひとつひとつ見ると、広告そのもののようなチラシやテレビスポットがあり、その反面、広告というより、他の要素のほうが大きくなっているインテリア大学とか日曜大工教室のようなものもある。それらが一体となって、ある種の村内ホームセンターに関するイメージを生み出し、そのイメージを支える活気が、結果として客を招くということなのである。

▽八王子市の家具専門店に、このほど常設ギャラリーが開設された。最近のインテリアブームで、家具店に絵画コーナーなどを設ける動きが目立っているが、これは本格的なもの。「絵の需要がふえるのをあてこんだ新商法」といってしまえばそれまでだが、近くフランスやソ連絵画展を開くなど意欲的。ナマの絵に接する機会の少ない地元の美術ファンたちから喜ばれている。

このギャラリーは八王子市左入町、村内ホームセンター四階にできた「ギャラリーむらうち」。

家具の特設売場を改造してつくったもので、広さは約百二十平方メートル。床には落着いた緑のカーペットが敷きつめられ、豪華なふんいきをかもし出している。近く完ペきな照明施設もつくり、じっくり名画鉱賞ができる“舞台づくり”というが、これについて同店の石井良一専務は「地域住民の役に立つことが大きなねらいです。多摩には外国の絵や、国内の大家の作品を鑑賞できる場所はほとんどありません。美術家の人たちも、地元の人たちに多く見てもらいたいのに、会場がないため個展を開くことができなかった。それが、ある程度解消されるのではないでしょうか」と自信ありげ。(後略=毎日新聞 昭和四十六年十月六日)

ただの商法にすぎなければ、絵画ブームが去った時点で「ギャラリーむらうち」も自然消滅だが、いまだに健在。つい先日も「ミレー、コローとその周辺の画家たち展」を開いて好評だった。絵は重要なインテリアの一部である。その意味では商売なのだが、あまり効率のよい商売とはいえない。同じスペースに家具を置いたほうがよほど利益率がいい。それなら広告なのかというと、そうともいいきれない。

実は、私の唯一の趣味は絵画なのである。「なんだ村内の遊びか」などといわれそうだが、そんなところでいいのではないかと思う。世界一流の絵を並べれば、観賞として喜ばれ、しかも売れる。一般売場にあるインテリア用の複製絵画も売れる。また、多摩のあちこちから絵の好きな人も来てくれる。わざわざ銀座あたりまで出なくても、まとまった数量の一流絵画が無料で見られるのだからサービスになる。

私の個人的な好みは置いて、広告という面から「ギャラリーむらうち」を見ると、これは企業イメージを高めるための役割を果たしてくれている。他店より安く売るということを基本方針にしていると、どうしても、いわゆる「安売り屋」というイメージが出てきてしまう。安売りキャンペーンを行なうと、店員の接客態度まで荒っぽくなってしまったと前に書いた。店員でさえそうなのだから、社外の人はもっとそんな風に感じるに違いない。

村内は安く売っても「安売り屋」ではないという事実を消費者にわかってもらわなければならないのだが、そんなことはロでいってもだめである。自然にわかって信頼感を持ってもらわなければならない。

ギャラリーのような文化施設を、採算抜きに社内に持ち込むということをあえてしたのは、安売り屋のイメージを払拭するためでもあった。

開店広告とか商品広告といったものは、それなりの方法論に従って行なえばできるものである。しかし、企業のイメージづくりは非常にむずかしい。一朝一夕にできるものではなく、実線を毎日積み上げていかなければならない。よりよいイメージが確立すれば、企業の土台になる。そう簡単には崩れない信用として残るものである。

しかし、それが確立されるまでが大変である。山奥の家具店時代に築きあげた信用が村内ホームセンターのオープンを支えた。だがその信用はあくまでも村内家具店の信用であって、村内ホームセンターの信用ではない。経営者が同じでも、店の名前が違えば、一般の人には違うものとして受けとられる。新しく信用を築き直さなければならないのだ。

信用、あるいは店のイメージを作る広告は、もはやはっきり広告とはいい切れない形を取らざるを得ない。消費者に心の底から納得してもらわなければならないからである。商店にとってこれは大変な努力を要することである。

しかし、どのような広告にもまして、信用-よいイメージは大切。信用づくりこそ広告の根幹にあるものだといっても、けっしていいすぎではないはずである。 次へ

一方通行でない広告は

2007年04月14日 | Weblog
広告戦略の章を終わるに当たって、これまで述べてきたことをまとめてみよう。

 1 大型専門店にとって広告は最も重要な部分である。とくに郊外型の店舗は商圏を広く設定しているので、強力な宣伝活動抜きには考えられない。

 2 広告の第一歩は知られることからはじまる。どんな店がどこにあって、どんな営業をしているかということを商圏内に周知徹底する。

 3 廉価多売方式を取る店はなおさら広告活動を強化し、知られることに努めなければならない。商品一点当りの利益が少ないため、できるだけ大量の商品を売らなければ経営が成り立たないからである。大量に売るためには常に宣伝を行ない、消費者に呼びかけていなければならないのである。

 4 広告を考えるとき、メディアの選択が成果を大きく左右する。広告の目的に対してどのメディアが一番有効であるか事前に十分に検討する。

 5 商品広告ではチラシの効果を軽視してはならない。大手ショッピングセンターT店の消費者アンケート調査では、実に八十五パーセントもの人が「チラシはいつも見る」と回答している。地域を限定した広告では最も有効なものである。

 6 テレビスポット広告は広範の地域の消費者に対する呼びかけとしては割安である。ただし、時代をはっきり見きわめる姿勢がないと印衆に残らない可能性もある。

 7 話題をつくることによって報道機関に協力を求めることもできる。この場合、消費者にどのくらいの利益があるかという価値判断で採用されるかどうかがきまる。また、新しさ、ニュース性によっても新聞記事になることがある。

 8 ホームセンターに限れば、一番重要な広告対象は、将来のお客様である子ども、若者層、次に大切なのは主婦層である。若年層に対する強力な呼びかけをやめると企業は老化への道をたどる。

 9 若者の心をつかんでいくためには、事業経営者は精神的に老化してはならない。

10 広告の発想は一年先を先取りするのではなく、”明日”を先取りすることによって成功する。

11 広告の最終的な目的は消費者に心から信頼してもらうことである。本当の信用を獲得すれば、一朝一夕に崩れない強固な店の土台となる。しかし信用を得るには毎日の努力の積み重ねが必要である。

12 一番よい広告とは、消費者が知って得をする広告である。こちらの都合だけの一方的な広告は、長い目で見て決してプラスにはならない。その意味で広告もまた商法と同じである。

以上のことを踏まえて、村内ホームセンターの広告戦略は、今後どうしていくかについて少し述べておこう。

村内ホームセンターは誕生以来、郊外店である。立地条件から見て、広告戦略は今後も強力に行なっていかなければならない。

まず知名度だが、まだ十分とはいえないと私は思う。郊外店の不利をカバーするために、少なくとも関東全域にわたってほとんどの人が名前だけでも知っているという状態まで持っていきたい。「家具は村内八王子」を覚えて下さった方も、あれからかなりの年月がたっているので、思い出してくださらない可能性もある。また世代替りも行なわれているので、知名度を高めるキャンペーンはずっと続けていかなければならないと思う。

企業イメージを高める広告戦略も知名度を高める広告と共に重要である。そのためには労をいとわず、消費者の利益を第一に考えた広報活動や催物などを定期的に行なっていきたい。奥様インテリア大学、日曜大工教室といった種類の消費者サービスも、よいアイディアがあれば新しく実施していくつもりである。また、ギャラリーのように地味な催物も内容を充実させる方向で進むつもりである。

広告は時代の鏡であるとよくいわれる。広告を見ていると、その時代の世相がよく反映されている。日本一の郊外型ショッピングセンターをめざす村内ホームセンターの、常に変わらぬ広告戦略は、時代をはっきり見きわめ、時代と共に考えていくことであるから、今後も長期不況で沈滞したムードを打ちやぶる活気の導入を、広告を通して行なっていかなければなるまい。

日本のフィスター、日本のゴールド・ブラッツになるための広告戦略とはどのようなものか、これからも日夜考えていかなければならない大きな課題である。 次へ

円高不況は千載-遇だ

2007年04月13日 | Weblog
6章 村内ホームセンターが日本一になる秘密

1.円高時代に大型店はどう伸びるか

オイルショックによるインフレによって、大衆の購買力が大幅に落ち込んだ。とくに家具のような耐久消費財の買いびかえ現象は強く、村内ホームセンターは需要の落ち込みに対処して、廉価販売を押しすすめてきた。

しかし、昭和五十二年の秋から事態はまた大きく変わってきた。ドル安・円高が極端な形で進行したのである。オイルショックを戦後の第一次経済変動と見るなら、円高は第二の変動であった。

円高経済の原因とか影響については専門家にまかせるとして、私たち大型専門店は、新しい経済状況にどう対処していくべきか決断しなければならない。

もちろん円高は私たちのような第三次産業には直接の影響はない。しかし、円高が輸出産業に与える影響は大きく、日本が世界の工場であるということを考えると、国家的な対応策が出ない場合、不況はますます深刻化していくということは目に見えている。不況が深刻化すれば、庶民の購買力に頼っている第三次産業にも大きな影響が出てくる。とくに耐久消費財に関しては、買いびかえがもっとはっきりした形で出てくるに違いない。

だが、円高という非常事態に国の対応策が出ないわけがない。これまでのような輸出主導型の日本経済は、構造的に無理になったわけだから、いま日本政府は内需拡大によって成長率を七パーセント前後に持っていくべく手を打っている。

内需の拡大には二本の柱があって、一本の柱は道路、橋梁などを中心とした公共投資。もう一本の柱は住宅である。また、超低金利を実施し、民間投資を刺激している。

さて、村内ホームセンターにとって、この経済状況は得なのか損なのか。結論を先にいうと、まさに「千載一遇の機会」到来なのである。

内需型移行の経済政策で一番注目したいのは住宅政策。政府は昭和五十三年度に官民合わせて百五十万戸にのばる住宅を建設したいとしている。二戸一千万円としても、住宅だけで十五兆円の需要が喚起されるのだ。さらに住宅関連需要については、約八倍、百二十兆円という巨大な需要が生まれるだろうと試算されている。

この住宅政策はどう行なわれるのか。具体的には、住宅金融公庫の枠を拡大することによって、「公庫融資+ローン」という形でマイホームが持てるようになる。これまでのように三百万円程度の頭金プラスローンではなく、頭金がなくても信用さえあれば家が建つということである。

政府の思惑通り、百二十兆円の住宅関連需要が喚起されるかどうかはむずかしい問題だが、私はある程度うまくいくと思う。というのは、政府が住宅に本腰を入れれば、当然地価も上る。早いうちにマイホームを建てれば、それだけ得ということになるからである。

郊外型ショッピングセンターにとって、住宅需要の増大ほど魅力のあるものはない。住宅を建てて中味を空にしておくわけにはいかない。しかし、ローンがあるから家計は厳しい。結果として、安くてよい家具などの住宅関連用品に人気が殺到する。

新規住宅が、都心から一時間半という地域に集中しているのも、村内ホームセンターにとって有利である。八王子店はちょうど都心から一時間半のところにある。過去の十等地もいまとなっては、絶好の立地条件に成長したのである。

円高でもうひとつ、専門店が有利なのは、輸入品とくにヨーロッパの高級家具が安く入るということである。村内ホームセンターは、一ドル三百六十円時代から欧米の高級家具を輸入販売してきた実績がある。この外国家具が安く輸入できるとなると、小売価格も大幅に引き下げることが可能だから、高級需要も堀り起こせるのである。クレジット販売の実施後、高級家具の売れ行きが急上昇した。ここで外国の質のよい商品が円高で安く入れば、さらに一層有利な条件になるのである。

問題は、政府の施策が、内需型の好況に結びつくかどうかだが、内需型移行がゆっくり進めば進むほど、村内ホームセンターもそれに対応しながら大きく伸びられるのである。

第三次産業はこれからの数年が正念場である。住まいの専門店に限らず、どんな商売でも同じことである。ここ三十年続いた輸出型経済から、内需型経済への半移行(全面移行ではない)期にうまく乗れるかどうかが、将来を決定するといってもそう誤りではないはずである。 次へ

ハウジングも地域一番に

2007年04月12日 | Weblog
この本のはじめの部分で、村内ホームセンターは単なる家具店ではなく、住まいの総合ショッピングセンターをめざしていると書いた。住まいに関する商品ならすべて村内で買えるというシステムを作ってきたのである。子会社を作り、テナントを入れるという方法で、オールラウンド化を図ってきたのである。

このホームセンター構想は、円高・内需型経済時代になって、さらに有効性を増してきたといえそうである。

たとえば子会社の「村内ハウジング」。これは先に述べたように、昭和四十七年に大手プレハブメーカー、ミサワホームの販売会社として設立したものである。もちろん村内の全額出資だが、当初社名を「村内ミサワホーム」としたため、ミサワホーム側の影響力が強く、経営に支障をきたした。しかたがないので「村内ハウジング」に改称したのである。

また、名称を改めると共に、取り扱い商品もミサワのプレハブ住宅だけでなく、自社で木造の注文住宅を作るようになった。ご存知の通り、プレハブ住宅は既製品であり、購買者があれこれ細かい注文をつけるわけにはいかない。また、プレハブは歴史が浅いため、耐久度の問題で確定した実績が出ていない。さらに、販売の利益も少なく、不況で需要が落ちるとたちまち赤字に転落してしまうなどの理由で、独自の木造住宅建設に取り組んだのである。

昭和五十二年の秋、八王子店内の敷地にモデル住宅も完成したが、やはり既製品でない木造住宅の人気は高く、これが村内ハウジングを黒字にする原動力となった。

都心から一時間半の郊外住宅がこれからもどんどん建っていくということになると、この布石が生きてきたのはいうまでもない。

発足当初、ミサワホームは「五〇・五〇〇方式」と呼ばれる拡大政策を強力に推し進めていた。五十人セールスマンを集めれば、その販売店に五百万円を融資するというものである。しかし私は拡大方式に疑問を持った。素人をかき集めたセールスマン集団を五百万円の借金で動かすというやり方は、いくら住宅ブームの当時でも冒険すぎるのではないかということを、そんな粗雑な販売方式でもしクレームが発生したら、村内ホームセンター全体の信用にもかかわると考えたのである。

そもそも冒険主義・拡大主義は地道に実績を積み上げていくという「村内商法」の理念に反する。

事実、このとき「五〇・五〇〇方式」を受け入れた販売会社め多くが、オイルショック後に、親会社に吸収されていった。村内商法を少しでも曲げていたら、いまの村内ハウジングはなかったに違いない。さらに、その後プレハブでの赤字に苦しみ、苦境を乗り切るために、自社で注文住宅のノウハウを開発する努力を怠っていたら、再度の住宅ブームに対応することはできなかったはずだ。

いまになってみれば、注文住宅を売るだけでなく、土地さえ見つかれば、計画的に分譲住宅を建設しつづけることが可能である。再度の住宅ブームは国の政策の裏付けがあるだけに、より強力であり、向う数年間は安定した需要が得られるはずである。

村内ハウジングで、良質格安の注文住宅を建設していけば、家具・台所設備など関連商品のすべてを村内ホームセンターで購入してもらうこともできる。ホームセンター構想の目的とするところがほぼ完全に満たされた形態である。

村内ハウジングはまだ本格化して日が短い。しかし、私のホームセンター構想は、この子会社を大きく育てることで、確実に実現化していくのである。

もう一つの子会社、「村内外事センター」は一度も赤字になったことのない幸運な会社だが、これも円高経済でさらに有利になっている。

すでに述べたように、円高で外国製品は安く輸入できるようになった。それに加えて、ネックになっていた関税も大幅に下ることになった。これまで外車は庶民の足というほどまで普及してはいなかった。しかし、今年に入って、一般のサラリーマンでも、国産車より少し高い程度の金額で外車に乗れる状況が生まれてきた。外車一般化のきざしがはっきりしてきたのだ。

村内外車センターは三多摩地域では最も実績のある外車販売会社である。本格的な整備工場も完成したばかりである。

これも結果的に見てブームを先取りした感じが強い。遠からず商圏内では「外車も村内」といわれるようになるはずである。

しかし、村内はもはやこれ以上、多角化することはいまのところ考えていない。私のホームセンター構想は、いまのシステムで完成することができると見ているのである。 次へ

アメリカはすぐ上陸してくる

2007年04月11日 | Weblog
ここ数年、日本経済の国際化が恐るべきテンポで進行している。戦後三十年、少なくとも第三次産業に従事する私たちは、日本国内だけに視点を置くだけでも何とか発足していくことができた。アメリカ、ヨーロッパは私たちにとって参考にすべき何かを持った国々という程度の相手でしかなかった。

しかし、日本がアメリカさえもおびやかすほどの経済大国に成長してしまったいま、第三次産業でさえも、日本一国だけでなく、世界を相手にさまざまな経営戦略を立てていかなければ、時代に取り残されてしまうという状況になってしまったのだ。

この辺の事情をもう少し詳しくいうと、四~五年前まで,「アメりカは十年後の日本だ」ということが知識者の間でよくいわれていた。日本はアメリカ経済に追従していたので、アメリカで起こる現象は、約十年ぐらいの時間をおいて、日本でも現実のものになるということである。

この論理はほとんど正しかったといってもよく、現時点においてもまだ半分以上は通用する論理である。ドルが弱くなったとはいっても、その原因をさぐってみると、膨大な戦略石油の備蓄など、アメリカ自身の国内政策に起因するところが大きい。アメリカそのものが傾きかかっているわけではなく、アメリカによる世界の経済支配の構造は少しも変わっていないのである。


その意味で、欧米の現実が日本の明日の姿になりうるという可能性はまだまだ強いのである。

しかし、ここ数年の国際化時代において、過去三十年とはまったく違って二つの側面が出てきていて、大型専門店もそこから視点をずらせて将来を考えることは、不可能になっているともいえるのだ。

変化の第一は、欧米、とくにアメリカで起きている現象が、日本の現実に移行するまでの時間が非常に短くなっていることである。前は十年といった長い期間を必要としたものが、長くても一~二年、短ければほんの数ヶ月で、国内現象としてあらわれてくるようになったのである。現象に必然性があればあるほど、その期間が短くなる。

これは、人的交流、情報の交換がそれだけ密になった結果であり、いまや、日本経済は第三次産業という深い位置まで、世界経済に連動して変わっていくようになっているのである。

人間という生物は不思議なもので、明治の開国以前、東西の交流がほとんどなかった時代でも発想の根本はあまり変わらなかったのではないかと思う。そうでなかったら、数万年の歴史の中で、東西の人間は、言語における相異と同程度に異質化していたはずだった。ところが言語はあれほど異質化しても、なぜか発想はあまり変わっていなかった。そして現代、情報がほぼ即日的ともいえる距離に接近してみると、再び人間の意識に同一化現象が起こった。

欧米へ行った友人・知人はよくこういう。

「アメリカは活気があるからちょっと違う感じもするが、ヨーロッパになると日本と同じで退屈する」                          

ここまで人間の均一化が進んでいるのである。世界中の人間が同じようなことを考え、同じような生活をしているということであり、将来は経済後進地域も含めて、世界はもっと均一化、同質化していくだろう。

こうなると、専門店といえども、身の回りを見ているだけでは、はっきりした戦略が立てられなくなってくる。広く世界を相手に商売をするということになれば、世界的な視野で、通貨の問題から、流通形態の変化にまで注意を払っていかないと商戦から脱落してしまう。

「そんな面倒なことはいやだ、いままで通り、身の回りだけで商売をしていければいい」

と考えておられる方も多いと思うが、商売とは自分一人で勝手にできるものではない。消費者、同業者の相対的な関係で事業が伸びるかつぶれるかが決定するのだ。それは協調関係であることもあり、敵対関係になることもあるが、いずれにしても相対関係があるからこそ経営者も従業員も生活できる。

現在の枠に閉じこもっても周囲が変化しなければ、それはそれでやっていける。しかし、現代のような変動の時代では、自分が動かなくても、周囲がどんどん進んでいってしまうから、結果的に取り残されることになる。専門店のような第三次産業でも事情は同じなのである。

そこで、これから事業をはじめたいと思っておられる若い人たちに、私がぜひおすすめしたいのは、どんな無理をしてでも、事業をはじめる前に世界を歩いて、自分の目でなるべく多くのことを見、自分の中で国際化時代の日本の姿を再構築するということである。事業のハウツーも大切だが、それよりもっと大切なのは事業の構想そのものだということを確認してほしいのである。激動の時代を強く生きるにはそれしかないと思う。 次へ

海外視察は観光旅行ではない

2007年04月10日 | Weblog
村内ホームセンターは、欧米の郊外型ショッピングセンターをモデルにしてつくられた。国際化への対応は、当初から行なわれていたわけである。また、八王子店オープン以後も、組織的に海外研修ツアーを組み、できるだけ最新の海外事情を目で見ることにしている。

この村内の海外ツアーには、三つの目的がある。まず第一は、流通機構の変化を視察するもの。第二は海外で輸入可能な商品を探すこと。第三は海外の商品を見ることで、商品開発のヒントを得る目的のものである。

流通機構の視察はアメリカがほとんどである。アメリカという国は動きの激しい国で、常に新しいものが生まれ、古いものが消え去っていく。ヨーロッパあたりだと、三~四年ぐらいの時間があっても、たいした変化がないことが多い。しかし、アメリカでは二年もするといろいろなものが変わってしまっている。新しい流通のあり方を研究するには、一番手ごろな国なのである。

アメリカ研修ツアーはたいてい、ジェフサ会などの同業の人と行くことにしている。同業の人とあれこれ話しあいながらいくと、研究会も兼ねる形になり収穫も多いからだ。

商品の視察ツアーはあまり場所にこだわらない。欧州家具のメーカーを訪ねたり、東南アジアあたりへも行く。こちらは村内会など、メーカーの人と一緒に行く場合がほとんどである。私は輸入できるものがあるかどうか検討できるし、メーカーの人たちは、デザイン、技術の両サイドから勉強ができる。

家具という比較的変化のとぼしいと思えるような商品でも、商品研究は必要である。生活様式とともに、消費者に好まれる家具もどんどん変わっていく。とくに洋家具では変化が激しい。たとえば本棚のような地味な商品でも、五年前の主流商品といまの主流商品を比べてみていただけば、その変わり方がわかるはずである。材質、形、塗りのすべてが、一目でわかるほど変わっているのだ。

消費者がどんな商品を求めているのかを知り、新しいものを出していくという意味では、家具も電器もそう違わないのである。

また、スタイルや色だけでなく、生活様式そのものの変化による消費者の購買意欲の変化も製品に投影していかなければならない。団地、マンション等で生活空間が狭くなると、横に広い家具より、上に高い家具が売れるといった調子である。マスプロ製品が飽きられて、民芸調の家具が好まれたり、海外の手づくり製品に人気が集中したこともあった。

こうした消費者の好みに的確に対応するためには、座って考えていてもだめである。あらゆる商品の可能性を探して歩きまわらなければ、よいアイディアは浮んでこない。

日本だけでなく、海外へも足を延ばしていくことによって、商品開発の幅は非常に大きくなっていく。ヨーロッパの何百年も持つという手づくりの家具を見れば、購入しないまでも、その思想は理解できる。使い捨て時代を反省して、重厚な商品づくりをしようという発想も生まれてくる。

インドネシアで、一つに三日も四日もかけて木彫りをする職人の姿を見ていると、手づくりの味もわかるようになる。

私たち、第三次産業に従事するものが海外へ勉強しにいくというと、一般的には遊びに行くといった感じで受けとられやすいが、商売に直結した視察がぜひ必要だという時代がもう現実になっているのだ。世界の経済が均一化・連動化してくればくるはど、あちこちを見てまわり、それをよりよい形で自分の商売に結びつけていくという努力は欠かせなくなっているのである。

この発想がなかったら、村内はいつまでも三流の家具店にすぎなかったろう。ホームセンターという発想も出てこなかったはずである。

これからは、当分輸入の時代である。その意味でも、ますます積極的に海外へ足を運ばなくてはならなくなる。輸入より国内でつくったほうが有利な商品はメーカーにつくってもらうが、輸入のほうが有利な商品ならどんどん入れなければならない。

輸入に関しては、自分で相手国へ出向いていって、よい商品を探し、工場まで行かなくてはどうにもならない。他人まかせではよい商品は出てこないし、中間経費がかさみすぎて不利になる場合が多い。

村内ホームセンターの関係者は、小売業のくせにあちこちよく歩きまわるという定評がある。しかし、このように考えてみると、村内は海外との交流なしには、基本的にやっていけないということもわかっていただけたと思う。

円高時代で、これからはどんな業種でも、観光でない海外視察を定期的に行なわなければならなくなったはずである。海外は商社にまかせるという時代は終わったのである。 次へ