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村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

まごころ求道(8)

2007年03月24日 | Weblog
昭和三十七年、道昌はカタヌマの潟召稔社長、速水家具卸センタ-の速水貞夫専務(現副社長)らとともにヨ-ロッパを回った。

一ドル=三百六十円、外貨持ち出し制限ばかりか、旅行目的そのものに制限のあった時代である。三十二歳の道昌は「ヨーロッパの家具業界を見ることで、何か今後の展望が開けるかも知れない」と考え、渡航費用をやりくりしての参加であった。

イタリア、スペイン、ポルトガル、スイス、西ドイツ、フランス、イギリス、北欧諸国と文字通りヨーロッパ一周の視察スケジュールの中で、道昌は様々なことを学びとったが、とりわけスイス・チユーリッヒ郊外で間口二百二十メートル、八階建ての店舗を構える家具専門店、フイスターの存在は驚愕であった。

同行の人達が期せずしてあげた「すごい」の感嘆の声を聞きながら、道昌は一人、そのフィスターと自らの店をダブらせていた。

「チューリッヒ郊外の、それも四十キロも離れた人家の少ないこの地で、ヨーロッ一といわれるこれほどの巨大店が経営できるなら、八王子の郊外で日本一の家異専門店を築くことも夢ではないはずだ」・・・フイスターの店内を歩きながら、道昌は次第に昂ぶってくる気持を迎えるのに苦労した。

と同時に売り場面積六万六千平方メートル、駐車場収容能力一千台、モデルルーム方式による生活提案デイスプレー・・・など、道昌はフィスターのハード、ソフト両面の吸収に目と耳を集中した。

まごころ求道(9)

2007年03月23日 | Weblog
ともあれ、道昌は、初の欧州視察旅行で、自分が今後目指すべき明確な目標をつかむことができた。「フィスターのような店を、いつの日か創り上げよう」という目標だ。

八王子市郊外、それもタヌキが出没するような加住町の小さな家具店の経営者が、とにかくそう思ったのだ。フィスターといえば、ヨーロッパ一の巨大家具専門店、八階建て、総売り場面積六万六千平方メートル、駐車場スペース一千台という規模であった。

現実の村内家具店とはかけ離れた存在ではあったが、帰国後も、道昌の脳裏からきらめくばかりのフイスターの雄姿は、消えることがなかった。

どころか、帰国後、早速、道昌はフィスターの売り場づくりの根幹、モデルルームディスプレーを店の中に取り込んだ。もとより、フィスターとは比較にならない売り場規模の中での展開であり、今の村内からすれば、幼稚ともいえる内容であったが、「フィスターを目指す」という熱い思いを、とにもかくにも持続させていくために、道昌はできるところからフィスターヘのアプローチをはじめたのだ。

このフィスターが、道昌の目指すべき"しるべ"とすれば、そのしるべに向かって着実に歩んでいくための方法論、いわば実学の師となったのが、ジェフサ会の先達メンバー、そして同会結成の核となった松下電工の当時の企画課長・沢田光明であり、さらには日本マーケティングセンターの船井幸雄(現船井総研社長)などの諸氏であった。

まごころ求道(10)

2007年03月22日 | Weblog
道昌が村内家具店から村内ホームセンターへ、その業容を拡大していく過程で、実学の師とあおいだ人物が二人。沢田光明(当時松下電工企画課長)、船井幸雄(当時日本マーケティングセンター主宰)の両氏であった。

とりわけ沢田はジェフサ会の理論的なリーダーとして、その結成当初からメンバー企業のトップに多大な影響を与え続け、とくに道昌は「もし、この人にめぐり会うことがなかったら、田舎の家具店の域から脱することができなかっただろう」と今なお、人に語るほどの経営影響を受けることになる。

道昌が沢田から学んだことは数多いが、一に"稼業精神"、二に業務の標準化であった。沢田が説いた稼業精神とは、いうまでもなく一介の町工場を天下の企業にまで躍進成長させた松下イズムであった。「この企業はオレ達の力で支えている。オレがやらなければダレがやるんだ」という組織構成員全員参加の形をつくりあげなければ、企業は決して伸びない、という沢田の熱の入った話に、三十代に入っ道昌は深く感じるものがあり、以後、自分なりにその稼業精神の醸成に全力をあげ、それは内容を変えつつ今日に至る。

また、「零細企業がいつまでも零細企業なのは、業務のあらゆる部分が成り行き次第のためだ。どんぶり勘定の経理、思いつきのやり方では変化に対応できない。多少の嵐にもビクともしない企業の屋台骨を作り上げるためにも、業務の標準化は不可欠」という沢田の教えを、道昌は素直に取り入れ、経営の理論的出発点とした。

まごころ求道(11)

2007年03月21日 | Weblog
村内家具店が家業から企業へ成長する過程で、道昌が師とあおいだ人物にもう一人、船井幸雄・日本マーケッティングセンター主宰(当時)がいた。

船井幸雄はコンサルタント企業としては、わが国で初めて株式を市場公開した船井総研の社長として、いまや世の中に広く知られた人物だが、道昌がその存在を初めて知った頃の船井は、"包み込みの理論"をバックに、流通業界に新しい旋風を巻き起こしつつある新進気鋭の人物であった。

船井総研といえば家具業界にとっては、この数年、良くも悪くも"チラシ徹底商法"を持ち込んだコンサルタント企業として、その評価が相なかばするところだが、家業から企業への脱皮を目指していた当持の道昌にとって①地域一番店になれ②売り場にボリューム感をもたせろ③お客さまが一日いてもあきないレジャー要素を店内に創造しろ④競合店にあるものはすべて取り込め⑤ファッション的経営を目指せ・・・といった船井理論は、まさに具体的な店づくり、売り場づくりの教科書ともなった。

ともあれ、道昌は沢田理論で組織の骨格を、そして船井理論でその肯格をおおう肉、つまり店づくりに全力をあげたのだ。

道昌が昭和三十七年に初めてヨーロッパを視察、フィスターの雄姿に酔うほどの感動を覚えてから七年後、現八王子本店が完成する。

もしフィスターを知ることがなかったら、もし沢田に会うことがなかったら、もし船井理論にふれる機会がなかったら・・・道昌は時折、"出会いの妙"を考える。

まごころ商法(12)

2007年03月20日 | Weblog
加住木工所から村内家具店へ、村内家具店から村内ホームセンターヘ、そして現在の村内ファニチャーアクセスヘの道程を一口でいえば、家業から企業への脱皮、さらに基盤整備の歴史であった。

その成長を支えてきた要因について、道昌は昭和五十三年六月にそれまでの自らの人生と企業の歴史を振り返ってまとめた「村内まごころ商法」という自著本の中で①百姓商法に徹したこと②多くの人の善意の協力が得られたこと③場当たり商法ではなく、常にシステムを組んで実行に移していったこと④モータリゼーションに対応できたこと・・・などをあげている。

もとより、この自著本が出されて以降も、村内は発展を続けており、今日の道昌からすれば、付加すべき新たな発展要因もあり、また変質している部分もあるはずだが、道昌の企業人としてのポリシーが"百姓商法に徹する"であることになお変わりはないようだ。
 そして、その百姓商法の原点として、道昌は終始一貫して二宮尊徳の「凡て商売は売って喜び、買って喜ぶようにすべし。売って喜び、買って喜ばざるは道に非ず」の教えを肝に銘じているのだ。

その教えを土台として、道昌は沢田や船井をはじめとする様々な理論を導入し、実践してきた。いわば二宮尊徳の説く"まごころ商法"の太い幹に、時に応じて道昌が、これぞと思う理論を継ぎ木し、独自の村内商法を花聞かせてきたともいえる。

新たな夢求めて(1)

2007年03月19日 | Weblog
「日本一の百姓」を目指した道昌の針路はひょんなことから家具店の経営へ方向転換した。

父、萬助とともに家具の生産を中心とする木工所の運営も、次第に仕入れ商品の販売へウエートが移り、道昌が二十五歳から三十五歳、昭和三十年から同四十年までの間に、舵は家具専門店の航路上にしっかりと固定化された。

この間、道昌は立地の悪さをカバーするために、家具専門店としてはいち早く、新聞広告や電柱広告を活用、店の存在を地域社会にアピール(昭和三十年)したり、全国で初めてと話題にもなった女性ドライバーによる乗用車の送迎サービス(昭和三十五年)を開始したりするなど、"まごころ商法"を根底としつつも、新しいアイデアで顧客の誘引に全力をあげる。

しかし、村内家具店のそうした着々とした歩みの一方で、道昌は終戦の混乱の中で、自ら一条の光とした「日本一の百姓になろう」という目標に変わるべきテーマを求め続けた。

「家具専門店として将来の方向はどうあるべきか」に悩み続けた道昌の眼前に現れたのが、スイス・チユーリッヒ郊外のフィスターであった。

そのフィスターを見て、道昌の目指すべき針路は定まった。「日本一の百姓になる」という少年の頃の夢が、「日本一の家具専門店になる」方向で再生したのだ。

その新たな夢は、フィスターに出会うまでの悩みが深く大きかった分、道昌のその後を動かす大きなエネルギーになっていく。

新たな夢求めて(2)

2007年03月18日 | Weblog
「日本一の家具専門店になる」という燃えるほどの目標を胸に収めた道昌は、将来のモータリゼーション時代の到来を見越して、加住の立地にこだわらず、車の便のいい、しかも十分な敷地面積がとれる新たな土地探しをはじめた。

そんな折も折、すでに基本計画が進められていた中央高速道路の八王子インターチェンジ予定地が発表された。八王子市郊外、国道十六号線交差点付近になることを知った道昌は「インターチェンジ近くの国道沿いこそ、日本のフィスターの立地として、もっともふさわしい」と考えた。昭和四十年、三十五歳の時であった。

しかし、道昌が動きはじめた頃には、百戦練磨の不動産関係者が、すでにその周辺の土地を買い漁っており、その大部分は農家の手から離れていた。ばかりか、若い道昌には呆然とするほどの地価の上昇ぶりであった。

店の敷地面積だけならかなりの無理があるとはいえ、なんとかなりそうであったが、道昌の目標は、そんな低い次元にはなかった。

単なる大型店を建てるなら、加住の延長線上の店を建てるにすぎなかった。広大な店舗に広大な駐車場を併設したあのフィスターを、八王子インターチェンジ付近に、なんとしてでも建設することが道昌の夢であり、その夢はすでに信念に昇華していたともいえる。

しかし、時は刻々と過ぎ、中央高速道路の開通も、あと半年後に迫った昭和四十二年六月、声をかけていた不動産屋から電話が入った。

新たな夢求めて(3)

2007年03月17日 | Weblog
不動産屋からの電話に出た道昌の耳に「インターチェンジすぐそばの土地、七千坪が売りに出ている」という朗報が飛び込んだ。

しかし、「価格は六億円」というつづいての声に、道昌はア然となった。それは村内家具店の当時の年商と同額であり、「なにがなんでも買いたい」という気持ちと「購入資金は」という現実が、道昌の頭のなかでせめぎあった。

結局、道昌は七千坪を全部買い取ることをあきらめ、自らの信用限度を三億円に置き、不動産屋とねばり強い交歩をはじめる。その結果、四千五百坪、三債円で話はまとまったが、実はその三億円も道昌にとっては、とてつもない大金であった。

「銀行から借りるしかない。ここであきらめたら、自分の夢は一生夢のままで終わるだろう」と考えた道昌は、主力取引銀行をメーンに、あと二、三の金融機関からの資金調達計画を立てる。

それまで銀行はカネを預けるところという感覚でツキ合ってきた道昌にとって、初めての、しかも、巨額なカネを借りる折衝であった。

そんな初めての経験が、銀行の本質的な部分を見誤らさせ、不忘の苦境に道昌を追い込んでいくことにもなる。ともあれ、もっとも頼りにしていた主力銀行に、土地購入資金の融資を依頼したところ、当然のことながら、その銀行は計画書の提出を求めてきた。

そこで道昌は、欧米の大型家具専門店の実状をありったけ盛り込んだファイル一冊分にもなる計画書をまとめて、その銀行に提出した。

新たな夢求めて(4)

2007年03月16日 | Weblog
道昌は、土地購入資金の融資を受けるために、銀行からの求めに応じて、スイスのフイスターや、その後に訪れた米国のゴールド・ブラッツなどの先進諸国の郊外大型家具専門店を、具体的に例示したファイル一冊分にも及ぶ計画書を作製提出した。

不動産屋との交歩の結果、四千五百坪を三億円で購入する約束をとりかわした道昌の資金手当胸算用は、主力銀行から全額とはいかなくとも二億~二億五千万円、残りのうちの五千万円については、すでに地元の信用金庫から借りる手はずがととのっていた。

ところが必要資金の大半を借りる計画を立てていた肝心の主力銀行が、のらりくらりの対応でなかなかラチがあかず、道昌は不動産屋と銀行の板ばさみ状況に陥った。

「いつまでも契約を引き延ばすわけにはいきませんよ。ハッキリとした見通しをおっしゃってくれませんか」という不動産屋の当然の要求に困惑しながら、再三にわたって銀行に融資決済を求めたところ、支店長から「本店の責任者が○○日の○○時にお会いしますから出向いてください」という連絡が入った。

道昌は「本店の責任者が会うということはほぼ融資はOKだな」と考え、土地の所有者と不動産屋に連絡、本店を訪れることになっていた日の午後、契約を結びたいと話した。

ところが、某日某時約束通り都心の本店を訪れた道昌に向かってその銀行の責任者は予想外の言葉をロに出した。

「村内さん、この計画は無謀ですよ。おやめになった方がいい。当行としては残念ながら一銭の融資もできません」と。

新たな夢求めて(5)

2007年03月15日 | Weblog
新店舗建設の夢をかけた敷地四千五百坪購入に必要な資金三億円のうち、主力銀行借入れを予定していた二億円は待たされ続けたあげくの「無謀な計画には一銭の融資もできません」という、にべもない本店責任者の一言で霧消した。

当日、銀行の融資決済は間違いないものと信じ切っていた道昌はとって引き返す足で土地所有者と不動産屋との間で、土地購入の本契約を結ぶ手はずをととのえていた。

道昌は、銀行責任者のあまりにも思いがけない言葉にぽう然とするとともに、午後に会う約束になっていた土地所有者と不動産屋の目の前にチラつく姿を、振り払うことができなかった。

そのままどこかへ消えてしまいたい気持ちを必死に抑えて、道昌は都心から八王子に戻り、不動産屋と土地所有者に新たな条件-手付金として、とりあえず五千万円を支払い、残金二億五千万円は、二カ月後に支払う、というギリギリの条件で契約書をなんとか交わした。

手付金として支払った五千万円は、道昌の計画に理解を示していた地元信金からの融資金を充当したが、残りの資金をどう手当てするかのメドは、この段階で道昌には全く立っていなかった。

二カ月後までに二億五千万円を用意できなければ、日本のフィスターを、という夢が単なる夢で終わってしまうばかりか、手付金の五千万円まで失ってしまうことになる。年商六億円の家具店主であった道昌にとって、五千万円の損失は致命的にもなりかねない。

道昌はそれからしばらくの間、悶々の日々を過ごす。