赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴📃 「藤原不比等」の素性と権力の源(「大鏡」・「続日本紀」) !! → 「 延喜式内社赤丸浅井神社」と「文武天皇二宮 石川朝臣広成」。

2021-02-14 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■『延喜式内社 郷社 五位庄五十三ケ村総社 赤丸浅井神社』




■元明天皇(父:天智天皇、母:蘇我倉山田石川麻呂の娘蘇我姪娘メイノイラツメ)の和銅年間に初めての貨幣「和銅開珎」が鋳造された。平城京の造営を開始した和銅元年(708年)5月に銀銭,同 8月に銅銭の鋳造を開始した。
(※『続日本紀』同年 5月11日,8月10日条)



■中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿、蝦夷を殺し権力を掌握して「大化改新」を為した。「大鏡」の「藤原氏物語」と云う部分に鎌足の子とされる藤原不比等の出自が詳しく書かれている。孝徳天皇の時に「中臣鎌子の連」は内大臣になった。中大兄皇子が天智天皇として即位すると内大臣鎌足は「藤原」と賜姓された。天智天皇は藤原鎌足を功臣として寵遇し、女御の一人を譲られた。その女御は「孕みたまひにければーーこの女御の孕める子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子とせむと申して」約束された。この子が藤原不比等で右大臣となり、死去して後に「贈太政大臣」となったと云う。藤原不比等の母は「尊卑分脈 不比等伝」に「母車持国子君之女、与志古娘也」と有り、「帝王編年記」に「是年、皇太子(天智天皇)妊寵妃御息所車持公女婦人賜於内臣鎌子」と有り、「大鏡」の記載とも合致する。どうやら藤原不比等は天智天皇の実の子だった様で、自らの娘宮子を文武天皇に嫁がせ夫人(ブニン)とし、その子首皇子(オビトオウジ)を聖武天皇として即位させ、更に娘の光明子を聖武天皇に嫁がせて「夫人」として、後には立后して「皇后」となる。 (※光明子には皇子が産まれたが幼くして亡くなる。その為、皇子の母という事で光明子は皇后として遇された。)

※「万葉集巻二」に「内大臣藤原卿、采女安見児を娶る時に作る歌一首」として「我れはもや安見児得たり皆人の得かてにすといふ安見子得たり」と有り、藤原鎌足が天智天皇から天皇が寵愛する「采女」という官職の女官を授けられ、最大限の喜びを表している。藤原鎌足には正妻の鏡女王(カガミノヒメミコ)がいたが、「車持国子君之女、与志古娘」が不比等の母で有れば、鎌足には正妻意外に多数の側室がいた事が判る。鎌足の正妻とされる鏡女王は元は天智天皇の嬪であったが藤原鎌足に譲られて正妻になったと伝わる。「大鏡」等を合わせて考えると、なんと藤原鎌足の正妻も二人の側室も天智天皇から授けられた女性であった事になる。

元明天皇は父を天智天皇、母を蘇我倉山田石川麻呂の娘蘇我姪娘(メイノイラツメ)として産まれている。と言う事は元明天皇と藤原不比等は腹違いの兄妹という事になる。(蘇我倉山田石川麻呂は中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿、蝦夷を滅ぼした時に中大兄皇子に協力した人物で後に自殺した人物である。その後、蘇我氏は石川氏と名乗り、細々と命脈を繋いだ様だ。赤丸浅井神社を創建されたと伝わる石川朝臣広成の母もこの一族の石川刀自娘である。) 文武天皇二年(698年)詔して曰く、「藤原朝臣賜はりし姓は、その子不比等をして承(う)けしむべし。但し意美麻呂らは、神事に供(つかえまつ)れるに縁りて、旧(もと)の姓に復すぺし」として、藤原不比等の系統のみに「藤原氏」を名乗らせ、その他は元の「中臣姓」にする様に勅令を出したと云う。(※「続日本紀」 文武二年八月丙午条)
藤原不比等の素性を知らなければ、こうも皇室の血にこだわった理由は分からない。本来ならば「皇子」として処遇される筈の所、母親共々、無惨にも家臣の藤原鎌足に下げ渡された恨みがその原因と見られる。しかも、その家臣の藤原氏は、皇室系統の「臣 オミ」では無く、職能集団の祭祀を司った「連 ムラジ」で在った。 文武天皇には「妃」は定められず、皇統譜上では「元正天皇」が「妃」と擬制されたと云う。天武天皇の時、「妃」は四品以上、夫人は三位以上、嬪(ビン)は五位以上と定められていた。藤原不比等の娘の宮子は「夫人」にしかなれず不比等は苦い思いをし、宮子は精神を患ったと伝わる。文武天皇には二人の「嬪」がおり、その二人は古代の豪族の紀氏の「紀竈門郎女 キノカマドノイラツメ」と蘇我氏の「石川刀子娘 イシカワノトジノイラツメ」で、二人にはそれぞれ皇子がいたと云う。(※「紀竈門郎女」の子について続日本紀は記載していないが、「石川刀子娘」の子は続日本紀記載の「石川朝臣広成」とされている。)しかし、文武天皇が亡くなると「紀竈門郎女」は不貞を理由に廃されその皇子の記録は消された。又、「石川刀子娘」は「嬪」を剥奪され、その子は臣下の身分に落とされ、母方の「石川」を名乗り「石川朝臣広成」と賜姓されて「内舎人」という天皇を警護する低い官職に就き、恭仁京に赴任している。この時の歌等三首が万葉集に掲載されている。
(※「万葉集」には大伴家持も内舎人として恭仁京で詠んだ歌が有る。)
この人物は後に更に賜姓されて「高円朝臣広世」となった。(※「続日本紀」「万葉集」)

この変事は歴史上で「藤原不比等の貶黜ヘンチュツ事件」(位を下げて排斥する事)とされ、孫の首皇子(宮子夫人の子)を聖武天皇として即位させる為の陰謀だったとされる。文武天皇が亡くなった時に首皇子は幼く、初めは文武天皇の母の元明天皇が即位し、その後、文武天皇の姉がその妃と擬されて首皇子の母代わりとして即位し元正天皇となる。元正天皇は養老律令を定め、継嗣令ですべての天皇、女帝の子を「親王」と定めた。 (※「女帝の世紀」仁藤敦史著 参照) (※「新撰姓氏録」に 「左京 皇別 紀朝臣 石川朝臣同祖 建内宿祢男紀角宿祢之後也」 ーーと有り、紀氏、石川氏は建内宿祢を祖とする蘇我氏の同族で、越中利波臣、射水臣も同族。) (※「続日本紀」文武元年697年 八月二十日 藤原朝臣宮子娘を文武天皇の夫人とし,紀朝臣竈門郎女と石川朝臣刀子郎女を妃とした。ーー続日本紀によると、当初はこの二人は「妃」とされたとする。建内宿祢の子孫は皇室系の子孫とされ、「臣」を名乗っており、藤原氏は「連」だった為、藤原宮子は「妃」には成れなかったと見られるが、文武天皇2年に不比等の系統のみが「藤原」を名乗る様に勅令が出て、その後二人の妃は嬪に格下げされたものか?皇室を追われた時には二人は「嬪と名乗らざらしむ」と記載される。

「赤丸浅井神社」の由緒には「一宮(首皇子)と二宮(石川朝臣広成)に全国66ヵ国を分け、西国33ヵ国は一宮に東国33ヵ国は二宮に治めさせられた」と伝える。「赤丸浅井神社」はその「二宮」が創建され、開基は「行基」、後に元正天皇の病気快癒の祈祷をした白山開山の「泰澄」が神域に庵を建てて住まいしたと云う。「赤丸浅井城」にはこの「元正天皇の二宮=二位の宮」が在城されたと古書に記されている。「赤丸浅井城」の眼下には小矢部川と庄川の合流する広大な水郷の「阿古ケ淵=吾子ケ淵」が広がり、「延喜式」に記載される「川合駅」(川人駅)が設けられて、武器、馬を配置して居たと云う。
※「赤丸浅井神社」はこの延喜式に記載の「延喜式内社」である。又、東大寺正倉院の「東大寺庄園越中石粟庄図」には「浅井神 一段」が記載されており、聖武天皇が造営された東大寺とも関連が深かった事が分かる。







最新の画像もっと見る