赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

💠🏯 能登畠山氏家臣の越中国神保氏、能登長谷部氏⇒「上杉家家中名字尽手本」[※天正五年(1577年)]と越中の武将達!!

2017-06-16 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村
上杉謙信の家臣に、高岡市の「守山城 神保氏張」、「五位庄柴野城 寺嶋牛介」、「牛介の兄小嶋甚介」等の越中諸将と一向衆(浄土真宗)井波別院瑞泉寺、高岡市勝興寺、本願寺武将下間氏等の名前が見られる。上杉謙信から越中「五位庄」を安堵された「寺島牛介」は能登末森城の戦いで守山城神保氏張、赤丸城の中山直治と共に佐々成政に従って戦うが敗れて、前田利家に仕官した。その子孫は「寺島蔵人」で高岡町奉行、算用場奉行等を歴任したが遂には能登島に流罪となり刑死した。その兄の「小嶋甚介」は後に出家して富山市布市村の「常福寺」の第四代住職となり「玄西」と称した。神保氏張(能登畠山氏から守山城の神保氏の養子となる)は佐々成政に従って熊本に赴いたが、成政切腹の後に流浪して遂には徳川家康の旗本になり、千葉で知行地を持ち、子孫は幕末を迎えた。一方、赤丸城の中山直治は敦賀に落ち延び、その子孫中山正弥は藤原氏の今井氏(敦賀)の養子となっている。⇒「中山正弥家文書」に拠ると藤原氏中山氏は近江今井氏(一族は徳川の旗本)の養子になった様だ。もう1つの加賀藩に仕官した中山氏(子孫は高岡市在住)はその系図で源氏を唱えているが家紋は藤原氏の使う「下がり藤紋」を使用している。これも本地は藤原氏と思われる。徳川家康も当初、藤原氏を唱えたが、「征夷大将軍」となる為に源氏の新田義貞の末裔の世良田氏を先祖として、「源氏の棟梁」を名乗っている。
(※「蜷川の郷土史」』




「上杉謙信家臣名簿」





【能登の長谷部信連の系譜】
能登「長谷部続連」の一族は、清和源氏で、清和天皇三代の子孫「満仲」(法名満慶)は摂津国に住して「多田」を名乗り、その孫の頼房は加賀、肥後を領して「加賀」と号し、その三代目後裔「季頼」は「長谷部宿弥」と改姓して清和源氏の後衛の「長谷部氏」「宇野一族」、「長一族」の祖とされる。その四代目後裔は「長谷部信連」(※能登郡地頭)と云う。「信連」の子は「朝連」と称して承久三年後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こされた時には北条朝時に従って将軍「九条頼経」が上洛の時に先陣を勤めた。その後も「九条頼嗣将軍」「宗尊将軍」に供奉した。その後裔の「長谷部盛連九郎左衛門尉」は建武二年、後醍醐天皇の臣の「桃井播磨守直常」に従って名越太郎時兼を大聖寺で破り、但馬、薩摩を賜った。その後は代々足利将軍家、能登畠山氏に従って、代々「九郎左衛門尉」を名乗り、「教連」の長男「英連」(初網連)は初め足利将軍家に仕え後に畠山義続に仕える。その弟の「長谷部信光」の時から「平加賀守」と称し畠山八家の一員となる。「英連」の養子(信光後に盛信の子)の「長谷部新九郎、後に九郎左衛門続連」は上杉謙信が能登を攻めた時に織田信長に内応した。平加賀守盛信(信光)の子には「平加賀守、若狭守長谷部網知」がいる。⇒これが上記資料「上杉謙信書状」に登場する「平尭知」か?

天正五年の「上杉家家中名字尽手本」は上杉謙信が越中、能登を攻略した時の家臣名簿である。
神保長職は永禄3年(1560年)上杉謙信により富山城を追われた。天正元年(1573年)に、越中の一向衆や越中の武将達が盟友とした武田信玄が病死すると、謙信は七月、一向一揆と組んだ富山城、松倉城(魚津市)城主椎名康胤を制圧し、次いで一向衆の朝日山城(石川県金沢市)を攻略した。天正二年十二月、謙信は剃髪して法印大和尚に任じらる。天正三年、本願寺光佐が大阪石山城に籠城して織田信長と戦い、謙信に援助を求める。天正四年(1576年)二月、能登七尾城の畠山義隆が家臣の長続連に殺される。三月、越中日の宮城(小杉町)の神保長職の要請を受けて越中に出陣し、高岡市の守山城、氷見の湯山城を攻める。九月、大沢野町の栂尾城、砺波市の増山城を攻略、七尾城を包囲して能登石動城を築き、直江景綱に守備を命ずる。天正五年(1577年)、越中守山城城主神保氏張(毒殺された七尾城主畠山義隆の二男 )が謙信の傘下に入る。三月、能登富来町富来城、中島町熊木城を押さえ、七月には長続連が織田信長に支援を要請する。九月に七尾城、能登末森城を攻略。加賀国に入り、湊川(手取川)で織田信長軍と戦うが、信長軍は湊川の増水の為に退却を阻まれて惨敗する。12月、能登から越後春日山城に戻り、故畠山義隆の妻、三条氏(神保氏張の母)を謙信の重臣北条高広(喜多条)の妻とする。天正五年十二月、領国内諸将八十余人の家臣名簿を作成した。天正六年(1587年)三月十三日には上杉謙信は死去する。同年、神保長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城する。

【上杉家家中名字尽手本】(抄)
北条安藝守高広(神保安藝守氏張の継父)、河田伯耆守重親、大石惣介芳綱、斉藤下野守朝信、安田宗八郎顕元、吉江清七郎信景、河田豊前守長親、鰺坂備中守長実、吉江織部佑景資、土肥但馬守親信、小嶋六郎佐衛門尉職鎮、神保安藝守氏張、遊佐佐衛門尉盛光、石黒左近蔵人成綱、斉藤次郎右衛門尉信利、寺崎民部佐衛門尉盛永、瑞泉寺、勝興寺、小嶋甚介国綱、寺嶋牛介盛徳、上条弥五郎政繁、直江大和守景綱、長沢筑前守光国、井上肥後守、長与一景連、遊佐美作守続光、三宅備後守長盛、温井備中守景隆、平加賀守尭知、西野隼人佑、畠山大隅守、畠山将監、下間侍従法橋坊頼純、七里三河法橋坊頼周、坪坂伯耆守、……
(奥書)「天正五年十二月廿三日 法印大和尚謙信」(※「新潟県史 資料編3.中世一」)

●鎌倉時代から上杉家の家臣で執事を勤めた家系の越後長尾家の長尾景虎は、小田原城の北条氏康に敗れて助けを求めてきた関東管令上杉憲政を支援した。永禄四年(1561年)、長尾景虎は上杉憲政のたっての頼みで鎌倉鶴岡八幡宮で主家筋の山内上杉家を相続して憲政の一字を賜り政虎と号し、更に将軍足利義輝の一字を賜り輝虎と号した。

【上杉氏】上杉氏は藤原鎌足の子孫の勧修寺高藤(勧修寺流)の庶流の公家の家系である。鎌倉時代に上杉重房は丹波国(京都府)上杉庄を領して上杉氏を名乗った。建長四年(1251年)上杉重房は鎌倉幕府六代将軍宗尊親王に従い鎌倉に下向し、重房の子の頼重の娘の清子が源氏の足利貞氏に嫁ぎ、足利尊氏、直義兄弟をもうけた。この縁組みで、上杉家は足利家の中に大きな位置を占める様になったと云う。
元弘三年(1333年)、足利尊氏は後醍醐天皇を擁立して鎌倉幕府を打倒した。その時に、尊氏の叔父、清子の兄の憲房とその子の憲顕は足利軍の参謀として活躍した。こうして後醍醐天皇の建武の親政がなったが、尊氏は武士の処遇に不満を持ち、後醍醐天皇の打倒の兵を挙げた。当時、越後は新田義貞が越後守となり越後を統括していたが、尊氏は南朝軍の討伐の為、従兄弟の上杉憲顕を越後守護に補任した。憲顕は既に尊氏の子の基氏を補佐して関東管領の職にあり、越後で新田軍の討伐に当たった。上杉家は後に山内上杉、扇谷上杉、宅間上杉、犬懸上杉、庁鼻コバナワ上杉、越後上杉に分かれた。
【長尾氏】越後長尾氏は桓武天皇の流れの板東八平氏(千葉、梶原、土肥、三浦、大庭、秩父、上総、長尾)の内の長尾氏の系統である。本拠地は相模国(神奈川県)高座郡長尾郷で、三浦氏に従い鎌倉幕府の創設に功績が在ったとされる。南北朝の動乱の時、長尾景忠は足利尊氏の命令で上杉憲顕の執事として越後に進撃し各地で新田義貞方と戦った。更に、越中宮崎城を攻めて勝利し、建武二年(1335年)南朝方の能登国司中院少将定清を討伐する為、上杉憲顕の名代として石動山城(石川県鹿島郡鹿島町→現鹿島郡中島町)を攻略した。観応二年(正平六年、1351年)足利尊氏と弟の直義が対立し、「観応の擾乱」が起こる。文和元年(正平七年、1352年)、長尾景忠は上杉憲顕と共に足利直義に味方して尊氏軍と戦ったが敗れて越後に逃れた。延文四年(正平十四年、1359年)上杉憲顕が足利尊氏方に転じると、長尾景忠の弟の景恒は尊氏の子の義詮に従い南朝軍と戦う。
延元3年(北朝建武五年、1338年)7月に新田義貞が福井県藤島の戦いで戦死して、翌8月に足利尊氏は8月11日に征夷大将軍に任ぜられた。

「神保氏張系図」


「前田利家系図」


「中山正弥家文書」(敦賀市博物館所蔵)


「中山清暉家文書」(高岡市在住)


「性宗寺 中山氏」の家紋⇒(近江今井氏と同じ「桧扇紋」→近江今井氏は藤原氏を唱えている。)


『政治』 ã‚¸ãƒ£ãƒ³ãƒ«ã®ãƒ©ãƒ³ã‚­ãƒ³ã‚°
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