赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🏯🔹【北越太平記】に見る『越中守山城城主 神保氏張』の妻「織田信長」の妹 !!

2021-04-15 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



織田信長が上杉謙信に贈った『洛中洛外図屏風』(部分)




■「織田信長」の妹が越中守山城の「神保氏張」に嫁いでおり、高岡市の守山に住まいした事を知る人は少ない。又、この事を知っている人達も何故、信長の妹が氏張に嫁いだかを疑ってかかる。これは、高岡市の歴史が、前田利家⇒織田信長のルーツで考えられている為に、上杉謙信が一時期は越中、能登を領して越中の諸将がその臣下となり、「上杉家臣名簿」にも載せられている事すら御存じ無い方々もある。歴史は双方向で見るべきで、『富山県の歴史は前田家の歴史』とする富山県民の歴史観が全ての元凶だ。

(※この越中諸将の名前が記載された『上杉家家中名字尽手本』は、2016.11.17迄開催された高岡市福岡歴史民俗資料館の「木舟城と石黒氏特別展」に上杉博物館の協力で高精細写真で展示された。)


■「北越太平記」は上杉謙信側の見方の「通俗日本史」と言われる古書の一つだが、この中には神保氏張の素性を著す部分がある。
「神保氏張」は能登七尾城主の「畠山義隆」の子とされるが、織田信長に通じた家老の遊佐、長、温井、三宅等が毒殺して織田信長と手を組んだ。上杉謙信は能登に侵攻した時、神保義隆の子の「畠山弥五郎義春」を上杉謙信の養子として謙信の姪を嫁がせて「上杉弥五郎義春」と名乗らせた。「神保氏張」はその弟に当たり、義隆の妻は上杉謙信の家臣の「北条安藝守」に再嫁させた。天正元年、織田信長は上杉謙信に配慮するフリをして、「弥五郎義春」の兄の「神保氏張」に対して「織田信秀の娘・織田信長の腹違いの妹」を嫁がせた。しかし、これは織田信長の深慮遠望で、謙信の姪の婿の弟の「神保氏張」に送り込む為だと疑った。
天正二年、信長45才の時に上杉謙信の機嫌を取る為に豪華な「洛中洛外図屏風」を贈った。しかし、織田信長は反面、あちこちの謙信領に手を出しており、謙信は信長の行動に怒って越中木舟城の神保氏張を攻めた。この戦いについては「頼山陽」の「日本外史」にも記されている。
しかし、古書の中には「誤字」や「当て字」が有ったりする為に、曲解されているケースもある。この「北越太平記」でも「神保安藝守氏張」が「安藝守長純」とされており、時には武将が名前を数回も変えているケースも有り、非常に難解だ。古書には、「神保氏張」についても様々な「素性」が記載されているが、静岡県立図書館の「徳川家臣諸家系図」には、久能山東照宮を控えているせいか徳川旗本の詳しい「系図」が載せられており、「神保氏張」の系図についても相当詳しく載せられている。











「北越太平記」、「神保系図」、「能登畠山系図」等を参照して作成した系図



某氏作成の系図(※参考)


















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