赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🏯【赤丸村浅井城】の歴史ー「中山氏」と「氷見阿尾城菊地氏」の系図の発見!!

2017-06-10 | æ—§ç”ºå 富山県西礪波郡福岡町赤丸


赤丸村を一時期領地とした氷見阿尾城の菊池氏系図を保存する
「仏谷山誓光寺由緒」

「越中国射水郡浅井郷二口村真宗西派仏谷山誓光寺住職菊池襲世之由緒」


「探究 菊池一族」渋谷龍 著






「赤丸性宗寺」の「檜扇の紋」の入った古い鬼瓦



🔴浅井城は砺波の豪族「利波臣志留志」の末裔の「石黒氏」が居城とした。「石黒氏」は東大寺大仏の建立に際して米3000石の寄付をし「続日本紀」や東大寺お水取り行事の読経「上院修中過去帳」にも記載されている蘇我氏の祖の「武内宿祢の子孫」ともされる一族で、後には藤原氏の「加賀林氏」と縁組して藤原氏を名乗った名門と言われる。
「赤丸名勝誌」には浅井城・赤丸城について「花園天皇の頃より石黒光弘の後裔この地にありて南朝の為に謀ることあり石黒氏は北条氏を忌みて新川に転ず。後中山氏累世居城とせり--」とある。
又、「越中志徴」には「(赤丸村は)その上、菊池氏の所領なりしと聞こゆ」と記載され、「氷見市史」には、 氷見の西大寺の敷地は「五位庄又五郎土地と交換した」と記載されており、かつて五位庄赤丸村は氷見阿尾城の菊池氏の所領だった時期が在った様だ。赤丸村は南朝の後醍醐天皇の庄園で有り、全国的にも著名な「南朝の里」で在った。氷見菊池氏の系統の肥後菊池氏も代表的な「南朝支援の忠臣」として有名である。又、氷見阿尾城の菊池氏が前田利家に臣従した時には、前田利家がその条件として「五位庄赤丸村の事は富田治部佐衛門と協議する様に」と特に菊池氏に指示を出している。菊池氏にとって赤丸村はこれ等の経過からしても重要な関心事だった様だ。更に、加賀藩時代にも加賀藩士の菊池大学(元、阿尾城)は後醍醐天皇と所縁が強い臨済宗国泰寺の財政支援をする様に赤丸村舞谷の山崎氏に書状を送っている。(※「越中古文抄」高岡市中央林図書館)


🔴「赤丸浅井城」中山氏の系譜
赤丸の中山氏は、「赤丸浅井神社」の隣接地の「浅井城」、城ケ平山の「赤丸城」を居城とし、中山氏の先祖は秩父平氏・藤原氏・源氏の中山氏の末裔と伝える家等の系統が有り、明確ではない。
(1) 現在も赤丸村に残る中山家の故中山赤園氏の著作「赤丸名勝誌」には、「中山家の伝承によれば浅井城は當家代々の居城なりしが天正五年十六世国松に至り上杉謙信のために亡ぶとあり。本丸は東西弐拾間南北参拾間二丸は東西拾間南北拾五間壕塹ありて其東を夾み徑六七間長さ参拾間深田は其南北を翼せりとぞ 而して祖先は中山次郎重實と称して武蔵國に住せしものとあり蓋し此城址の由來詳かならざるは上杉謙信來襲の時悉く兵焚に罹りしためなりとあり」又、中山国松が浅井城を居城とした時、赤丸城には弟の次郎兵衛を配したと言われる。

(2) 佐々成政に従って「能登末森の戦い」で前田利家と戦い、敗れて越前敦賀に落ち延びた「中山正弥家文書」では「藤原氏の末裔」とし、赤丸村周辺に米等を貸し付けていた証文等の多くの古文書を伝え、敦賀では「今井氏」の跡を継いでいる。

(3) 現在高岡市内に残る中山家は、「先祖は源氏」と伝え、初代は「近江の出の中山孫左衛門清直」として家紋は「下リ丸の藤」。菩提寺は金沢泉野寺町の妙蔵寺(妙立寺?)で日蓮宗。墓所は本多町。加賀藩、本多家に仕官して「知行状」等の古文書を保管している。

(4) 現在赤丸村に残る浄土真宗(初め「浄光庵」)「性宗寺」と呼ばれる中山家は、赤丸城主の先祖が赤丸村舞谷に庵を建てて出家したと伝える。この寺院は「桧扇紋」を使用している。

(5) 天正年間に赤丸城にいた中山国松の弟の嫡男が出家して建てたと云う赤丸村舞谷の「永賢寺」


【赤丸における中山氏ゆかりの寺院・子孫の動き】

一、性宗寺  
後土御門天皇の御在位赤丸中山の城主佐左衛門 寛正年間に髪を剃り寺の谷内に一宇を建て浄光庵と號す同五年十月浄光寺と給ふ當寺は眞言宗なりしが明應二年蓮師の門徒となり眞宗へ歸山性宗寺と改名せりとなり 寺の谷内は大字赤丸村にある小部落なり 後ち舞谷村に移り明治二十年の頃今の赤丸村に移転せり。(※ 寛正年間⇒ 1461年から1466年)

ニ、永賢寺   
大字赤丸村にあり栄禄の初め守山城下に移り後亦高岡城下に移る 明治三十三年二月再び元の地に移転せり 永賢は赤丸城主中山国松の弟中山次郎兵衞の嫡男にして天正中落城の後僧となり祖先の菩提を弔う為一宇を建立せりとなり。

三、敦賀の中山氏 
「福井県史 資料編8」に掲載された敦賀市の「中山正彌家文書」に浅井・赤丸城主の中山治部左衛門が五位庄周辺の者に米を貸し付けていた大量の「借用状」が残されており、同時に知られた由緒書により、佐々成政に従っていた中山氏が成政の降伏・没落(天正十三年)により流浪して越前に移ったという経緯も判明した。この調査資料により、中山氏は浅井神社を掌握して五位庄の各戸に毎戸一升の米を初穂米として奉納させ、これを周辺の土豪・百姓に貸付けして利子を取っていたらしい事が考えられる。 中山氏は、越中の国人で成政の有力武将になった柴野城城主で五位庄の領主の寺嶋氏とも姻戚関係にあり、流浪の果てに越前今井氏を継いだ中山直治は末森城の戦いに参戦し伯父の寺嶋牛之助に助けられたと云う。中山氏は管領畠山氏の家臣から天正年間には織田信長に属し、其の後は佐々成政に従ったが、前田利長から鉄砲の腕前を買われて仕官する様に言われたが二君に仕えずとして越前敦賀に去ったと云う。この家系が赤丸周辺の農民に米を貸し付けていた事を示す古文書を保管していることから中山氏の直系の宗家と推察される。
⇒敦賀市博物館に保管される「中山正弥文書」に拠ると、「本姓は藤原氏」と記載されており、「赤丸名勝誌」の「秩父平氏の中山次郎の子孫」とする記載とは異なる ❗ 赤丸村の中山氏は近江に中山八幡を氏神とした中山氏があり、「福井県近江から来た一族」と推定され、その子孫とされる「赤丸村性宗寺」 は近江今井氏と同じ「桧扇紋」を使用している所から、以下の「高岡市在住の中山氏は近江出身」とその由緒が一致する ❗ 近江今井氏は「藤原氏」を名乗っている。



四、高岡市在住の中山氏  
現高岡市在住の中山氏は、初代中山孫左衞門清直と言い、近江の出身で天正の頃赤丸の城に居城し田地三百五十石を領した。この一族は二代迄赤丸鞍馬寺に居住していたが三代目は加賀藩の本多政重に仕え大阪夏の陣に参戦。其の後、子孫は本多家に仕え明治を迎えたと言う。
(※「中世城郭調査報告書」福岡町教育委員会)(※「高岡市中山家由緒」)



◎敦賀市博物館の「中山正彌家文書」に拠れば、浅井・赤丸城主の中山直治は越中五位庄を去り、敦賀の今井氏の養子に入ったと言う。近江の今井氏は佐々木氏族で近江高島郡今井に城を構え、「今井氏」を名乗った。ただし、「寛政譜」では 甲斐源氏 小笠原支流とする。又、藤原氏とする説も有る。織田信長の下で今井兼員(イマイカネカズ)は摂津(摂津国は畿内に属し、現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)に二千二百石を領したが、その子兼久は関ヶ原の戦いに加わり家康から旧領を安堵され、代々は徳川家旗本として千三百石の家禄を伝えた。近江の今井氏が「檜扇紋」を用い、赤丸村の中山氏が「檜扇紋」を使用している事から、近江の今井氏の系統は敦賀の今井氏の縁者と推定される。近江の今井氏は朝倉氏からの書状を残し、今井七郎左衛門はその息子が早世した為に中山直治を養子にしたと云う。今井家に養子となった直治の子孫は小浜藩京極家、酒井忠勝、忠直、忠国等に仕えて、天和三年今井治郎左衛門は小浜藩の代官役を申し付けられた。(※「家紋 旗本八万騎」秋田書店 参照)
(※「摂津国」)






「中山正弥家由緒」(※敦賀市博物館 蔵)


・[家紋]は「檜扇」⇒赤丸村の「性宗寺」は「寺紋」を「檜扇」として伝えている。中山赤圓著の「赤丸名勝誌」によれば、赤丸の中山氏は基本的に秩父平氏の「桐紋」の筈だが、実際には甲斐源氏の使用する「桧扇紋」を使用している。越中吉岡庄内赤丸村隣地の加茂村には源頼朝の書状に出てくる「吉岡成佐」の居城が在ったとされ、頼朝は「後院領」と呼ばれるた上皇庄園「吉岡庄」に地頭を配置していた事が「吾妻鏡」に記載されている。その点では中山氏が甲斐源氏でも理解できるが、「義経記」に登場する門番は「平権之守」とされており、秩父平氏が登場する。これを理解するには、赤丸の中山氏は2系統在って、当初は甲斐源氏だった可能性がある。或いは、能登畠山氏が当初は秩父平氏畠山重忠の系統であったが、後には足利氏が養子・後継となって源氏系畠山氏になった為に、「義経記」では「畠山氏は秩父平氏」と考えた可能性も否定できない。
敦賀に落ちて甲斐源氏(又は藤原氏)の今井氏を継いだ正統の中山氏の他にも赤丸周辺に残った秩父平氏系中山氏が在っても不思議ではない。しかし、正統中山氏の後裔の赤丸性宗寺は「浄土真宗」の寺院で有り、浅井城の中山氏は浄土真宗を嫌って赤丸に在った「川人山鞍馬寺」の後継寺院「鞍馬山法莚寺」を度々焼き討ちして遂には福岡町一歩二歩に追い払い、そこにも焼き討ちをかけたと伝わる事から、同じ一族とは思えないのだ。しかも、この「鞍馬山法莚寺」と「性宗寺」はその後も親交関係にあったと云う。
「赤丸浅井城」の中山氏と「赤丸城」の中山氏は兄弟だったとも伝わる。「赤丸浅井城」には「中山治部左衛門国松」が入り、「赤丸城」にはその弟の「次郎兵衛」を配したと云う。と云うことは、敦賀に落ちて行った正統中山氏は能登末森城で前田利家と戦った中山氏で有り、赤丸浅井城を居城としていた事になる。
(※中山国松は高岡市手洗野の信光寺に伝わる伝承では龍の怨念で亡くなったと伝わり、病没したものか? 能登末森城の戦いで初陣を踏んだ中山直治は父の死後間もなく十二才で初陣に臨んだと見られる。この系統は敦賀に落ち延びて今井氏を継いだ。)
検討してみると、現在子孫が高岡市内に残る中山家は「源氏」を名乗り、家紋は「下リ円の藤紋」を使用しており、「近江の出身」としている。近江の今井氏は「桧扇紋」で源氏、又は藤原氏と云われる。一方、性宗寺は今井氏と同じ「桧扇紋」を使用している。高岡市内の中山氏は「源氏」を名乗り、通字は先祖の「清直」の一字の「清」として、家紋は「下り藤の円紋」を使用し、菩提寺は金沢泉野寺町の妙蔵寺(※妙立寺か?)(日蓮宗)とし、当初は前田秀次に仕え、後に本多家に仕えて、石動城の守備についたとする。近江の今井氏は小笠原支流を称するが(※小笠原氏は、清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。)、一方、藤原氏とする説も有る。高岡市の中山家は源氏を名乗りながら家紋は藤原氏が使う「藤紋」を使用している。
こうみると近江の今井氏は「源氏」とされたり「藤原氏」ともされ、高岡市内の中山氏は「源氏」と言いながら「藤紋」を使用している。紋から見れば通じる所が在り、徳川旗本八万騎の今井氏は明確に河内源氏系小笠原支流を名乗っている。(※近江では藤原氏とされる。)一族でも幾つかの紋を使用しているケースも在り、逆にこのケースと近いケースで、「源氏車」と云う家紋は藤原氏の「佐藤氏」「榊原氏」が使用しているが、「寛政重修諸家譜」では榊原氏を「清和源氏足利氏流」としており、よく似たケースで有る。
そうすれば、「近江の今井氏」=「赤丸村性宗寺」=「敦賀の中山氏」=「高岡市の中山氏」と云う関連性が考えられる。しかし、もう一軒の赤丸在住の秩父平家中山次郎末裔の中山家だけは、どの家系とも繋がってこない ❗❗
⇒(※徳川家康は当初「藤原氏」を名乗ったが、「征夷大将軍は源氏の棟梁」である所から、その時点で途切れていた足利将軍家を継いだ形にする為に新田一族の「世良田氏」の末裔を称して「源」を名乗った。)

「石堤村史資料」に拠ると、「赤丸浅井城の中山氏は石堤浅井神社の崇敬篤く」と記載される。石堤浅井神社の神官清水家の先祖は「吉田姓」で、京都吉田神社の「吉田神道」を主張する。吉田神道は「唯一神道」を主張する藤原氏の氏神の「鹿嶋神宮」「春日神社」の系統の「吉田神社」が中心で、空海以来の両部神道の神々は「元々、独立した神社である」と主張してその分離を画策して、全国で幕府と組んで「神祇官代」と称して全国の神社の神官の任命を行い、衣装等の細則を決めた。
赤丸の中山氏は「藤原氏」としてこの吉田神道を政治的に利用して、神社の「奉納米」に目をつけたと見られる。この米は中山氏に拠って富山県西部一面の貧乏人に貸し出され、高利を取ったらしい。古くは「貸し米」には二割の利息が当たり前だったらしい。
赤丸浅井神社は元々、両部神道で石堤浅井神社、舞谷八幡宮の三社の上に別当寺の「川人山鞍馬寺」があり、「赤丸浅井神社」は三社を所有して建物の維持管理をして、両神社の神官と協同で祭事を行っていた。両部神道では「神前読経」の習慣があり、僧が神社に詣でた。これは、比叡山や高野山等の由緒のある寺院では現在も行われており、赤丸の近くの「石動山天平寺」は元々、五社権現の形を取っていた。何も知らない石堤村の百姓は、「吉田神道」の主張を受けて、「赤丸浅井神社=鞍馬寺」の僧の事を「宮掃除人」と吹聴して、地元の大百姓数人がリーダーとなり、「石堤浅井神社こそが延喜式内社」と主張して、本家の鞍馬寺にのみ認められていた「米一升を集める権利」を無視して勝手に先回りして初穂米を集め初めた。
山伏は「官許がある」として強制的に集めたので、百姓は「カーンマン・ボロが来た」と言って怖れたと云う。門跡寺院聖護院派山伏の権威と幕府の権威のぶつかりが、両部神道と吉田神道の対立となって現れた。しかし、加賀藩の裁判記録では、数回の両社の争いでは、加賀藩は皇室の紋を社殿に刻み、歴代の門主に皇室の親王が就任されている「門跡寺院聖護院派 川人山鞍馬寺」を別当とした「赤丸浅井神社」に軍配を揚げて石堤浅井神社へ勝手に持ち込まれた御神体を国吉村の神社に撤去する様に指示する判決を出している。この裁判過程の書状は「赤丸村組合頭 皆月家文書」として、現在も金沢市立図書館に残されている。この宗教の対立を、何も知らない学者や役人は「どちらも延喜式内社で納めよう」として、石堤浅井神社の祭神の遷座を明治になってから併記したのが混乱の始まりで、何も知らない役人が民間の信仰に介入した結果、「国家の神」で在った「延喜式内社」は全国で争論となり、学者は「論社」と呼んでゴマかした為に、恰も「論社」なる偽者の神々が権利を有する様に発生してしまった。

神道や仏教を論じる学者が「宗教を知らず」に宗教を論じる等が在ってはならない。「信仰の自由」とは、人様の信仰を勝手に改変して、偽者を作る事ではない❗ 「高岡市史」は何も知らない編集者が、石堤浅井神社がでっち上げた図面や書状を鵜呑みにして、赤丸村の歴史を悉く否定して、石堤浅井神社が正当とする論調を展開している。少しでも古来の両部神道(※特に、門跡寺院の聖護院の成立ち)の事を学んでいればこんな過ちはなかったと思われる。
この「高岡市史」の見解を信じて、世の著名な歴史学者が「式内社石堤浅井神社」と記載した為に、様々な基準が狂って、とんでもない歴史が作られてしまっている。その為に、「赤丸浅井神社」を中心とした皇室庄園「越中吉岡庄」の研究も停滞していたが、こちらから異議を申し入れて、平成26年に「国立歴史民俗博物館」がデーターベースを「越中吉岡庄は福岡町」と訂正する迄、地域史の研究は停滞した。地域の歴史を消し去ろうと目論んだ「高岡市史」の編集者(個人が編集)は、この点でも大きな過ちを犯したのだ。
其々の神社の祭神は、氏族の氏神だったり、土着の神々だったりするが、国家、天皇家の神々や神代の神々を、土着の神々と一緒にする等は正に「神々を怖れない仕業」なのだ。過去には、往々にして時の権力者や大金持ちが、庶民を屈服させる為に神々を利用した。特に役人が知ったかぶりして作った歴史は影響力が大きく、手に負えない位にウソがウソを呼んでしまっている。役人の権威を笠に着た「権威主義の定説」は全て一度は疑うべきとも云える。従って、本来は疑う事も無い、かつての「国家の神社」で在る「延喜式内社」には全国で偽物が登場して、無知な学者はこの偽物を「論社」と呼ばせて権威を与え、飯の種にしてきたのだ。「延喜式内社」はその祭神として「神代の神々」や「朝廷や有力豪族の祖先神」等が祀られ、正に「国家の神々」を祀っている。「赤丸浅井神社」の祭神は、神代の「大国主命」の一族で、大河の神の「八河江比売」と、大伴氏の祖先神で「皇室の最高神」の「高皇産霊神」を祀っているが、「石堤浅井神社の祭神」は「罔象女神 ミズハメノカミ」で農耕の水路に祀られる神で有り、神名の「ミヅハ」は「水走=尿の飛び散る様等」を意味して「灌漑の為の引き水」を指すとされ、井戸や水路の神とされていた。この神は 岩戸神話に登場する「アメノウズメノミコト」とは別の神で有る。この神は福岡町の木舟城や尾張如意郷に石黒氏末裔の長谷川氏が祀った「神」で有り、赤丸浅井城を再建したと伝わる「越中石黒氏」が水路の神として祀ったものかも知れない。「越中石黒氏」は祖先神の「日子刺肩別命 ヒコサシカタワケノミコト」(※第七代孝霊天皇の子)を祭神とした様で、木舟石黒氏が貴船神社の神「罔象女神」の神像を犬と繋いで川に投げ入れてその「神威を試した」と言う伝承も有り、石黒氏にとっても氏神ではなかった様だ。

🔴阿尾城菊池氏と赤丸の関係
阿尾城の城主菊池氏は古代から続く九州の名門で蒙古来襲の際に活躍した肥後菊池氏の末裔と云われ、畠山氏、神保氏、織田氏と連携したが遂には前田氏に居城を明け渡して自らは前田家の家臣となった。金沢卯辰山の祭神は元阿尾城にあったが、前田利家が金沢に移したと言う。『「加賀藩給帳」には「三千二百石(九ヨウ石畳)人持ち、内五百石与力知、菊地大学」「八百石(同)菊地常三とある。」(✳「姓氏家系」)』(※「富山県姓氏家系大辞典」角川書店)
(※「菊地氏」:越中の菊地氏について『三州史』は氷見の阿尾城について、同氏の越中下向、土着については不詳としながらも、『七国史』は天文(1532年~1555年、将軍足利義晴 )・永禄年間に菊地伊豆守武勝、同清十郎安信が越中国に住したとし、同城主として菊地氏が確実に現れるのは菊地右衛門入道、伊豆親子であるとする。この時に菊地氏は東福寺庄園の「八代荘」の管理を任されていた八代氏を頼って氷見にやってきたと見られる。東福寺は藤原氏の寺院(後鳥羽上皇中宮の父の九条兼実創建)で、菊地氏は藤原氏を称している。天正八年には織田信長が菊地右衛門入道武勝と屋代(八代)十郎左衛門に宛て、新知行分を安堵する旨の朱印状を給付している。この時、宛名が屋代(菊池)右衛門と屋代十郎左衛門宛になっている事から菊地氏と屋代氏は同族と推定されている。菊地氏は親族間の相続争いから本家が追われたとされ、「菊池市史」によれば、菊地氏が九州から姿を消す前に加賀へ放浪したとされている。恐らくは同族の氷見から能登に勢力を持っていた八代氏を訪ねたものと見られる。能登には菊池氏が創建したとされる寺も在ると云う。
南北朝時代の暦応2年(1339年)、九州南朝勢力の有力武将であった菊池氏13代・武重が死去し、弟の菊池武士(タケヒト)が14代として後継となった。この時に武士は16才で、まだ若い惣領を兄の武敏が支えていた。当時の九州は、幕府探題の一色範氏(イッシキノリウジ)が北朝勢力として陣を構えていたが、武士は暦応3年(1340年)に筑後北部、肥後南部へ兵を進めた。この頃に其れまで武士を支えてきた兄の武敏の存在が分からなくなる。(病死?) 暦応5年(1342年)8月、武士は「天罰起請文」を神前に捧げ、一族の団結を促した。しかし、康永3年(1344年)年に北朝勢力の合志幸隆(ゴウシユキタカ)に菊池本城(菊之池城)を奪われ、その責任をとって武士は家督を菊池武光(キクチタケミツ)に譲り、出家した。武士は出家した後、加賀国や諸国を行脚したと言われる。晩年は熊本県八代市二見下大野村に現在の正福寺を創建した。正福寺の裏山の墓石があり、「菊池十四代肥後守武士」、裏面には「開基当寺祖禅寂照和尚 応永八年辛巳 三月廿五日 九十一歳」と記される。 ⇒「菊地市史」、[菊地文書]、「氷見市史」、「戦国・氷見」参照)

「※肥後菊池氏は南北朝の時に南朝の忠臣として全国的に活躍した。南北朝時代に箱根の竹ノ下の戦いで劣勢となった南朝方の菊池氏は、竹竿の先に短刀を縛り付けた即席の槍を使用して逆襲して相手方の足利勢を敗走させた。 この時に使用された槍は菊池槍と呼ばれ、菊池千本槍として有名 ❗❗」




●[金沢市の 「獅子山祇陀寺」と菊池氏]
後醍醐天皇による建武の新政が始まると、亡父の功績を賞されて肥後一国を与えられた「菊池武重」がいた。菊池武重は「菊池千本槍」としても南朝の武将として有名だが、菊池系図では「菊池武士」の兄である。「菊池武重」は関東迄遠征して南朝の為に戦った。
【「菊池武重」と「獅子山祇陀寺」: 1335年、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆して鎌倉より軍を率いて侵攻すると菊池武重は弟の「武吉」と共に新田義貞の軍に加わって足利軍と戦ったが、敗れて京都に逃げ帰った。その後、九州に落ちた尊氏が再挙して攻め上ってくると、兵庫など各地で足利軍と戦ったが、敗れて足利軍に捕えられた。しかし一命は助けられて、肥後に送り返されている。1337年2月、九州における南朝勢力を結集して北朝勢力と戦ったが、「菊池武重」は1338年に死去。後は弟の「武士」が継いだ。石川県の金沢市に「祇陀寺ギダジ」という寺がある。この祇陀寺は、鎌倉末期から南北朝初期の間に、加賀の河内荘吉野郷(現在の吉野谷村)に開かれた曹洞宗の禅寺で、瑩山紹瑾の弟子で大乗寺三世明峰素哲の法を嗣いだ「大智」を開山とする。山号の獅子は百獣の王で、人中の王として一切おそれるもののない仏の比喩、寺号の祇陀は釈尊に祇園精舎を施入した祇陀太子に因む。吉野の地には戦国末期ころまで所在し、近世初期には前田利長関係者の庇護を得て、越中富山城、守山城を経て、その後金沢城下へ移った。現在は金沢市十一屋町にある。
「大智」は正応三年(一二九〇年)肥後国宇土郡長崎村の農家に生まれ、七歳で大慈寺の寒巌義尹について出家、のち加賀(金沢市)大乗寺の瑩山紹瑾のもとで開悟した。ついで渡元し、十年余の間に古林清茂・雲外雲岫・中峰明本などに学ぶが、瑩山を真の師と悟り、苦難の末に高麗を経て正中元年(一三二四年)加賀宮腰の湊に帰って来た。直ちに能登永光寺の瑩山にまみえ、その法を得るが、瑩山の指示で明峰素哲の法を嗣ぎ、道元―懐弉―徹通―瑩山―明峰―大智と、道元から直系六代の法嗣となった。その後加賀の河内荘吉野郷に獅子山祇陀寺を開いたが、その開創年次については諸説あるものの明確ではない。
大智は祇陀寺に在住すること十年足らずで九州に帰り、肥後の「菊池武重」の帰依と支援を得た。菊池氏は広福寺・聖護寺を大智に寄進、これにより九州における大智門流の基盤が固まった。特に広福寺(熊本県玉名市石貫)はのちに大智門流の中心寺院となる。また延元三年(一三三六年)に聖護寺敷地を寄進され、深山禅寂の仏道修行の場を得た大智は、以後ここに庵を結んで二十年山居することになる。正平十三年(一三五八年)には肥前の有馬直澄に加津佐の水月庵を寄進され、大智は晩年をここで過ごし、正平二十一年(一三六六年)十二月十日に七十八歳で示寂した。】(※「獅子山祇陀寺」由緒)
肥後菊池氏はこの大智師を通じて、加賀の「大乗寺」や「獅子山祇陀寺」を通じて、加賀との関係が深かった様だ。阿尾城の「菊地伊豆守武勝」は系図からすると、従来は、第24代菊池武包の子供とされていたが、阿尾城の初代の「菊地伊豆守武勝」としては、室町時代に氷見にやって来た事になり、織田信長に従った「菊地右衛門入道武勝」[天正・文禄年間(1573年~1596年)]との時代の間については明らかでは無い。しかし、この点については近年、信州菊池会が調査し、新しく射水市の「仏谷山誓光寺」の縁起等から、この阿尾城菊池氏の系図が発見されて「探求 菊池一族」(※渋谷龍著)として発刊され「越中菊池氏系図」が明らかになった。それによると越中菊池氏は菊池次郎の後裔となっており、この系図によれば、この時代差は解消される。⇒(※「菊池氏系図参照」)

九州の菊池氏には一族に、西郷、岡本、本郷、城、山崎、八代、中山、中村、小山、林、高橋、小島氏等がおり、赤丸村舞谷集落の浅井城史跡の近くにもこの姓が一部残されている。この附近には、現在は高岡駅南に在り国指定有形文化財である木造千手観音像を祀る総持寺が在ったと伝える。菊池氏は南朝の後醍醐帝皇子懐良親王(かねよししんのう)の先鋒になって各地で戦っていた。しかも古代から菊池氏は千手観音を信仰し後には観音信仰の熊野權現を信奉していた。菊池氏は藤原氏を名乗っていたが、「元々は九州の古代の鞠智城を拠点とした古代豪族で其の頃から千手観音を信奉していた」と常陸に住む菊池氏の子孫の方から伺った。「越中志徴」には『五位庄事は--そのかみ菊地氏の所領なりしと聞ゆ。』とあり菊池氏が五位庄を所領とした記載があり、又、前田利家が佐々成政側の菊池氏に謀反を促す書状には「その報奨として赤丸村を与えるので細部は重臣と相談されたし。」と記載されている。氷見阿尾城の菊池氏の資料としては、一五八〇年に見える「織田信長朱印状」(菊池氏・八代氏の古くからの所領を安堵する連名の安堵状)と「三州志ケンコー餘考巻の八」(織田信長の侵攻の際には「阿尾城の菊池伊豆、赤丸の喜田内匠等、新に信長公に通ず」と有り)に記載されているが、菊池氏が越中に進出した時代的背景は判らない。
しかし、羽咋郡の安専寺等各地には肥後菊池氏の子孫が開基と伝えられる寺もある。菊池氏の同族八代氏が支配した石動山から氷見の阿尾城にかけての地域の八代庄は元々京都東福寺領であり、能登畠山氏と東福寺が密接な関係であった事から、東福寺・八代氏絡みで菊池氏と畠山氏・神保氏・石黒氏との繋がりも伺える。菊池氏嫡流の本尊は千手観音菩薩であり菩提寺は東福寺であるという。菊池氏は南北朝期に南朝勢力として各地を転戦しており、菊池氏が越中に進出したのは古く南朝の時であったとされている。「菊池市史」には「一三四四年、菊池城菊池武士は北朝方の合志氏に敗れ、僧侶になって加賀へ行脚した」との記載が有り、氷見の八代庄の領主吉滝氏が五位庄で領地を所有していた(※一五二五年)事等から、菊池氏も早くから五位庄に進出していた事が窺がわれる。八代庄が東福寺領になったのは一二三九年であり、八代氏は後に能登畠山氏の重臣になっている。八代氏は菊池一族に名が有り、織田信長黒印状には菊地右衛門が屋代右衛門と記されている
(※【天正九年六月織田信長黒印状】松雲公採集遺編類纂に記載、「戦国・氷見」氷見市立博物館)

※八代臣、射水臣、利波臣(石黒氏)、蘇我氏(石川朝臣同族)、江沼臣は武内宿祢を祖とする同族。八代氏は一五八〇年代迄能登畠山氏勢力。(八代庄三十三カ村の地頭)その後菊地氏に吸収されたか?八代氏は滋賀県八日市羽田町を本拠とし継体天皇の即位を支援した。

※高岡市に有った古刹の長慶寺の跡を託されたと云う氷見市森寺西念寺は創建の能登から氷見の阿尾、更に氷見八代郷の湯山城主吉滝氏所有の現地森寺に動いたと伝える。吉滝氏は五位庄に所有していた土地と氷見森寺の土地を交換して西念寺に寄進している。

※「赤丸の喜多内匠」については羽咋の十村役喜多家が考えられる。喜多家は源氏の新田義貞の末裔と伝わる。赤丸の喜田内匠とは北条氏の勢力で有った中山氏配下か?赤丸浅井神社記録には浅井神社に「気多神」を祀っていたと云う記載が有り、赤丸浅井神社の川人氏だったのか?

※「菊池一族」(藤原姓菊池一門)に西郷、山崎、小島、中村、高橋、岡本、藤田、村田、八代、小山、城、本郷、中山、小野、林、島崎等が有る。城氏は菊池氏の一族で菊池能隆の子の隆経を祖とする。南北朝時代の『 菊池武士書状』や『太平記』に菊池氏の一族として城氏の名有り。懐良親王に仕えた菊池武光に属し、各地の戦で活躍した。
*越後には平氏の城氏有り。奥州に城氏有り。
*加茂城に在城した赤松一族にも山崎氏、中山氏有り。 
*神保氏の後、放生津城に山崎長門有り。(※「宝永誌」)
*土屋村には名門の鎌倉八屋形の一つの小山家が有る。鎌倉公方の配下で祖先に源頼朝の乳母がおり、鎌倉幕府の重鎮であった。その後、結城氏が後を継いだが、「結城の乱」の際に越中に下り、小矢部川の流域を勢力下に置いた。小山氏は土屋村の運信寺を開いた。
※赤穂藩大石内蔵助は鎌倉幕府御家人小山氏の末裔。越中吉岡庄土屋村にはこの小山氏の末裔が住んでいる。妻の理玖は佐々成政の五代後の子孫。佐々成政は織田信長の下で越中を領有していた。

※富山県と九州熊本にほぼ半数づつ分かれて「開」と云う一族が住む。一部では上杉謙信に従い、後に佐々成政に従って、常願寺川の改修等の土木事業に従い上杉謙信から五百石を授けられ、開発地に「神社」を建てた事から「門に鳥居」の「開」を賜ったと伝わる。佐々成政が肥後に転封された時に成政に従って肥後に移り、各地の干拓や土木事業を担当し、現在の「みやま市」に「開村」を開いたと云う。(※開駅も在る。)又、肥後の菊池氏の家臣で承久の乱で後鳥羽上皇側で関東に攻め昇った「菊池千本槍」の中に槍の使い手の「開」と云う武将が有り、熊本の某神社の絵巻物に記載されると云う。(※阿蘇市の某氏調査)
南北朝時代の越中で活躍した桃井直常の孫の「幸若丸」が編み出した「幸若舞」は、織田信長に愛されて、信長はその都度「敦盛」を唄い舞ったと云われ、この「幸若舞」は「みやま市」のみに伝承されていると云う。越中の赤丸村舞谷地区に在った「西大寺」は桃井直常の三男が創建したと伝わり、現在は高岡市へ移って「光釜山西大寺」となっている。舞谷村にも「幸若舞」が伝わり、明治迄、その舞手の「舞々人」が住んでいたと云う。(※「福岡町史」)
ドラマで織田信長が「敦盛」を舞うシーンは「能」の「敦盛」ではなく、「幸若舞」の「敦盛」である。
(※織田氏は福井県織田町の剱神社の神官の末裔とされ、この「幸若舞」は斯波氏の所領の織田町の隣地の朝日町に逃れた桃井直常の子孫の「幸若丸」が編み出したもの。織田氏も元々は斯波氏の守護代をしていた。又、織田信長の妹は高岡市の守山城の神保氏張の妻だったが、神保氏張が上杉謙信に敗れて上杉家臣となった為に、織田信長から妻との離婚を申し渡されたと云う。)
「越中菊池系図」に拠ると、氷見市の阿尾城の菊池武勝は鎌倉時代の「元寇」の時に蒙古との戦いで活躍し、南朝時代に後醍醐天皇に忠誠を誓った肥後の菊池氏の末裔とされ、南朝の衰退と共に「氷見阿尾城」に入り、親族と見られる「屋代氏」(八代氏)と共に氷見地方を勢力下に置いたとされる。(※織田信長から「屋代氏」「菊池氏」の連名宛の書状が残る。→「戦国氷見」参照)
菊池氏と屋代氏は共に藤原氏で氷見市内一帯から高岡市の海岸部、小矢部市宮島一帯の東福寺や官営直轄地の地頭を勤め、この両氏は東福寺を菩提寺としていた。
(※小矢部市宮島は鎌倉幕府の摂家将軍藤原(九条)頼経の父の「九条道家」の庄園だったが国庫に返還したもの。→「吾妻鏡」、「鎌倉遺文」)
森田柿園の「越中志微」には「赤丸村はかつて菊池氏の所領なりしと聞こゆ」と記載されている。赤丸浅井城の中山氏と共に前田利家と戦った高岡市守山城を居城とした「神保氏張」は佐々成政に従って肥後に移り、成政切腹後には放浪して後に徳川家康の旗本になったと云う。
※八尾町の「城生城」城主斉藤氏の息子は前田利家の命により阿尾城の菊池右衛門入道武勝の娘婿となった。斉藤氏は織田方。⇒斉藤氏の未亡人は妊娠した状態で菊池武勝に再嫁し、その産まれた子供が菊池武勝の娘を妻として菊池家を継いだ。これが菊池大学と言う。菊池大学は加賀藩に仕官している。⇒菊池大学から赤丸村の山崎久兵衛に対して高岡市の国泰寺の勧進を許可する書状が残る。(※「越中古文抄」飛見丈繁 著)
【斉藤の一族は藤原氏が伊勢の斎宮守になった事から起った一族で藤原氏!菊地氏も藤原氏】

●【赤丸浅井城の領主の変遷】
・延元年間(一三三六~一三三九年)石黒光景が築城。
・興国二年(一三四一年)南朝の後醍醐天皇の二宮宗良親王を浅井城に迎える。
・一向一揆の指導者本願寺下間和泉(?~一五七五年)が居城 (※「越中志徴」)
※超願寺文書の「下間頼龍開山移徒の志納銀請取りにつき御印書」(富山県立公文書館蔵)に赤丸信徒の名前が記載されている。
・天正年間(一五七三~一五九一年)五位庄領主中山治部左衛門国松が居城。弟次郎兵衞を赤丸城(城ケ平)に配置。
・天正九年(一五八〇年)中山氏は佐々成政に臣従。
・天正十二年(一五八四年)中山直治が能登末森城(羽咋郡宝達志水町)の戦いで前田利家軍と戦い初陣を飾る。
・天正十三年(一五八五年)富山の役で成政が秀吉に降伏し新川郡に追い遣られ、中山氏も浅井城を退去。本家は敦賀に落ち延び、敦賀の今井氏を継いだ。赤丸村鞍馬寺村(アンバイジムラ)に残っていた中山氏は加賀藩に仕官して新川郡、射水郡、能登河北郡、石川郡に知行地を受けた。
・しばらくして浅井城は廃城。

【高岡市の中山家に伝わる加賀藩の知行状】



●吉岡庄・五位庄の変遷。
吉岡庄は藤原氏長者の庄園となり、藤原頼長領となる。「保元の乱」で藤原頼長が後白河上皇に敗れ、後白河上皇の庄園「後院領」となる。後白河上皇により蓮華王院に寄進される。後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄皇室領として存続。後醍醐天皇の時代に「五位庄」となる。
五位庄は、応永十二年(一四〇五年)足利義満が室の追善料として京都相国寺に寄贈。応永十九年斯波家領。応永二十三年半分を足利義持が京都等持院に寄進し畠山満家に預け置かれた。その後一向一揆勢が支配。天正四年に上杉は一向宗と和睦し、国人領主の寺嶋牛之介に安堵した。寺嶋牛之助(柴野城)は佐々成政に従い甥の朝日城(浅井城?)の中山直治と能登末森城で戦っている。加賀藩領となり、江戸期に赤丸は加賀藩大老長九郎佐衞門(三万三千石)、寛政十二年には前田典膳(三千五百石)の知行となる。(※「小矢部市史 上」)

★京都の「東寺文書」に見える「おいの庄」、「五位庄」
⇒2016年に国立歴史民俗博物館の「庄園データーベース」では、「足利義満」時代の東寺文書についての記載「おいの庄」は「五位庄」の事として統一された。この時代には越中守護「畠山満家」、砺波郡地頭「蜷川新右衛門」とされる。(※「富山県史」)、(※「蜷川村郷土史」)(※足利義満は越中五位庄を相国寺の庄園として寄進し、土地の管理を畠山満家に委ねた→「富山県史」)








●赤丸浅井城に在城されたと伝わる宗良親王と蓮華王院 ⇒南朝支援の越中吉岡庄赤丸村 !
(※平家全盛時に後白河上皇は平清盛が寄進した蓮華王院の三十三間堂に1001体の千手観音を祀った!)
宗良親王は八歳で妙法院(蓮華王院・三十三間堂)で出家。比叡山で百二十三代天台座主(尊澄法親王)迄なられた。父 後醍醐天皇が足利尊氏に敗れ吉野に逃れると還俗して南朝勢力の拡大の為、遠江・信州・越後・越中と転々と転戦されたが、越中で目竜聖人に出会い浄土宗に帰依されて明心仏眼法親王となり極楽寺を開いた。
(※元は吉岡庄(五位庄)極楽谷に創建された。 →[越中の宮極楽寺由緒]参照)
後に、前田利常は深く極楽寺に帰依し金沢に極楽寺を建立し、加賀一国の浄土宗寺院の触頭を務め、総本山知恩院の直轄寺院となる(※「安養山極楽寺由緒」)
⇒【妙法院】:京都市東山区の天台宗の寺院。新日吉(イマヒエ)門跡とも云い,天台三門跡の一つ。本尊は普賢菩薩。比叡山に最澄が開創したと伝える。1164年、後白河法皇が居所とされた「法住寺」内に蓮華王院(三十三間堂)を建立して1001体の千手観音像を祀り,のち新日吉社を現地に建立した時に法住寺,蓮華王院と合わせて管掌させ,「妙法院」と号したとされる。「赤丸浅井神社」を郷社とした「越中吉岡庄」は、後白河上皇の「後院領吉岡庄」となり、上皇はこの庄園の産物を蓮華王院に寄進されている。





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