最近またブログを連発している。暇になったわけではない。私を知っている方々なら気づくのかもしれないが、こういうときは行き詰まっている時である。何もすべてに行き詰まっているわけではないが。
精神科医のR.D.レインの好きな言葉にこういうものがある。
「人間における化学作用に他人の存在ほど直接的な影響を及ぼすものはない」
そう、すべては特定の、とある他人の「存在」である。その他には何も必要はないのだ。その人が存在しているだけで我々は大きなモチベーションと生きる力を得る事がある。それは尊敬する上司であったり、よきライバルであったり、愛する人であったり。我々は常に他人の影響を受けたがっているし、誘惑されたがっている。それだけ我々は自分の思考だけで生きていけるほどは安定してはいないのだ。
少し話はそれるがだからこそ「死」というものに我々は衝撃を受けるのかもしれない。そうであれば本当によき「死」というものは逆説的だけども、死した時にどれだけの人が泣いてくれるか、よき生き方とは生まれて死ぬまでにそういった人をどれだけつくれるかで決まるのではないだろうか。
最近こういった力に対する脆弱化を感じずにはいられない。それは人間関係の希薄化からくるものなのか、もう一つはそういった力事態を認知できていないのか。たとえばあなたはそういった存在するだけで影響を受けてしまう人についての話をどれだけ人に伝えられますか?もし、子供の頃からそういった話を親から沢山聞かされていればどのような大人になれただろうかと。また違ったモチベーションを持った大人になるのではないかと。そしてそれを適切に語れる者は減ってしまったのではないか。
今ギリギリ残っている存在の力といえば恋愛である。がこれも非常にもろい。それは何故なのか。距離が近づきすぎてしまうからなのか。幻想の力は何故これほど早くも崩れ去ってしまうのか。我々が影響されたがっている時、我々は明らかに自分より高いある理想を想定してその人に焼き付ける作業が必要である。その作業にはある程度の想像力と距離が必要である。
カリスマ、独裁者は常に我々が作り出しているのかもしれない。そして現代社会では必ず利用され汚れてゆく。本来存在の力の対象は自然であるべきなのか。であるならばレインの名言はこう書き換えるべきものである。
「人間における化学作用に自然の存在ほど直接的でありながら影響を及ぼしにくいものはない」