医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

確かな感覚だけは残るものだ

2005-08-28 11:38:01 | 日記
先の見えない戦時の極限状態の中、たった一つの変わらぬ何かを信じたいという気持ちとそういう状態だからこそ生まれる普遍的な何かを心に抱き生きるのだが、望んだそれすら得られる事が難しいのが人生で、ひとかけらの希望を胸に何とか生きてゆく、そんなギリギリの人生が実は一番幸せなのかもしれない。

奥山に ゆくえも知らず 霧の中 乗り越へ聴きし 足のもみじ場

存在、それだけでいい

2005-08-18 06:46:22 | 日記
最近またブログを連発している。暇になったわけではない。私を知っている方々なら気づくのかもしれないが、こういうときは行き詰まっている時である。何もすべてに行き詰まっているわけではないが。
精神科医のR.D.レインの好きな言葉にこういうものがある。
「人間における化学作用に他人の存在ほど直接的な影響を及ぼすものはない」
そう、すべては特定の、とある他人の「存在」である。その他には何も必要はないのだ。その人が存在しているだけで我々は大きなモチベーションと生きる力を得る事がある。それは尊敬する上司であったり、よきライバルであったり、愛する人であったり。我々は常に他人の影響を受けたがっているし、誘惑されたがっている。それだけ我々は自分の思考だけで生きていけるほどは安定してはいないのだ。

少し話はそれるがだからこそ「死」というものに我々は衝撃を受けるのかもしれない。そうであれば本当によき「死」というものは逆説的だけども、死した時にどれだけの人が泣いてくれるか、よき生き方とは生まれて死ぬまでにそういった人をどれだけつくれるかで決まるのではないだろうか。

最近こういった力に対する脆弱化を感じずにはいられない。それは人間関係の希薄化からくるものなのか、もう一つはそういった力事態を認知できていないのか。たとえばあなたはそういった存在するだけで影響を受けてしまう人についての話をどれだけ人に伝えられますか?もし、子供の頃からそういった話を親から沢山聞かされていればどのような大人になれただろうかと。また違ったモチベーションを持った大人になるのではないかと。そしてそれを適切に語れる者は減ってしまったのではないか。
今ギリギリ残っている存在の力といえば恋愛である。がこれも非常にもろい。それは何故なのか。距離が近づきすぎてしまうからなのか。幻想の力は何故これほど早くも崩れ去ってしまうのか。我々が影響されたがっている時、我々は明らかに自分より高いある理想を想定してその人に焼き付ける作業が必要である。その作業にはある程度の想像力と距離が必要である。
カリスマ、独裁者は常に我々が作り出しているのかもしれない。そして現代社会では必ず利用され汚れてゆく。本来存在の力の対象は自然であるべきなのか。であるならばレインの名言はこう書き換えるべきものである。
「人間における化学作用に自然の存在ほど直接的でありながら影響を及ぼしにくいものはない」


循環器というネーミングセンス

2005-08-13 12:47:33 | 日記
今、循環器を回っているのですがこの「循環器」という名前すごいと思いません?他の科は神経内科とか腎臓内科とか特定の臓器の名前がほとんどなのに、循環器は「循環」するものを扱うわけですから。普通のセンスなら「心臓血管内科」とでも呼べばよいわけで、それをあえて「循環器」と初めて命名した人のセンスには脱帽です。もう循環しているものはすべて扱うぜ、という意気込みを感じます。「呼吸器」だって「呼吸」とは外界から必要なものを取り込み交換して不要なものを取り出す事を意味するとかいいながらそういった分野を全部扱ってみたり。神経内科は伝達科とか言ってみたり。

しかしその「循環器」ではありますが、カテーテルに関しては循環器とはいい難いところもあります。カテーテルとは血管に細いワイヤーを入れてつまった血管を広げたりする手術と思ってください。血管を広げるバルーン1つとっても立派な部品がついていて10万円とかするのですが、実は手術中につかった道具はすべて使い捨てです。1回の手術ででかいバケツ2つ分くらいのゴミがでます。それも本当に立派な部品達です。とあるウワサではこれらの部品は近くの某国に送られて使われているという説もあるのですが・・・まぁうわさです。これを見るとちょっと「循環」なんて単語を使う資格はちょっとないかなぁなんていつも思います。なんとか再利用などできないんでしょうかねぇ。医療も循環系を大切にしようなんて運動を循環器からやっていただけると、さすが循環器と思えます。今のままでは「心臓血管内科」に格下げですね。カテーテル手技中研修医はずーっと外回りで突っ立ったままなんでそんな妄想ばかり膨らましてます。

ペースメーカーをしに行く

2005-08-10 21:56:22 | 日記
知り合いのライブを観に行ったのだが、前座にハウス系のDJライブをやっていた。ベースにかかっているビートは一定のリズムを刻む。そして不意にそれを歪めてゆくサウンド。回りには心地よさそうに身体を揺らす若者達。ずしんと響くビートは大音量スピーカーから胸まで響いた。そうそれは、まさにペースメーカーであった。

ペースメーカーとは、一定のリズムをを打てない心臓を補助するべく身体の中に埋め込まれた機械で一定のリズムをしっかりと刻む。一定のリズムは心地よい安定感を産む。そのリズムに彼らは「身をゆだねていた」我々はもはや自分達の力で一定のリズムを刻む事が出来なくなっているのではないだろうか。余りに不整な雑音が回りを取り巻く社会。
不整なリズムはある種の興奮を呼び起こす。ただしそれは一定のリズムがベースにあるが故である。不整が続くリズムはもはや不整でもなんでもない雑音の連続である。我々は一定のリズムを一度ペースメーカーで呼び戻さなければあの不整の興奮を得る事など出来ないのかもしれない。いや、それとも身体が作り上げるリズムを我々が感知できなくなっているだけなのだろうか。

とにかくクラブというところはある種異様な空間である。誰かの作った世界に自ら身をゆだねるわけで、依存心の強さが如実に現れている。依存心の強い方々の集まりなので、ここで知り合ったカップルがうまくいくためには第3者のペースメーカーが必要なのでしょう。しかしそれだと同じペースメーカーをしている人でもかまわないわけで浮気も増えるのかもしれないですねぇ。もうどんだけその世界に依存できているか、でかっこよさなんかが決まったりする訳で、浮気されないようにするためにはどんどんその世界に依存してゆく必要があると。いやー、ちょっと妄想を膨らませてしまいましたが、、医療の世界も似たようなもんですよ。

またこの季節がやってきたわけですが

2005-08-08 02:52:12 | 日記
ずっと更新していなかったですが、まぁまぁ元気です。嬉しい事や、落胆する事や、新たな方法論を模索する事や、色々ありますが。とりあえず頭を使わず身体だけ動かしていればいい、なんていう「研修医論」は受け入れられないものがあって、相変わらず動きはとろいです。この病院で最もダメな研修医をやっている気がします。どうしても引っかかるものがあるとそこで思考が始まってしまうからです。

理想と現実のギャップは大きくあるのですが、一応ルールとして「自分の正しいと思ったことを一度口に出して説明してみる。それで回りや上と折り合いが合わなければそちらに合わせる」ということにしてやっています。

体力的にキツイ、というよりは精神的にきついのですが、そういう時支えになるのは大学時代に培った思い出です。皆さんの多くはクラブであったりするのかもしれませんが、私にとってはチャリでヨーロッパや日本中を回ったり、皆でやった勉強会であったり、何度も見にいったとある町のお祭であったり、幾人かの大事な人達との歩みよりであったり、1年間通いつづけた飲み屋であったりするわけです。そして夏という気候は特にこれらが喚起されやすい条件が整っているわけで、何とか乗り切れる感じがあります。

これらのすべてに感謝です。