5月10日(日)
不破の関跡の西は急な下りになっている。下りきったところに藤古川という小さな川が流れている。
橋の上に説明板が掲げられている。それによると、壬申の乱の折にこの川を挟んで、天武天皇軍、弘文天皇軍が対峙し、住民はそれぞれの軍を支援し、以来、それぞれの天皇を祭って氏神として今に至っているという。
藤古川の先で国道21号を北へ渡り、山中という地区へ入る。
民家の横を黒血川という不気味な名前の小さな川が流れている。
説明板によると、壬申の乱の折、ここで両軍の最初の衝突があり、その時の激しい戦闘で流された兵士の血がこの川の川底の岩石を黒く染めたことからこの名がついたそうだ。
壬申の乱を持ち出されると、あまりに古い歴史の一コマであり、うなるしかない。
この先、山間に「鶯の滝」なるものがある。
ここにも案内板が掲示してある。
それによると、ここ「山中」は、かつては関が原と今宿の間の、旅人の休憩・宿泊の村として活気を帯びていたそうだ。
鶯の滝は、道から下に見える川が、約5メートルの落差の滝になっている。
滝というと、山の上から落ちてくるイメージがあるが、ここは平坦な道から見える滝ということで、街道の名所になっていたという。
鶯の滝のすぐ横を新幹線が走っている。
新幹線の下をくぐり、南に向かうと常盤御前の墓がある。
常盤御前は、源義朝の愛妾で義経の母だが、はっきりとした史実は不明で、群馬、埼玉、鹿児島にも墓があるという。
道はここから山へ入り、東海道線に沿って歩く。
東海道線が二つに分かれるところで、そのうちの一本を越え、完全に山の中へ入る。
険しいというほどでもないが道を登って行くと、峠に行き着く。
ここを今須峠と言い、古来、中山道の険要として有名だったらしい。
今は、あっけない感じだが、昔の道はもっと上を通っていたようだ。
峠を下る、はるかに今須の宿が見え、国道21号に行き当たる。
国道を越えたところに一里塚跡がある。
今日はここまで。
不破の関跡の西は急な下りになっている。下りきったところに藤古川という小さな川が流れている。
橋の上に説明板が掲げられている。それによると、壬申の乱の折にこの川を挟んで、天武天皇軍、弘文天皇軍が対峙し、住民はそれぞれの軍を支援し、以来、それぞれの天皇を祭って氏神として今に至っているという。
藤古川の先で国道21号を北へ渡り、山中という地区へ入る。
民家の横を黒血川という不気味な名前の小さな川が流れている。
説明板によると、壬申の乱の折、ここで両軍の最初の衝突があり、その時の激しい戦闘で流された兵士の血がこの川の川底の岩石を黒く染めたことからこの名がついたそうだ。
壬申の乱を持ち出されると、あまりに古い歴史の一コマであり、うなるしかない。
この先、山間に「鶯の滝」なるものがある。
ここにも案内板が掲示してある。
それによると、ここ「山中」は、かつては関が原と今宿の間の、旅人の休憩・宿泊の村として活気を帯びていたそうだ。
鶯の滝は、道から下に見える川が、約5メートルの落差の滝になっている。
滝というと、山の上から落ちてくるイメージがあるが、ここは平坦な道から見える滝ということで、街道の名所になっていたという。
鶯の滝のすぐ横を新幹線が走っている。
新幹線の下をくぐり、南に向かうと常盤御前の墓がある。
常盤御前は、源義朝の愛妾で義経の母だが、はっきりとした史実は不明で、群馬、埼玉、鹿児島にも墓があるという。
道はここから山へ入り、東海道線に沿って歩く。
東海道線が二つに分かれるところで、そのうちの一本を越え、完全に山の中へ入る。
険しいというほどでもないが道を登って行くと、峠に行き着く。
ここを今須峠と言い、古来、中山道の険要として有名だったらしい。
今は、あっけない感じだが、昔の道はもっと上を通っていたようだ。
峠を下る、はるかに今須の宿が見え、国道21号に行き当たる。
国道を越えたところに一里塚跡がある。
今日はここまで。