福原一間
篠笛を携え訪れた
国々での体験談
 



インド旅行以降、2年間もブログの更新をご無沙汰しておりました。
その間、さまざまなことがありました。
それについては、これからのブログの中でちょこちょこ書くこともあるかと思いますが、今日は、そのうち主だったできごとを、報告しておきたいと思います。

まず、教室について。
宮島と広島市内で教室をもっていますが、両方とも場所を移転しました。

宮島の教室は、存光寺の庫裏から五重塔の近くに移りました。
大正時代の古い建物で、茶室として使われていた3階の部屋を教室にしています。
窓からは、五重塔と千畳閣が眺望でき、環境は抜群、日当たりもよい快適な場所です。
古い建造物は手をかければそれだけ味わいが出てくるため、自分で暇を見ては少しずつ手直しをしています。
じつは、何を隠そう、若かりし頃、住む家も自分で建てたほど大工仕事には心得があるため、こうした仕事も昔取った杵柄で、楽しみながらやっています。

存光寺の庫裏も引き続き、なんらかの文化活動のため活かしていければと思っています。
良いアイデアがあれば、お聞かせください。

広島教室は、これまで2ヶ所を使用していましたが、今年1月から八丁堀シャンテの2階「共栄殿」を使わせていただくことになりました。
今は個人レッスンだけですが、追々、初心者のグループレッスンのコースも設けたいと考えています。

ひとまず、今日は、最も重要な報告ということで、続きは次回にいたします。

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28年前、ガンジス川を眺めながら100年後もこのままの風景だろうと思いました。
確かにガンジス川に沿った建物は殆ど同じように見えましたが、それでも真新しいホテルがありました。
どこの国もそうであるように特別に町並みを保存しない限り急激な変貌を遂げるようです。
人力車は見かけることが無く、自転車式かこのオート三輪。



 思い出話

タイガーバーム売りのおじさんが移動し夜行列車も静になりました。

二人分の座席にあぐらを組んだおじさんは未だ20センチしか譲ってくれません。
さすがにオシリが痛い。
私のオデコを突き上げるおじさんは幸い眠っています。
やっと眠れる。

気がつくと外は明るくなっていました。 リュックが無い!
そうだ網棚のおじさんに預けたのだった。
見上げると「君はろくに寝ていないだろう。ここで寝なさい。」
確かにそう聞こえたのだが、インドの言葉は分からないし間違いなら叱られる。

おじさんは既に下りている。戸惑う私に網棚を指差し早く上りなさいと言う。
おもわず合掌し上る。
ジャガイモらしき物が入った丈夫な布の袋を枕に眠りに落ちた。

突然の騒音に目を覚ます。
列車は鉄橋を渡っていた。ガンガだ!心の中で叫んだ。
初めて見る川だが、ガンジス川と確信した。

おもえば水も食料も持たず長時間よく身体がもったものだ。
当時はやたら水は飲むものではない、という考え方が一般的でスポーツ飲料も売られていなった。 私はヨガで最低一月に一度は水も飲まず24時間断食をしていたのでさほど苦しくはなかった。

breakfast朝食とはfast断食をbreak止めることから朝食に成ったと聞いたが、一度お試しあれ。先ず頭痛がしてくる。そしてやたら臭覚が敏感になり五感が、いや六感がとても良く働きます。空腹より頭痛が辛かったと思います。

昔はブタの様に食うなどと言っていましたが、今や人間はブタさん以下の飽食。
日本人にとって「飢える」ことは何よりもまして妙薬では。

富める国は貧しい国々に年間800万トン食糧支援していますが、日本人は年間2000万トン捨てています。
毎日がお盆と正月と言われて久しい今日この頃ですが既に食糧難は始まっています。
自給自足を目指し25年前に田舎に住み着いた私ですが、十数年前から篠笛の演奏家になりました。せめて野菜だけでも作らないといけませんね。



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バラナシ駅の正面から朝日が差込み、とても綺麗です。
さあ いよいよ28年ぶりのバラナシです。
いつ建て替えたのか昔の駅の面影は有りません。

旅行者にとってベストな季節はいつでしょうか。
ウィンドブレーカーを着ないと寒い。

二十歳過ぎの頃、冬の北海道を外回り一周しました。
早朝ノシャップ岬で白波の立つ厳寒の海を、漁船が木の葉のように揺れながら
漁をしていた光景を見た瞬間、「シバレルー!」
印象に残る旅でした。
 
安穏と暮らす私にとって、極端に寒い国は寒い時期に、暑い国は暑い時期に。
旅はある意味非日常ですから、過ごしやすければ良いというものではないと思いました。やはりカレーは汗を拭き拭きフーフーやりながら食べる方が旨い。
来年2月にまたインドへと思いましたが時期を変更。






思い出編

ウトウトしていると突然オデコを突き上げられ目を覚ます。
見ると床に座っている老人が睨みつけている。
何がなんだか分からないままウトウト。
また突き上げられた。
「お前の頭がワシの領分を侵害している。」
私にはそう聞こえた。
さすがに呆れて周りの人も「この兄ちゃんは座席で、お前は床だから
頭は邪魔にならないだろう。」
「いいや!邪魔だ!」
仕方が無いので老人が寝るまで起きていることにする。

鮨詰めの夜行列車に突然男がやって来て、寅さんよろしく口上を述べながら
何やら怪しい小瓶のフタを開けクリーム状のモノを
お客達のコメカミやオデコに擦り込んでいる。
すると皆小銭を出し、その怪しげな小瓶を買っている。

商いが終わると男は次の客車へと姿を消した。
あれは一体なんだろう?
それにしても商魂たくましいとはこのことだ。

後で分かったのだが 「まんきんたん タイガーバーム」
なあるほろ。








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朝 7時過ぎバラナシに到着です。寝台車は快適でした。
シーツも毛布カヴァーもちゃんと有りました。ビジネスマンの紳士は
シーツが気に入らないのか交換してくれと言っていました。
今回の旅は日本でよく利用した「あさかぜ」クラス。サスガ1等寝台車です。
前回バラナシからコルコタまでの寝台車は単なる「板」ベッド。

隣の下の段に寝ているお婆さんのところに息子が度々やって来ては
母親を気遣っていました。私も見習わなくてはと素直に思ったのでした。

花粉症を何十年も患っている私は、インドに着けば楽になると思っていました。
粘膜の炎症が、今まで経験のない試練を与えるとはその時は夢にも思っていません
でした。




  思い出編
鮨詰めの夜行列車はドラマチックでした。3人掛けの板の座席に男は大きくあぐらを組み
2人分占領しています。周りにいる人たちは立っている私のために
「お前がちゃんと腰掛ければこの兄ちゃんが座れるだろう。」と口々に抗議してくれました。
すると「俺はあぐらで座りたいのだ!」
立っている人たちまでもが抗議してくれ、シブシブ男はあぐらはそのままに膝を少し立て20㎝空けました。
皆さんに感謝し、やっと腰掛けた(というよりはオシリを引っ掛けた程度)ときには「これでやっと眠れる」と安堵しました。
暑さに参っていた私は隣に立つ老人に席を譲る余裕などありませんでした。
3時間位のつもりで乗りましたから食料も水さえ持っていませんでした。

リュックを持ちにくそうにしている私に頭上から「かしなさい。置いてあげよう。」
優しい声がしました。
見上げると網棚に、そう荷物を置く網棚に男が横になっていたのです。
全財産のリュックを預けていいものか一瞬戸惑いましたが、有り難くその柔和な顔の男性に託しました。        合掌
不思議なものでヒンズー語かベンガリー語かさだかではありませんが
人間ギリギリの時は理解できるのです。









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列車が入ってきました。

ここで28年前の思い出話を
コルコタ(カルカッタ)でバラナシまでの極々普通の切符を買い安宿のサルベーションアーミーに戻ると
7年間世界を放浪している日本人のお兄さんが
「切符買ったの?見せて」
タメ息。
「大変なものを買ったね。まああ 良い経験になるよ。」
含みを持った言葉に不安を覚えながら夕方駅へ。
プラットホームには既に多くの人が待っていました。
始発列車がゆっくり入ってきました。
と突然皆走り出し我先に窓から飛び込むように乗り込む人、入り口に殺到する人。
列車が止まった時には「満員御礼」 
私といえば口をポカーンと開けて、えっ?!
客車は足の踏み場も無いほど。沢山の人が下にも座っている。
座席は木製で長時間は辛そうだ。
何とか自分の立ち位置を確保する。

私には大きな間違いがあったのです。
コルコタからバラナシまで直線距離で630kmくらいですが、当時私にはインドの大きさが分かっていませんでした。インドの地図に日本を書き込んで見比べるようにすべきでした。そして寝台を予約すべきだったのです。
3時間もあれば十分と何の根拠もなく思い込んでいました。実際は十数時間。
隣の白い髭をたくわえた老人がニコッと微笑みかける。
「日本男児ここで老人に負けるわけにはゆかない!」
天井でパタパタ回り生暖かい風を送る三枚のハネを見ながら
宿で会ったお兄さんの言葉を思い出したのでした。

このことか。





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デリー駅のキオスク いよいよ明日はバラナシです。
暑い痛い日差しにさらされながら、インドを旅するなら2月がベストと聞き2年後はそうするぞ、と決意して28年。やっとバラナシ。
それにしても寒くはないが、暑くないからかなんだか物足りない。
機内で隣の席にベルギー人の若い女性。シンガポール在住でインドの友人に会いに行くと言っていた。
一週間前のニューデリーの気温は2℃と友人から聞いて彼女は「ニューデリーがそんなに寒いわけないわよね!」と笑っていた。
冗談だと思っていたようだ。やはり地球はおかしいのか。




若い頃の旅の写真を載せたいのですが、残念なことに預けたリュックからカメラと小物が抜き取られて写真がありません。インドからマニラ経由で帰国の途中盗まれたのでしょう。せめてリュックだけは手荷物にすべきだったと悔やみました。
父の腕時計と交換したシタールも待てど暮らせど出てきません。

最後の荷物が無くなるまでじっとコンベアーを眺めていました。

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今回のインド行きは最初一人の予定でしたが、笛仲間のKさんが一緒に行きたいということから女性もお一人名乗りを上げました。
今までの旅行経験から、もう一人女性が参加されない限り遠慮してほしい旨伝えました。結果的には男女7人。バラナシでお別れです。
彼らは仏陀の足跡を訪ねネパールまで足を伸ばしました。
この果物屋さんはニューデリーからアーグラに向かう途中に撮りました。
好物のブドウをムシャムシャ。旨い。
トヨタのランクルに鮨詰め10人。ちゃんとした座席に座り、思いの外静かにしている女性たちの後ろ姿。察するに余裕は無い。私が初めてコルコタに着いた時に食らったカウンターパンチを思い出す。今回は夜に入国できて良かった。
闇はオブラード。
 

私の目的は28年前に聖地バラナシのガンジス川で聞いた祈りの言葉をもう一度聞くこと。
私の側で老婆が日の出に向かい耳元で鈴を鳴らしながら歌うように祈っていた。優しさに包まれたあの時間が忘れられない。音の持つ神秘な力は28年経った今でも強く私の心に有り続ける。


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タージ・マハルの南門です。足場が組んであるところをみると、おじさんが模様を刻んでいた石は、あのどこかに使われるのでしょう。



思い出編
入国手続きを済ませ、日本でヨガの指導を受けていた僧からもらったメモを見ながら電話。
訛のある英語、迎えに行くとの事。
待合室で隣のおじさんが笛の袋を指差し何かと聞きました。
考えてみたら日本の楽器はそれなりの美しい布に包まれています。
かなり目立ちます。
それならばと笛を取り出し演奏しました。この時が私の初の海外公演でしょうか。
しばらくすると一目でヨガの僧と分かる細身の厳しそうな目をした方と弟子と思しき若者が迎えに来てくれました。
薄暗くなったマニラの街ををクルマから眺めながら、日本で見たポスター「観光地マニラ」のそれとは大分違うぞ。  
ラジオからは初めて聞く曲♪オーネスティー♪に感動。 
帰国するまでの2ヶ月間フィリピンの歌手かと。 
その前ヒットしたストレンジャーとは全く印象が違ったのですから。
ヨガの施設はパコという町にありました。帰国して1年後だったか、よくあるテレビ番組「○○潜入レポート」でマイクを片手に女性レポーターが「今、私は、密造拳銃と麻薬の町、パコにいます!」
おいおい、それはかなり大袈裟でしょう。
一週間居ましたが町の人たちはとても親切でした。







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1632年に着工し1653年に完成した大理石の廟は、現在インドでも深刻な問題になっている大気汚染によって侵食が危ぶまれているそうです。
タージ・マハルのゲート付近では修復作業をしていました。
石工のおじさんが、「やってみるか」と言いましたが、遠慮しました。思えば、世界遺産であるタージ・マハルに関係する建物に折角なら、たとえ一刻みでもすべきだったのでしょうか。
  
 初めての海外旅行で乗った飛行機はパキスタン航空の確かDC10だったと思います。
マニラに着陸し出口で見送る素敵な乗務員のお姉さんに「シュクレア」案の定彼女はとても嬉しそうな顔をしてくれました。
機内放送でいつも終わりにそう聞こえていた言葉ですから「有難う」だろうと思っていました。
未だに調べてはいませんがシュークリームとエクレアを足して2で割ったような、なんとも美味しそうな言葉です。
シュクランという言葉も以前聞いたことがありますが、どこの言葉だったか。
5月のマニラはかなり蒸し暑く、タラップを降りながら、まとわりつく湿気に「ああ旅が始まるんだな」日本とは違う国に来たことを実感したのでした。

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福原一です。今年2月 28年ぶりにインドに行ってきました。前回はコルコタからバラナシでしたが今回はニューデリーからアーグラ バラナシの旅です。タージ・マハルは是非一度行ってみたいと思っていました。

28年前、初めての海外旅行はフィリピン.タイ.インド。 2ヶ月間の正にビンボー旅行でした。
当時日本ではヨガをする人も多く、都会には現在より沢山のヨガ教室がありました。
私も毎日3回1時間ずつ瞑想をし、菜食でたまには断食をしていました。ヨガの僧からインドに来なさいと言われ、子供のころから鉄砲玉の異名を持つ私は親の心配そうな顔を尻目に旅立ちました。
そういえば前の晩、父は「もうお前は死んだものと思うから」と目を潤ませ、「お父さん、なんてこと言うの」母は泣いてたなあ。
ヒッチハイクで広島から羽田空港まで。チケットは空港渡し。
面識も無いお兄さんが私を呼び止め無事チケットを受け取る。
なぜ私が分かったのかという質問に長年の勘と。
気がつくと辺りには4人。
ゴムぞうりに半パンとランニングシャツ、リュックには傘一本だけのお兄さん。
インドの友達に世話になるから何も必要ないと。
私もゴムのサンダルにジンベエと小さなリュック。皆さん似たようなイデタチ。ヨーロッパ行きとはかなり違います。      
インドで思い出した28年前のことです。


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