報道写真家から(2)

中司達也のブログ 『 報道写真家から 』 の続編です

国際決済銀行 : ナチスに協力したセントラル・バンカー

2010年08月30日 17時54分33秒 | 中央銀行・バブル

「銀行の銀行」は中央銀行と呼ばれる。
さらに「中央銀行の銀行」と呼ばれるものがある。

国際決済銀行The Bank for International Settlements だ(以下、BIS)。

BISは、その名の通り国際決済業務を行なう銀行である。基本的には政府間の決済しか扱わない。BISは政府間の資金の流れを逐一把握している唯一の機関であり、最も透明性を要求される機関である。にもかかわらず、BISは歴史的資料の情報公開を長らく拒んでいた。

BISの設立は1930年。
本部はスイスのバーゼル。
設立の目的は、第1次世界大戦の敗戦国であるドイツの戦争賠償金を、円滑に戦勝国に分配することだった。

1919年のヴェルサイユ条約で、敗戦国ドイツには過酷な戦争賠償金が課せられた。最初の割賦金を支払ったあと、ドイツはハイパーインフレに見舞われる(’23年)。そのため賠償支払い能力を失う。国民生活は困窮を極めた。’23年にはナチスがミュンヘン一揆をおこす(未遂)。ドイツ国内の不穏な政情を解消するため、アメリカの民間資本がドイツに投資され、ドイツの経済回復をはかることになった(ドーズ案、’24年)。その後、賠償額も減額された(ヤング案、’29年)。

ヤング案では、賠償金問題から政治色を排除するため、政治的に中立な賠償銀行の設立も提案された。これが、BISの設立につながる。

したがって、BISの設立には、ヴェルサイユ条約で戦争賠償の分配にあずかっていたイギリス、フランス、イタリア、ベルギー、日本が中心になった。アメリカはヴェルサイユ条約に調印せず、賠償請求権を放棄していた。アメリカ政府内では、BISの理事会に参加するかどうかで紛糾し、結局、見送られた。BISの理事国は、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、日本、オランダ、スイス、スウェーデンの9カ国となった。

理事会の勢力構成は、ドイツ、フランスが各3、イギリス、イタリア、ベルギーが各2、日本、オランダ、スウェーデン、スイスが各1となった(ただし、オランダ、スイス、スウェーデンは議決権を持たない)。日本の理事には日銀ロンドン駐在の二見貴知雄が就いた。

賠償銀行としてのBISが新設されたものの、翌1931年には世界金融恐慌が発生し、ドイツは再び賠償金の支払いができなくなる。そこで、1年間の支払猶予協定が結ばれた。しかし、ドイツの経済力が回復する見込みはなく、’32年7月9日、結局のところ、ドイツへの賠償請求の放棄が決定した。BISは設立から2年ほどでその存在理由を失った。

ドイツへの戦争賠償請求が全額放棄された背景には、ナチス党の台頭がある。苛酷な賠償金支払いの重圧によって、ドイツ国民の生活は極度に圧迫され、ヴェルサイユ条約に対する反発と憎悪を深めた。そして、報復戦争の機運さえ高まった。ナチス党はこうした国民意識を捉え、勢力を拡大した。こうしたドイツ国内の不穏な情勢を沈めるため、ついに、戦争賠償金は放棄されたのだった。そして、ドイツへの制裁から、一転して、宥和政策へと転換する。

存在理由を失いかけていたBISは、そのネットワークを宥和政策に役立てることになる。しかし、その努力が実を結ぶことはなく、世界は再び戦争に突入する。ついにBISは存在理由も存在意義も失った。今度こそ本当に無用の国際機関となるはずだった。

大戦の真空地帯

第2次世界大戦が勃発すると、結果的にBISの理事会の内訳は、枢軸国のドイツ、イタリア、日本と連合国のイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、そして中立国のスイス、スウェーデンで構成されることになった。

BISの職員構成も同様である。イギリス14、フランス13、ドイツ11、イタリア8、ベルギー3、アメリカ2、日本、スウェーデン、チェコ各1となっている。世界大戦が勃発して、この機関がまともに機能するはずがなかった。

しかし、いままで単なる中央銀行家の「紳士クラブ」的な意味しかなかったBISは、第2次世界大戦の勃発によって、始めてまともにその業務が稼動し始めたのだった。

スイスのバーゼルに本部を置く国際決済銀行(BIS)。「中央銀行の銀行」とも呼ばれるこの由緒ある国際機関は、第二次世界大戦中、敵対する連合国と枢軸国のきわめてハイレベルの代表が公然と協力し合う場でもあった。敵味方の立場を越え、緊密な関係にあったのは、各国の通貨・金融政策を担う中央銀行総裁である。もちろん、このことはそれぞれの陣営を代表するドイツのヒトラー総裁、米国のローズヴェルト大統領、そして英国のチャーチル首相も承知のうえであった。

前線においてはそれぞれの国の兵士が生死をかけた戦闘を繰り広げているというのに、スイス・バーゼルにあるBISでは、ライヒスバンクのヴァルター・フィンク、イタリア銀行のヴィンツェンツォ・アツォーリーニ、イングランド銀行のモンターギュ・C・ノーマンという各行のトップが敵味方の関係を越え、意思決定の最高機関である理事会のメンバーを努めていた。
Ⅴ 『国際決済銀行の戦争責任』ジャン・トレップ


第2次世界大戦の主役であるアメリカは、BIS理事会には名を連ねていない。しかし、第2次世界大戦の期間中、BISの総裁を務めていたのは、アメリカ人である。

アメリカの銀行家トーマス・H・マキットリクは、1940年1月から46年7月までBIS総裁を務めた。米財務長官ヘンリー・モーゲンソーは、マキットリクの総裁就任に猛反対した。だが、米国務省はマキットリクに渡航許可と外交官パスポートを発給する。

マキットリクのBIS総裁就任には、米金融界の思惑が強く働いていた。ウォール街は、戦後のヨーロッパの復興を担うであろうBISに影響力を築いておきたかった。片や、モーゲンソー長官は、金融支配権をウォール街とシティから奪い、ワシントンが握るという野望を抱いていた。第1ラウンドはウォール街が取った。

BISに着任したマキットリク新総裁をサポートするのは、フランス人の総支配人ロジェー・オボアンとドイツ人の総支配人補佐パウル・ヘヒラーである。

この米・仏・独トリオによるBIS運営は、ナチス・ドイツが崩壊した後も継続し、欧州の終戦から八ヵ月が経過した四五年十二月二九日、ヘヒラーが他界するその日まで続いたのである。
Ⅵ 『国際決済銀行の戦争責任』

また、日本人の吉村侃 (よしむらかん、横浜生金銀行出身)が、BISの為替課長として業務に当たっていた。

吉村は真珠湾攻撃に始まる日米開戦後も引き続き、米国人の上司から職務上の指示を受け、これに従っていた唯一の日本人だったと思われる。スイスに駐在する日本および米国の大使は、BIS内での二人の奇妙な協力関係を知りながらこれを黙認していたのである。
i-ii 『国際決済銀行の戦争責任』

ヨーロッパ情勢が不安定になると、BISの日本人理事は日銀ロンドン駐在の二見貴知雄からベルリン駐在の山本米治に代わった。さらに山本米治の職務代理としてチューリッヒの北村孝治朗(横浜正金銀行)が任命された。

ただし、大戦中はBIS理事会の開催が見合わされていたので、山本や北村が他の理事と直接顔を合わせる機会はなかったようだ。重要事項の裁決は文書で各理事に諮られた。

BISは、理事会も執行部も各部門も、連合国と枢軸国の寄り合い所帯で構成され、運営されていた。しかし、彼らは決して反目することなく、粛々と業務を遂行した。BISは、戦時にありながら、対立する空気の流れていない真空地帯だったというしかない。国際連盟が各国の対立の場となり、崩壊したのとは対照的である。

ナチス・ドイツの金庫番

枢軸国と連合国のメンバーで構成され、アメリカ人総裁を戴くこのBISの大戦中の主要業務とは、ナチス・ドイツのための国際決済だった。

ドイツの戦争賠償を分配するために設立されたBISは、いまやナチス・ドイツのための国際決済業務を遂行する機関に変貌した。ナチスからの血も凍る脅迫や強制があったわけではない。それどころかナチスは、決済業務によって派生する手数料をきちんとBISに支払っている。しかもその手数料設定は、相場よりもずっと割高だったにもかかわらずだ。

BISは、ごく自然にナチスの決済業務へと移行した。そこには、アメリカを含め世界の金融界の思惑が強く働いていた。彼らは、BISを通じてナチスと良好な関係を維持しておきたかった。

ナチス党が政権を取った1933年、社会主義的な金融政策が起草された。もしそれが法制化されれば、外国の民間銀行の対独債権はすべて不良債権と化すはずだった。しかし、BIS理事に就いていたライヒスバンク(ドイツ中央銀行)のヒャルマール・シャハト総裁は、ナチスの試みを阻止し、外国銀行の債権を守った。この海外の対独債権は、大戦中、毎年支払猶予が更新され、それは’44年まで続いた。

シャハト総裁は、ナチスの利益よりも、世界の金融界の利益を優先したと言える。BIS理事会での密接な交流がなかったとしたら、シャハトがそのような措置を取ったかどうかはあやしい。後にシャハトは、ヒトラー暗殺未遂に連座して逮捕される。

BIS総支配人補佐パウル・ヘヒラーも、

「よしドイツが勝利を得るもBISにおける英人の権益は極力尊重」する。
p92 『国際決済銀行の20世紀』 矢後和彦

と吉村侃に語っている。

連合国の民間金融機関が対独債権を守るためには、BISの存続が絶対的な条件だった。ナチスのBIS利用は、世界の金融界にとって有利に働いていた。

また、ルーズベルトやチャーチルも、戦争がどれほど苛烈を極め、どれほどの犠牲を出そうとも、自国の銀行関係者が、ナチスに協力するBISの理事や執行部を務めることに反対しなかった。

ドイツの思うがままになるBISの存続を、ヒトラーが望んだのは当然だった。だが、第三帝国の無条件降伏を戦争遂行の目標に掲げた連合国のチャーチルやローズヴェルトに、BISを支援するどのような理由があったのか。

民主党出身のローズヴェルトは戦時中、伝統的に共和党を指示するウォール街から金融界の人材を積極的に取り込み、政府の役職に重用していた。そして、こうしたウォール街出身者らは、米民間資本を使って欧州の戦後復興を進めるに際して、彼らのよく知るBISの利用を望んだのである。

一方、チャーチルはなぜ、目指すべきドイツ打倒とは逆の方向に作用するのを知りながら、イングランド銀行がBISにとどまることを受け入れたのだろうか。……… 一つは米国に対する大英帝国の対抗意識、もう一つは共産主義への恐怖である。
p253 『国際決済銀行の戦争責任』

こうした連合国側の金融界や政府の思惑により、ナチス・ドイツによるBIS利用は、事実上妨害されることも制限されることもなかった。

ナチスの決済は主に金で行われたが、実際に金で支払うのではなく、各国中央銀行がBISに開設した口座間で金を移動させる。より正確には、BISの帳場の上で金が移動する。イングランド銀行内のBIS口座の中で金を移動させることもあった。これも、帳簿上の話だ。金そのものは、1ミリも移動しない。このBISの国際決済業務が機能していなかったとしたら、ナチスの戦争はそれほど長続きしなかった可能性が高い。

基本的には帳簿上の金決済だが、相手国の事情に応じて、実際に金塊を移送することもあった。BISはポルトガルやユーゴスラビアなどに金塊を運んでいる。戦時中の混乱の中、何日間にもわたって金塊を長距離移送するのは危険が伴ったが、BISはナチスのために、この危険な金移送も確実にこなした。

金による決済業務を行なっていたBISだが、実は、金の保管庫は持っていなかった。実際の金塊の保管はスイス国立銀行(SNB)が協力した。ナチスの要請があれば、SNBに保管された金塊を、BISがヨーロッパ各地に運んだ。そしてBISは、ナチスが各地で略奪した金塊の移送や保管にも従事している。

アメリカ人総裁をいただくBISは、まさに「ヒトラーの金庫番」として機能していた。

再度生き残ったBIS

ナチス・ドイツのために、あらゆる便宜をはかったBISも、ドイツの敗色が濃厚になると、業務を停止し、隠蔽工作を行なう。連合国の黙認により公然と活動していたBISだが、戦後はナチス協力の罪を問われることになる。

ウォール街とシティの打倒を目論む米財務長官ヘンリー・モーゲンソーは、BIS解体の急先鋒だった。そして、1944年のブレトンウッズ会議で、BIS解体の決議を勝ち取る。その代わりに米財務省がコントロールする、IMF(国際通貨基金)とIBRD(世界銀行)の設立を提唱する。IMFと世銀の本部がワシントンに置かれたのは言うまでもない。金融支配権をワシントンに奪取するというモーゲンソー長官の野望の実現はほぼ確実となった。第2ラウンドは、モーゲンソーの圧勝だった。

しかし、今日でもバーゼルにはBIS本部ビルがある。BISは解体されるどころか、「中央銀行の銀行」として不動の地位を築いている。

結局のところ、ウォール街やシティ、そして世界の中央銀行や金融界は、一致団結してブレトンウッズの決議を有名無実化した。戦争責任を問われたBIS関係者はほんの数名にすぎない。戦後もBISの理事や職員はほとんど変わらなかった。為替課長の吉村侃も、終戦後数年間BISにとどまっていた。

ただし、日本とドイツは理事国から外された。日本人理事の山本米治と代行の北村孝次郎は終戦後、日本に帰国した。日本がBIS理事国に復帰したのは敗戦から約半世紀経った1994年だが、ドイツは1949年には早くも理事国に復帰している。

勝利を確信していたモーゲンソー長官の野望は土壇場で頓挫した。

中央銀行家の友愛精神

BISのナチス協力は驚くべき歴史的事実だが、同時に、敵味方を越えたセントラル・バンカーの不思議な友愛精神と強い絆にも驚かされる。

ヒトラーのナチス党が政権をとった1933年、ライヒスバンク総裁のヒャルマール・シャハトがBISのドイツ理事に就任し(1933-39年)、バーゼルに赴いた。

これに対し、イングランド銀行のノーマン総裁はじめ欧州各国の中央銀行総裁は、シャハトを独裁国家ナチス・ドイツの代表というよりも、同じ仕事仲間つまりはギルドを構成するメンバーの一人として迎え入れた。
p18 『国際決済銀行の戦争責任』

中央銀行家というのは、何か特殊な絆で結ばれているのだろうか。5000万人もが戦死する苛烈極まりない戦争の最中に、枢軸国と連合国の中央銀行首脳がBISの理事会を構成し、アメリカ人総裁以下、敵味方同士の職員は何のわだかまりを持つこともなく、同じ建物の中で業務をこなした。

後の冷戦期も、彼ら中央銀行家の友愛と絆は、国境も立場も主義主張も超えているようだ。

東西の対立が一段と先鋭化する五〇年代において、BISは、東欧諸国の中央銀行代表がソ連の監視の目を逃れ、西側の同僚との自由な意見交換を享受した唯一の国際機関でもあった。
p254 『国際決済銀行の戦争責任』

セントラル・バンカーにとって、それぞれがたまたま所属することになった国家の体制の違いは、彼らの友愛の障壁とはならないようだ。ファシズムであろうが、コミュニズムであろうが、資本主義であろうが、彼らにとって国家や国家体制は、もともと意味のない存在なのかも知れない。

BISは、各国政府やIMFなどに対して一致して結束する「クラブ」であるとともに、その内部にも重要な対抗関係を秘めた「場」でもあった。
p278 『国際決済銀行の20世紀』

彼らが戦後に勝ち取った最大の成果は、BIS解体を免れたことだ。
そして第二に、中央銀行の「独立性」を確立したことだ。

解体の危機を乗り切ったBISは、今度こそ何ものからも干渉されることのない絶対的存在であろうと決意したことは想像に難くない。

そして、いまや、中央銀行の「独立性」は世界中の政府の常識であり、グローバル・スタンダードである。それは中央銀行を国家の権力の及ばない聖域にしてしまった。それは、BISが聖域中の聖域になったということを意味している。

果たしてそれは、未来に対して正しい在り方だと言えるだろうか。
世界は今、1931年以来の金融危機の中にある。
この危機に際して、世界の中央銀行はほとんど何の手も打とうとしていない。
実際は、打つ手はいくらでもある。
しかし、世界の中央銀行は歩調を合わせて、津波に呑まれる木の葉のフリをしている。


参考文献

『国際決済銀行の戦争責任』 G・トレップ
http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%B1%BA%E6%B8%88%E9%8A%80%E8%A1%8C%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E2%80%95%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%81%A8%E6%89%8B%E3%82%92%E7%B5%84%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%81%9F%E3%81%A1-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3-%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%97/dp/4818812986

『国際決済銀行の20世紀』 矢後和彦
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4901916270/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_1?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4818812986&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=1A3MK9BWR9RGE9CQ6APF

The Bank for International Settlements
http://www.bis.org/

 

 



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