もう、二月も後半。
なんとも月日の経つのが早すぎます。
当分の間、暇になりそうにありません。
来月も同じような感じになるでしょう。
いまだ原稿を書き続けています。
まとまったものを書く時間は、しばらく取れそうにありません。
雑感程度のものになると思います。
昨年9月にブログを休止したとき、”さてブログとはなんぞや”とあらためて考えさせられました。ブログをはじめた頃は、情報の共有が未来を拓くと感じたものです。そして、ブログがそれを可能にするかもしれないと。あれから二年、ブログは急速に普及し、インターネットメディアもいくつもでき、すでに情報は十分共有されてきたように思います。しかし、特に目立つような変化はわれわれのまわりで起きていない。情報の共有は重要ですが、それだけでは十分ではないということなのでしょう。
日本に三十年滞在した元ジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレン(現アムステルダム大学教授)は、十年ほど前に、日本にはすでに変革の要素は十分そろっていると感じていたようです。国民によって政治的変化がもたらされると。しかし日本は沸騰近くまでは上昇するものの、決して沸点には達しない。あるところで、急に冷めてしまう。その後、ブログの普及やインターネットメディアが、沸点に導くかとも思えましたが、そういう期待もいまではあまり持てそうにありません。
今後、ブログをどう使っていくか、ということも考えることになると思います。
ブログとは別にあらたに何かをはじめようかとも考えているところです。
なんとも月日の経つのが早すぎます。
当分の間、暇になりそうにありません。
来月も同じような感じになるでしょう。
いまだ原稿を書き続けています。
まとまったものを書く時間は、しばらく取れそうにありません。
雑感程度のものになると思います。
昨年9月にブログを休止したとき、”さてブログとはなんぞや”とあらためて考えさせられました。ブログをはじめた頃は、情報の共有が未来を拓くと感じたものです。そして、ブログがそれを可能にするかもしれないと。あれから二年、ブログは急速に普及し、インターネットメディアもいくつもでき、すでに情報は十分共有されてきたように思います。しかし、特に目立つような変化はわれわれのまわりで起きていない。情報の共有は重要ですが、それだけでは十分ではないということなのでしょう。
日本に三十年滞在した元ジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレン(現アムステルダム大学教授)は、十年ほど前に、日本にはすでに変革の要素は十分そろっていると感じていたようです。国民によって政治的変化がもたらされると。しかし日本は沸騰近くまでは上昇するものの、決して沸点には達しない。あるところで、急に冷めてしまう。その後、ブログの普及やインターネットメディアが、沸点に導くかとも思えましたが、そういう期待もいまではあまり持てそうにありません。
今後、ブログをどう使っていくか、ということも考えることになると思います。
ブログとは別にあらたに何かをはじめようかとも考えているところです。
その中でも一番興味深いのが、各セクタ-のどこにも属さないはぐれ者(外部)的なアリが少数おり、コロニ-の危機などの際、この無所属アリが活躍するというのです。
こうした話は、人間の社会にもあり、民俗学・人類学にも出てきます(人類学者山口昌男氏が「周縁」として考究しています)。
私見では、根本的なところで、どうも人には身体的な差異として自律系と他律系の二者があるのではないか、そのように考えています。
その上に日本の文化的風土(環境要因)に培われた精神の在り様というものがあります。
西欧社会史の泰斗阿部謹也氏は、日本社会を考察した世間論において、日本人はそこにある様式を所与とみなしている、と指摘しています。
明らかに西欧の生成過程と日本の生成過程は違います。
西欧は、キリスト教というものが基底にありましたので、社会を制度として変革しやすかった側面があります。
他方日本の場合、生活共同体そのものを依拠する軸としてきました。生活共同体教といっても差し支えないと思います。事実、賑わっているブログを観察すると、社会的というよりコミュ-ン的なやり取りが目立ちます。
教義を制度と見なすことはできない、そういうことだろうと思うわけです。
なので、日本には日本に見合ったジャ-ナリズム・情報発信のあり方を模索していく必要があると考えます。
そう言われるとそうですね、大した変化は私も感じません。
> ブログとは別にあらたに何かをはじめようかと・・・
新たな何かがとても楽しみです。
沸点、一体どのように日本は変わるのでしょう?
下北沢で日本に住む外国人が政治的な意見を交換する集まりがあって、僕も参加しています。彼らの間ではメディアが嘘をつくことは常識中の常識です。しかし、この前、ある駅前で米軍基地移転反対運動をしていた日本人と話したところ、彼らはアメリカメディアを褒め称えていました。
彼らが言うには、アメリカメディアは政府の流す情報をうっかり信用してしまい、初めはイラク戦争に同調していたが、今になってそれに気づき、情報を検討しなおして国民に謝罪しているから偉いというのです。それに比べ日本のメディアは(うっかり)戦争に加担しておきながら、少しもそれをやっていないと。
とにかくメディアにとって、日本国民をだますことは、アメリカ国民をだますよりもずっと簡単だということでしょうか。
情報をマスコミが一律に取捨選択しているのが大きな変化を予防する壁になってきたと思っているのですが。
>ブログの普及やインターネットメディアが、沸点に導くかとも思えましたが、そういう期待もいまではあまり持てそうにありません。
カール氏の言葉の引用と、中司様のこの言葉にこの大江川、すくなからず違和感を感じましたので、この場にて言葉にすることをお許しください。
ジャーナリストである中司様がこのようにお嘆きになるのは間違いではないかと。
なぜならジャーナリストとは、事実をレポートしたり、それについて自身の見解を加えて、見る側にとって分かりやすく伝えていくことが仕事であります。決して社会的運動家のような、変化を起こすことを目的として活動するものではないからであります。
もし中司様が日本における政治的変化という、一種の社会目的を達成しようとしてこの御職業を続けなさるなら、その目的の達成に導くために都合のよい事実のみ取捨選択することになりかねないのではないのでしょうか。
そのような報道の仕方は、少々言葉を荒くして申し上げれば、中司様が批判なされている大手メディアの「プロパガンダ」と質をことにしないものと思います。
もし、仮に先進国政府が国民を戦争へ駆り立てるためにメディアに対して、国民が戦争に対して賛成の意を唱えるよう仕向けるような報道をしたとします。このような報道がプロパガンダであると理由付ける根拠は、その目的が戦争であるか否か、ということではないと思います。その報道がプロパガンダであると言える最大の理由は「国民の戦争を支持する動き」という「社会変化」を起こすことを目的としていた、ということのはずではないでしょうか。そのような社会目的性を持った報道とは、市民にとってはすでにとるべき道を示されているがために、思考が麻痺して、社会の変化にたいする能動性を欠き、世の中のいかなる変化にたいしても受容的になるものと思います。
このブログの例をあげれば、中司さんが記者クラブの弊害に根拠に、「日本のメディアはメディアとして機能していない」という自身の論点を述べて、これを世に投げかけ、メディアのありかたについての議論を即す、というのであれば、ジャーナリストとして正しい事をしていると私は考えます。
しかしながら、この議論を元に、たとえば「日本国民の大手既存メディアにたいする信頼が完全に崩壊する」という、ある社会的変化をあからさまに期待するか、そうした社会的変化を仕向けるためにこのブログを使って情報発信をしていたとすれば、それはやはりプロパガンダの一種にしかならないのではないのでしょうか。権力支持か反権力か、というベクトルの違いがあるというだけであり、内包している本質的なものは何も変わらないと思います。ですので、以前の記事で「根拠の無いメディアに対する信頼など簡単に崩せると考えていた」ともお嘆きになっていましたが、もし、「信頼を崩す」ということを目的としていたのであれば、それはジャーナリストの道から大きく外れた行為であると思います。
ジャーナリストとは、あくまで社会の上での議論の発掘者、促進者であり、社会変化の促進者であってはいけないと思います。自分が報道した事実、投げかけた議論の行方を、腰をすえて見守る度胸と忍耐を持たねばならない職業であります。
市民が社会を動かしていく能動者であるなら、ジャーナリストは究極の受動者であるべきでしょう。中司さんのこの記事のお嘆きは不適切かと存じ上げます。
ずけずけと、私見を述べてしまい申し訳ありませんでしたが、中司さんにとっても、このブログを読んでいる皆様にとっても参考になるものと考えて、この大江川投稿しました。ご掲載よろしくお願いします。
しかし、近年、その化けの皮も剥げはじめています。それでも、メディアに対して不満を持ちつつも、まだ期待している国民は多いようです。それは、メディアというものに与えられた上記のような強烈な固定観念のせいでしょう。
メディアというのは、民間企業群にすぎません。他の企業と同じように、国家の規制と監視の中でしか、企業活動ができません。そのような、民間企業が不偏不党、公正中立であると保証するものはどこにもありません。メディアはあくまで国家の付属物です。メディアの役割とは、国家に都合のよい方向に国民意識を誘導操作することです。
メディアが国家から独立することはありません。したがって、ジャーナリズムを云々すること自体が無意味です。われわれがなすべきことは、メディアに対して持っているステレオタイプ的な観念を捨て、メディアを監視し、その誘導操作を排除することです。
メディアが国家から独立することはない以上、メディアの変革はありえません。ブログが、こうしたメディアにとってかわり、その権威を弱める役割を演じるかと期待していたのですが、そういう期待は持てそうにないです。まだまだ、メディアに対する固定観念が強いようです。