ジョージィのおとなりさんたち

【個人史】「人生って、とっても楽しいもの」
そんな風に感じている今日この頃。Blogでメモっておきたい。

ジョージィの住環境と略歴(2)-2

2006年08月23日 17時33分50秒 | Weblog
何故、あまり親しくない人たちが(テレビを看に)来ていたのかを考えていたら思い出した。
私に対する父親の行動が背景にあった。

以下は母が話した内容である。
母の妊娠が判った時、「子供は嫌いだから堕してこい!」と父に云われたと言う。
母も素直に病院に行き「堕胎して欲しい」と頼んだところ医者から懇々と説教され、堕胎もしてもらえず、どうしたものかと困り果てての帰宅途中の夕方のこと、
近道の児童公園をしょんぼり歩いていると一人の暴漢が現れたそうだ。
抵抗したが無駄で、もうダメかと思ったとき「私のお腹には赤ちゃんがいる」と言うと、その暴漢ははじき飛ばされたかのように飛び退き、土下座して何度も何度も謝りながら去って行ったのだそうだ。

家に帰り、父に一切の事を話すと父も堕胎を諦め、私が誕生したという。
生まれてみると「子供は嫌い」と言っていた父が一番の子煩悩になったのだと。

私は成長し、近所の子供たちは市立の保育所(当時幼稚園は無かった)に行くのだが、私はひとりで遊ぶ方が楽しいので毎朝徹底的に逃げ回っていた。
しかしいつも捕まり、毎日泣きながら父の自転車の後ろに乗せられての強制登校(登所?)となった。嫌なことだからいまでもはっきり記憶がある。

そんな風だから、小学校に上がっても学校が嫌でたまらない。
授業が終わっても、皆と遊ぶよりひとりで遊ぶのが楽しいのだ。
木ぎれをノコで切って船型を作り、写真の川であれこれ工夫して遊んでいた。(おかげで「流体」に関する授業は人一倍理解が早かった)

私が「集団生活」に弱いと気づいた父は一計を案じ、勤務先から娯楽用の 16mm 映画を借りだし、自宅で映画会を開いたのだ。
最初は私の親しい友人だけを招いたが、評判を呼び 映画会は毎月開かれた。
父はガリ版でチラシまで作り、近所の誰にも声をかけたので大人も子供も 狭い部屋一杯に身体を寄せ合っての映画鑑賞会となったのだ。
また、新し物好きの父はあらゆるネタを探し、私は珍しい機械に強い興味を抱くようになった。

父のおかげで、私が道を歩けば近所のおじさんおばさんが声をかけるので大人たちとも誰とでも話をするのに抵抗はなくなり、同年代の友人らと遊ぶ楽しさも知った。

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'08.08/07 <女性を護る>出来ごと.. (母の回想)

ジョージィの住環境と略歴(2)

2006年08月23日 13時10分25秒 | Weblog
最近古い写真等を探しているのだが目的のものがなかなか見つからない。 目的のモノは見つからないのだが、珍しいものが出てきた。 以前母が「不要なモノを捨てていたら、こんなのが出てきた」と送って来たネガを焼いたモノだ。



時代は1960年代初頭頃だと思われる。 地方都市の中心である駅から1キロくらい離れた場所。 8月3日のBlog に記した住まい から奥へ50mほど離れた川にかかる橋の上だ。 (手前にある道路は現在、片側3車線ほどの大きな道路に変わっている)

川と言っても 用水路なので川幅は広くはない。しかし水量が多いので流れは早い。
この下流の百メートルほど先には 天然ワサビが群生していて誰でも自由に採っていた。私もよく 父のワサビ採りにつき合わされたものである。

母が座っているのが橋の4端を示す丸太のひとつである。
橋には欄干が無いからこの丸太と丸太の間を目印にして渡るのだ。 増水時を考慮して通常時でも橋上から川面までは1m以上もあるし、何か(事故等が)あっても運良く歩いている人はごく希だ。

たとえ小さな子供であろうと もし落ちたなら自力ではい上がる必要がある事は理解せざるを得なかった。 板張りの橋はところによっては穴(フシ)が空いているし、補修の板を打ち付けたところは出っ張っている。
子供心にも川を越えるときには 毎回必死の決意をして渡っていたものだ。

<持つ人が持たない人の為に>
写真を撮っているのは父ではない。
我が家は貧乏公務員であったから、たぶん仲良しだった友人のお父さんではないかと思う。

昔は持っている人が、持たない人のために何かするのはごく当然だった。

このときも母が頼んだか、私の友人のお父さんが気を利かせて記念写真を撮ってくれて、そのネガを渡してくれたものであろう。

後年、別な友人の家でテレビを買ったことで、私は連日あそびに行っては夕飯までも御馳走になってくるので、「迷惑をかけるから..」と我が家にもテレビが来た。 我が家にテレビが来ると、そんなに親しくないご近所さんでも「テレビを看せて」と気軽に頼みにくる時代だった。

外出中にトイレに行きたくなっても平気だった。
全く知らない家であってもノックをし「トイレ貸してください」と頼めば良いのだ。 1965年頃の団地住まいの時も、全く知らない人たちが我が家のドアを叩き、「トイレ」を頼みに来るので、その時には当然のごとく貸してあげていた。

<電話さえも..>
後年移り住んだ団地内のたった一件のスーパーには電話があった。 もし団地内に住む人と話がしたければ、スーパーに電話をかけ「○○棟△△号室のXXさんをお願いします」と頼めば店員さんはその家まで呼び出しに行ってくれるのだ。それがしごく当たり前だった。

この写真は私が、「将来の日本は変わる」と気づく8年ほど前の写真である。