歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈





江戸魚市場めぐり、最後は日本橋を離れて芝の雑魚場。上の地図(1857年)で沙濱と記されている辺り。
もともと竹柴、それが柴となり、さらに芝という地名になったそうです。江戸時代には芝浜とも称されました。ここに雑魚場と呼ばれた魚市場が置かれ、芝浦近海で獲れた魚(芝肴)の商いが行われていました。
現在のJR田町駅の東北、駅から歩いて5分くらいのところ。実はこの辺り、数年前までの勤務地。転勤となって以来、久々に訪れたのでした。懐かしい~。

【芝雑魚場跡1】

オフィスビルや高層マンション、そしてJRの高架に挟まれた細長い地が公園(本芝公園)となっています。ここがかつての雑魚場跡。港区によって案内板が建てられています。
この地で水揚げされる魚は芝浦で獲れる魚という意味で芝肴と呼ばれ、美味・新鮮との評価を得ていました。小魚や魚貝類が中心だったようです。中でも芝海老は珍味とされたとか。現在では芝浦で芝海老はほとんど獲れないそうです。
公園の向こう側の高架がJR。江戸時代で言うとちょうど海岸辺り、やや海側に入ったところを現在の線路が走っているようです。

【芝雑魚場跡2】

本芝公園も昭和40年代あたりまでは海岸だったそうです。漁が行われなくなり海水が滞留していたため、埋め立てて公園としたとのこと。それ以前には料亭や芸妓屋などもあったそうで花柳街として賑わいを見せていたのだとか。
私が芝に勤務していた頃には、もちろん海岸線などありませんでしたが、この公園の道沿いはいかにも裏道という感じで、昭和を髣髴とさせる民家や食堂が並んでいたような記憶があります。公園ももっと寂れた雰囲気でした。そうか、あの昭和レトロな雰囲気は花柳街の残り香みたいなものだったのかな。
それが高層マンションとなり小奇麗な公園となったのは、ここ10年くらいのことだったかと。

この付近で江戸の魚市場だった名残りは見出せません。公園に案内板が設置されているので、ここで昔を偲ぶしかなさそうです。海岸線も当然のごとく今では本芝公園から見ることはできませんが、JRの高架下へ続く細道が微妙に下り坂になっているのは、かつての海岸線の名残なのかな?(上の写真「芝雑魚場跡1」に写っている右側の道路です)

【御穂鹿嶋神社1】

雑魚場跡に面して御穂鹿嶋神社があります。上の江戸時代の地図、鹿嶋明神が記されている位置と同じ場所。寛永年間に小さな祠が浜辺に漂着し、その由来を調べてみたら、何と常陸の鹿島神宮から流れ着いたとのこと。そのままこの地へお祀りしました。まさにここが海岸線だったことの生き証人(いや、生き神様かな?)。
現在は本芝の産土神・御穂神社を併せてお祀りしています。

【御穂鹿嶋神社2】

境内には別に小さな社があり、そこに住吉社も。航海の神様をお祀りしていることからも、かつてこの地の人々が海と密接に結びついていたことが察せられます。

【鹿島神社(江戸名所図会)】

海に張り出す形で鹿嶋神社があります。その右側が雑魚場ということになるのでしょうか。


そんなところで、私の江戸魚市場めぐりはひとまず終了。電車で簡単にまわれる範囲です。
記録に残らないような、それこそ日々の生活に密着した小さな魚市場的な場所もまだあったのかもしれません。
そういった庶民に密着した場所をまためぐってみたいものです。
いつか青物市場もめぐってみよう…。




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