日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】八王子城攻略記(4)-戦い終えて、追記やら何やら-

2018-08-26 | 新参者の八王子探検



八王子城攻略記(1)-御主殿へ向けて、いざ出陣!-
八王子城攻略記(2)-御主殿制圧!-
八王子城攻略記(3)-激闘!猛暑の本丸攻め-

煽るようなタイトルばかりでしたが、まぁ、何とか八王子城を攻略できました。で、それまでは八王子城にも、北条氏照にもさして関心がなかったのですが、こうなると、やはりいろいろと興味がわいてくるのです。単に八王子繋がりということではなくて、思い入れが深くなるといった感じ。

八王子神社で、7、8回登城しているという(多分)マニアさんに出会ったのですが、そのとき、
「ツメノシロには行きましたか?」
と聞かれました。
はい?ツメノシロ?爪?
本丸よりさらに奥へ尾根伝いに進むと、最後の最後、いよいよの時に籠る「詰の城」があるのだとか。そうか、そう言えば八王子城は大きすぎて、落城時にも未完だったとも聞きました。この日私とW氏が廻ったのは、その広大な山城の極々一部だけだったわけですね。
これは日を改めて、再度行かないわけには…と思うのでした。そうなると、やはり事前に下調べが必要になります。今回は初めてだったので、行き当たりばったりでも許されましょうが、次回はきちんと攻略プランを立てて臨みたいものです。


【八王子城j攻略プラン】


■攻略プラン(1)今回見落とした曲輪などの遺構の確認
「松木曲輪」
「小宮曲輪」
「詰の城」
もう一度行ったくらいでは、全貌を攻略するのはとても無理。せめて次回は、現地のパンフレットにも載っている松木曲輪や小宮曲輪、それに詰の城あたりは攻略したいものです。

■攻略プラン(2)根古屋地区の攻略
「宗関寺」
「北条氏照の墓」
八王子城址には「居館地区」「要害地区」の他にもうひとつ、家臣たちが居住した「根古屋地区」があります。今回はノーマークだったので、次はゆっくりと歩いてみたいものです。ちなみに氏照の墓は、彼の家臣だった中山勘解由の子孫によって、江戸時代中期に建てられた供養塔のようです。

【(参考)小田原市の北条氏政・氏照の墓所】


(参考情報)
こちらは小田原にある北条氏政・氏照兄弟のお墓です。2013年に訪れたのですが、墓所のフェンスには鈴がたくさん結わい付けられていました。「幸せの鈴」だそうです。領民のためを思って開城した氏政・氏照の優しい心が鈴に宿っていて、願い事をして鈴を持ち帰り、願いが叶ったらその鈴を結びに来るのだそうです。氏政・氏照への供養にもなります、とのこと。鈴は確か近くのお店で購入する(500円くらい)…だったかな。

■攻略プラン(3)城下町の旧跡確認
八王子城時代の「八幡宿」「横山宿」「八日市宿」
「月夜峰」
「下原刀」関連
旧城下町の面影は皆無と言ってよいようですが、わずかに地名やバス停に、在りし日を偲ぶことができそうです。落城後、城下の八幡宿、横山宿、八日市宿がそっくり移転して江戸時代の八王子宿が成立しました。
月夜峰は、城の東側、氏照が月見をしたと伝わる丘陵。今は宅地化され、学校の広大な敷地にもなっているようです。下原刀は、戦国時代から幕末にかけて、この地方の刀工集団によって作られた刀です。北条氏とも繋がりが深く、頭領は氏康の「康」や氏照の「照」の字を拝領して名乗っていたそうです。明治以降断絶していましたが、最近、復活したとのこと。
街道歩きをしている私にとっては、このプランが今のところいちばん興味ありなのです。


【江戸時代の八王子城】


落城後、八王子城は放置プレイだったようです。城下町は新しく建設された八王子宿にごっそりと移転となりました。これが今の八王子中心街に繋がります。
江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」には、旧跡として八王子城跡の項が立てられ、「武蔵名勝図会」にも「八王子古城跡」となっています。



ちなみにちょくちょく引用した両地誌ですが、「武蔵名勝図会」を執筆した千人同心組頭の植田孟縉(うえだもうしん)は、「新編武蔵風土記稿」の編纂にも携わっていたので、両書の内容はほぼ同じような感じです。幕府の公文書的な「新編~」よりも、個人的に執筆した「武蔵~」の方が、若干細かいというかマニアックな感じがしないでもありません。現代風に言うなら、「新編~」は役所が公開しているホームページ、「武蔵~」は個人的ブログといったところですかね。


【八王子城でイベントを!】


実際、八王子城を見て、それなりに興奮して帰ってきたわけですが、あれから数日、ちょっと冷静になって思うことは、八王子城の魅せ方をもっと工夫してもよいのでは?ということです。「八王子城精密ルートマップ」を執筆した堀籠隆さんは、八王子城は巨大なテーマパークと位置付けています。確かにテーマパークとは言い得て妙。テーマパークなら、それなりのイベントでアピールを!ということで、私も即興で考えてみました。

■イベント案(1)御主殿跡で薪能
居館地区の発掘調査で明らかになった、御主殿や会所、庭園などの主要遺構は埋め戻され、復元された礎石が調査に忠実に配置されているようです。ならば、ここは建物自体を復元してしまってもよいのではないでしょうか?会所で薪能でも開かれたら風流ですね。氏照の横笛にちなんで、笛の演奏会なんかもいいかも。
但し、建物を復元するのは居館スペースのみとして、要害地区は崩れた石垣や古道などの復元・整備までとしてほしいです。いくら観光アピールのためとはいえ、ありもしなかった天守閣や、誇張された櫓を建てたりするのはご勘弁を。

■イベント案(2)関東北条家狼煙リレー
本丸から狼煙をあげて、どこまでつながっていくか?関東の主要な城跡(北条家にかかわる城が望ましい)で狼煙リレー、秀吉が攻めてきたぞ!ってね。

■イベント案(3)北条三兄弟駅伝大会
小田原(氏政)~八王子(氏照)~寄居(氏規)間での駅伝大会。全走者は無理でも、スターターとアンカーが甲冑姿、途中で風魔党の忍者姿などあれば尚可。初日は小田原~八王子、2日目が八王子~寄居(あるいはその逆)と、2日間に分けて走るのがいいかも。
これは交通規制が必要なので、周辺各市町村の協力が絶対条件ですね。

■イベント案(4)送り火・ライトアップ
例えば落城した6月23日に、本丸や各曲輪にキャンドルや篝火などで、送り火やライトアップするのはどうでしょうか?(無遠慮なサーチライト的なものは不要)
ただ、見栄えをよくするには雑木をある程度伐採しなとダメかもしれないので、そうなると、簡単そうで実はいろんな方面との調整が必要となり、思った以上に難しいかも?自然保護という面からも、伐採による降雨時の災害のおそれ(地すべりとか)という面からも、調査が必要でしょう。お金かかりそうだな…。


【八王子城のアピール状況について】


上記、イベント構想(妄想?)でも書きましたが、盛り上げるにあたっては八王子市の後援(というより主導…要はやる気)が必須です。それも積極的な。八王子城は国の史跡なので、国も巻き込まないとダメなのかもしれません。実際に城を訪れてみて感じたのは、市当局者は(国はいったん置いておいて)、果たして積極的に八王子城をアピールしようと思っているのかな?ということ。
ボランティアの活動は活発なようですが、例えば草茫々の曲輪。御主殿さえも草が伸びていました。崩落の危険性がある古道や石垣。伐採された木が遺構を崩しているとも言われています。
八王子市って、観光客にアピールするものがたくさんあるのに、それが生かし切れていない印象。高尾山のアピールに全精力を傾けているのかな?八王子まつりですら、市外に対しての発信はそれほど強力ではない感じですし。
昨年の市制100周年でも、いろいろなイベントがあったものの、すべて単発って感じで、市をあげて(1年間通じて)盛り上がったかというと、それほどでも…ってとこでした(どこの市町村でも、市制〇〇周年イベントなんて同じような状況でしょうけど)。
この八王子城、八王子宿、大久保長安、千人同心、松姫(武田信玄の娘)etc。歴史ネタだけとってもけっこうあるのに、もったいないなぁ…と、思うのです。

八王子市担当者の方、偶然にも読んでくれたら、ちょっと考えてみてくださいな。


【八王子城主・北条氏照】


八王子城主・北条氏照についても、ちょっとだけ調べてみました。
父は北条氏康、母は今川家の出身。兄が4代目当主・氏政。弟に鉢形城主・氏規(うじのり)。八王子近辺の豪族・大石氏の養子となって、この地へやって参りました。ここから北条氏の北関東進出を、グイグイ主導していったそうです。そんなわけでバリバリの武闘派か思いきや、月見の宴を催したり、横笛を奏したりと、なかなかの教養人だったような雰囲気も。外交手腕にも優れていたらしい。そんじょそこらのヘナチョコ大名たちより、よっぽど優秀な武将だったようですぞ。
秀吉の小田原攻めの際には小田原城に籠城し、八王子城は家臣が守備していました。結局、八王子城は陥落、小田原城も降伏し、氏照は主戦派と目され、兄・氏政とともに切腹させられました。合掌。


【最恐心霊スポット説について】


写真は御主殿の滝で撮影したもの。映っているのはオカルト番組でお馴染みのオーブ(霊魂)なのか?
ま、それはさておき、八王子城は心霊スポットとしてまことしやかに囁かれています。このブログ記事を書いている今(2018年8月25日)、Yahoo!のトップに行ってはいけない心霊スポット云々の記事があり、バッチリ八王子城が登場していました。

で、実際のところはどうなのでしょうか?

霊感がまったくない私が言うのもなんですが(今までに若干の不思議体験がある程度です)、昼間に行く分には、そんな雰囲気は微塵もありません。ペット連れで散歩している人も結構います。
ただし、夜は行かないほうがよいかと。
なぜならば…
噂ですが…
本当に怖いのは幽霊ではなく、夜、たむろしている地元のヤンキー兄ちゃんたちなのだそうです(もちろん私は夜に行ったことがないので噂です、悪しからず)。ま、逆に言えば、このお兄ちゃんたちが平気なのだから、呪いとか祟りとかはありません…ということの証明になっているのかな。

そもそも夜に行っても何もすることがない場所です。まかり間違って、私のイベント案が採用されることにでもなれば別ですけどね。




そんなわけで、一連の八王子城攻略記はとりあえず終了。今後あらたな動きがあれば、続編を綴ってみるつもりです。その際は再びお付き合いいただきたく。
また、八王子城に関してはど素人の私です。間違いや最新情報などがあれば、それとなくご教示いただければ幸いです。

-八王子城攻略記・完-


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【note】八王子城攻略記(3)-激闘!猛暑の本丸攻め-

2018-08-19 | 新参者の八王子探検

【管理棟】


八王子城攻略の3回目。前回までに御主殿を制圧し、残るは標高460メートルの山頂で我々を待ち受ける本丸のみとなりました。

八王子城攻略記(1)-御主殿へ向けて、いざ出陣!-
八王子城攻略記(2)-御主殿制圧!-

御主殿の滝から、いったん管理棟へと引き返し、駐車場前の自販機で飲み物を補充。夏場、とくに飲み物は必須です。この先、もちろん自販機などありません。ここが給水ポイントです。W氏も私も500mlのペットボトルを2本を購入、万全の態勢で臨みます。
管理棟前で枝分かれしている道を、今度は右手へ進み、山頂の本丸を目指します。ちなみに管理棟のおじさん曰く、本丸までは普通は40分程度だけど、今日は暑いから50分くらいかかるかなぁ…だそうです。

普段、運動不足のW氏と私。この猛暑の中、50分の山道を突破して、無事に本丸攻略を成し遂げられるのか…。


【本丸への登城ルート(現地の野外模型より)】


登城ルートの確認。下部中央のトイレマークのある場所が管理棟。ここから、9金子曲輪→10柵門跡→12高丸→15八王子神社→16本丸という、一番真っ当なルートで攻め登るとしましょう(標識などに沿って行けば、結果的にこのルートを進むことになります)。


【本丸への登城口】


さて、いよいよ攻略開始です。登城口の八王子神社の鳥居の向こう、本丸への山道が続いています。
本丸へのルートはいろいろとあるようですが、中には崩落の可能性があったり、極端に道幅が狭かったりと、危険な道もあるそうなので注意が必要です。管理棟のおじさん曰く、年にひとりくらいは滑落して救助を求められる。ご油断なきよう、とのことでした。
前述のとおり、私たちは一番オーソドックス、それこそ道なりに進んでいけば本丸へ到達するコースをとりました(新登城道)。ところどころに休憩のためのベンチがあり、道標も設置されているので安心です。
ここで、家族4人連れが行こうか、行くまいか迷っていましたが、結局断念した模様。そこの奥方様、日傘をさしたまま本丸を目指そうなどと、ちょっと無理ではありませぬか?


【金子曲輪(金子丸)1】


登り始めるとすぐに金子曲輪。パンフレットには、「尾根をひな壇状に造り、侵入を防ぐ工夫がなされている」とのこと。石段を登りながら、ひな壇状の曲輪を着実に制圧していきます。ただし、当日は「ひな壇状」を確認するほどの余裕はすでになく(この時点で早くもヘタレ始めていました)、黙々と攻め登ったのでした。


【金子曲輪(金子丸)2】


登城口から、ひな壇状に造られた金子曲輪の最上部に到達するまでに、約10分少々。曲輪は山道を除き夏草が茫々と生い茂っている状況。

この曲輪、攻城戦では金子三郎右衛門が守備していました。

「金子郭 金子三郎右衛門家重が籠りし廓なり。一の丸なり」
「金子三郎右衛門家重は義を鉄石に比し粉骨を砕き相戦って終に生害す」
(「武蔵名勝図会」)

「利家父子しきりに下知して士卒をすすめ、金子丸を乗とり、金子三郎右衛門を討取けるにぞ…」
(「新編武蔵風土記稿」)


【金子曲輪(金子丸)3】


休憩用のベンチが早くも我々を誘います。攻城戦はまだ始まったばかり。休んでいる場合ではないのですが、すでに息があがっています。


【柵門跡1】


金子曲輪からさらに10分程度で、柵門跡に到達。
現地の案内板によると「山頂の本丸方面へ続く道の尾根上に築かれた平坦地で柵門跡と呼ばれています。名前の由来など詳しいことは不明です」とのこと。ここに門や木戸でもあったかのようなネーミングですね。


【柵門跡2】


ここで道は二手に分かれます。左(八王子神社)が目指す本丸ルート。右(松竹バス停)へ進むと城の搦め手(裏口)へ抜けます。上杉景勝はこの搦め手から攻め寄せました。
ちなみに搦め手辺りは滝の口(滝の沢)とも呼ばれていたそうです。氏照がそれまでの滝山城から八王子城に居城を移した理由のひとつに、「滝」は落ちるので城には縁起が悪いから、というものがあったとかなかったとか。なので、滝の口という地名も霧降ヶ谷に変えてしまったそうです。「滝」という地名があると落城するなんて俗説だろ…と、「武蔵名勝図会」ではバッサリ。

「6月23日、北国勢朝がけに八王子の町口を押破り、霧間がくれに張番の軽卒等を撫切にし、追て城外へ詰よせたり」(「新編武蔵風土記稿」)

霧降ヶ谷というネーミング、ちょっと洒落ていますが、その「霧」に乗じた攻城軍に「降る」ことになった八王子城。地名を変えてみたものの、かえって逆効果だった?

さて、この辺りが登城口からの中間地点。あとまだ400メートルもあるのか?平地の400メートルなんて、なんでもない距離なのに、この山道の400メートルは、かなりきついぞ。そんなわけでここでもベンチでひと休み。息があがっているうえに、太ももがパンパン。口数も少なくなりました。予想していたとはいえ苦戦中。この先に大いに不安を抱く私たち攻城兵二人組なのでした。


【高丸】


柵門跡から10分少々、高丸に到達。地図で見ると、だいぶ山頂部に近づいているようです。高丸に関しての具体的な説明はありませんでしたが、数多い曲輪のひとつなのでしょうか。


【見晴台】


すでに攻城半ばで心が折れかけてきた私たちですが、すれ違う人たちは、この先に絶景の地があるから頑張りな、と励ましてくれました。
それは…(ハァハァ)、きっと…(ヒィヒィ)、山頂本丸からの眺めだよね…(フゥフゥ)、結局、そこまで行くのかい…(ヘェヘェ、ホォホォ)、と、口には出さなくても、もう許してくだい状態だった私たちの前に、噂の絶景の地が突然出現。
高丸から本丸方面へ歩いてすぐのviewポイント。
まさに関東平野を一望。写真ではわかりませんが、八王子中心街の向こうに新宿のビル群。スカイツリー、そして遠く筑波山まで確認できました。W氏曰く、常陸(茨城県)の佐竹が筑波山で狼煙をあげたら、ここから確認できるよなぁ~と。この眺望、関八州の雄・北条家の面目躍如といったところですね。


【中の丸】


見晴台からすぐ、中の丸に到達。最早、攻城軍というよりも、敗走兵の雰囲気を醸し出している私たち。攻め込むというより、ヘロヘロになって逃げこんできた、という表現の方が合っているかもしれません。

それはさておき、ここは本丸のすぐ下にあたり、中山勘解由が守備していました。

「勘解由ヶ丸 中山勘解由家範が籠りし廓なり。中の丸とも号す」
「前田慶次利太乱軍を纏めて再び中の丸へ攻めかかる処に、中山勘解由家範は武篇場数の驍士…八州無双の達者なれば、大軍に屈せず、城辺まで敵を引き付け矢炮を発して寄手数百人を討ち殺す」
「中山勘解由は勇兵二百ばかりにて数回突いて出て猛勇を振いけれども、その勢次第に討ち死し、いまはわずかに十六人に及べり」
(「武蔵名勝図会」)

寄手の大将・前田利家は、勘解由の奮戦ぶりを大いに称賛して、命を助けようとしたものの、すでに妻とともに自害したあとだったそうです。この時の奮戦ぶりが家康にも評価され、勘解由の長男・照守は取り立てられて幕府の槍奉行を勤め、次男・信吉は水戸徳川家の家老となり、ついには大名の地位を手に入れました。兄弟による華麗なる敗者復活です。


【本丸周辺の曲輪(現地案内板に赤字で加筆)】


中の丸を中心に、本丸の下には守備を固める曲輪が配置されています。小宮曲輪は、狩野一庵が守将として籠りましたが、ここが突破されたたことで、早々の落城に繋がったとされます。

私たちも他の曲輪へも攻め込むべきか?
いえいえ、そんな気力も体力も、もう残っていないことは先刻承知でしょう…。


【八王子神社1】


他の曲輪の攻略は断念しても、本丸だけは落とさないわけにいきません。中の丸からさらに裏手へまわり、重い足を引きずりながら、見えてきたのは八王子神社。そう、この神社こそ、この地が八王子と呼ばれる起源と言われています。


【八王子神社2】


八王子神社の起源は、平安時代にさかのぼります。
昔々、あるところに妙行という僧がおりました。妙行がこの地(深沢山)で修業中、牛頭天王(ごずてんのう)と、その眷属神である8人の王子が現れました。彼は周囲の峰に牛頭天王と8人の王子を祀る祠を建て、それがこの地で八王子信仰として根付いていきましたとさ。おしまい。

■牛頭天王
インドから中国を経て伝来。もともとは疫病神の性格を備えていたが、後には疫病や農作物の害虫、その他の邪気を退散させる神として定着。

■牛頭天王の8人の王子
人間の吉凶を占う方位の神。もともと牛頭天王の眷属神だったが、そのうち牛頭天王から独立した形で信仰されるようになった(八王子信仰)。

氏照が城を築いた際に、ここに古くからあった八王子神社を鎮守としたため、八王子城と呼ばれるようになったと言われています。まさに、ここが八王子市民のルーツと言ってもよいかもしれません。
尚、ご神体は落城時に城兵が奉戴して逃れ→洪水で流出→近くの農民が発見→現在の八幡八雲神社に遷座、八王子宿の氏神様として信仰され続けていきます。


【古井戸】


神社の脇に古い井戸があります。八王子城時代のものでしょうか。井戸の上を金網が覆っていますが、とくに標識などはないので、踏み抜かないように注意してください。


【本丸1】


八王子神社のある中の丸から、いよいよ最終目的地の本丸へ。ここまで来れば、あと、もうひと踏ん張り。神社の裏手の高みへと登っていくと…。


【本丸2】


お、お、お、お、お-----、ついに到達!
ここが天下に名高き八王子城の本丸跡。
苦戦しながらも、本丸へたどり着きましたぞ。

おお…ここが八王子城の本丸か…。感無量です!


【本丸3】


本丸は横地監物が守備していました。

「本丸跡 三十間四方の地。この辺に石雁木、築地などあり」
「城将の内、横地監物は切り抜けて死を遁る。横地はこの場を切り抜けて、檜原村の山中へ入って自殺すると云」
(「武蔵名勝図会」)

「藤田能登守信吉、甘粕備後守清長等、前登りし本丸へおし入り、散々に責めかかりければ、大将横地監物防ぎ兼て落ち行けるにぞ」
「利家、景勝眉目を施せしと云々」
(「新編武蔵風土記稿」)

そのスペースは思っていたよりずっと狭い。この敷地内に何か建てられるとしたら、いいところ、簡単な物見櫓程度かな?生い茂る木々のため、見晴らしはまったくきかず、本丸跡の石碑と小さな祠があるのみです。
それでも、ここで最後の決戦が行われ、八王子城はその短い役割を終えたんだよなぁ…と思うと、胸に迫るものがあります。


【本丸4】


いやはや、私たちもなんとか本丸を攻略して、「眉目(面目)を施せし」となりました。
登城口から本丸まで、何度も休みながら費やした時間は約50分。管理棟のおじさんの予想攻略時間、まさに大当たりでした。
しかし、私もW氏も口には出さなかったものの、途中で何度、攻略を断念しようと思ったことか。
山頂本丸には、下界の猛暑が嘘のような涼しい風が吹き抜けていました。登城中は強烈な陽射しも木々に遮られ、あまり苦にはならなかったというのが正直なところ。結局、これほどまでに苦戦した理由は、単に普段の運動不足ということなのか…。


本丸からの下山は、足取りも軽く、約35分程度。
管理棟の水道で顔を洗った時の、あの清涼感!
管理棟のおじさん曰く、え?上まで行ったの?いや~本丸までよく行ったね~、実は無理じゃないかと思ってたんだよね~、とのこと。ほんと、途中で引き返さなくてよかったです。

再度言おう、「眉目を施せし」と。


■■余禄■■
八王子城を攻略し、気分を良くした私たちは、その余勢をかって滝山城攻略をもくろみました。
しかしながら、滝山城大手口は「近年まれに見る大きさのスズメバチの巣が発見されたため閉鎖」(←こんなニュアンスでした)されていて、勢いに乗った私たちでしたが、滝山城スズメバチ守備兵にあっさり撃退されてしまったのでした。


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【note】八王子城攻略記(2)-御主殿制圧!-

2018-08-18 | 新参者の八王子探検



八王子城攻略の第2回目です。前回は御主殿へ到達するまででした。いよいよ城の中枢の攻略にかかります。

前回はこちら→ 八王子城攻略記(1)-御主殿へ向けて、いざ出陣-


【御主殿跡全景】


当時の門をイメージして作られた冠木門を潜ると、広大な御主殿跡が広がっています。御主殿は城主・北条氏照が生活した区域と考えられます。ここの主要遺構(発掘後、埋め戻されていて、現在は調査をもとに復元・整備されています)は、正面の御主殿とその奥にある会所。


【御主殿跡の遺構分布図】


現地の案内図に主要遺構を大雑把に書き入れてみると、こんな感じになります。


【御主殿跡】


門を潜ってまず正面に位置するのが、氏照の居館である御主殿。平屋建てで広さは15間半×10間(29.4メートル×19.8メートル)、屋根は板葺きか檜皮葺きだったようです。氏照はここで政務を執り行ったとのこと。発掘された礎石が復元されて配置されています。調査後、礎石は埋め戻されたとのことなので、オリジナルではないようです。


【会所】


主殿を右手に奥へ進むと会所があります。ここは宴会などを行った建物と考えられるそうです。広さは11間×6間(20.9メートル×13.3メートル)。御主殿と同様、平屋建てをイメージしている模様。御主殿とは廊下でつながっていたようです。


【会所の間取り】


調査をもとに床の間取りが復元されています。


【庭園】


会所の北側に石を配した庭園がありました。居館地区の北側には本丸をはじめ曲輪が連なる尾根があります。この山を借景とした枯山水の庭園といったところでしょうか。現在は鬱蒼と木が生い茂っているため、脳内でイメージをフル稼働させましょう。
氏照は教養も高い人物だったようなので、この庭園を眺めながら風流な宴が開かれたのでしょう。そう言えば、何となく越前朝倉氏の一乗谷を思い起こさせます(一乗谷に行ったのは、もう25年以上前のこと…)。


【会所から眺める庭園】


「武蔵名勝図会」によると、氏照は横笛の名手で大黒と名付けられた立派な笛を持っていたとのこと。
「陸奥守氏照は横笛の上手にて、在城閑暇の時みずから横笛を吹き臣下に乱舞致させ興を催されける…」
この大黒は、「金の高彫りをすえて、その形あるゆえに斯くは名付るところなり。この横笛は天下の名器にて、これに対する名管は神祖大君(家康)御秘蔵の獅子と号する名管なり。このニ管を天下の名器とす。」
残念ながら、天下の名器・大黒も落城の際、炎の中で城と運命を共にしたとのこと。ちなみに家康秘蔵の名管・獅子も1605(慶長10)年の駿府城の火事で焼失したとのことです。


【敷石通路】


会所の南側に建物に沿って、幅4.2メートル、長さ19.2メートルに渡り石が敷き詰められています。何らかの儀式に使われたと推測されています。通路には溝が2本ありますが、建物側の溝は会所の雨落溝(あまおちみぞ)と考えられ、もう1本は用途不明とのこと。


【舶載磁器集中出土地域】


会所の西側に隣接する東西約7.5メートル、南北約4メートルの区域から、舶載磁器(主に中国で焼かれた磁器)の破片が34,000点も出土しました。


【出土した舶載磁器(現地の案内プレートより)】


この遺構が何に使われたか不明と現地の案内プレートにはありましたが、同行のW氏曰く、
「台所じゃないの?」
なるほど!
会所(宴会所)に隣接していることを考えたら、そうかもしれませんね。思わず納得してしまいましたが、やはり素人考えでしょうか?


【ベネチアのレースガラス器】


実は私が海外旅行したのはたった1度。もう10数年前です。その時に行ったのがイタリア。ローマ、フィレンツェ、ミラノ、そしてヴェネチア。何といってもヴェネチアには魅了されてしまいました。ツアーだったのですが、自由時間に出歩いていたら思いっきり迷ってしまい、それがかえって迷宮都市・ヴェネチアを垣間見れて良い思い出になっています。今でもヴェネチアと聞くととっさに反応してしまうのです…。

で、突然のこの長い前振りは何かと言うと…。

八王子城からはヴェネチアのレースガラスの器の破片も出土しているとか。これは国内の城ではここだけ。う~ん、すごいぜ。氏照が求めて直接手に入れたものか、それとも信長や秀吉が、北条氏懐柔のために贈ってきたものなのか…。
いずれにしても戦国時代のヴェネチアのガラス器が八王子に。やっぱりすごいぜ。
(写真はパンフレットから転載)


【城山川】


さて、居館地区もほぼ制圧した我々、最後に目指すのは御主殿の滝。ところが、滝へ降りる道がわかりません。仕方なく御主殿を後にして、冠木門を出て曳橋を渡り大手門外へ戻って、そこから城山川沿いを江戸時代に出来た林道を歩いて滝を目指します。
林道は先程通った大手道と城山川を挟んで平行に続き、曳橋の下を通り、右手に御主殿のある高台を見上げるような形で滝へと向かいます。


【湧き水】


林道の途中、地面からの湧き水を発見。山城は水の確保が最重要課題のひとつだと思いますが、城山川をはじめ、水には恵まれた場所だったのでしょう。


【御主殿の滝1】


居館地区攻略の最後は、こちら御主殿の滝。御主殿から下ってすぐの位置にあり、滝の高さは3メートルくらいでしょうか。想像していたより低い滝でした。
そしてここ、知る人ぞ知る恐怖の心霊スポットとも言われているとかいないとか。
なぜここが心霊スポットと言われているのか?
それは落城時の悲劇の言い伝えにあります。城が落ちると、籠城した婦女子がここで自害して滝に身を投じ、その血で城山川は三日三晩、赤く染まったとか。

さらにこの辺りの言い伝えでは、

城山川の水で米を炊くと赤く染まった

落城の日には、あずきの汁で米を炊き、あかまんま(赤飯)の習わしを続けてきた

自刃した者たちは蛭となり赤い城山川を泳いでいった

城山川の蛭は村人に吸い付かないが、越後など北国出身のものには吸い付いて歩けなくしてしまう(城を攻めたのが越後の上杉勢、加賀の前田勢だったため)

などなど。

言い伝えはそれとして、この地で落城時に悲劇があったのは多分、事実でしょう。御主殿からすぐ下の滝へと追い詰められ、ここで自害したり討ち死にした武将や婦女子も多かったのかもしれません。そういう歴史的な状況を知った以上、ここを訪れるときには、軽く手を合わせる気持ちを持ってもよいのでは、と思います。

もちろん、私も手を合わせてきました。

合掌。


【御主殿の滝2】


「武蔵名勝図会」には
「御守殿淵 落城のとき本丸大奥の婦人、ここの川へ入水せし処ゆえ、この名を唱う。いまはただ谷川の流れありて、淵なし」
という記述があります。御主殿の滝のことでしょうか。


そんなわけで、御主殿の滝をもって居館地区は制圧完了。
いよいよ、本丸を目指して要害地区へとチャレンジするのであります。


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【note】八王子城攻略記(1)-御主殿へ向けて、いざ出陣!-

2018-08-16 | 新参者の八王子探検



2018年8月15日、晴、猛暑。
数年来の念願叶って、八王子城へ行ってきました。と言っても八王子市民の私、行こうと思えばいつでも行ける距離ではあるのですが。

まずは八王子城の概略を。
1582(天正10)年頃、八王子市西方の深沢山に北条氏照(小田原の北条氏康の三男)によって築城開始。氏照が拠点を移したのが1587(天正15)年頃、そして秀吉の小田原征伐で落城したのが1590(天正18)年。落城後は廃城となったため、築城から僅か10年も経たずに打ち捨てられた城です。
でも、ここは関東屈指の壮大な山城で(規模が大きすぎて、落城時にはまだ完成していなかったとも言われています)、「日本100名城」にも選ばれているほど。

その勇名は随分前から聞こえてきてはいたものの、100名城に選ばれるほどの城なのか?というのが、城に行くまでの率直な感想。
城マニアは、お城に行くことを「攻城」「城攻め」「登城」などと言うらしいので、私もそれにあやかって、八王子城を「攻略」しに、いざ出陣!
(尚、当攻城記はガイダンス施設で入手したパンフレットや地図におんぶにだっこ…いや、大いに参考とさせていただいています)

何?関東屈指の心霊スポットでもあるだろうって?
…さぁ、それはどうなんでしょうかねぇ…


【ガイダンス施設】


朝9時30分。職場のW氏(直属の上司で、街道歩きの旅の仲間でもあります)の車で八王子城に到着。駐車場に車を止めたらまずは隣接するガイダンス施設へ。ここは八王子城の概略がパネルやビデオで分かりやすく説明されていて、詳しい知識なしの我々にはとてもありがたかったのでした(もちろん入館無料)。
何々、北条氏照とは、文武両道に優れた名将だったのか…。
ほほぅ、八王子城築城の背景は、そういうことだったのか…。

入口には「北条氏5代を大河ドラマに!」の幟。そう言えば、似たようなものが、数年前に小田原に行った時にもあったぞ、と。ちなみに北条つながりで小田原市と八王子市は姉妹都市なのです。あと、埼玉県の寄居町も。


【管理棟前】


ガイダンス施設を出て、いざ城攻めへ!
まずは道なりに進むと管理棟へと出ます(ガイドさんとかの詰所的な感じ)。ここで道は二手に分かれます。管理棟の前を通って左へ進めば居館地区と称されている八王子城のメイン区域へ。城主氏照が住み、政務を執り、客を迎えた城の主要スペースの御主殿跡があります。そして右へ進むと、要害地区と言われる山頂(標高460メートル)の本丸跡、八王子神社へ。こちらは、いざ戦になった際、まさに要塞としての役割を担います。


【大手門跡】


まずは居館地区へ。
居館地区へ向かう道は遊歩道のように、とても歩きやすく整備されています。
管理棟から5分程度で大手門跡。発掘調査により門の礎石や敷石が出てきましたが、現在は埋め戻されているとのこと。


【居館地区へ向かう古道(大手道)】


大手門を過ぎて城内を進みます。右側には道に沿うように城山川が流れています。綺麗に整備されていますがこの道が築城当時の大手道で、川の反対側にもう一本、城内へと向かう道があるのですが、こちらは江戸時代の林道だそうです。


【曳橋(ひきばし)】


大手道から城山川を越えて御主殿へと向かいます。川を越える橋が架かっていますが、これは当時の橋を再現したものではなく、あくまで見学者用に掛けた橋とのこと。築城当時、川を渡る橋はもっと簡易なもので、敵が城内に攻め寄せた場合は、壊して侵入を防げるようにしてあったらしいです。
曳橋という名称は江戸時代の地誌「武蔵名勝図会」の記載によるものだそうです。
「曳橋跡 本丸の西に石垣ありて、幅9尺ほど、長さ3間ばかり、高さ6、7尺にて、橋台の跡なり。その下に谷川あり。その向こうは山崩れにて、路跡絶えたり」
ここで言う本丸とは、山頂の本丸跡ではなく御主殿のことで、谷川は城山川でしょうね。


【御主殿の虎口(こぐち)の石垣】


曳橋を渡ると御主殿へと続く虎口(曲輪への出入り口)。ここの石垣は築城当時のものをそのまま残してあります(埋もれていた石垣を発掘したままの状態にしてあるとのこと)。


【築城当時の石垣】


石垣に使われた石は、この山から切り出した砂岩で、積み上げた後、隙間へも小石を詰め込んで、より強固な造りにしてあるそうです。


【御主殿の虎口】


左手の土塁上が御主殿になります。城攻めとしては、ここを突破すると一気に八王子城の中枢を制圧ということになります。


【御主殿の虎口の礎石】


矢印の4か所に礎石があります。この場所に櫓門が建っていた可能性があるようです。


【御主殿の入口】


いよいよ御主殿に到達です。ここまで管理棟から約20分、大手門からは約15分です。
ここから先が城主・北条氏照の居住スペース。八王子城の中枢となります。

いざ、勇を奮って攻め込まん!


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【note】八王子まつり2018

2018-08-05 | 新参者の八王子探検



2018年の八王子まつりは、8月3日~5日、記録的な猛暑の中で行われました。その猛暑(酷暑)のため、一昨年ギネスブックに登録された16時からの民踊流しは中止。暑さで中止になるのは、八王子まつり始まって以来の事態だそうです。この日を待ちわびていた踊り手さんたちは残念でしょうけど、この暑さでは仕方なし、でしょうか。秋になって涼しくなったら民踊流しだけでも開催してあげればいいのにね。

【JR八王子駅北口・ユーロード入口】


駅前にも大きな提灯のゲート。3日間、居囃子も流れ、祭りの雰囲気は大いに盛り上がります。

【八日町付近の甲州街道】


土曜日夕方の甲州街道。すでに車の通行はストップしていて、人の波・波・波。歩道には夜店が並び、歩くのも一苦労な状況でした。

【山車巡行1】


祭りのメイン、山車巡行。夕刻から各町内の山車が勇壮な掛け声とともに練り歩きます。

【山車巡行2】


山車がすれ違う時、山車を寄せて囃子を競い合うことを「ぶっつけ」と呼ぶそうです。目の前での「ぶっつけ」は迫力満点です。

【山車巡行3】


会社の人に写真をメールで送ったら、山車の大きさにビックリしていました。会社はお隣の日野市にあるのですが、八王子まつりの名は知っていても、見たことのない人は多いようです。

【八日町1.2丁目の山車】


山車は近くで見ると勇壮にして繊細。山車を飾る彫刻が細かい。八日町1.2丁目の山車は、戦争で焼失したものを平成16年に再建したそうです。ガイドブックに「再建」と書かれるほどなので、想いとしては単なる祭りの道具ではなく「建築物」なのでしょうね。

【八幡八雲神社・神輿渡御】


祭りにあわせて、八幡八雲神社の神輿の渡御も行われます。八幡八雲神社はこの辺りの鎮守様。


今年は見ているほうからすれば、まさに夏祭り!って感じでしたが、参加している人は大変だったかと思います。祭りを年に一度のハレの日として楽しみにしている人も多いと思いますが、さすがに暑すぎでしたね。皆さん、お疲れさまでした。


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