日日の幻燈

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【note】甲州街道・関野宿から鶴川宿まで歩いてみた(1)-関野宿を往く-

2017-10-04 | 旧甲州街道を往く

9月30日。久しぶりの甲州街道を歩く旅。いつもの旅の仲間4人が、日頃の残業の疲れをものともせず集結しました。
前回は相模湖畔の吉野宿へ入り、中華屋さんでお昼を食べていたら雨となり終了。藤野駅までお店の車で送っていただいた…というとこまで。あれは4月のことでしたので、かれこれ5ヶ月も過ぎてしまいました。

→前回はこちら

今日は藤野駅をスタートして、関野宿→上野原宿→鶴川宿を目指すルート。距離的には約5.6キロで大した距離ではありませんが、何しろ普段運動不足の身なれば、そこはかとなく不安が付きまといます。10時30分に集合ですが、私は一足先に現地入りして、前回、雨のためチェックできなかったポイントへ向かいました。

【緑のラブレター】


藤野駅のホームで電車を降りて、まず目につくのがこの巨大な「緑のラブレター」。芸術の町を謳う藤野のシンボルです。地元在住の芸術家が1989年に旧藤野町(現在は相模原市緑区です)から依頼されて作ったのだとか。

【関野の一里塚跡】


前回、雨のために断念したのがここです。江戸から17番目の一里塚。藤野駅から東へ5~6分歩いたところです。一里塚を示す碑や案内板はありませんが、鬱蒼とした木の前に「津久井の名木・エノキ」の解説板があります。ガイドブックによると、このエノキが一里塚跡なのだそうです。片塚で、塚の上には当時もエノキ。そのエノキが解説板の「津久井の名木」の木なのかどうかは、わかりませんが…。
この辺り、道幅が狭く歩道もあったりなかったり。車には要注意です。

【藤野駅付近の甲州街道】


関野宿は天保14(1843)年の「甲州道中宿村大概帳」によると

本陣…1軒
脇本陣…1軒
問屋場…1ヶ所
旅籠…3軒
宿場内の家数…130軒
宿場内の人口…635人

江戸方面から歩いてくると相模国最後の宿場で、西には甲斐との国境が控えています。
「甲州街道一條東西に亘り、道幅二間程。民家相対して軒を並ぶる二十四戸」(新編相模国風土記稿)
この辺り、江戸時代には奥三保とか桂里とも呼ばれたとか。風流な呼び名であることよ。

さて、歩こう。
ガイドブックや資料を見ると、旧街道は藤野駅付近でいったん国道20号から分かれて細道を行くのが正しい!というものもあり、そのまま国道を西進せよ!というものもあり、さて、どうしたものかと迷ってしまいます。我々はそのまま国道を進みました。

【関野宿内の甲州街道】


藤野駅からしばらく歩くと、歩道は車道より1段高くなります。JR中央線を高架で越え、中央道と並行して進んでいきます。江戸時代の宿並がどう続き、旅籠がどのあたりにあったのか?残念ながら明治以降の度重なる火災により、当時の面影は皆無に等しいようです。

【関野宿本陣跡】


中村家が勤めたという関野宿本陣跡。明治後の大火で灰燼に帰した関野宿、本陣もまた無事ではいられなかったそうです。
解説板が立っていますが、藤野駅方面(写真でいうと奥の方)から歩いてくると、絶対に見落としてしまう立ち位置です。実際に我々も通過後に、あれ、本陣は?ってことで戻ったのでした。

【増珠寺】


本陣跡から歩いてすぐ、関野宿の西端に位置する曹洞宗のお寺です。永正9(1512)年に開かれたそうです。ここ関野宿に生まれた江戸時代の大関・追手風喜太郎ゆかりのお寺で、彼が寄進したあれやらこれやら…が残されているとのことですが、残念ながら境内に入っただけではわかりませんでした。

【増珠寺のヒガンバナ】


街道から境内へと向かう参道沿いにヒガンバナ。今がまさに見頃!といった感じでした。

【増珠寺前の石塔】


甲州街道沿い、増珠寺のかつての参道脇(今は石段が使えないように閉鎖されています)にある古い石碑。

【増珠寺前の石碑・庚申塔】


ガイドブックによると、左側が天明元(1781)年の庚申塔。向かって左側面に「関野宿講中」とあります。この日歩いていて、関野宿を偲ぶことのできた唯一のものでした。

【増珠寺付近の甲州街道】


江戸時代、関野宿を含むこの辺りは小渕村でした。今も地名に残っています。上野原まで3キロ。でもそれは国道20号を行けば、ということなので、実際は、もう少しありそうな予感。

【関野宿のウ●トラマン】


上野原に向けて国道を進んでゆくと、右手に立ちはだかるウル●ラマン。思わぬ不意打ちにペースを乱された私たちは、本来進むべき右手の小道へ入らず、そのまま国道を直進してしまったのでした。ガイドブックによるとこの小道、石畳など「古道の面影を残す」とのこと。
まんまとウルト●マンのスペシウム光線にやられてしまった我々ですが、そんなことにもめげずに、この辺りで関野宿を抜けて、神奈川県と山梨県の県境(江戸時代なら相模と甲斐の国境)に向かって歩を進めるのでした。


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