≪整心療法研究所≫自己治癒力により心身が整っていく

自己治癒力により心身が整っていく。量子力学・宇宙物理学・脳科学の観点から精神を捉えた新しい科学に基づいた療法。

397)11月度関西出張のお知らせ

2014年10月30日 | お知らせ

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

今日は、「11月度関西出張のお知らせ」です。

☆11月4日(火)~6日(木)和歌山市&大阪市(難波)

☆面談&インテグレーター養成講座&エディプスコンプレックス講座&フリートーク

・『フリートーク』について
6日(木)10:00~12:00
テーマ≪言語を登録する≫

11月3日・7日は大宮におります。
近隣の方はこの機会を活用ください。

連絡先等はこちらの携帯へお願いします。

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☆ 相手を受け入れるには自他分化が必要

相手の言うことは分かるが、受け入れられないという人がいます。
聞いていると腹が立ったり、いらいらする、どうして受け入れることができないのか悩むともいいます。
それには「受け入れる」とはどういうことの理解がないと難しいでしょう。

受け入れるとは文字通り、受けて入れることです。
受け入れるためには、まずその前提として「自分と相手は違う」ことの理解が必要となります。
自分と相手が違うとは、価値観や考え方などすべてにおいて違う。
つまり、自分の価値観や考え方では測れない=すべてを理解できないということ。
理解できたと思っても、それは自分の考え方からの理解であって、必ずしも相手の考え方ではないかもしれない。
つまり、理解したと自分が思っているだけかもしれない。
自分と相手は互いに理解しきれないほど違っている。
このように考えられたなら、相手の言うことは自分とは違う相手の考えとして認めることができる。
これが相手を受け入れるということではないでしょうか。

ゆえに、相手(の言うこと)を受け入れるとは、自分とは違う相手だと認めることだといえます。
このように考えたなら、相手を受け入れることは簡単なことではないでしょうか。
なぜなら、「あなたはそのように考えているんですね。」と認めるだけでいいのだから。 
そこには自分の考えは入らない、相手と同じでもいいし、違っていてもいい。
そもそも自分と相手は違うのだから。

逆に考えると、相手を受け入れられないのは、自分と相手は同じだとの考えを持っている。
相手を受け入れるとは、自分も相手と同じでなければならないとの考えがあるからではないでしょうか。
つまり、自分=相手の図式を持っている。
これを『自他未分化』と呼びます。

以上から、相手を受け入れるにはまず、自他分化がその前提として必要だといえるでしょう。
子どもや友達、家族の言うことが受け入れられない時、自分と相手は違うという視点に立って聞いてみませんか。
そうすれば、それまでとは違った受け止め方ができるかもしれません。

シニフィアン研究所の楽歩愛真のHP http://signifiant-lab.com/
twitter https://twitter.com/rakuhomanamiも参照ください。 

 


396)言葉じゃない、だけど言葉が大事

2014年10月04日 | 育児・子育て

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の真道満喜(しんどうまき)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

今日は、「言葉じゃない、だけど言葉が大事」について書きます。

言葉じゃない、例えば笑顔だったり、温もりだったり、抱擁だったり、そばにいるだけ、ただ聞いてくれるだけでいい。
そんな体験が少なからずあることでしょう。
どんなに言葉を尽くしても伝えられない、表現できないことがある。
天真爛漫な子どもの笑顔に心洗われたり、癒されたりすることもある。
これは語ることで明らかにすることとは真逆の方向
語らないでただ笑顔に向き合うことで、語る以上のことをそこに見い出す。

心の中から、身体の中から勝手に湧き上がってくる何かがある。
それらをありのままに感じることを「実感」「味わう」という。
語ることは味わうことを希薄にする傾向がある。
しかし、語ることがないとその実感を意識することが希薄になる。

味わっている、実感している時、そのものと一体化しているという。
一体化している時は言葉にできない。
例えば、喜びの最中にいる時、人は言葉を失う。
悲しみの最中にいる時、悲しいという言葉は出てこない。
もし出るとしたら、叫びや慟哭。あるいは身体を使っての行動化となる。

逆に言葉にできる時、人はそのものとの間には距離があるといえる。
言葉にすることに終始すると、味気ないものとなる。
実感を無視し続けると、いつの間にかそれらを感じること、味わうこともなくしてしまう。
その先は空虚。

このように語ることと味わうことは逆方向に向いているようで、実は断ち切れないものでもある。人が人として生きる上で、実感を時には言葉で語ることでより深くし、味わうことで語る以上のことを実感する。語ることと味わうことは直線状にあるのではなく、あるループを描きながら互いに交差しているようだ。 

ゆえに、「言葉じゃない、だけど言葉は大事」となる。

言葉で語りつつ、一方で味わう。
この両方のバランスをとりながら日々を暮したなら、その先には一体何が見えてくるでしょうか。

シニフィアン研究所 真道満喜 http://signifiant-lab.com/
Twitter https://twitter.com/sindoumaki