巻き舌で流暢な関東弁をしゃべる次郎長はどうかと思う。
くすぶりです。
さて、
なんの因果か、
ここ数日、訪問者数が増加し、
閲覧数は飛躍的に伸びている。
どういうカラクリかは知らんが、
こういう時に打って出なければ商売人の名が廃る、
と思い込み
怒涛のガブリ寄りを決めちまおうと思ってみた。
が、
そう思ってみたものの、
元来が商売に向いていない性格の上、
悪人ではないが
いい人でもないろくでなしが、
そうそう簡単にいい記事など書けるわけもなく、
調子こいてすんませんでした、と
早々に謝る羽目になった。
顧みれば、
十月の間、変わらずに来て、
その評価として『1号』『2号』という奇特な方が現れたのである。
くだらん見栄なぞ出さず、
変わらずにきたから評価をしていただいた。
やっぱり、
調子こいちゃならんのである。
変わらねばならんことはもちろんあるけれど、
変わらずにいるというのも、
それはそれで価値のあるものであろう。
成長を諦めることと、
変化をしないということは、
似ているようでやっぱり違う。
お商売であれ、
生き方であれ、
成長しながらもなお、変わらないもの
というものは、
やっぱり、
やってみる価値はあるはずである。
やってみなけりゃわからねえ
と言い続けていないと、
ついつい逃げてしまうので、
思い出すたびにてめえに言い続けないといかん。
さて、
1号、2号、V3
という壮大なヲタネタだが、
元ネタが仮面ライダーではない時点で
もはや誰にもわからんと思うので、
たぶん、
V3は欠番になる可能性が高い。
次の4様にいたっては、
思想、信条、及び属性的に受け入れられない可能性が多々あるはずであり、
これもまた、
壮大なオヤジネタで終わる可能性が高い。
いつもそうだが、
言ってから気付く、という
まあ、いつも通りのアレであったwww
誰に気を使うわけでもないけれど、
まあべつに、
これはこれでネタとしてよかろうがい、ってな具合で。
そもそも、
韓流禁止の写真をプロフィールに掲げておきながら
4様を名乗れと言うのも壮大な皮肉である。
出てこなけりゃそれまでなので、
今ここでムニムニ言ってても詮無いことではあるけれどw
まあ、
少しでも楽しんでもらえるように
記事に専念する。
極右がねwwwww
待ってるよ、V3wwwww
待ってるよ、4様wwwww
さて、
話はガラッと変わるが、
霊魂や神様といった概念を否定する思想において、
靖国とは一体なんであるのか。
端から信じていねえんだから、
けっ、ばっかくせえ
と放っておけばいいものの、
あそこまで固執、執着するのは不思議ではある。
肉体が滅べばそれまでであり、
すべてが消滅する。
ということは、
海を隔てた島国が、
慰霊だの鎮魂だの追悼だのを騒いでおっても、
普通であればどうでもいいはずである。
にもかかわらず、
アレである。
これはまあ、昔から疑問ではあったが、
つい最近、この疑問が解決した。
平和を愛するアジ(以下略)な人々からは
きっと蛇蝎のごとく忌み嫌われているであろう
日本一の正論、もとい、右翼雑誌『正論』で
目からウロコな記事を読んだ。
反日メディアのクズや鳥越、もとい、アジアの良心から見れば
くすぶりは正しいネット右翼であるので、
その責務に応えて、
ここにお勉強の成果、というか
仕入れた情報を書き散らすことにする。
もとより右だ左だなんぞに毛ほどの興味もないが、
くすぶりが右翼であるかどうかは、
読んだ人が判断すればいいと思っております。
革命を起こす気なぞなく、
カチコミをかます気概もなく、
ましていわんや、
今の天皇家に、
くすぶりの情熱を傾けるほどの『心意気たるカリスマ性』なぞ、
残念ながら寸毫も見られない中で
ただ、
『ない』ことが『ある』
『ある』ことが『捏造』
『ウソ』が『ホント』
『ホント』が『無反省』
『テポ丼』と『謝罪汁』
というのは、
いささか納得いかんので、
チラシの裏に書きなぐる運びと相成った。
~以下敬称略
小泉の靖国参拝が日中間の『政治的』な障害となっている。
が、
普通に考えれば、
日本から見ればこれは『宗教的』な障害であるはずである。
政教分離云々が出てくる、ということは
これが多分に『宗教性』を帯びた“問題”だからであろう。
この、
生きている人間と死者の霊魂を軸とした『宗教的』な問題が
なぜ『政治的』な問題となるのか、ということだが。
中国政府、つまり、中国共産党の指導理念というものは
一切の宗教的行為の正当性も認めない
『唯物主義の無神論』
であるという。
彼らの世界観においては、
宗教の存在意義や正当性が完全に否定され、
神様や魂の存在もまったく認められない。
唯物主義者から見れば
人間の精神というものは肉体という
『物質的基礎』
があってこそのもので、
人間が死んでその肉体が消滅すると、
その人間の精神もそのまま永遠に消え去ることになる。
よって、
死後の魂なぞというものはあるわけがない。
かような世界観において、
生者と死者との関係は完全に断絶している。
肉体を持つ人間は存在し、
肉体が消滅した人間は端から存在しないから、
関係性は存在しなくなる。
魂なぞというものは存在しないから、
死者に対する『お参り』も『慰霊』もまったく意味のない行為であり、
そのような行為に何らかの意味があるとは
考えることはできない。
端から存在していない『魂』なぞというものに対して
なぜ『慰霊』などというものが必要なのか
ということである。
かような背景から見れば、
大半の日本人とはまったく違うものの見方をしていることになる。
彼らの世界観においては、
靖国参拝に託された、
死者の魂に対する慰霊、という宗教的な意味も
哀悼の意を捧げるという宗教的な心情も
けっ、ばっかくせえ
と排除されてしまう。
そして残されるのは、
そこに、
『現実的、政治的な意図がある』
ということだそうだ。
生きている人間の行為には、
そこになんらかの現実的な動機や理由がなければならない。
日本国総理大臣という政治指導者の行った靖国参拝は、
当然、
なんらかの政治動機に基づく政治行為でなければならない
となるそうである。
『魂』、『英霊』云々は、
彼らにとっては端からありえない虚構であるから、
小泉はただ単に『魂』や『英霊』のために参拝しに行くわけがない。
小泉がいくら哀悼云々を抜かしたところで、
それはただの方便である。
となるそうな。
『A級戦犯合祀問題』
というものがあるが、
彼らの世界観からすれば
『合祀』云々を問題にすることはおかしな話で、
彼らはそもそも『魂』の存在を認めていない。
ということは、
戦犯の魂が合祀されていようがいまいが、
どうでもいいことである。
だが、
そうはならないところが現実である。
彼らは魂というものと、
その宗教的意味を認めていない。
よって、
多くの日本人と同じように、
『靖国に戦犯の魂が祀られている』
と認識しているわけではない。
どういうことかといえば、
つまり、
侵略戦争の指導者が今なお靖国神社なる場所で
『記念』
あるいは
『表彰』
されている、となる。
人間が死んだ後、
生きている人間とは異質の、『魂』になる
という概念を端から持っていないから、
靖国に祀られている戦犯は、
今なお、戦争指導者のままである
と認識していることになる。
そうすると、
彼らの目から見た小泉の参拝というものは、
生きている小泉と、
魂である戦犯との
『宗教的な関係性』
ではなく、
小泉という現在の政治指導者と、
東条ら過去の戦争指導者との
『政治的な関係性』
である、となる。
したがって、
小泉という現在の日本の指導者が靖国参拝をかますことによって、
過去の戦争指導者たちを
『記念』
あるいは
『表彰』
することになり、
戦犯ら過去の戦争指導者と政治的関係を持つことは
すなわち、
侵略戦争に対する容認と美化
であり、
戦犯らの推進した戦争政策に対する
共感と賛意の表れにほかならない、
ということになる。
小泉が戦犯らと政治的関係性を持つことによって、
小泉及び彼の率いる日本政府と、
過去の『侵略戦争』との連続的関係性が現実に生じてきた
と解釈されているわけである。
、だそうだ。
そして、
中国指導部から見れば、
A級戦犯を『美化』する靖国参拝などというものは、
中国政府に対する
『重大なる挑発』
以外の何物でもない。
極悪非道の日本軍をブチ負かして、
人民を地獄から解放したのは
『民族の英雄としての共産党』
というのが
彼らの政権を支える思想的な支柱である。
その『神話』の中では、
A級戦犯こそ英雄を輝かしめる『悪魔』であり、
『悪魔の断罪』とは、
英雄が勝利した証でもある。
『悪魔』は未来永劫、煉獄の炎に焼かれていなければならない。
そうしてこそ、
彼ら中国共産党指導部の正義と神話は維持されるのである。
かような流れにおいて、
戦犯が合祀されている靖国に参拝するということは、
『悪魔』の名誉回復であり、
日本軍国主義に対する美化であり、
『悪魔』を打ち負かした英雄の歴史的な功績にケチをつける
ということであるから、
絶対に許すことができない
ということになるそうだ。
正論9月号
靖国特集
魂の存在が理解できない胡錦涛世代の世界観
評論家●石平(せき・へい)
より
さて、
なるほどなあ、と思ったのだけど
どうだっただろうか。
目からウロコであった。
もちろんこんな簡単なことじゃなく、
もっともっと複雑に絡み合ってはいるのだろうけど、
こういう見方もなかなかおもしれえもんだな、と。
ただ、
思想的に相容れない、
というものは往々にしてあるもので、
こと信仰に基づいた文化というものは、
あの国がいいって言ってくれねえからやめる、
とか
あの国がファビョってるから小細工をかまして先送りする、
とかそういうものではないと思うんだけどね。
信仰は時に思想を硬直化させ、
往々にして柔らかさを奪い取るものである
というのは、
くすぶりが外人を見て感じた率直な感想であった。
明文化された教義があればあるほど、
『話にならねえ』
という事態は多々あり、
『異教徒』との間で感情的な対立に発展していくのは
この目で見、
この身で体験した。
そこで思ったのは、
日本の『宗教観』って、
ほんと、いいなあ、って。
うまくは言えないけど。
普段、
信心深い外人と接することもなく、
まして
宗教論争なんぞをかましたことがない人には
わからないことかもしれないけれど、
ほんと、
日本の宗教観って、
いいもんですよ。
やさしい。
すべてに。
これをすごく感じた。
靖国『問題』云々なんて、
個人的にはすげえくだらねえ話だと思っているけど、
朝日のおかげでかような事態となっちまいやがったので、
もしもこの先、
その『問題』を考えることがあれば、
朝鮮がああ言ってる、とか
中国がこう言ってる、とかじゃなくて、
自分の内に根ざした、
ごくごく当たり前の宗教観で
それを考えてみるのもいいんじゃないかなあ、って。
そう思いますね。
幼少のみぎり、
本気で出家を考えた。
信仰は人の救いでなければならないはずだ。
魂というものがあるのなら、
それを安んずるものであってほしい。
政治という、
欲にまみれたドロドロの現実で琴線を汚すことは、
冒涜である。
くすぶりです。
さて、
なんの因果か、
ここ数日、訪問者数が増加し、
閲覧数は飛躍的に伸びている。
どういうカラクリかは知らんが、
こういう時に打って出なければ商売人の名が廃る、
と思い込み
怒涛のガブリ寄りを決めちまおうと思ってみた。
が、
そう思ってみたものの、
元来が商売に向いていない性格の上、
悪人ではないが
いい人でもないろくでなしが、
そうそう簡単にいい記事など書けるわけもなく、
調子こいてすんませんでした、と
早々に謝る羽目になった。
顧みれば、
十月の間、変わらずに来て、
その評価として『1号』『2号』という奇特な方が現れたのである。
くだらん見栄なぞ出さず、
変わらずにきたから評価をしていただいた。
やっぱり、
調子こいちゃならんのである。
変わらねばならんことはもちろんあるけれど、
変わらずにいるというのも、
それはそれで価値のあるものであろう。
成長を諦めることと、
変化をしないということは、
似ているようでやっぱり違う。
お商売であれ、
生き方であれ、
成長しながらもなお、変わらないもの
というものは、
やっぱり、
やってみる価値はあるはずである。
やってみなけりゃわからねえ
と言い続けていないと、
ついつい逃げてしまうので、
思い出すたびにてめえに言い続けないといかん。
さて、
1号、2号、V3
という壮大なヲタネタだが、
元ネタが仮面ライダーではない時点で
もはや誰にもわからんと思うので、
たぶん、
V3は欠番になる可能性が高い。
次の4様にいたっては、
思想、信条、及び属性的に受け入れられない可能性が多々あるはずであり、
これもまた、
壮大なオヤジネタで終わる可能性が高い。
いつもそうだが、
言ってから気付く、という
まあ、いつも通りのアレであったwww
誰に気を使うわけでもないけれど、
まあべつに、
これはこれでネタとしてよかろうがい、ってな具合で。
そもそも、
韓流禁止の写真をプロフィールに掲げておきながら
4様を名乗れと言うのも壮大な皮肉である。
出てこなけりゃそれまでなので、
今ここでムニムニ言ってても詮無いことではあるけれどw
まあ、
少しでも楽しんでもらえるように
記事に専念する。
極右がねwwwww
待ってるよ、V3wwwww
待ってるよ、4様wwwww
さて、
話はガラッと変わるが、
霊魂や神様といった概念を否定する思想において、
靖国とは一体なんであるのか。
端から信じていねえんだから、
けっ、ばっかくせえ
と放っておけばいいものの、
あそこまで固執、執着するのは不思議ではある。
肉体が滅べばそれまでであり、
すべてが消滅する。
ということは、
海を隔てた島国が、
慰霊だの鎮魂だの追悼だのを騒いでおっても、
普通であればどうでもいいはずである。
にもかかわらず、
アレである。
これはまあ、昔から疑問ではあったが、
つい最近、この疑問が解決した。
平和を愛するアジ(以下略)な人々からは
きっと蛇蝎のごとく忌み嫌われているであろう
日本一の正論、もとい、右翼雑誌『正論』で
目からウロコな記事を読んだ。
反日メディアのクズや鳥越、もとい、アジアの良心から見れば
くすぶりは正しいネット右翼であるので、
その責務に応えて、
ここにお勉強の成果、というか
仕入れた情報を書き散らすことにする。
もとより右だ左だなんぞに毛ほどの興味もないが、
くすぶりが右翼であるかどうかは、
読んだ人が判断すればいいと思っております。
革命を起こす気なぞなく、
カチコミをかます気概もなく、
ましていわんや、
今の天皇家に、
くすぶりの情熱を傾けるほどの『心意気たるカリスマ性』なぞ、
残念ながら寸毫も見られない中で
ただ、
『ない』ことが『ある』
『ある』ことが『捏造』
『ウソ』が『ホント』
『ホント』が『無反省』
『テポ丼』と『謝罪汁』
というのは、
いささか納得いかんので、
チラシの裏に書きなぐる運びと相成った。
~以下敬称略
小泉の靖国参拝が日中間の『政治的』な障害となっている。
が、
普通に考えれば、
日本から見ればこれは『宗教的』な障害であるはずである。
政教分離云々が出てくる、ということは
これが多分に『宗教性』を帯びた“問題”だからであろう。
この、
生きている人間と死者の霊魂を軸とした『宗教的』な問題が
なぜ『政治的』な問題となるのか、ということだが。
中国政府、つまり、中国共産党の指導理念というものは
一切の宗教的行為の正当性も認めない
『唯物主義の無神論』
であるという。
彼らの世界観においては、
宗教の存在意義や正当性が完全に否定され、
神様や魂の存在もまったく認められない。
唯物主義者から見れば
人間の精神というものは肉体という
『物質的基礎』
があってこそのもので、
人間が死んでその肉体が消滅すると、
その人間の精神もそのまま永遠に消え去ることになる。
よって、
死後の魂なぞというものはあるわけがない。
かような世界観において、
生者と死者との関係は完全に断絶している。
肉体を持つ人間は存在し、
肉体が消滅した人間は端から存在しないから、
関係性は存在しなくなる。
魂なぞというものは存在しないから、
死者に対する『お参り』も『慰霊』もまったく意味のない行為であり、
そのような行為に何らかの意味があるとは
考えることはできない。
端から存在していない『魂』なぞというものに対して
なぜ『慰霊』などというものが必要なのか
ということである。
かような背景から見れば、
大半の日本人とはまったく違うものの見方をしていることになる。
彼らの世界観においては、
靖国参拝に託された、
死者の魂に対する慰霊、という宗教的な意味も
哀悼の意を捧げるという宗教的な心情も
けっ、ばっかくせえ
と排除されてしまう。
そして残されるのは、
そこに、
『現実的、政治的な意図がある』
ということだそうだ。
生きている人間の行為には、
そこになんらかの現実的な動機や理由がなければならない。
日本国総理大臣という政治指導者の行った靖国参拝は、
当然、
なんらかの政治動機に基づく政治行為でなければならない
となるそうである。
『魂』、『英霊』云々は、
彼らにとっては端からありえない虚構であるから、
小泉はただ単に『魂』や『英霊』のために参拝しに行くわけがない。
小泉がいくら哀悼云々を抜かしたところで、
それはただの方便である。
となるそうな。
『A級戦犯合祀問題』
というものがあるが、
彼らの世界観からすれば
『合祀』云々を問題にすることはおかしな話で、
彼らはそもそも『魂』の存在を認めていない。
ということは、
戦犯の魂が合祀されていようがいまいが、
どうでもいいことである。
だが、
そうはならないところが現実である。
彼らは魂というものと、
その宗教的意味を認めていない。
よって、
多くの日本人と同じように、
『靖国に戦犯の魂が祀られている』
と認識しているわけではない。
どういうことかといえば、
つまり、
侵略戦争の指導者が今なお靖国神社なる場所で
『記念』
あるいは
『表彰』
されている、となる。
人間が死んだ後、
生きている人間とは異質の、『魂』になる
という概念を端から持っていないから、
靖国に祀られている戦犯は、
今なお、戦争指導者のままである
と認識していることになる。
そうすると、
彼らの目から見た小泉の参拝というものは、
生きている小泉と、
魂である戦犯との
『宗教的な関係性』
ではなく、
小泉という現在の政治指導者と、
東条ら過去の戦争指導者との
『政治的な関係性』
である、となる。
したがって、
小泉という現在の日本の指導者が靖国参拝をかますことによって、
過去の戦争指導者たちを
『記念』
あるいは
『表彰』
することになり、
戦犯ら過去の戦争指導者と政治的関係を持つことは
すなわち、
侵略戦争に対する容認と美化
であり、
戦犯らの推進した戦争政策に対する
共感と賛意の表れにほかならない、
ということになる。
小泉が戦犯らと政治的関係性を持つことによって、
小泉及び彼の率いる日本政府と、
過去の『侵略戦争』との連続的関係性が現実に生じてきた
と解釈されているわけである。
、だそうだ。
そして、
中国指導部から見れば、
A級戦犯を『美化』する靖国参拝などというものは、
中国政府に対する
『重大なる挑発』
以外の何物でもない。
極悪非道の日本軍をブチ負かして、
人民を地獄から解放したのは
『民族の英雄としての共産党』
というのが
彼らの政権を支える思想的な支柱である。
その『神話』の中では、
A級戦犯こそ英雄を輝かしめる『悪魔』であり、
『悪魔の断罪』とは、
英雄が勝利した証でもある。
『悪魔』は未来永劫、煉獄の炎に焼かれていなければならない。
そうしてこそ、
彼ら中国共産党指導部の正義と神話は維持されるのである。
かような流れにおいて、
戦犯が合祀されている靖国に参拝するということは、
『悪魔』の名誉回復であり、
日本軍国主義に対する美化であり、
『悪魔』を打ち負かした英雄の歴史的な功績にケチをつける
ということであるから、
絶対に許すことができない
ということになるそうだ。
正論9月号
靖国特集
魂の存在が理解できない胡錦涛世代の世界観
評論家●石平(せき・へい)
より
さて、
なるほどなあ、と思ったのだけど
どうだっただろうか。
目からウロコであった。
もちろんこんな簡単なことじゃなく、
もっともっと複雑に絡み合ってはいるのだろうけど、
こういう見方もなかなかおもしれえもんだな、と。
ただ、
思想的に相容れない、
というものは往々にしてあるもので、
こと信仰に基づいた文化というものは、
あの国がいいって言ってくれねえからやめる、
とか
あの国がファビョってるから小細工をかまして先送りする、
とかそういうものではないと思うんだけどね。
信仰は時に思想を硬直化させ、
往々にして柔らかさを奪い取るものである
というのは、
くすぶりが外人を見て感じた率直な感想であった。
明文化された教義があればあるほど、
『話にならねえ』
という事態は多々あり、
『異教徒』との間で感情的な対立に発展していくのは
この目で見、
この身で体験した。
そこで思ったのは、
日本の『宗教観』って、
ほんと、いいなあ、って。
うまくは言えないけど。
普段、
信心深い外人と接することもなく、
まして
宗教論争なんぞをかましたことがない人には
わからないことかもしれないけれど、
ほんと、
日本の宗教観って、
いいもんですよ。
やさしい。
すべてに。
これをすごく感じた。
靖国『問題』云々なんて、
個人的にはすげえくだらねえ話だと思っているけど、
朝日のおかげでかような事態となっちまいやがったので、
もしもこの先、
その『問題』を考えることがあれば、
朝鮮がああ言ってる、とか
中国がこう言ってる、とかじゃなくて、
自分の内に根ざした、
ごくごく当たり前の宗教観で
それを考えてみるのもいいんじゃないかなあ、って。
そう思いますね。
幼少のみぎり、
本気で出家を考えた。
信仰は人の救いでなければならないはずだ。
魂というものがあるのなら、
それを安んずるものであってほしい。
政治という、
欲にまみれたドロドロの現実で琴線を汚すことは、
冒涜である。