日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

お彼岸に太陽を追いかける女・・・2015春彼岸奈良弾丸ツアーC

2016-10-19 22:21:14 | 旅行
「昔と言うばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀(ひまつり)をする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎え、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があったことだけは、確かでもあり又事実でもあった。そうして其なごりが、今も消えきらずにいる。日迎え日送りと言うのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行われている風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供えて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙)又おなじ語彙に、丹波中郡で社日参りというのは、此日早天に東方に当る宮や、寺又は、地蔵尊などに参って、日の出を迎え、其から順に南を廻って西の方へ行き、日の入りを送って後、還って来る。これを日の伴と謂っている。宮津辺では、日天様の御伴(おとも)と称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。紀伊の那智郡では唯おともと謂う……。こうある。
何の訣(わけ)とも知らず、社日や、彼岸には、女がこう言う行(ぎょう)の様なことをした。又現に、してもいるのである。」
(折口信夫「山越しの阿弥陀像の画因」青空文庫より)

これは、折口信夫の『死者の書』(中公文庫)に一緒に収められている文章です。

先日、学芸員資格課程の学内実習の時に訪れようとして断念した当麻寺、その予習のために、『死者の書』を読んでいたのですが、この文章も、以前どこかで見たし、どこかで写した覚えが・・・と思ったら、奈良大通信(学部)の民俗学のレポートでここを引用したようです。

以前から書いていますように、二上山に沈む夕日を見たい、と思って、この日帰り弾丸ツアーを行ったわけですが、私も、まるでこの、日のお伴をしていたようではないか、と改めて気がついたわけです。しかも、上の文章によると、こういうことをするのは、女性であるということです。

この、太陽信仰であるとか、太陽の出てくる・沈む方角について、個人的に関心があって、これまであまり具体的に書いてきませんでしたが、いろいろ考えているところです。時間があれば、少しずつと思っています。文献史学だけでなく、考古学も、神話学も、民俗学も、さまざまな分野を総合して考える必要があると思います。
折口信夫や柳田国男は民俗学であり、彼らの書いた文章の中にも、とても興味深いものがいろいろあります。その中の一つがこれです。

まあ、私の場合は、桜井駅を出発して、北上し、箸墓古墳あたりからまた南に戻ってきたので、厳密には、南北に移動していたわけで、太陽をずっと追いかけていたわけではないのですが。お彼岸に夕日が二上山に沈む、それを見るベストなポイントを探してあちらこちら自転車で駆け回っていたのです。

その日の行程は、桜井駅からレンタサイクルで出発し、金屋付近を通って、磯城瑞垣宮跡を訪れ、桜井市埋蔵文化財センターで、卒論の参考になるかなということで「魅惑の玉」という展示を見て、大神神社にお参りする前に、とあるお店で三輪そうめんを食べ・・・

→大神神社→狭井神社→大美和の杜展望台→茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳

そして、また逆のルートで戻り、途中であの神御前神社に遭遇し、桜井駅まで戻って、自転車を返し、再び大美和の杜に戻って、日没を見ようとしましたが、帰りが遅くなってしまうので、三輪駅から日没を見ることにした、というのが一日の流れでした。それから、若宮社とよばれる大直禰子(オオタタネコ)神社もちょっと訪れました。

これまでの関連記事

崇神天皇の宮・磯城瑞籬宮跡(2015春彼岸奈良弾丸ツアーA)

倭迹迹日百襲姫命(=ヒミコ?)を祀る 神御前神社(2015春彼岸奈良弾丸ツアーB)


春分の日 二上山に沈む夕日

これまで細切れにこれらの旅のことは書いてきましたので、まだ書いていない部分をまとめたいと思います。

茅原大墓古墳
三輪山の真西にあることから、何か重要なものが埋まっているのではないか、また、誰が埋葬されているのか、と、個人的には興味があるのですが、それほど世間的には注目されていないようです。しかし、一度見たいと思っていました。

桜井市ホームページによると、この古墳は、5世紀前半代、古墳時代中期の帆立貝式の前方後円墳で、全長は約85m。地元では倭佐保姫の御陵として永く保存されてきた、とのこと。国指定史跡です。「盾持人埴輪」という、武人の埴輪も出ています。

古墳は遠目に見たのですが、上に上がるということまでは時間もなかったのでしませんでした。このあたりを自転車で走っていたとき、広々とした田んぼ・畑の中で私ただ一人、という開けた空間ができて、こんな雲一つないいい天気で、こんなのどかな、すばらしい空間を独り占めできるなんて・・・と、自転車をこぎながら「うわあー、いいなあー。」と、誰も聞いていないので一人で声をあげていました。確かに田んぼ・畑・古墳以外何もない場所なのですが、東京でごみごみした場所で生活している私にはこのような開放的な空間は魅力的に感じました。しかし、こういう場所を観光の場所として選ぶ人もめったにいないのかな??とあまりのひとけのなさにそんなことを思いました。
人がぞろぞろといるよりも、このくらいのどかでひとけがない状態が維持されることも望みます。また、行ってみたいものです。
いいなあと感動したのにその場所を写真に撮っていないという、いまだ、シャッターチャンスとか被写体のとらえ方とかがうまくない私です。

ホケノ山古墳
奈良大のスクーリングの時に、雨のために古墳の上に上がることができなかったので、上からの景色を見たい!というリベンジで行きました。
そもそも名前が、カタカナで「ホケノ」とは何ぞや?と疑問なわけですが。
桜井市ホームページより、要約しますと、3世紀中頃に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の一つ。全長90メートル、後円部径60メートル、高さ8.5メートルの纒向型の前方後円墳で、周濠が確認されている。大神神社は、この古墳を豊鋤入姫の墓に比定している、とのことです。こちらも国指定史跡です。


箸墓古墳の後円部方向、三輪山側にあります。この位置関係からしても、この箸墓古墳が卑弥呼の墓だとしたら、被葬者が「豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)」とされていることからも、卑弥呼の後継者・壱与(トヨ)と音が似ているし、もしかして、というふうにも思われます。
いずれにせよ、茅原大墓古墳も、ホケノ山古墳も、箸墓古墳も、女性が被葬者であるということは、とても興味深いことです。


ホケノ山古墳の上から見た、箸墓古墳方面。後円部が丸く見えます。


ホケノ山古墳の上から見た三輪山。
聞いていたとおり、360度開けていて、よい眺めでした。


古墳の斜面の一部は、畑になっていました。近所の子どもたちも、古墳の上に上がってきて、おばあさんと一緒に遊んでいました。のどかです・・・

箸墓古墳は、今回は、あまり見るつもりはなかったのですが、一応ため池の周辺を少し走って来ました。

再度、茅原大墓古墳の裏側を通過し、


民家の街並みの中を行くと、神御前神社が出現するわけです。

桜井駅で自転車を返して、三輪駅から再び大神神社に向かいました。大神神社の手前に、「若宮社」と額がかかっている大直禰子(オオタタネコ)神社があります。オオタタネコは、大神神社の神様、大物主の子供です。だから「若宮」社なのでしょう。

若宮社前の道は、大神神社の参道から一本外れているのですが、私がそこを歩いていたら、大神神社の参道側から、若宮社に向かって、勢いよく、深々と、頭を下げて立ち去るスーツを着た若者を見かけました。急いでいたようですが、それでもとても心がこもった敬礼でした。大神神社だけでなく、こちらの若宮社に対する人々の信仰心も篤いのかなと感じさせられました。若宮社は、外観がお寺のように見えます。大神神社も三輪明神と呼ばれていたし、神仏習合の時期もあったからですね。

夕日を浴びる大神神社の入り口。

そこから、再び大美和の杜展望台へ行き、日没を待つことにしました。お客さんは、数組。本格的なカメラを構えて、二上山に沈む夕日をとらえようとする人達もいました。私は、レンズの選択を誤って(一眼レフは持っていたのに展示品の勾玉を撮るためにマクロレンズしか持っていなかった)、スマホカメラで撮るしかありませんでした。

見ていると、太陽の強い光で、二上山がよく見えないくらいで、これは、スマホカメラで撮ってもどの程度のものが撮れるか・・・というのと、三輪駅発の電車は1時間に1本しかなく、日没まで大美和の杜にいると、東京への帰着が大幅に遅れてしまう・・・ということ、日没がちょうと三輪駅に電車が来る時間と一致しているので、三輪駅から見てみようか、という判断で、大美和の杜を下って駅に向かうことにしました。

見込み通り、電車が来る前に、高架の階段途中から見ると、ちょうど二上山の谷間に、沈んで行く夕日を見ることができました!我ながら勘がいい。と喜びました。

二上山に沈む夕日は1枚だけ紹介したのですが、もう少し、載せておきます。アングルがばらばらですみません。次はもうちょっと、開けた場所で見たいと思いました。千股池がよいらしいですが、崇神天皇の宮があった、この三輪のあたりのどこかで見たいですね。桧原神社もよいらしいですね。









二上山に沈んで行く様子を見たときの感想は、こちらのリンクから改めてどうぞ。

先日の16日日曜日、博物館学芸員資格課程の学内実習3回目があり、なんとか終わりました。前日の15日、コスモスの咲く藤原京を、レンタサイクル(大和八木発)で回ってきました。広大な宮跡に、コスモスがとてもきれいでした。まだもう少し見頃は続くと思います。

今日はこのへんで。本日は休暇でございました。

堀辰雄『大和路』より

2016-10-13 01:54:11 | 読書
また今週末は奈良へ、博物館学芸員資格課程の学内実習の3回目を受講するために向かいます。これが今年最後の実習です。

少しずつ、秋が深まっていくのを感じるようになったこの頃ですが、奈良でも秋をしっかり感じてきたい、と思っております。

そんな中、たまたま堀辰雄の『大和路・信濃路』(新潮文庫)という本を手にとりました。奈良の紀行文としては、他にも和辻哲郎の『古寺巡礼』などがあります。堀辰雄のは、読んだことがなかったようで(私が買ったのではない)、前から家にあるのは知っていて、改めて開いてみると、ちょうど季節が今頃=10月に堀辰雄が奈良に逗留した時のものでした。今回、私は同じ場所は訪れないと思いますが、今後も参考のために、堀辰雄が今頃と同じ季節にどんな所を巡ったのか、簡単にここに整理しておこうと思います。

堀辰雄は、雑誌『婦人公論』に掲載するために奈良に滞在し、このような紀行文を書いたようです。

「1941年10月10日、奈良ホテルにて」という文章から始まっています。

堀辰雄が37歳の頃ですね。しかし、改めてよく見ると、1941年といったら、12月8日に日本は真珠湾攻撃をして太平洋戦争が始まった年ですから、その2カ月前に、こんなのどかな・思索的な旅ができた人もいたんですね。
以下、日付とともにおおよそどこを訪れたのか書いておきます。

10月11日
新薬師寺、唐招提寺
10月12日
転害門(東大寺)→法蓮→佐保路→海竜王寺
柿をかじりながら佐紀山方面→歌姫
10月13日
博物館で飛鳥仏、阿修羅、虚空蔵菩薩等
10月14日
秋篠寺→西大寺駅→西ノ京駅→薬師寺→唐招提寺
10月18日
奈良ホテルで雨の荒池をながめながら、折口信夫の「古代研究」などを読む。
10月19日
東大寺戒壇院、三月堂
10月20日
高安の里
10月21日
博物館、東大寺
10月23日
法隆寺で壁画模写の仕事を見る。百済観音
10月24日
浅茅が原、高畑
10月25日
博物館
10月26日
法隆寺 夢殿 中宮寺
10月27日
奈良を立つ

その後も、日付はありませんが、奈良にまつわる短めの読み物が続きます。

この本の、私の印象としては、まず、雑誌向けということもあるのか、堀辰雄の文章をあまり読まないので他の文章もそうなのかわかりませんが、商業的な雰囲気のする文章だということです。技巧的な感じで、心の底から感じて書いているような感じは強くないということです。
それから、訪れている場所が、奈良公園周辺と、法隆寺、唐招提寺など、学校の修学旅行などでおなじみの場所が多いということです。

私も奈良といえばここに出てくるような場所をまず訪れていましたが、この頃ではこのあたりは卒業して、もう少し古い時代の歴史の舞台に関心を持つようになりました。
和辻哲郎の『古寺巡礼』も、よくぞこのような観察眼をもって、すばらしい表現力で文章が書けるなあと感心しましたが、仏像鑑賞も、私は卒業したような気がするこの頃です。

なんといっても、10月の10日から27日まで、奈良に長期滞在して、好きな所を見て、奈良ホテルでは小説の構想を練って・・・という生活を送れるなんて、うらやましい限りです。しかも日本が太平洋戦争に突入する寸前の時に。
堀辰雄は、この12年後、50歳にも至らずに亡くなってしまいます。

全体の中で、印象に残った箇所をいくつか抜き出してみます。

「そうだ、僕はもうこれから2,3年勉強したうえでのことだが、日本に仏教が渡来してきて、その新らしい宗教に次第に追いやられながら、遠い田舎のほうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の侘びしいうしろすがたを一つの物語にして描いてみたい。それらの流謫(るたく)の神々にいたく同情し、彼等をなつかしみながらも、新らしい信仰に目ざめてゆく若い貴族をひとり見つけてきて、それをその小説の主人公にするのだ。」(p.128)

この箇所は、ウィキペディアなどでも紹介されているので、よく知られている箇所なのかもしれません。私は自分でなんとなく、日本に仏教が渡来してきて、その新しい宗教に追いやられる古代の神々、というところが琴線に触れたので、取り出してみました。ただ、「遠い田舎のほうへと」、というのは、そうかな?とちょっと思いましたけれども。
この小説の構想は実現には至らなかったようです。

もう一つ。

「どうも大和のほうに住みつこうなんという気にはなれない。やっぱり旅びととして来て、また旅びととして立ち去ってゆきたい。いつもすべてのものに対してニィチェのいう『遠隔の感じ(パトス・デル・デイスタンツ)』を失いたくないのだ。」
(p.163)

私も、奈良に住みたいな、という思いもありますが、堀辰雄の言っていることが、こうやって読んでみると、納得できるような気もします。距離があったほうが、いいのかもしれません。ニーチェの言葉を、さらっと引いてこれるところが、さすがですね。

奈良に行く前に、整理してしまおうと思いましたので、今、アップします。ご参考までに。
まあ、それぞれに自分が好きな、行きたい所を見つけて、そこに行ければいいですよね。
今日はこんなところで。

写真は、9月末の学内実習の前日に、個人的に訪れた、田原本の多神社の近くから見た、二上山です。雨上がりです。
堀辰雄も、こっちの方は行ってません。

倭迹迹日百襲姫命(=ヒミコ?)を祀る 神御前神社(2015春彼岸奈良弾丸ツアーB)

2016-10-09 11:39:22 | 旅行
まず近況ですが、博物館学芸員資格課程の、自主見学レポートが、どうにか合格しました。
3日前くらいに届きました。とりあえずよかった。ただしこれから、今月中に、現在3回に分けて受けている実習のレポートを7つも書かなければなりません。三つくらい書きましたが・・・来週日曜が、最後の学内実習で、また奈良に行きます。

さて、先日耳塚の記事を書き終わって、次に何を書こうかと考えていると、去年3月のお彼岸の時に奈良・桜井市で見た、神御前神社のことを書け、と、心の声が・・・というか、しきりに心に浮かんでくるので、書くことにしました。もう1年半も前のことで、古い話で申し訳ないのですが。

この1年半前の3月のお彼岸の奈良日帰り旅については、何度か書いています。

春分の日 二上山に沈む夕日

崇神天皇の宮・磯城瑞籬宮跡(2015春彼岸奈良弾丸ツアーA)

遅ればせながら、この「弾丸ツアーB」として書くことにします。

この旅は、崇神天皇の宮跡(磯城瑞籬宮)あたりから、お彼岸には二上山の雄岳と雌岳の間に沈む夕日が見られるという話を目にしたことから、ぜひ見たい!と考えて実行に移したものです。詳しくは、上記のリンク記事をご参照ください。

他にもいろいろ目的はあったのですが、とにかく日帰りで、ちゃんと夕日が沈む所が住宅などに邪魔されずに見える所はどこだろう、と、日没までの間にチェックするために、レンタサイクルで桜井駅を出発して、主に山の辺の道を通りながら、北は箸墓古墳・ホケノ山古墳のあたりまで自転車で走り回りました。

そして、桜井駅にレンタサイクルを返すために南に向かっている途中の細い道で、いきなり「神御前神社」という文字が目に入り、思わず急ブレーキでストップしました。見ると、とてもこじんまりとしたスペースに、鳥居と、その向こうに、とてもよい感じに三輪山が!


たまたま、のどかな、趣のある集落の中を通り抜けたいと思って適当に通った道で、そんな名前の神社の存在は知りませんでした。しかし、なんだかすごい名前の神社だなと心を奪われ、自転車を停めて、その5×5平方メートルもあるかというような狭いスペースの神社に入って行くと、ここは、大神神社の摂社で、「御祭神」は倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)、つまり、あの箸墓古墳の被葬者で、三輪山の神様、大物主と結婚した女性です。卑弥呼では?ともいわれている人ですね。

何しろ、民家が建ち並ぶ中で、ぽっかりとその小さなスペースが開かれていて、三輪山がバックに本当にいい位置に見えるのがとても印象的で、これは絶対に三輪山を意識して、お祀りするためにここに造られた神社だ、ということが感じられました。神御前とは三輪山・大物主神の御前ということですね。

有名ではないけれども、いい神社、というか、いい場所にある、信仰の場所だなあと、とても心ひかれました。
祭神も倭迹迹日百襲姫命さんだけというのが興味深いです。

写真の「御由緒」を読んでいただければと思いますが、一応その中から抜き出しますと、

「鎮座地の茅原は崇神天皇が百官を率いて八百万神を祀った『神浅茅原(かむあさぢがはら)』の地とも言われ、三輪山を拝む好適地です。」

とあります。

この神御前神社について書かれたブログ等は調べるといくつもあります。同じような説明がされています。ここでは、少し、『日本書紀』のその崇神天皇の神浅茅原で八百万の神を祀った記事の部分を紹介します。現代語訳ですが。

「(崇神天皇)7年春2月15日、詔して『昔、わが皇祖が大業を開き、その後歴代の御徳は高く王風は盛んであった。ところが思いがけず、今わが世になってしばしば災害にあった。朝廷に善政はなく、神が咎を与えておられるのではないかと恐れる。占によって災いの起こるわけを究めよう』といわれた。
天皇はそこで神浅茅原にお出ましになって、八十万(やおよろず)の神々をお招きして占いをされた。このときに神明(かみ)は倭迹迹日百襲姫命に神憑りしていわれるのに、『天皇はどうして国の治まらない事を憂えるのか。もしよく吾を敬い祀れば、きっと自然に平らぐだろう』と。天皇は問うて『このようにおっしゃるのはどちらの神ですか』と。答えていわれる。『我は倭国(やまとのくに)の域(さかい)の内にいる神で、名を大物主神という』と」。
(宇治谷孟『日本書紀 上 全現代語訳』講談社学術文庫 p.123)

この続きには、お告げのままにお祀りしたが、効果がなく、再び神に尋ねると、大物主は、わが子・大田田根子(オオタタネコ)に祀らせなさい、と答えました。そして大田田根子を見つけ出して、大物主神を祀らせたところ、疫病も収まったということです。

以下は、今度は日本古典文学大系新装版『日本書紀 上』(坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注)から、該当箇所の注釈の一部を紹介します。

神浅茅原について、

「カムは、神聖の意。聖域とした所の意。アサヂハラは、まばらに茅の生えた原。これを地名とみて、桜井市笠の浅茅原、同市茅原などを当てる説がある。」

と注釈があります。

この神社の300mくらい北に、茅原大墓古墳があり、三輪山の麓、真東にあるので、位置的には箸墓古墳よりも三輪山との関わりが深くて、何か大きな秘密が隠されているのではないかと個人的に考えたりしている地域なのです。茅原大墓古墳についてはまた次の機会に話題にします。

このように『日本書紀』にも出てくる地名が今も残っている場所であり、三輪山がよい位置に見えるのですから、『日本書紀』のこの記事も全く嘘ではなく、このあたりなのだろうと思われます。

また、倭迹迹日百襲姫命についての注釈も一応紹介しておきますと、

「孝霊天皇皇女。崇神朝におけるその地位と巫女的性格から、これを、魏志倭人伝に見える女王の卑弥呼に比定し、崇神天皇を女王の男弟に比定する説もある。」

とあります。系図を見ると、倭迹迹日百襲姫命の甥っ子(開化天皇)の子供が崇神天皇なので、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だとして、崇神天皇は卑弥呼よりも年下であるということは言えそうなので、『魏志』倭人伝の「男弟」にあたると考えることもできるかもしれません。

この頃は、建物とか仏像とかよりも、現地で見ることのできる風景・・・特に神社の、ですね。その立地に興味があるので、本当に、その立地に心をひかれた、小さな神社でした。しかも祀ってある方が、とても興味深い方でした。
たまたま通りかかって出会うことができて、よかったな、と思いました。

何か書き漏らしている気もしますが、後で書き加えるとして、これで終わりにします。茅原大墓古墳などの話はすぐ次回に。

ここ数日、「卒論草稿 書き方」的なキーワードで検索してこのブログにいらっしゃる方などが多かったのですが、もう〆切の頃と思いますが、大丈夫だったでしょうか?
私も、この後、明日までの休日の間に、残りのレポートを書いたりして、有意義に時間を使いたいと思います。