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古代からのつながり(12) 九州 鏡山神社 & 近江 鏡神社 龍王宮 義経元服!

2016-10-24 | 古代からのつながり

九州の方からの情報ですが、鏡神社のことに関して『松代松太郎著「唐津松浦潟」』より抜粋を書いてくださいましたので、ココにご紹介いたします。

九州の方のブログはこちらです。 http://mimago.blog.fc2.com/blog-entry-126.html

【一の宮は神功皇后が玉島川にて鮎を釣りて吉兆を得給ひ、三韓征伐の御決心愈々牢固たるものあり。次で松浦潟より渡韓発船地の状況を察して、一旦、①橿日(かしひ)に還御し給ひ、秋九月松浦に来りて兵馬軍船の勢揃へをなし、同月九日松浦山に登り、天神地祇を祀りて戦勝を祷り、寶鏡を安置し給ひたるが、鏡神社の起原にして松浦山を鏡山と云ふの始まりである。次で②吾瓮(あぺ)の海士人をして、西方海上の形勢を探らしめしも要を得ず、吾瓮は、今の③湊浦なり。
又、④名草(なくさ)の海士人をやりしに西方に山あり恐らく国あらんと奏しければ、則ち出陣の日を撰び給ふ。名草は今の名護屋なりと。尤も吾瓮の海士人以下には異説もあり。神集島にての最後の御祈念ありたる後、十月三日御発船ありて、十二月凱旋し給ひしなり。】

気になる箇所~~
九月九日松浦山に登り、天神地祇を祀りて戦勝を祷り、寶鏡を安置し給ひたるが、鏡神社の起原にして松浦山を鏡山と云ふの始まりである。

今の地に鏡宮を建て、鏡大明神を祀り奉りたるは、聖武天皇の天平十年、廣嗣の叛せし二年前、約1200年前)にして、九月九日の祭日は皇后御祈請の日を記念するものなりと云ふ。

~~~*~~~

さて、所が変わって近江の鏡神社のwikipediaの記事にあった『龍王宮』とは、石園座多久虫玉神社(龍王宮)(いそのにますたくむしたまじんじゃ りゅうおうぐう)と関係があるのではないかと思う。

御祭神は
・建玉依比古命比売命(たけたまよりひこのみことひめのみこと)
・豊玉比古命比売命(とよたまひこのみことひめのみこと)。

第三代安寧天皇片塩乳穴宮跡に祭祀。第十代崇神天皇の勅祭に預る。
延喜式内社。元和元年迄は葛下郡八
十六ヶ村の総社。龍王宮と称し水神・物作りの神と信仰されている。

これは中原氏とも大きく関係のある神社。そして、なぜ牛若丸の元服を近江の鏡神社で行ったのかにも関係があると思うのだ。

それは中原氏・賀茂氏は水の祭祀を行う氏であり、下賀茂神社の上流に貴船神社がある。
そして、下記の貴船神社のwikipedia情報よると、上賀茂神社の摂社となっていた時期も長いことになる。

『延喜式神名帳』には「山城国愛宕郡 貴布禰神社」として記載され、名神大社に列している。後に二十二社の一社とされ、保延6年(1140年)に最高位の正一位の神階を授けられている。

永承元年(1046年)7月、出水により社殿が流失し、天喜3年(1055年)、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。当社は長らく賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされてきたが、これは天喜3年の社殿再建が契起となっているとする説がある。近世以降、それを不服として訴えが続けられ、明治以降になってようやく独立の神社となった。江戸時代までは賀茂別雷神社の祭神である賀茂別雷命も祭神としていた。


…と貴船神社も賀茂別雷神社の摂社であったことが鏡神社内での義経元服の重要な鍵となるのではないだろうか。





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