九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

今朝、気が付いたこと。

2018-01-31 | 雑記

以前、問い合わせに対していただいたメールである。

「弊寺で史料を調査している者に確認したところ、九里源兵衛の相国寺、鹿苑院内での立場は不明との事です。
ただ、『後法成寺関白記』享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述があり、
近衛家とも関係があるのではないか、との事でした。」

1528年ということは、天文法華の乱(1536年)以前である!ということに気が付いた。
天文法華の乱の調停が「九里源兵衛の初仕事」かもしれないと思っていたので、それ以前の活躍を知り、ちょっと嬉しいのだが、依然としてどのような立場なのかがつかめない。
六角佐々木氏の被官・山内氏の被官・大原氏の被官・朝倉氏の被官…等々、様々な憶測ができるのだが、

私は、
足利義晴の時代であり、水茎岡山城で生まれているご本人や、父の義澄を匿っていたことなどからも察するに、また、それ以前に(大永年間に)九里は幕府の仁木刑部少輔と共に行動している時期もあり、その仁木氏もおなじ『後法成寺関白日記』に名前が出てくることからも、似たような立場にあった可能性もあると思うのだ。(仁木氏の配下の者等

仁木 民部少輔(にき みんぶのしょうゆう、実名不詳、生没年不詳)は、戦国時代の武将。政長の子か。兄に伊賀守護の仁木刑部大輔。伊賀仁木氏。通称、民部少輔、七郎。御供衆。伊賀守護である政長の息子と推測されている。『後法成寺関白記』に現れてくる仁木七郎と同一人物と見られており、享禄元年(1528年)から享禄4年(1531年)の間に民部少輔を名乗る。大永4年(1524年)に狭川氏攻略を目指し、古市氏らと共に山城国相楽郡の笠置寺へ打入るも、狭川氏自身の采配によって散々に破られている。天文10年(1541年)に相伴衆となり、天文14年(1545年)には御供衆として将軍に供奉している。以降の消息は知れない。(Wikipedia)



天文法華の乱https://ja.wikipedia.org/wiki/法華一揆



また、他の可能性としては朝倉氏とのつながりである。(これは加治氏との‥‥かもしれないし、加地佐々木氏との…かもしれない)

近衛尚通の母親は、越前国の加治能登入道の娘・俊子(北小路俊宣養女)だそうである.(wikipedia)
越前国 加治能登入道は朝倉氏の一族かまたは重臣であったようである。「加治氏」は「加地氏」かもしれないのではないだろうか。
佐々木氏の加地氏も時にして記載が加治氏になっている。

朝倉氏とともに九里十左衛門も門警護として名が残っている。(もしかすると将軍を警護するため、幕府から派遣されたのかもしれない。)

http://blog.sasakitoru.com/200504/article_17.html

ともかく、室町幕府と何らかのつながりがあったことは確かだと思う。








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