九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

吉田氏(2)

2017-07-10 | 九里【まとめ】

前回の続きである。

この醍醐寺文書に書かれていた『蓮乗 実明少納言息』。蓮乗は最初は「慈信」という僧名だった。



延暦寺の僧たちに痛い目にあわされた実明の父季仲のことがあるにもかかわらず、実明の息を延暦寺に託しており、
そこに違和感も感じるのだが、事件以前に延暦寺に託したのかもしれない。


九里の祖は「近江国御家人井口中原系図」の中にある。
九里太郎経久=蓮忍入道 である。

【蓮忍】【沙弥蓮忍】【蓮忍入道】で調べると、

丹波河守御荘の地頭に沙弥蓮忍がおり、室尾谷観音寺に河守荘を寄進している。(1239年)
丹波室尾谷 観音寺中興の祖は【蓮乗】である。

蓮乗の父は醍醐寺文書によると【少納言實明】ということである。

観音寺の中興の祖【蓮乗】と河守御荘を譲り受け観音寺に寄進した【沙弥蓮忍】

そして、そのことが常陸国で小野氏だけではなく、金山氏とつながってくるのかもしれない。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ona_naka.html

大中臣 系図の中に二カ所「経久」が出てくるが、関係があるのだろうか。蓮忍の記載はない。 鎌倉時代後期頃、丹波国金山郷地頭として土着した大中臣経久(つねひさ)を祖とする。恐らくは経久の代に丹波に移住するにあたって書写されたものであろう。
本文は藤原氏北家を遠祖とする原系図に、鎌倉時代最末期の那珂氏の所領注文を書き加え、さらに丹波移住後、室町時代末までの金山氏.桐村氏の歴代を書き継いでいる。
注記は詳細で「或説云」「日記見之」といった表現があって、複数の記録を参照して作成されたことが明らかで、またその内容もその時代の史料とよく一致し、信頼すべき史実を多く含んでいる。
鎌倉時代にさかのぼる武家系図の原本として全国的にもまれな伝来例であり、武士団の親族関係など中世の武家社会のあり方を知る上で貴重な史料である。なお、本系図全文の釈文は、網野善彦氏「桐村家所蔵『大中臣氏略系図』について」(1982年、『茨城県史研究』48)に掲載されている。
http://www10.plala.or.jp/fukuchiyama/bunnkazai/kuni-hu/hu/hu-km02.htm

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E8%87%A3%E7%B3%BB%E5%9B%B3 以前に書いた記事。

丹波国佐々岐庄下方号金山 「九里太郎左衛門経久=蓮忍」がココの地頭だとすると、佐々木氏とつながっていたとしてもおかしくない。
 

~~~*~~~

『秀義の六男であるが、母が誰であるかは明らかでない。延暦寺の山徒となり、法橋に叙せられている。日置流の弓術で知られた吉田出雲守は 巌秀の子孫だとされている。』

川守城(蒲生郡竜王町川守)佐々木氏の支流吉田安芸守定雄の居城。吉田氏は佐々木秀義の六男巌秀(かねひで)を始祖とし、愛知郡吉田村(現豊郷町)に住んで家号とした。吉田上野守重賢は 日置流の弓術の名人で、重政、重高(露滴)、重勝(雪荷)、重網(道春)ら子孫代々世襲して弓術の、名人となる。安芸守定雄は六角氏の物頭となり、犬上郡平田合戦に磯野為員と矢戦して勝利を得た。蒲生郡蒲生町川合の河合城主川井氏、同町葛巻氏(かずらまき)は吉田氏の支流である。

上記の中で驚いたのは、「川守」と「河守」。http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%B1%8A%E9%83%B7



養子か、結婚で、中原氏も佐々木氏庶流に組み込まれていったような気がする。その経行から(経行をゼロ代目と勘定し)六代目の九里太郎経久。
秀義が1112年生まれ。その六男巌秀が(1160年に高綱が生まれている。義清は不明)1162年あたりと仮定できる。

秀義の父有賢1070年と成行が同年代とすると、1070年+150年=1220年 六代目経久


そして、佐々木吉田巌秀で、以前から気になっていたのは「亀井重清」wikipediaから抜粋してみると。↓

亀井 重清(かめい しげきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。源義経の郎党。穂積姓、藤白鈴木氏の一族、または佐々木氏の一族で、兄に鈴木重家がいた。弓の名手と伝わる。

鈴木 重家(すずき しげいえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・豪族。穂積姓・藤白鈴木氏の当主。通称は鈴木三郎。
源義経に従い源平合戦(治承・寿永の乱)の諸戦で活躍し、衣川館で義経と最期を共にした。…と言われている。

重清の兄とされる重家は『源平盛衰記』にも義経郎党として名が見られる。また、『続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で鈴木重家と義兄弟の契りを交わしたとされる。鈴木は紀伊国熊野三党の一つで、海南市藤白に鈴木屋敷と伝えられる所がある。

秀義の姉か妹が「熊野鳥居禅尼」だとすると、巌秀もそこで育てられていた可能性もある。とすると、鈴木重家のみならず、新宮(源)十郎行家も、共にいて、さらに義経も短期滞在していたときに出会っている。

以前に記事も書いていた。http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E9%88%B4%E6%9C%A8/1
亀井重清 1161年生まれ 弓の名人。1189年没

この人物! 1189年没ではなく、鈴木重家も生存していたように、亀井六郎重清=佐々木吉田巌秀も生きていたに違いない! 延暦寺法橋としてだったのではないだろうか。
http://suzukike46daime.jp/reki.html 重家が生き延びて、現在に至る!

やはり、このあたりに戻ってきてしまった。
吉田六郎巌秀に関しては「新宮氏バラバラ情報」で記事に書いているので、そちらも併せて読んでいただけると嬉しい。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/c/8d55ece74681fa739bfae5d131a9425a

~~~*~~~

正確とは限らないが、ひとつの可能性にはなると思う。

ちなみに佐々木源秀義=資長の父系を遡ると(源資長~有賢~政長~資通~済政~時中~雅信~敦実親王)で、政長の母が源頼光の女(娘の事)となる。

有賢の母系は上記にあるように藤原鎌足につながっている。
資長の母系は不明である。


頭の整理が必要だ。
中原季仲と藤原季仲。
中原季仲の祖父は中原成行
藤原季仲の妻の父は橘基仲

そして吉田家に関しても、何かを見つけなくちゃ!
コメント
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吉田氏(1) 

2017-07-10 | 九里【まとめ】
自閑さまのご推薦の図書。【近江源氏の系譜 徳永眞一郎 創元社】 (ありがとうございました!)

実は私が系図調べ始めたころに「佐々木氏とは?」という疑問があって、この本を読んだがあまりよくは理解できなかった。
今は面白く読めた!

…で、まず気になったのが『「悪源太義平」の十六騎の随一として活躍する佐々木源三秀義』という文章。

源秀義。
wikipediaでは佐々木為俊の息となっているのだが、
佐々木哲氏のブログ「佐々木哲学校」では、父は「源有賢」となっている。

もしも「源有賢」の三男「源資長」が=「源秀義」=「佐々木秀義」とすると、どうなるのであろうかを考えてみると、
おお、「九里」はなんだか近いところにいるような気になってくる。
佐々木氏の支流(庶流)の中に入っていたような気がするではないか。

ただし、源有賢が40歳代に生まれた息ということになる。(wikipediaの生年で計算すると長男も43歳で生まれていることになる。。。)

まずは、九里と絡めてみよう。

源有賢の母:藤原経季の女
つまり、藤原季仲の姉か妹である。

季仲の息に「藤原実明」がいる。九里太郎経久=蓮忍とかかわりが出てくる。

藤原実明~息蓮乗→丹波室尾谷 観音寺中興の祖 ←河守御庄地頭 蓮忍(九里の祖=九里太郎経久では?)
蓮乗という名は【醍醐寺文書】の東寺関係者の名簿の中にあった。(東京大学史料編纂所)以前の名は慈信 実明少納言 息 基仲帥孫

この基仲という人物は、年代的に見て長治2年(1105年)正月28日の文書にある「橘朝臣基仲」のことかもしれない。
ともかく橘基仲帥が蓮乗の祖父だという。
そして、九里太郎経久の父(経任)は、橘氏に改めているのである。ココに何かがある!と思う。


【藤原実明】
時代が平安中期で、父季仲が嘉承元年(1106年)に常陸に流され、息である(=実明)も少納言を解任になった。(少納言)

【藤原季仲(すえなか)】、wikipediaより抜粋、以下のようになる。
1094年に参議兼左大弁に昇進、従三位に叙せられる。ついで正二位権中納言となり、大宰権帥を兼ねて現地に派遣された。

長治2年(1105年)、延暦寺末寺の筑前国大山寺竈門宮(現在の福岡県太宰府市の竃門神社)での濫行事件鎮圧のために宣旨を受けて現地に派遣されていた
延暦寺の大衆の追捕に向かい、現地で交戦して日吉社神人を殺害して竈門宮の神輿を破壊した。
これが京都に伝わると延暦寺大衆による強訴事件へと発展した。

そのため、朝廷は季仲を「謀大逆」の罪で捕えて周防国に配流、翌年には配所を常陸国に移した。

また、子の刑部少輔懐季・少納言実明も解官された。その後、常陸国で出家して現地で死去した。【季仲(1046年~1119年)】


~~~*~~~

実明は二男で、最も早くとも1062年以降生まれで、(実際はもう少し遅めだと思う。)藤原北家小野宮流となる。【源氏】
藤原季仲が25歳の時に生まれたとなると1071年生まれ。

ちなみに、実明の息【全玄】が1113年生まれである。実明の母は、たぶんだが「高階泰仲」である。
ほぼ実明の息と佐々木秀義とが同年代であり、中原成行が1130年ごろまでの文書が残っているので、秀義の父(有賢)くらいの年代と思われる。

源有賢は、佐々木、源、藤原に、そして孫の巌秀は中原(場所的 豊郷吉田)に関係してくる。だから、九里がその中に居るような気がするのではないだろうか。
しかも、ピンポイントで藤原経季の系、中原の開拓領主だった豊郷の二つと絡んでくる。しかも竜王町の七里という場所も関係する。ここから弐里だから九里なんだろうか?

季仲・実明に至る系図は、

鎌足ー房前(ふささき)-真盾ー内麻呂ー冬嗣ー長良ー基経ー忠平ー実頼(小野宮流創始)-斉敏(ただとし)-懐平ー経通ー経季ー季仲ー実明

解任された後には、小野党等とつながっていたのではないだろうか?

源有賢の息が秀義となるならば、祖母が藤原経季の娘であり、有賢と実明とは従兄弟同志。
その息子たちは、佐々木秀義と藤原の蓮乗(下記参照)、
またその息子たち佐々木吉田六郎巖秀と九里太郎経久となるんじゃないだろうか。

竜王町や、地元の神社もこの後に探りたい。「川守」という地名も気にかかる。


中原が佐々木吉田と婚姻関係や養子縁組をして同族化したために、九里と近い感じがするのだろうと思う。
そして、六角佐々木の許に吉田安芸守定雄がいたように、それ以前にも吉田の系列がいたのではないだろうか。




コメント (2)
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