戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

宇都宮大空襲のあった7月12日が近づいてきて・・・6/25

2010-06-25 16:45:28 | Weblog
今日も何もしないうちに午後四時になってしまった。何もしないわけではなく、いろいろな事をしているうちに・・・といい換えたほうが良いかもしれない。今日は暑かった。車に乗ると直ぐ分る。いつの間にか六月も終り、七月を迎えるが、昭和二十年、敗戦の年の六、七月はもっとじめじめと雨ばかり降っていた。私は小学校五年生、姉は第一女学校の一年生と三年生だった。姉二人は勤労奉仕に明け暮れていたが、小学生にはそれは無かった。七月十二日の夜の宇都宮大空襲をご存知の方の多くは既にお亡くなりになり、辛うじて記憶にある我々、昭和九年生まれの中にもあの世に旅立ってしまった方も多い。
現代の若者の中にはアメリカと戦争をした事自体、「本当???」と信じられない人も多いというのだから驚く。戦争といっても現代のような派手なものでなく、国民を犠牲にして遂行されたものだった。一番不足したものは国民生活に必要なあらゆる物だった。これ以上惨めな思いで生活した事はない。今、有り余る物資に囲まれて、ゴミステーションにはうちで使っている雨傘より余程上等な傘が棄てられているのを見かける。あの頃は破れた番傘でもあれば良いほうだった。破れた番傘を修理する商売や、穴のあいた鍋を修理する鋳掛や(いかけや)も友達の中にいた。今穴があくほど鍋を使う人もなく、うちでも鍋を幾つも捨てなければならない状態にある。あまり立派な鍋だと捨てるのも考えてしまうが、何とか役に立てる方法はないのだろうか。
敗戦の日を挟んで二、三年の事を考えると頭が重いのは私だけだろうか?

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