kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第133回 豆腐の値段2

2016-10-08 09:39:43 | 説明
豆腐の値段について


 第101回に甲府城下の豆腐の値段について書きました。今回はデータを追加しました。

 町年寄の日記には不思議なことに豆腐の値段が多数記載されています。豆腐の値段の改定届けに関する記事ですが、豆腐は庶民にとって大事な食品であったことが分ります。豆腐の値段を改定する場合、役所の許可が必要でした。ほとんどの場合、原料の大豆の値段の上昇を豆腐の値段の値上げの理由としています。大豆の値段が下がった場合は豆腐の値段を下げることもありました。

 豆腐の原料は大豆です。大豆の相場は金相場です。明和5年(1768)の御用留には大豆相場が次のように記載されています。
上大豆 100俵に付37両1分185文6分 1両に付9斗6升1合7夕
中大豆 100俵に付35両1分205文1分 1両に付1石1升5合
下大豆 100俵に付34両2分55文9分 1両に付1石4升1合7夕
 このように大豆は金,つまり小判で取引されています。一方,豆腐は銭で販売されています。銭と小判の間には相場が立っており,小判1両が銭何文にあたるかは変動しています。銭相場に関しては第82回と83回に書いてあります。豆腐の値段は大豆相場と金-銭相場の2つが関係していることになります。

 豆腐の値段は少しずつ高くなっていきますが、幕末の一時期にかなり高騰しています。記録によると次のように変化しています。
【豆腐の値段(1挺)】
 正徳1年(1711):御城御用豆腐 1挺16文
 享保3年(1718)11月 豆腐 16文→13文
 享保4年(1719)8月 豆腐 12文
 享保16年(1731)5月:12文
 享保17年(1732)2月:13文
 寛延2年(1749)11月:16文
 明和4年(1767年)9月:20文→18文
 明和6年(1769)2月3日 豆腐18文→20文  大豆高直により値上げ
 明和6年8月3日 大豆下直 豆腐 22文→20文
 明和7年(1770) 5月27日 豆腐20文→22文 大豆値段が上がり、銭相場が低下による。
 明和8年(1771) 豆腐 8月28日30文→28文   12月6日 22文→24文
 安永3年(1774年)5月:18文→20文
 安永7年(1778)4月:24文
 文化8年(1811):26文
 文政4年(1821):28文
 文政8年(1825):24文
 天保5年(1834):30文
 天保11年(1840):28文
 天保14年(1843):26文→28文→24文
 天保15年(弘化元年/1844):28文
 嘉永2年(1849):24文
 嘉永7年(安政元年/1854):32文
 安政4年(1857):30文→28文
 安政5年(1858)8月:26文
 安政7年(1860)11月:40文
 文久2年(1862)8月:36文
 慶応1年(1865):64文
 慶応3年(1867)2月:88文
 慶応4年(1868)2月:100文、3月:88文

 豆腐が高いか安いかは収入によるものでしょう。残念ながら個人の収入についてはあまり記録がありません。
 寛延2年(1749)11月の豆腐の値段は1丁16文です。同年5月の人足の賃金は銀7分5厘です(寛延2年御公用諸事の留)。寛延2年(1749)3月の両替相場は銀1匁につき110文です(寛延2年御公用諸事の留)。銀7分5厘は83文になります。豆腐1丁の値段は1日の収入の19%になります。一方、上水道の管理人の「水見」の1年間の給銀は240匁です。一月に直すと20匁になり、1日あたりはやはり1匁以下です。
 甲国地方雑記(甲斐叢書)という古文書があります。この中に、甲州脇往還という項目があり、人足賃の記録が掲載されています。府中(甲府)から鰍沢村までの人足賃が136文+割増18文とあり、距離は4里8町とあります。酉2月の日付しかありませんのでいつの時代化はわかりません。1里は約4㎞ですので、4里8町の距離では往復すると1日かかることになります。すると、1日の収入は154文となります。豆腐1丁の値段は1日の収入の13%になります。

 文化年間の髪結いの値段が28文、慶応1年(1865)の米の値段が京升1升345文、同じく慶応1年(1865)の入浴料が12文でした。慶応1年の豆腐の値段をみると、かなり高価な食品であることがわかります。ただ、1挺の大きさが現在よりも大きかったということが書いてある本もあります。

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