kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第141回大和周り02

2017-04-18 09:14:54 | 説明
大和周り02


 寛保2年4月25日(1742年5月28日)京都から大和周りに出発しています。奈良県から和歌山県,大阪を回り,5月8日(6月10日)に京都に戻っています。京都の宿である日野屋久兵衛,肴屋仁兵衛,大仏前長兵衛が同道しています。奈良県は北から南に横断し,吉野川(紀ノ川)を船で下って和歌山に出ています。
第140回では奈良県を縦断して土田までの進んだ様子を書きました。今回はその続きです。

◎5月昨日は吉野川(紀ノ川)に沿って,阿太(五条市),五条,橋本,かむろ(学文路),かね(河根)まで進んでいます。かね(河根)の丹波屋佐助という宿で泊まりです。橋本からは和歌山県です。
阿太の付近で日食にあい,「昼時分なれど暮合のようになる」とその状況を記録しています。五条は「よき町あり。繁盛に見える」と書いています。宿はずれにて饅頭食べる。待乳峠,くらがり峠を通って橋本へ向かいます。くらがり峠で饅頭食べる。「くらがり峠は名にも似ず,清らなる女子いずれの家にも有て都めく風情」(岸和田旅行,破鏡尼,正徳3年(1713),近世女人の旅日記,前田叔,葦書房,2001)と感想を述べている人もいます。
橋本からかむろ(学文路)へ行くには紀ノ川を渡る必要があります。紀ノ川の船渡しは無銭でした。かむろ(学文路)の玉屋予次右衛門というところで中食,ここに荷物を預けて河根へ行き,河根の宿で宿泊です。「河根の前後難所なり」とありますので山越えです。このため荷物を預けたのでしょう。「かねの丹波屋よき宿なり」との感想です。

◎5月2日は高野山を参詣して,かむろ(学文路)の玉屋予次右衛門へ戻って宿泊です。宿泊料は100文です。
宿の河根から紙屋を通り,高野山を参拝,再び紙屋に戻り昼食,河根に戻り一休み,その後かむろで宿泊という経路です。紙屋は神谷のようです。「かね(河根)から紙谷まで1里半(約6㎞),上り坂ばかり也」と日記に書いています。山梨志賀子の旅日記には,「けわしき山を登り下り,かろうじて神谷の村に至る」と道が険しいことを書いています。また,志賀子は「高野山の坊よりここ(神谷)まで迎えに出る也」とも書いています。
高野山へ行きますが,途中に「四寸岩,不動坂とて大難所あり」とあり,現在の南海高野線の極楽橋付近から上ったようです。高野山の入り口である一心院谷から高野山に入りました。「凡行人派280人,聖派100坊,同公方様坊あり。学寮350軒,知行2万仙石」と書いています。
奥之院迄参詣しています。「奥の院の道石塔おびただし」とあり,道の両側にたくさんの石塔が立っていたことを書いています。

◎5月3日
かむろ(学文路)の町はずれから船に乗り紀ノ川を下り,和歌山の紀伊三井寺前に着いています。紀ノ川から和歌山市内を通る西堀,北堀,を通り,和歌山城下の川を通って紀伊三井寺前に着いています。船内13里とあり,船賃は400文です。紀伊三井寺に泊まっています。宿は名草屋三郎右衛門とありますので,三井寺の門前の宿でしょうか。元禄2年の南遊記事(新日本古典文学大系,岩波書店)には「紀伊三井寺の麓に町有,客舎あり」とありますので,この町で宿泊したものと思われます。

◎5月4日に貝塚(大阪府)まで進みます。朝,紀伊三井寺を参詣しています。紀伊三井寺は,「近年焼亡にて普請始まる。本堂仮堂に入りなられ候」とあります。それから和歌川を船で超えて名所である和歌の浦に行きます。船賃は10文です。和歌の浦は和歌山市の南西にある名勝地です。幕末の嘉永3年(1850)の上州伊勢崎藩御典医であった栗原順庵の旅行記「伊勢金比羅参宮日記」(http://www.geocities.jp/kurijun2002/ise2.html)には「ここ(紀伊三井寺)から和歌浦まで18丁ある。入り江を舟で渡る、1人前24文・・・・舟が到着するところは、妹背山という。」と書いています。
和歌の浦では,玉津島大明神,東照大権現を見学しています。東照大権現は「けっこうなる御普請也」と記しています。
それから和歌山城下を通り,紀ノ川の鯛の瀬渡しを3文で超えて摂津の和泉(大阪府)へ向かいます。JR和歌山線に田井ノ瀬という駅があります。田井ノ瀬駅は紀ノ川の南側にある駅で,鯛の瀬渡しはこのあたりでしょうか。「南淵新田にて休む。かけ作りより山口へ125町,休峠あり。五六町先に板橋あり。紀州和泉の境なり。山口より山中へ50町」と行程を記載しています。JR阪和線沿いに山口,山中という地名がありますので,現在の阪和線沿いに進んだものと思われます。かけ作りは和歌山城下の北側にある宿場町です。
摂津では蟻通の明神を見学しています。蟻通の明神は「百姓の軒より入り,森の内に闇し」と記しています。元禄2年の南遊記事には「蟻通の明神社有。深林の内に在。大社也。社人,社僧両家あり」と記しています。
貝塚の宿はせんの屋次郎兵衛です。

◎5月5日に大阪に着いています。貝塚から岸和田,堺を通り妙国寺を参詣。妙国寺では蘇鉄を見ています。この蘇鉄は現在でもあるようです。元禄2年の南遊記事には「貝塚は・・・町長し。民屋多くは瓦ぶき也」とあります。堺の町では千守(乳守)の遊女町,大和橋、天下茶屋、住吉の難波屋の松を見物,この松は8間四方の大きさです。
文化14年(1817)に”きよの”さんも天下茶屋、浪花屋の笠松の見物に立ち寄っています(金森敦子、「きよのさんと歩く大江戸道中記」、ちくま文庫、2012)。難波屋と浪花屋は字が異なりますが同じ店です。享和2年(1802)の曲馬琴の旅行記「壬戌羇旅漫録」(http://www.asahi-net.or.jp/~va6n-nsok/shoko/kiryo.html)にも難波屋の松を見物したとあります。「茶店の庭木なり。つくり木ながら。四方二十軒ばかりまんまるに笠の如く茂生す。木の高サ一丈といへど。見れば五六尺あるごとく低きくみゆ。へりに至りては三尺。或は二尺餘はなれたる所あり。」と記しています。
摂津名所図会には安立町難波屋名松と題して松の絵が掲載されており、説明には「難波屋笠松・・・四方に蓋覆して笠のごとし。株の高さ7尺(2.1m)、東西15間余、南北13間余、周廻50間許。年々四方に繁茂して・・・」と記載されています。
それから住吉大明神,天王寺,愛染堂,生国魂明神へ参詣。当時住吉大明は海岸近くにありました。「納物船共数多あり」。奉納した船の模型でしょうか。曲亭馬琴は「はるかに住吉の濱より見れば。武庫山右に遠く聳へ。淡路島むかふにかすみ。一の谷などはるかに見ゆ。岸の姫松は数千年千とせの緑をあらはし。」と景色が良かったことを書いています。
天王寺では「七間堂伽藍にて結構なる御普請也。日ぐらしの塔,亀井の水」と感想を述べています。摂津名所図会の四天王寺伽藍図には亀井の水が描かれています。摂津名所図会の説明には「亀井の水宝蔵の南にあり。楼を亀井堂という。・・・冷泉は金堂の中なる青龍地より流れ出づるなり。白き石の間より玉のごとく清泉涌出するより白玉石出水と名づく」と説明があります。生国明神では「当日社地賑々し事,詞に述べ難し。浄瑠璃。歌さえもん,物まね,手妻,講釈はなし,女芝居など見世物数多あり」と書いています。
大阪の宿は長町1丁目(現在の日本橋付近)の佐野屋源兵衛です。宿泊料は110文です。宿に着いてから番頭与兵衛の案内で坂町高津新地の見物に出かけ,遊んでいます。番頭与兵衛とは宿の番頭でしょうか。

◎5月6日は心斎橋の松屋善兵衛という人を訪問しています。その後日野屋久兵衛の舎兄八文字屋も訪問しています。それから竹本座の人形芝居を見学,「太々入也」とありますので込んでいたようです。芝居を4段見学しています。大阪の道頓堀には芝居小屋が集まっていました。「此太夫、百合太夫、紋太夫、嶋太夫、西太夫語るなり」とあります。「文楽の歴史」(倉田喜弘、岩波書店、2013)には此太夫、百合太夫、志摩太夫の名前がある元文4年(1739)の番付を示しています。
その後,心斎橋で同道している京都の日野屋久兵衛と別れています。日野屋久兵衛は先に京都に帰るようです。
 坐摩の明神を見物して,「松屋町でうどん食べる」。大阪城の堀端ぞいに行きます。「御城の儀櫓の石垣,追手門結構也」と感想を述べています。天満橋を渡って天満宮を見物し,それから八軒屋へ出て難波橋へ出ています。「この橋破損し故船渡し1文。北浜2丁目へ渡し,嶋屋吉兵衛へ寄る」と記しています。嶋屋吉兵衛との関係は書いてありません。
天満宮では「社中色々の芸者にて賑々也。植木屋あり。江戸深川八幡に似たる所なり」と記しています。新町の遊郭を見物,堺筋を通って宿へ帰っています。新町の遊郭では遊女の位である天神の道中を見,新町の九軒町の揚屋を見物しています。曲亭馬琴によれば,「凡そ揚屋の広く奇麗なること大坂にしくものなし。揚屋は九軒(町)に限る。その余は茶屋と呼屋なり。」です
宿に帰ってから,また浄瑠璃芝居に行っています。今度は豊竹座です。この後坂町高津新地に出かけ遊んでいます。当時竹本座と豊竹座の全盛時代でした(「文楽の歴史」)。「百合若高麗軍記と申し語る。大当りなり」です。

◎5月7日はまた芝居見物。佐渡島長五郎座です。鳴神不動北山桜の演目であったことが記されています。
四ツ橋のふじ屋仁兵衛という船宿から淀川の三十石船の夜船で伏見まで戻りました。「三人前払い2人乗り也。船賃一半150文,ふとん14文」とあります。2人で3人分の場所を確保したということです。夜船なので布団を借りています。船賃は3人分として300文かかったので,2で割って1人分半150文ということでしょう。夜船なので「景しれず」
「伊勢金比羅参宮日記」の著者栗原順庵も道頓堀から三十石船に乗っています。「ただし180文。京都まで乗っても同じ値段である。」とあります。幕末になるにつれ値段も上がっていたようです。
三十石船は長さ17m,幅2.5m,乗客定員28人,船頭4人の船です(「大阪名所むかし案内」絵とき「摂津名所図会」,本波章,2011,創元社)。

◎5月8日朝4ツ時着。「黒田大善太夫様御座船御下船也」と記載しています。参勤交代で江戸から帰る大名の船が通るのに出合ったということでしょう。
三十石船の終点まで行かず,途中の山崎付近で船を下りています。ここから八幡の町へくずくは渡しを3文で渡り,八幡の社に参詣,奥之院弥陀堂,拝殿を見物してから淀の町へ向かっています。「西遊記」の著者栗原順庵も途中で船を降りて石清水八幡を参詣して淀の町に進んでいます。
淀の入り口では橋が破損していたので船渡しで川を越えています。船渡しは3文です。こから淀の堤に沿って伏見へ向かい,中書島まで。中書島弁財天に参詣,伏見の町で昼食です。京都の方広寺の大仏前を通り,京都の滞在先である日野屋久兵衛の所に戻っています。
ここに,甲客若松屋清左衛門,同三郎左衛門,石田宗寂などが滞在していました。日野屋久兵衛は甲府にかかわりがある人のようです。また,伊勢参宮の連であり,伊勢参宮後に西国に回った奈良屋徳左衛門,奈良屋伊右衛門,奈良屋市右衛門,丸屋安右衛門の4人が7日に京都の三条御幸通りの笹屋徳兵衛という宿に着いていました。「即見廻いに行」とありますので,挨拶に出向いているようです。この日はまた宮川町の大和屋於三へ行き,崎を呼んでいます。

◎5月9日 また宮川町の大和屋於三へ行き,崎を呼んでいます。

◎5月10日 芝居見物。その後伊勢参りの連である奈良屋徳左衛門に暇乞いに赴きます。奈良屋徳左衛門はさらに丹後,丹波の方に向かうとのことです。

◎5月11日 京都の知人を訪ねています。祇園新地の大和屋於三に行き,お崎を呼んでいます。
◎5月12日は愛宕山を参詣しています。途中で太秦の太子堂,臨川寺などを参詣しながら,嵐山へ向かっています。嵐山周辺では法輪寺虚空尊,天龍寺,二尊院,化野念仏寺などを参詣しています。天龍寺では牡丹を見物。清滝川でこりを取り,愛宕山へ向かいます。曇っていたので霧に巻かれて何も見えなかったようで,「景とくになし」と感想を述べています。奥之院まで参詣,帰りは霧が少し晴れて,亀山の城がほのかに見えたとあります。この日は嵯峨の井筒屋で泊まりです。

◎5月13日は嵯峨周辺を見物し宿へ帰りました。朝祇園新地の大和屋於三のお崎から「鶴の子」という菓子が送られてきました。「鶴の子」という菓子は現在でも甲府で売られています。夜毎晩祇園新地の大和屋於三に行き,お崎を呼んでいます。

◎5月14日以降は甲府へ帰る準備を始めているようです。京都で世話になった人々に暇乞いに出かけています。17日は買い物などをしています。19日には日野屋久兵衛と「差引致し」とありますので,費用の清算をしたのでしょう。2両借りるとあります。
13日以降毎晩祇園新地の大和屋於三に行き,お崎を呼んでいます。なごりおしかったのでしょうか。

◎5月20日に京都を出立して甲府に向かいます。
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