kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第127回 町民の名前02

2016-06-07 08:51:04 | 説明
町民の名前


 第60回で町民の名前について書きました。今回はこの続きです。

江戸時代の名前は現在と違い、遠山左衛門尉景元のように、苗字、官職名、諱(実名)の3つからなっていました。通常は遠山左衛門尉のように苗字と官職名だけを名乗りました。現在は、山本太郎のように苗字と名前だけですが、名前は諱(実名)に相当しています。

町民の名前も鈴木長兵衛宗久、鈴木伝左衛門宗俊というように、武士と同じ形式になっています。ただし、長兵衛、伝左衛門は官職名ではありませんが、3つからなるということは変わりません。長兵衛、伝左衛門は表名といわれます。世襲や改名するのはこの表名の部分だけです。町年寄りや医者以外の町人は苗字を名乗れないので、苗字の代わりに駿河屋などの屋号を使用することもありました。苗字は公式に名乗れないだけです。対外的な名前は屋号と表名で、人別帳に記載されている名前は表名だけが使用されています。人別帳は役所に提出する文書なので公式なものになります.役所からの呼び出し状である差紙も表名だけが記載されています.

支配者と同じ名前は改名されます。延享5年(1748)の甲府町年寄の御公用諸事之留には、新任の甲府勤番支配の若様、家老、御用人と同じ名前の者は改名するようにという町触が記載されています。この時の御用人の名前は、只右衛門、茂兵衛、弥惣太ですので、これと同じ名前の者が改名されています。

 さて、江戸時代の町民の名前とはなんでしょうか。少し考えてみます。
(1) 表名は家を代表する当主の名前である。
 名前を世襲するのは当主だけであり、隠居した場合は隠居名に改名しています。家督を譲られたとき、表名を世襲する場合もあります。○○後家というのは、次の当主が決まるまでの中継ぎです。後家は未亡人という意味だけではなく,後継ぎがいる場合は○○後家とは呼ばれず,出家して法名を名乗っています.人別帳には単に母としか記載されません.
 寛延元年(1748)の三日町宗旨改帳には、当主として順五郎(15歳)、父玄昌(61歳)、母(47歳)の記載があります。玄昌は隠居名です。
(2) 左衛門、右衛門、兵衛は宮城の門を守る兵士の官職名です。
江戸町奉行の遠山左衛門尉景元の場合、左衛門尉は官職名です。伝左衛門、伊右衛門、長兵衛のように○左衛門、○右衛門、○兵衛という名前は官職もどきになります。〇の部分には忠,孝,金,銀,長,重などの1字の場合と市郎,次郎などの2字の場合があります.
(3)官職は、かみ(守、頭)、すけ(介、亮)、じょう(丞、尉)、さかんの4等からなっています。権之丞、嘉助などの名前はこの呼び名を流用しています。
(4)太郎、次郎、三郎は出生順所を意味する名前です。例えば、源九郎という名前は源氏の九男を意味します。
  金十郎、文七、久八、武八などの名前はこの形を借りたものでしょう。文化元年(1804)の三日町人別改帳には、祖父助七、父助四郎、当主傳蔵、子助三郎の名前があります。また、当主久右衛門の子として久次郎、兼次郎の名前があります。この場合子の2人とも次男を意味する”次郎”が付いていますので、出生順でないことは明らかです。江戸時代中期には出生順という規則はくずれています.

 武士は苗字、官職、実名の3つからなる名前を持っていました。町民の名前もこれをまねて官職もどきの名前を付けていました。官職を持たない下級武士も同様です。官職名もどきの部分、つまり表名は武士の「名乗り」の名残であると思われます。

 女性の名前は規則がないようです。寛延元年(1748)の横近習町宗旨改帳から女性名を拾ってみると次のようになります。
ちよ、りん、よね、かつ、つね、ふく、ゆき、きん、くら、ゆり、まさ、はつ、ふゆ
などです。

 古文書を呼んでいると,同じ人物に重左衛門と十左衛門,次郎右衛門と治郎右衛門,助四郎と介四郎のように異なる字が使用されている場合があります.使用する字にはあまりこだわっていないようです.