Blue Heaven

ただ、漠然と。

映画、レンブラントの夜警から

2008-02-01 21:51:45 | Weblog
レンブラントの「夜警」

中世ヨーロッパ絵画の中でも有名な絵である。第五警備団のメンバーの肖像画なのだが、これが物議を醸した。
当時の絵画の暗黙の了解は、肖像画を描くときは等身大で、また、複数の人物が一枚の絵になる場合、その各々を平等に「静止画」を書くと言うこと。レンブラントの「夜警」は、その常識を根底から覆したと言われている。
メンバーの一人一人に異なった表情があり、被写体の遠近に応じて大小、そして各人の仕草もまた事細かに描いていった。
この画法が、当時、この絵を見た人たちの間で強烈に批判された。
被写体それぞれが違う、それだけで「平等」が崩れるという。また、当時の画家は王族お雇いの画家が多く、依頼主を過少的に書くこと、また依頼主が複数だった場合、その各々に「差」を付けることは画家としては命取りにもなったという。
当時の批評では、レンブラントもまたこのタブーを犯し、画家としての名声、がかとして得た財産のほぼ全てを失ったとされた。
しかし、今日の「夜警」に対する批評の中でこのことを批判する論者はまずいないという。

今日の批評では、高く評価され、この「夜警」がその後の絵画の新たな流れを作り上げていったという。
この絵画の実物は、彼の出身国であるオランダのアムステルダム国立美術館に所蔵されています。

その「夜警」が描かれるまでの過程を映像にしたのが映画「レンブラントの夜警」。

その映画を友人に誘われて観に行った。

レンブラント自身の純情であり激しすぎる恋愛と正義感が映画のベースになっているが、絵画や芸術に興味があれば、映画としての深さにも感服すると思う。
カメラのアングルが素晴らしいと思う。まるで映画館の座席から正面のスクリーンの向こう側にある舞台を観ているような感覚に陥る。
そう、将に演劇を観ているような感覚だ。正面に固定されたカメラのレンズの範囲内で、最大の演技をしている。時にはレンズが映す範囲の外にこぼれてしまうかもしれないと思うほどの豪快さ。
レンズの向こう側で演じる人の目線に立ったカメラアングルも好きだが、固定されたレンズから、あたかも外から見ているようなアングルも、実は面白いと思う。
最近観た映画で言うならば、前者がアイルランド映画『Once ダブリンの街角で』ならば、後者はこの『レンブラントの夜警』だろうと思う。
『Once ダブリンの街角で』も、恋愛でも純愛でもなく、しかし後味の良い出会いのドラマ。
糖度が20以上あるのに後味がスッキリとしている果実を食べているみたいな映画。
『レンブラントの夜警』は、最初から最後まで激しい演技で、なかには露骨な恋愛シーンもあって、芸術的、哲学的な何かを追求しているようにも思える。
それが舞台演劇を観ているような錯覚に陥らせるのだろうと思う。

レンブラントとは違うけど、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を題材にした「真珠の耳飾りの少女」もまた良い映画です。この「レンブラントの夜警」とは正反対に、とても静かな中で物語が進行する。
その作品の中で、フェルメールが、この絵画のモデルとなった使用人である少女へはせた思いの変化も良く描かれています。
フェルメールと言えば、あの鮮やかな青色の使い方ですが、その鮮やかな青色もまたあの「真珠の耳飾りの少女」や「牛乳を注ぐ女」などの名画の中心的な役割を果たしています。

それにしても、最近、良い映画を観ています。
ミニシアター映画が良い!
これからみたいと思っているのは、

「人のセックスを笑うな」 
「胡同の理髪師」
「長江哀歌」
「君のためなら千回でも」
「ハーフェズ ペルシャの詩」
「パレスチナ1948・NAKBA(ナクバ)」



などと、思い浮かべただけでも結構な本数ありますが、春休み中になんとか全部観ようと思います。
ミニシアターは、探すと素晴らしい映画がいくつも出てくる。
数ヶ月前から、個人的にドキュメンタリーに興味が出てきて、佐藤真の単行本や川喜多長政の「私の履歴書」なんかを探してきて読んでいます。
「キネマの砲声」という、旧満州での満州映画の事を書いた本が岩波文庫から出版されていて、その本を読んでいると、あの当時満州で陸軍大佐だった甘粕正彦がどれだけ尽力をしたかなどもよく分かる。

結局、甘粕がいなければ満映関係者の赤紙を全て送り返すようなことは出来なかっただろうし、今日の東宝映画はないだろう。まして、川喜多長政という人物も歴史の上で名を残すことは出来なかっただろう。
日本映画の大きな歴史の交差路が、満州の地にあったことを教えてくれる。

甘粕、満映、川喜多、李香蘭、などなど、色々な人物が戦争中には登場するが、これらの人物の戦争中であっても、平和構築に全力を尽くした人々の活躍なくして今日の日本映画は語れないだろう。小津安二郎や黒澤明、新藤兼人なども、満映で撮っていた時期もあった。


必ずしも、歴史ありきではないとは思うけども、そういう前提を知ることも面白いと思う。

レンブラントの夜警に話を戻す。
ああいう独特なアングルもまた人の心を掴む。
ものすごく芸術的、哲学的だけども、新しい価値観を発見できた良い映画だった。

最後に残った迷い、大学、就職

2008-02-01 21:02:14 | Weblog
あっという間に時間が過ぎてしまった。
4年間という長いようで短い時間。
ついに学生という身分から一社会人になると言う自覚すらもないのに、日、一日とその日が近づく。

最後のテストを終えたのが水曜日。最後という感覚もなく、4年間という時間の中で果たして自分がどれだけのことが出来たのかというと、自信を持ってあげられるモノもないような気がする。
ただ、自分なりに手探りで何かを探し求めていたことだけは確か。それが見付かったかどうかも、今でも分からない。

ちょっと臭い文章になってしまっているが、要は大学生活が、あと卒業式を残すだけとなったこと。とにかく人数が多いので大学のキャンパス内で卒業式をすることは出来ない。なので近くの武道館で行うのだが、大学まで歩ける距離なので、その日どういう思いで歩くのだろうか。

しかし、卒業という思いが薄いのにはもう一つの理由がある。卒業式の会場が、入学式の会場と同じ日本武道館なのはそうなのだが、その場所が、4月から勤める(予定の)職場と大学との調度中間地点にあると言うこと。
卒業してもなお、学生時代にブラブラしていた場所で仕事をすることになる。

ああ、それで本当に良いのか、今になって思うが、まぁ、大学も職場もいずれにしても東京都心部ののほぼ中心部にあるのだから、幾分か仕方がない面もある。

愚痴をいっても仕方がない。

結局、部屋の片付けは、後手後手に回るだろう。
中学から高校に入学するとき、高校から浪人をしたとき、浪人から大学に入ったとき、早め早めに部屋の衣替えはしてきたのだけれども、今回はそういう気持ちになれない。
俗に言う「スチューデントアパシー」なのか、職場がこの場所になったのは、就職活動の結果もあるが、この神田、神保町の古本屋街が恋しかったからかもしれない。
いつも気分転換には靖国通り沿いの古本屋街、神保町方面にぬけるすずらん通りの東アジア関係の本屋を身ながら時間を潰していた。時々絶版になった単行本や昔、ある映画の参考文献になったような掘り出し物を手に入れ、昔観た映画を思い出しながら、乱読をした。

社会人になってからも、そういう時間が欲しいという、今からして究極的に歪んだ気持ちでいる。地下鉄で5分、昼休みに急げば行かれる時間だ。

そんなことよりもまずは会社からの課題や、英語の勉強、などなど、勉強しなければならないのに、いつも、本題に取りかかろうとすると邪念に犯される。

早く指にペンだこを復活させて、英語や貿易実務の勉強をしないとと、心には発破を掛けているが、思いが言うことを聞かない。

まぁ、すこしぼーっとしようと思う。

あれこれと考えるよりも、少しぼけっとして、頭と心の整理をしようと思う。

もう一つの目標は文章のイメチェン。
どうも思い浮かんだ言葉をそのままアウトプットすると、変に硬い文章になってしまう。晦渋な文章ではないのに。

今、島崎藤村の「夜明け前」を読んでいる。何でもっと早くに読まなかったのかと後悔しながら読んでいるが、未知に対して自分から進んでいこうという気持ちをこれから持たないとダメだなとも思う。

色々と思うことはあるが、いつもと同じ支離滅裂。
結局、支離滅裂に始まり、支離滅裂に終わる、というところが自分にとって無難な終わり方のかなとも思う。

これ以上書くと、更に支離滅裂の袋小路に陥ってしまうので、この辺でとめる。