Blue Heaven

ただ、漠然と。

中学校時代バトン  てっぺー、しんちゃん、れお、先生、烏丸さん

2006-10-28 22:06:40 | Weblog
mixiのバトンです。まぁ、ここに載ってしまうのは勘弁してください。


☆中学校時代バトン☆

1:中学生時代のあだ名を教えてください
 
 ・ こうくん

今でも。中学一年のときの担任の先生には、「こう」と呼ばれていた。いもでもそう。
俺も、今でも苗字で呼ばれるのにはまだ慣れていません。
 
2:制服   
完全に私服だった。

3:恋をしていましたか?
まぁね
4:告白はしましたか?
のぉね
5:告白されたことはありますか?
のぉね

  

6:中学生時代に仲良しだった人とは今も友達ですか?

   今週末、飲もうとの話。今、地元での仲間内は、みんな中一の時の同級生。高校はみんな違ったのに、高校生のころから海岸で酒によっていた仲。
ごめん、未成年の飲酒は時効何年でしょうか・・・


7:部活はしていましたか?
 
ソフトテニス部仮入部。後は地元で子ども会のボランティアなんかをしていました。そのときの知り合いとも今でも仲がよいですね。これは地元にとどまらず、全国的なネットワークになりつつあります。

8:当時はまっていたものと言えば?
  
自転車。サイクリングです。けっこう長距離走りました。長いときで一日80kmは走ったと思います。今でも自転車は好きで、時間があれば、ツーリングをしたいと、今、自宅で自転車を整備しています。


9:誰かと大喧嘩したことはありますか?
  
中一のとき、ともに文化祭実行委員をした友人。あのときの喧嘩がなければ、今、親友ではないと思います。
10:好きだった科目は?
  
社会
  
  
11:嫌いだった科目は?
  
数学 理科
  
12:塾には通っていましたか?
  
中三の時にちょこっと、基本的に勉強はしていなかった。なので、成績も悪かった。

13:「あイター」な思い出は?

思い出せないな。あったとすれば、中一の大雄山キャンプでしょうか。分かる奴には分かる。
あのときの喜劇と悲劇の絶妙なバランス。明らかに明暗の分かれた状況。
俺は、当事者であり、共犯者であり傍観者であった。

  
14:当時流行っていたテレビ・アニメは?

るろ剣とドラゴンボールとか?

電波少年とかとんねるずの生だら
あの頃のテレビ面白かったな・・・・・

危険なものでは
ギルガッメシュ・ナイトやらトゥナイト 
  masaちゃん、よく覚えていらっしゃる。そのままパクリます。

15:「ちゅうがくせい」の文字で携帯変換のトップに来るのは?

ち・・・ちょっと
ゆ・・・ゆっくり
う・・・運転
が・・・月
く・・・車で行きます。
せ・・・先生
い・・・犬と行きます。

支離滅裂。それが結論です。

16:実は不良でしたか?
 
不良ではないが、模範的でもなかった。マイペースで、外の世界を知らなかった。
中学生までは酒もタバコも知らなかった。タバコは今もすわないけども、お酒は、早かったと思う。

17:異性を異性として意識していましたか?
 
まぁ、そうでしょうね。花が咲くことはありませんでしたが。
18:中学生の頃の将来の夢は?
  
先を見て生活していなかった。
夢ね。自転車で世界を旅したいと。今でもそう思います。

19:一番クラスがまとまっていたのは何年生のとき?

一年だよ!!  
20:忘れがたい思い出は?

さびしい思い出だけど、三年生のときに、社会科の先生が異動になって、そのときのお別れ会のとき。われに似合わず目に光るものが。  
21:中学生に戻っていただく5人は?

ここにあげられた仲間にもまわしたかったが、仕方ないな。
覚悟してください。
てっペー、しんちゃん、れお!!先生!!!烏丸さん!!お願いします!><!

同じ時間、違う道

2006-10-27 23:25:09 | Weblog
時間の流れ。

同じ感覚で過ぎてゆく、24時間の数々。
太陽が東から昇り、西に沈むまで、一生懸命に生きる。
喜怒哀楽を共にしながら。


そんな時間の積み重ねが、365積み重なって、一つの年輪を刻む。
その間に過ぎゆく春夏秋冬。季節ごとに咲く花を楽しみながらも、変わる自分には、自分では気づけない。

それでも、人は変わると言うことを言葉で遺した。

年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず

時間は人に変わることを強いるのか、人が自ら変わろうとするのか。
変わらない花の色を見て、変わっていることに気づく。

そして時には
時の経過と共に変わる自分に、
久々に会う友人に気づかされる。

7年という歳月が過ぎて、再会した友人に面影を観ることができたのは、
変化の中にも名残りがあったから。
そして話し方や笑う表情に変わりはなかったから。

その再会は極めて刹那的であったけれども、決して長い歳月を経た感覚は持たなかった。

7年前の面影しかない記憶が塗り変わる。

この長い歳月、お互いに話し合うも、この時間の長さに、今になって実感する。
しかしそこには、せつなさを感じる。

どんな時間を過ごしてきたのだろう。
我ながらに思い起こしながら話す。その中で浮かぶ、走馬燈のような記憶のテロップを一気に流す。

まだ、語るには若すぎる気がするけども、それでも、一生懸命走ってきた、それだけを確かめる、それだけで良かったのだとも思う。

電話やメールで、どこにいても連絡は取れるけども、1と0の数列に変換された声よりも分かり合えるのは、何も隔てないお互いの言葉だけ。
お互いに一生懸命走ってきたことが分かる。
立ち止まりそうになった時もあったけれども、それでも何とかここまで来た。
そう言う実感が改めてわきあがる。

あれから7年間。これから7年たつと、俺はある節目に立つ。
長いようで。短いのかな。その時には、きっとこの再会を思い出すのだろう。
そしてこの時に飲んだ、同じ味のお酒に身を任せて7年の時間を我なりに要約するのだろう。

それまでにお互い家庭を持ち、お互いに違う人生を歩んでいるんだと思う。

先はまだ見えないけども、そうやっているんだと思う。

これからまた、お互いに違う道を歩く。
またすぐに会えるだろう、そう言って別れた。
きっとすぐなのだと思う。再び時間のテロップを回しているときには、そう感じるのだろう。

自分は変わっているだろう。

うれしかったのは、見た目も、立場も変わったけども、笑っているときの表情は変わっていないね、と言われたとき、うれしかった。
人間の素の表情が変わっていない。それは一番の褒めことば。
お互いにこの時間を過ごすのに違う苦労してきたと思う。
いらぬ苦労であったかもしれないし、必要なことであったのかもしれない。
でも、それは分からない。

その間隔の時間を超えて、生活や考え方が変わっても、素の表情が変わらない。それが理想だと思っている。

14年前、2匹の犬が我が家に来た。1匹は知り合いからもらってきた犬。
もう1匹は駅で捨てられてた犬。
あと2.3日引き取り手がいなければ、保健所で寂しく命を終えていたのだろう。

我が家にやってきた日は、今でも強く脳裏に焼き付いている。まだ我が家に慣れず、不安に震えていた小さな命が14の年を重ねて、今、まだ一生懸命に生きている。

犬の寿命からして、ターニングポイントはとっくの昔に過ぎていると思う。
確かに、足は震えだしているし、体のあちこちに老いが出てきている。
それでも生きている。
死も、老いも知らないだけ、体が重くなっても、無垢に生きるその姿に、ありがとうと思う。
それでも、いつかは別れる時が来ることを、そろそろ自覚しなければならない。
寂しいけども、それが決まり。
きっと、その瞬間に耐えるだけの精神力はないと思う。

奴らが我が家の家族になった日のことは、今でも覚えているし、一生忘れない。

7の倍数が2つ並んだ。偶然にも。7は縁起の良い数字のはずなのに、どことなく寂しさも感じる。

そんな考えに耽った数日でした。




小さな手がかり

2006-10-19 23:43:35 | Weblog
読みかけのまま、棚で眠っていた本を再び手に取り、こんどこそ読破するつもりで持ち歩く。
読書の秋に、ちょうど良いきっかけ。
文庫本が少し雨に濡れたようで、端が少しふやけてる。角も汚れている。
きっと、何回も持ち歩いて読もう、読もうとしていたのだろう。ついにその目標が実行されることなく静かに本棚にたたずむ。

長編のロシア文学、
『カラマーゾフの兄弟』。

文化、風習が分からないと中々物語も理解できないとは思うが、でも、物語の輪郭だけは何とかつかめそうな気がする。
そう思って、長い坂を登るような想いで、この長編に挑む。

それでも、意外と退屈にならない。
封印していた時間に、色々な文章に触れ、そしてジャンルを読み歩いた甲斐か、昔よりも直感がさえるようになった気もしないでもない。
しかし、ヨーロッパ文学をちゃんと消化するためには、ある程度宗教的知識も必要になろう。
そこで、聖書を探した。家にあった。旧訳と新訳とが収録されている書物。旧約聖書を読みたいと思う。ユダヤ教徒になるわけではないが、ちょっとした教養を付けるためには、聖書は、バイブルだと思う。
1回は読破したい。

眠っていた小説は、
読み始めると、時々、文章の中で小さな○やちょっとしたチェックが見付かる。
この本は、確か新品で買ったのだから他の人が書き込むわけがない。
しかし、何でそんなところにチェックがあるのかも分からない。
きっと、最初に読み始めたときにチェックをしたのだろう。しかし、なんで書き込んだのかが思い出せない。
きっと名文だと思ったのか。

政治や経済の学術書とは違い、線を引く類の文章にはそれほどの根拠はない。


でも、面白い。

それでも、なんで書き込んだのか、恐らく理由を思い出すことはないだろう。

寂しいかな、それが記憶なのか。

雑話

2006-10-18 23:55:00 | Weblog
なにも考えずに文章を書くのは難しい。

その時間、思案に耽る。
時間がないので、短い手紙は書けません。

文章を校正する時間もなく、書き下した手紙を投函する。
時間がないので、自らを偽ることはできません。
自らの行為で世界を緊張の渦に巻き込んだ隣国はもはや自らを着飾る余裕はないのではないか。
それは緊張の合図であり、崩壊の前兆でもあるように見える。



短い、小さい、儚いことほど、成就するまでに幾重もの作業を経る。
その刹那ほど長く余韻を残すことはない。
その余韻が時間の空白をオブジェに変える。
一瞬の『一時(ひととき)』
『一瞬』を感じられるのは、印象の深さの証し。

それは、刹那以外の何者も遺さない。

刹那、それ自体が時間を構成し、歴史を形作る。

刹那を分かち合い、歴史を共有することで、何らかの教訓を得る。

しかし、教訓は、時に凶器に変わる。

隣国の核武装。一人の指導者は国民を顧みることなく自らの権力に固執する。

教訓は、時に弱者の味方になる。
バングラディシュの小さな銀行は貧者を救い、今や途上国ではマザーテレサのような存在。

明と暗のニュースが世界を駆けめぐった先週。

何も考えずにいることの困難だった先週。

国連決議第181号 後編

2006-10-15 22:51:38 | Weblog
国連決議第181号 後編

形而上学的な意味で考えたときに、国家という概念は、具体性を欠く概念であると言うことは決して過言ではないと思います。

ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』のなかで、国民とは一つの想像上の概念に過ぎないと述べているように、国家もまた究極的には実体のない『想像の政治的共同体』であるとすれば、イスラエルという国家もまた一つのイデオロギーの集合体に過ぎないという議論は、決して非常識的な議論ではないでしょう。

そのことから、「究極的」に考えると、国家とは、その成立の発端は、共通な意識やイデオロギーのもとに集まった集団で構成されたものと考えることもできます。

つまり、イスラエルだけが特殊な国家設立の経緯があるとは言えません。例えば、西ヨーロッパの諸地域では、1648年のウェストファーリア体制によって近代的な国家が形成されたと言う意味では人為的は設立経緯があったと言えます。
これは、人間の知的進歩による、神という固定概念からの解放と言うことができるでしょう。しかし同時に、過去の宗教和議おも肯定するところにも、その特徴が見受けられます。

近世におけるウェストファーリア条約が16世紀のトリエント公会議における、(後に個人の信仰の自由を規定した1598年のナントの勅令は出されますが)、諸侯、都市の信仰の自由を規定した1555年のアウグスブルグ宗教和議を確認していることを考えてみると、個別的自由が認められつつも、宗教という一つの大きなイデオロギーがその根底にあることは確かです。

宗教戦争という危機に宗教が仲裁にはいることで一つの合意を見いだし、自治州の独立というかたちでその戦争を終息に向かわせたという点を考えてみると、人間はイデオロギーから逃れることができないということは分かります。

ヨーロッパのみならず、イスラム圏、ヒンドゥー圏、仏教圏、儒教圏でも同様のことが言えます。

日本のような、小さな列島国では、イデオロギーの共有や伝達は古事記や日本書紀などの神話によって伝わっていきました。所謂、アミニズムという概念です。
イスラエルも同様に、ユダヤ教を基礎として、イスラム国家・民族としてのアラブ民族と対峙する。

そのように構成された構図の中で、戦争が発生する。
各々のイデオロギーを肯定するための手段としての戦争。

過去の歴史を考えてみると、ローマ時代の数々の争いも、中国大陸での小国家同士の権力闘争も、十字軍によるイスラム世界の侵略も、20世紀に起こった大きな二つの対戦も、また、今日のアフリカ大陸での民族紛争も、その根本的な原因に大差はないと思います。
変わったのは武器と戦法だけ。戦法の進歩は科学技術の進歩によってもたらされます。

 科学技術は社会の発展に貢献する一方で、近代における技術革新は、グーテンベルクの印刷術や、祭倫の製紙法、そしてコペルニクスの羅針盤の発明によってその加速度を増したことは周知の通りですが、社会に貢献するための科学技術水準の一端は、戦争によって向上していきます。効率よく人を殺すために、時代ごとの最新の技術が用いられるようになりました。このように、科学技術の進歩は、核兵器という人類史上最悪の殺人兵器を生み出してしまったことも事実です。

しかしながら、皮肉にも我々は今日、その多くを日常生活の中で享受できるようになりました。特に輸送に関する技術分野で一般社会に大きく貢献しています。

一方で、製紙法と印刷術の発明は、同時にイデオロギーや言論の普及にも貢献しました。その一つは、今まで手で書き写していた書物や聖書が印刷技術によって大量生産が可能となり、その結果、多くの思想や言論が都市に流布していったことです。その代表的な事例がマルティン・ルターの宗教改革運動に見ることができます。そして、ルターの言動は多くの市民の支持を得るようになり、その結果プロテスタントというキリスト教の大きな宗派を形成するに至る。
これは後に政治的影響力を持つようになります。

さらに羅針盤の発明は航海術の向上に寄与し、ヨーロッパ世界の価値観が世界の広範囲に拡大していく。確かにそれ以前から十字軍の遠征や東方拡大という侵略によってヨーロッパの思想は東に拡大していきます。その結果、ヨーロッパにおいて東方に新たな概念を見いだすことになる。これが「オリエント」という概念です。すなわち「日の昇るところ」。後に「オリエンタリズム」として、大英帝国を筆頭にして植民地政策のための形而上学的な観点からの研究対象となり、東方としての一つの概念となっていきます。

確かに、科学技術の進歩は、武力の進歩をもたらしたことも事実ではありますが、科学技術の進歩は同時に言論の進歩をも、もたらしたと言えます。
これは、同時に文学の進歩、評論の進歩にも貢献したと言って良いと思います。

つまり、武力ではなく、言論によって血なまぐさい人類同士の戦に立ち向かう人がいます。反戦のための言論です。

近代以降では、ヘミングウェー、トルストイ、小林多喜二、与謝野晶子、峠三吉、原民喜、その他にも数え切れないくらいに反戦作家はいます。

ペンは剣よりつよい。

武力は言論には勝てない。そのように思いたいです。
しかし、言論は武力によって弾圧されていきます。これは物理的に丸腰の人間に対して発砲することと同じ行為です。

残念なことに戦争に言論が利用されることもあります。

『イスラエルとパレスチナの紛争は、プロパガンダの戦争に他なりません。気に入らない言論はことごとく黙らせる。すなわち、イスラエルがパレスチナの伝論を封じ込める。しかしながらそれで黙るほど、パレスチナ人もヤワではない。イスラエルが言論弾圧を繰り返す限り、パレスチナ問題は永遠に解決しない問題である。』

この映画の監督であるパレスチナ人、ミシェル・クレイフィ氏は語ります。

   『(この映画が)パレスチナの歴史と人々の記憶に遡る「垂直的」な映画であると共に、人々の日常生活とその空間に映し出す「水平的」な映画でもある作品を作りたい。それが1947年に国連が構想し、採択した分割線をたどるという旅につながった。この決議がもたらしたのは、和平ではなく、両民族の決定的な断絶。つまり悲劇に他ならなかった。』

とも同監督は語っています。

言論の進化、あるいは深化によって、政治という一つの概念が大きな力学となっていきます。同時に政治は国民に一つのプロセスを提供します。それが「記憶」と「忘却」のプロセスです。「忘却」のための「新たな『記憶』」によって先住民の記憶さえもこの国家から「抹消」されてしまう。そうすることによって、パレスチナという国家を消し去り、新たに「イスラエル」という民族、そしてその国土を「記憶」する。それが一つの戦争を肯定する口実となります。

共同監督であるエイアル・シヴァン氏は語ります。

    『イスラエルという国家が骨の髄までイデオロギー国家であることは、十分に理解されているとは言えません。この国はさまざまな神話や記憶を動員することにより、絶え間なく創造され続けているのです。ここでは「記憶」は同時に「消去」を意味しています。つまり「記憶」は「消去」の対立概念ではないんですね。通常、「記憶」は「忘却」に対置されますが、ここでは「記憶」そのものが「忘却」のプロセスなのです。』

これが人為的に作り出された国土を規定してしまいます。

先述のとおり、新しい「記憶」が古い記憶を「消去」してしまうことから、過去のこの地域が味わった侵略や植民地の記憶までもが「消去」の対象となってしまいます。

イデオロギーは言論に作用し、言論は戦争に作用する。ここに触媒として政治が介入する。誰もが思いつくであろうこの構図は、同時に一つの悪循環をもたらします。つまり、戦争をもたらす悪循環。この悪循環が、永遠に地球上から戦争が消滅しない最大の要因だと思います。

一つの偏った意見ではあるけれども、戦争が消えない一つの理由。

これを克服するためには、人類に変わる言語を持たない生物が人間を絶滅させるか、人類が自ら核兵器を用いて人類を破滅させることかと。

つまり、人間社会である以上、克服することのできない問題なのかな、と。

しかし、これを克服するために、人間自身が知恵を出し合って、国際組織を設立し、争いに仲裁に入る。しかし、きちんと機能しないこともある。
これが機能しなかった結果泥沼化している問題の一つがこのパレスチナ問題です。

この問題は、民族問題の中でも最も大きな問題ではありますが、人類の抱える負の遺産であると決まったわけではありません。この問題を解決し、世界の平和に一歩でも近づくことが人類の、国連の大きな使命であるといえます。

というわけです。
長くなってしまいました。
以上です。

ノーベル平和賞

2006-10-13 23:11:33 | Weblog
今年のノーベル平和賞が決まりました。
バングラディシュでグラミン銀行の総裁を務めるムハマド・ユフヌ氏。


グラミン銀行とは、バングラディシュでの貧困削減のために設立された銀行で、マイクロ・クレジットと呼ばれています。
ユフヌ氏は、バングラディッシュ南部のチッタゴンという場所に生まれ、チッタゴン大学を卒業後、フルブライト留学生としてアメリカにわたり、経済博士号を取得しました。そして、バングラディッシュ独立2年後の1972年に帰国しました。
ある日、ユヌス氏は、竹細工の制作と販売によって生計を立てている女性に出会いました。
その女性は、高利貸しに材料費を頼っていたため、彼女の収入は1日2セントにしかなりませんでした。
普通、どこの国でも貧困に陥り、金融面で信用のない人は、高利貸しに頼らざるを得ません。しかしこれはさらに貧困になるためにお金を借りるようなもので、何の解決にもなりません。

ユヌス氏は彼女に、高利貸しに頼らずに生計を立てるには、どのクリアの金額が必要か、とたずねました。するとその女性から「6ドル」という答えが返ってきました。
そこでユヌス氏は6ドルを彼女に貸すことにしました。  

ただし、プレゼントではなく、ローンとして。  

そのお金が資本となって、彼女は自分で「ビジネス」ができるようになり、利益は1日2セントから1ドル25セントにまで跳ね上がりました。  

これがユフヌ氏が考えた「マイクロ・クレジット」という概念です。

ユヌス氏はその後、同様に苦しむ人々に、自分のポケットマネーから貸し与えたましたが、その全額が結果的には返済されました。  

そこで今度は、一般の民間銀行に金を借りる話を持ちかけたのですが、「担保がない貧困層に融資はできない」、とことごとく断られました。
ユフヌ氏は、「身銭を切る覚悟で」保証人になりました。
そのようにして借りたお金も全額が返済されました。  

冷淡な民間銀行に失望したユヌス氏は、「自分で弱者のための銀行を作る方が早い」と考え、1983年に設立した銀行が、グラミン銀行でした。

グラミン銀行は、貧困層を対象として世界初の小額無担保融資(マイクロ・クレジット)をはじめました。
一件の融資額は、平均して67ドル、日本円で約7500円です。
グラミン銀行で貸し出しの対象となっているのは67ドルという少額のお金もない貧困層の人たちでした。

グラミン銀行でお金を借りた人は、5人ほどのグループを作ります。
そのグループのなかで返済計画について話し合いをし、このグループの中では他のメンバーの借金にも責任を持ちます。
銀行各支店の担当者は定期的に各グループの住む地域をまわり集会を開き、その場所でそのグループは借金返済の計画を説明します。

このように地域をまわる銀行の担当者は、まるで先生のようです。借り手に返済などの講義をし、そのためのノウハウを教えます。そのなかで借り手の人たちは、貧困から脱出できるという希望を与えられます。
ここに訪れる先生は、かつての借り手で、返済を成し遂げた経験者であることが多いらしいです。

同時に、借り手の9割以上が女性であるという事実もこの銀行の特長です。
ユフヌ氏によると、まず、貧しさの犠牲になるのは女性であると言います。働いても働いても飢えに苦しむと悪循環と断ち切ろうとする決意は男性より女性のほうが強いとも同氏はいいます。

グラミン銀行にはスローガンがあり、集会ではみなそれを合唱します。
文字の読めない人が多いことから、お金を借りている人たちが、自分たち何をすべきかを常に意識させるためにこのようなことを行います。


グラミン銀行のような金融システムは、現在60カ国以上で採用され、利用世帯数は4000万であると言います。
その結果、借り手の約半数が貧困を脱出したという報告がなされています。
因みに、グラミン銀行の借金返済率は98%にもなります。

最近では、これは皮肉なことでもあると思いますが、このマイクロ・クレジット事業が、貧しい人を救済するだけでなく、利益が見込める事業だとして、大口投資家もこのシステムを評価していると言います。

グラミン銀行はまた、女性のみが借りられる携帯電話会社「グラミンフォン社」の設立に協力し、南アジア最大の携帯電話会社、そしてバングラディッシュでは第二の企業にまで成長しています。

ユヌス氏の人生の最終目標は「世界の貧困人口を2015年までに半減させること」、といいます。


このように、貧困と闘う学者にノーベル平和賞が与えられることは、世界が貧困削減のために取り組まなければいけないという、知識人からの警告だと思います。

さらに、今回のノーベル賞は、インドのアマルティア・セン氏に次ぐアジアからのノーベル賞と言うことで、いかに世界がアジアに注目しているかをうかがい知ることができると思います。

村上春樹氏がノーベル文学賞を受賞できなかったのは色々な意味で残念ではありますが、 今年、ノーベル文学賞を受賞した、トルコのオルハン・パムク氏も、イスラム原理主義と世俗主義との対立を示した作品などで「異文化の衝突と混合の新たな象徴を見いだし」そのなかで民族対立の問題に焦点を当てたという理由での受賞ですが、このように、平和やそれに関連した文学の面で、少なからず文化や民族という概念がもたらされているということは、ノーベル賞の方向性がリージョナリズムの影響を受けているということでしょうか。

もちろん、過去の受賞を見てみると、パレスチナ問題の解決に尽力したイスラエルのシモン・ペレス氏や、この方は本人が固辞したために受賞はしていませんが、インドの父であるモーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー氏などがいます。
しかし、それでもなお貧困問題や民族対立の問題などが解決されていないのもまた事実です。
難しい問題です。

国連決議第181号 前編

2006-10-11 00:15:58 | Weblog
国連決議181号。

この言葉を聞いてパレスチナ問題を思い起こす人はそういないと思います。
近現代において、パレスチナという地域は、イスラエルが排他的に領有している地域に、ヨルダン川西岸やガザ地区を加えた地域を指します。この地は元来アラブ人が領土を保有している場所でした。その地に、19世紀前後からヨーロッパにおいてマイノリティーとされてきたユダヤ民族が入植を開始することで、今日的な民族問題としてのパレスチナ問題が発します。
この民族問題がイェルサレムを舞台に顕在化するのは、第1次世界大戦が一つの発端と考えて良いでしょう。当時世界の覇権を掌握していたのは、17世紀後半から綿織物産業の開花によって世界の工場と呼ばれた大英帝国でした。その大英帝国の有名な三枚舌外交と呼ばれた、3つの口約束に起因するとしても間違えではないと思います。
1914年に第1次世界大戦がヨーロッパ大陸で勃発すると、ヨーロッパは戦場となり、世界の工場と呼ばれた大英帝国でさえも衰退の契機となります。その大戦争において、1915年、エジプト高等弁務官マクマホンとフサインとの間で交わされた往復書簡による第1次世界大戦への戦争協力を条件とするアラブ国家の独立に関する「フサイン・マクマホン書簡」、
1916年のイギリス、フランス、ロシアによる1912年に事実上滅亡したオスマン帝国の領土分割に関するイギリス・ルランス・ロシア帝国による「サイクス・ピコ協定」、
そして1917年の今日的なパレスチナ問題の発端となった、大英帝国外相、バルフォアの、ユダヤ系イギリス人であるロスチャイルドに送った手紙の中で、アラブ人の住むパレスチナの地にユダヤ人の国家を建設することに対する指示と支援を表明したバルフォア宣言という、三つの歴史的協約が成立します。
世界史上悪名高く、かつ今日の民族紛争の火種となったイギリスの外交こそが、今日のパレスチナ問題の発端と考えて良いでしょう。

1947年11月29日、この国連総会決議文第181号によってイェルサレムの地は、パレスチナをユダヤ人、アラブ人、国連統括地の3つに分割するというものでしたが、1947年の第1次中東戦争によってエジプトがヨルダン川西岸とガザ地区を占領したことで181号が実現することはありませんでした。この決議文は、アラブ人やユダヤ人の建国を決議したと同時に、その国土も規定するものでした。しかし、結果的に建国できたのは、ユダヤ人国家だけであり、創立後、日の浅かった国連総会における決議文をもってしても、パレスチナという地において、アラブ人の人権を保障することはできませんでした。アラブ民族としてのパレスチナの人々は難民化し、今日のパレスチナ問題が顕在化していきます。周知の通り、今日でもパレスチナとは、所謂自治政府の名称であり、国家として存在する共同体ではありません。その後、この地のアラブ民族はパレスチナ解放機構という暫定的な自治政府を立ち上げることでパレスチナの地における暫定政府が発足します。
その後もイスラエルとパレスチナは、中東戦争に象徴されるように幾度も互いに戦争をしあっているという関係にあります。
1993年のイスラエル政府とパレスチナ自治政府との間で結ばれた、和平プロセスを合意したオスロ合意は、そのような対立に対して一つの和平プロセスを提示するという意味では、とても歴史的な合意でした。この合意は、度重なるスキャンダルの火消しに翻弄されていたアメリカの当時のクリントン政権にとっても最大の外交となりましたが、結果的には失敗したといっても良いでしょう。

その後、イスラエル、パレスチナ双方ともがタカ派の政治指導者による政治体制であったために、イスラエルとパレスチナの外交は、決して建設的なものではなく、むしろ、和平実現のための諸合意は、結果的にはパレスチナ問題にたいして火に油を注ぐものとなりました。

所謂今日的なパレスチナ問題とは、イェルサレムにおけるイスラエルとの土地の争いとして顕在化している問題です。

そのような世界史的知識を基礎にして考えてみると、パレスチナ問題とは単なる民族同士の軋轢であるだけではなく、民族のアイデンティティが複雑に絡み合った外交問題であることは容易に認識できることだと思います。

そのような歴史的、政治的な問題を背景にして、一本のドキュメンタリー映画が制作されました。
その名は「ルート181」。1947年の国連総会決議案、第181号に基づいて引かれたパレスチナ国家の南北に延びた境界線を南から徐々に北上しながら、その土地土地の人たちに対してインタビューを行っていくドキュメンタリー映画です。
上映時間270分の映画は、今年、山形国際ドキュメンタリー映画祭に参加し、大きな反響を呼びました。
そのような映画がお茶の水の「アテネ・フランセ」で火曜日に上映されました。パレスチナ問題には興味があり、午後の授業をサボって見に行きました。なんせ、「アテネ・フランセ」は通っている大学から徒歩5分のところに位置しています。そこで、100人も入れば一杯になってしまう小さな劇場で、この映画は上映されました。


47年に定められた国境付近を、何の政治的プロパガンダも持たずに撮影したドキュメンタリー。
しかし、そこに写るユダヤ人、パレスチナ人たちに簡単な取材をし、それらの取材によって成立している映画は、現代政治的な意味で非常に濃密な映画です。

しかし、この映画を見ていて、思うことももちろんあります。
古代からの民族紛争に対して、国際政治はどこまで介入できるのか。民族対立という古代からの問題に対して国際政治は無力ではないのかということを考えさせられる映画です。
個人的に思ったことは、何千年も続民族対立に対して、国連という機能が民族問題に対してどこまで有効か、ということです。
結果から言うと、何千年もの間を通じて繰り広げられてきた民族問題に対して、国連はあまりにも無力だと思います。
古来からの民族問題という、人間としての問題に対して、国連や国際政治機関という組織では、太古の昔からの人間の問題に対処することは難しいと思います。


それが政治の限界性であり、ジレンマです。

秋の味覚、秋の知覚

2006-10-08 23:22:42 | Weblog
本格的に秋の到来を感じさせる果物が、地元のスーパーで売られ始めました。
柿。
大好物です。
完全に熟していなくて、甘さが深まり始めた頃の、まだシャキシャキしているくらいが好きです。

今日も早速見つけて、買ってきました。
この時期になると、一日一個以上は必ず食べています。
夕飯を食べ終えて、食器を洗って、一段落ついた頃に、だいたい食べているかな。

その柿の熟し具合によって、秋の深まり具合も違う。
今の時期ならば、まだシャキシャキ感があって、ちょうど良い。もちろん放置しておけば、熟してしまいますが。

秋が深まるにつれて、柿の足もだんだんと早くなってくる。
本格的に冬が見えてくると、店頭に並ぶ柿は、熟し切っていると思う。

色も、橙色から、夕焼けに似た色に変わる。
晩秋、初冬の頃、果実の色も変わる。

木枯らしが吹く頃には、もう枝には実は少ない。
風に運ばれる運命の葉が残るのみ。それもやがては落葉し、冬の塵に変わる。

そんな思いを毎年柿にはせるのであります。季節が変わるにも、シンボルが必要。
柿の実の移り変わりは秋の象徴。

そして、今年もその果実を口にして、本格的な秋の到来を感じるのであります。

果物も良いけど、芸術もこの季節が旬です。
昨日は久方ぶりに上野公園に行ってきました。特にお目当ての展覧会があったわけではないが、無性に上野公園に行って、その場で見つけた展覧会に行きたかった。

そこで見たのが、NHKの日曜美術館30年展。
NHKの日曜日の番組、「日曜美術館」でとりあげた美術のダイジェストのような展覧会。友人と見に行って、上野の展覧会だけに、やはり当たりでした。ルーブル美術館展とか、大英博物館展とかとはまた違った意味ですごい。各分野の巨匠が、自分の気に入っている芸術界の巨匠を紹介するというのがコンセプト。
その組み合わせがすごい。NHKだからセッティングできたというのは否めないと思う。

これから時間があるときには頻繁に上野に出没しようかと考えています。

こればかりは仕方がない

2006-10-06 23:15:55 | Weblog
雨と風。波も高い。
普段の雨ならば傘が荷物になるのがイヤなので折りたたみ傘にするんだけど、
今日はさすがに長いコウモリ傘を持っていきました。

電車も時々強風に煽られながらの徐行運転。
横殴りの雨に打たれながら時速数キロでの走行。
車内にまばらな人も、遅いメトロノームに相づちを打つようなうたた寝の人、焦りつつ諦めている人、自然に動じず、ふつうの人。
あの徐行運転は最強のα波の震源。リズミカルに眠くなるのも無理はない。

早めに家を出て、途中でお昼にして、
午後からは大学の図書館に避難。地下二階のガラスにも、強風と雨のしずく。
夕方から授業だったけど、やはり人は少なかった。
仕方ないな。
でも、平日にこんな大風雨に見舞われるのは久しぶりのこと。
大概、関東には土日に来る。

夜、授業が終わり大学のタワーから出ると、辺り一面傘の骨。
ベンチにからみついていたり、アスファルトに引っかかっていたり、街路樹の根元にも。
自然の驚異に負けた跡。
その周りに剥がれたビニールがアスファルトにしがみついている。
雨はとどまることを知らず、ビニールのウェーブに水溜まりを作る。

駅までは徒歩で3分くらい、なのに進まない。
強風に煽られ、傘で雨をしのぐと歩くどころではない。

それでも自力で御茶ノ水駅に辿り着く。
中央線で東京駅へ。

東海道本線は定刻通りに出るらしい。
ひとまずは避難成功。
後は地元の駅で降りるだけ。

この雨は台風ではないと。

秋の嵐。

明朝には北へ移動するというが、
少しは弱まって欲しい。

明日は、嵐のあと、スッキリはれるらしい。
夕方、上野にでも行こうと思う。

無機物な賢者のはなし

2006-10-05 23:38:38 | Weblog
ロビンソウ・クルーソウの冒険。

経済の入門書とも言われる名作だが、そこでは経済以上に有機的な主人公と、無機的な登場人物がいる。生きるために自然と闘い、一つの経済を成立させる。
18世紀の英国帝国主義を風刺したその作品には、経済学の基礎も含まれているが、同時に人間の秩序が形成され、破壊されていく様も描かれている。
フライデーの死。刹那的な出来事。一瞬主人公のロビンソウ・クルーソウは取り乱れるけど、すぐに戻ってしまう。所詮奴隷と言うことだろうか。今まで「ご主人様」となついていたこの奴隷も、死んでしまうとただの無機物でしかない。
それでも、この物語には近代英国帝国主義の中で芽生えた経済学の概念や、これは英国と言うよりもフランスやオランダだと思うけど、国際法の基本的概念が含まれている。

サークル

2006-10-05 23:34:51 | Weblog
今日は、久しぶりにサークルに顔を出しました。
夕方6時半の四ツ谷駅。駅へ向かう流れに逆流して、去年夢中になった教室へ。
今は後輩たちが頑張っている。S大学の3号館、3階の教室。

3年生になってなかなか顔を出せなくて、でも、忘れてはいませんよ。
その教室に行くと弛緩しかけた心が締め付けられる。
そこにいるメンバーたちは、それぞれがまっすぐに夢を持っている。
それに向かってひた走っている。

俺も、と思う。
夢に実体がないのは仕方がない。それを具現化するためにみんな頑張っている。
そういうメンバーがそこにはいる。
そろそろ就職について考えている仲間、進学を考えている仲間。中間で悩んでいるのもいる。
そういう気心の知れた仲間に会うたびに、勉強しなきゃ、と喚起される。
ところで、
後期の議題は国際司法裁判所ICC。
国際司法裁判所での個人の裁判。その中でも侵略行為に関する裁判で、その定義を明確にしようという議題。

ほとんど経済しか勉強していない頭には、こういった国際法の分野は重くのしかかる。
しかし、後輩の勉強量には頭が下がる思い。夏の間に一生懸命に準備をしたのが伝わってくる。
確かに国際法も面白いと思う。
所謂条約。
人間の営みの中で規定されてきたこと。それには必然性も偶然性も伴う。
それを形而上学的に理解しようとすると、頭が悲鳴を上げる。
法解釈の世界。
それでも、後輩の講義に、勉強のインセンティブを見いだせる。

経済学はといえば、国際法ほどには厳密には考えない学問だと思う。
しかし、経済にも人間の営みの中で培われた必然と偶然が混じり合う。

でも、サークルに行くたびに、良い仲間と出会えたな、と思う。本当に良かった。
もしああいう仲間に出会えていなければ、何もしない4年間を過ごすことになったと思う。
ほんのちょっとでも前進しようと奮闘できるのは、そういう仲間と出会えたから。
今日会えなかった仲間も多いけど、たまには会って、リフレッシュしたいと。

また近いうちに顔を出そう。

都会のスローライフ

2006-10-04 23:19:00 | Weblog
秋も深まり、キンモクセイの香りが強くなってきました。
上着を着ていくと荷物になるし、かといってシャツ一枚なのも躊躇する季節。


平日?休日?どっちだろう。
授業があるから平日だが、それ以外はホリデイ。

12時に国際経済史の授業が終わると、午後6時の経済政策原理の授業まで空き時間。
今日はちょっとうわさの牛丼を食べて、お昼過ぎから午後4時半まで図書館で勉強。
途中、気分転換に三省堂本店に小説を買いに行く。
夕方きりが良いところで勉強を切り上げて、残り1時間ちょっと、お茶の水、神田を徘徊する。
少し歩いて、古本屋を覗いて、タンブラーにコーヒーを補給しにスタバへ行く。そこで読みかけの小説をちょっと読んで、20分くらい時間をつぶす。
で、大学のコンビニで夕飯お変わりにおかずパンを2つ。
教室の前のベンチでパンを食いながら小説の続き。
授業を受ける。
友人と少し話して、
帰る。

自分なりに中身の濃いキャンパスライフを、と思う。
1秒たりとも無駄には使いたくない。
全く個人的な都合だけども、
それは都会、東京の中心で、勉強して、本を読んで、時にリフレッシュして都会の風景を眺めること。
全て能動的であると思うし、今しかできないこと。
恵まれすぎる環境。

9時過ぎ。
家に帰ると
愛犬が待っている。
リビングに荷物を置いて、すぐに散歩へ。
30分くらい、ゆっくり歩いて、俺も都会の酸素を肺から抜いて、地元の空気を吸う。

夜、静かな路を、年老いた愛犬と歩く。
都会を知らない老たちに癒されて、束の間の忘却、冷却。

13歳を超えても、ここまで元気で生きている愛犬に、感謝。
きっと彼らは老いや死を知らない。それでいと思う。
でも、老いても元気なのは、今が楽しいからかな。
拾われたのはあいつだけど、感謝するのは俺かな、と思う。
奴らがいてくれて、いつも精神的に助けられたと、それにつきるかな。



書き下ろされた午後

2006-10-02 23:51:39 | Weblog
一気に午後を書き下ろします。
日記らしい日記というのは久しぶりだと思う。

今日は日本一旨い!と評判というカレー屋に行ってきました。先日、テレビ番組で全国3000店カレー屋の頂点に立ったというカレー屋、「エチオピア」。
通っている大学から徒歩30秒のところにありました。
確かに美味しい!!
カリーが出てくる前に出てくるじゃがバターも美味しい!!先に食べちゃったけど、実は辛さを和ませるためにカリーと一緒に食べるのかなと、食した後に考えました。でも、まー美味しい。今日はふつうの野菜カレーを食べました。具は、ピーマン、マイタケ(?)、ナス、ミニトマト。そこにスパイスの利いたスープ。ご飯と絡めて食べる。これも美味しいし、スープと絡んだナスもまた美味しい!!
値段は880円から1100円代とちょっと高めだけど、たまに行くのは悪くない。さりげなリピーターになりそうな味。
インドカリー、スープカレーに近いかな。スパイスの利いた辛口。辛さ0倍が中辛、3倍が辛口、そこから段階的に70倍まで辛さを調整することが可能だとか。
自分は2倍で十分な辛さでした。

カレー好きの我にとっては、日本一のカレー屋さんが大学の近くにあるとは、なんとうれしいことか。
まぁ、今更気がついたという鈍感さは否めませんが・・・。

カレー好きの人は一度は足を運んだことがあるはず、と思います。

カレーも食べ終わり、ちょうど3時頃にフリーなったのでその後、東京メトロ丸ノ内線でお茶の水から池袋へジュンク堂で開催されている大江健三郎書店へ行くことに。(カレーを食べるまで、今日は予定にはいていたのです!!)
「すばる」という月刊文芸雑誌にここ数ヶ月間、大江さんが文章を書いていて、そこに書いてあったジュンク堂大江健三郎書店。
行った瞬間に、そのコンテンツに感動しました。普段は注文しなきゃ手に入らないような書籍が目の前に山積みになっている。
山口昌夫の文化論に関する書籍、丸山真男の名著、藤田省三の本もありました。もちろん、自身の書籍もあったけど、海外の思想家の本も沢山!!ああ、来て良かった。12月10日までの期間限定。あと2ヶ月しかない。。
せめても回以上は足を運びたい!!
その一角は、アマゾンの本棚みたいでした。
気がつけば本を数冊手に取り、お会計は3600円。まぁ、何冊かは衝動買いをするつもりで、あらかじめお金をおろしていたのですが。まぁ、無駄ではない。

帰りは池袋から湘南新宿ライン。まっすぐ帰ってこれば良かったんだけど、ちょっと寄り道。藤沢で下車。
高校時代、予備校で通ったこの街は、下車するたびに細部が変わっていく。しかし、それも低俗化しているというか。ナンというか。ゲームセンターやパチンコばかり増えて、街の治安が悪くなるのでは、と心配です。
でも、藤沢に下りるたびに、高校生の時を思い出します。予備校へ通い、今でも仲の良い友人たちと出会った街。そのウチの一人は、今はなかなか会えないけども、大学は違うが、同じサークルだったりする。
まぁ、その後浪人することになったのだけれども。
そこでは湘南の海風を浴びることはないですが、秋風に懐かしさを感じる場所でもあります。
そんなこんなで帰宅。

帰宅後は、簡単に夕食を作り食べて、
明日のゼミのために英文を訳して、他の勉強を、と思いつつ時計を見るとこんな時間。
「エチオピア」ネタから書き始めるのでした。
そんなこんなで
結構中身の濃いある日の午後のひとときでした。