Tao of a music therapist

音楽療法士としての生き方(タオ・道)を通した日々の出来事や、音楽についての果てなき思いを綴ります。

古傷は語る

2007年01月31日 | 日記
1月29日のブログに、「ひとは、不思議といやな思いは忘れれて、肯定的な感情だけが都合よく残ったりしますよね。」とメッセージをよせてくれた方へのコメントを書きこみながら、ふとあるエピソードを思い出しました。

それは、体はすべて記憶しているということです。

昨年、冷え性のうえに、肩こり症の私は、ひどいからだの硬直を覚えて、
家族の勧める鍼灸院にでかけました。

院長の女性は、寝台に横になった私の脈をとったり、筋肉のはりをみたりしながら、
「いまでに大きな怪我や手術はしたことはないですか?」
と、まずはじめに尋ねます。
特に思い当たりのない私は、「ありません」ときっぱり。

その後も、針治療を続けながら、このかすり傷はどうしたのとか、生活スタイルにいたるまで、丁寧に問診を重ねていきました。

からだもすっかりリラックスした状態で緩み、治療が終了しかけたときに、
わたしの右腕のある傷を発見した先生がとっさに、
「これどうしたの?」と尋ねました。

「あっ、それ。」
―わたしは、高校生のときスキーで怪我をしたときに11針ぬった傷のことをすっかりわすれていたのでした。

でもたびたび、右手親指の付け根にいやーなしびれや鈍痛を覚え、悩まされていたのでした。
先生は、「こういうのたちが悪いのよ。」といって、その傷に沿って次々に針をさしていきます。すると、以前感じたことのあるいや~な痺れの感覚とともに、事故のときの情景、記憶が生々しく一気によみがえってきたのです。

このように怪我をしていたことも忘れるほど、意識に上っていなかった
その時の記憶は、からだにはずっと刻まれていたんだなと実感しました。

音楽療法のトラウマ治療でも、抑圧されていた感情が喚起されると
体のある箇所に痛みや詰まりを覚えたりするケースがあります。

体とこころの深いかかわりは、決して無視できないことですよね。
ちょっとした体の不調はひとをすごく不安にさせるし、その逆で心の悩みが
体にでることもあります。そうした兆候に、もっと気をくばって日々
生活を送っていきたいものです。





それでも人は走る?若潮マラソンにでて

2007年01月29日 | 日記
1月28日、午前5時起床。第27回若潮マラソンに参加するため、いざ館山へ出発。

先日、人生初めての10キロマラソン(陸連コース公認)に参加し、
無事完走しました!結果は、57分22秒(所属チーム:やる気だけ)。
目標の一時間をきることができ、トレーニング不足のわりにはまずまずの結果。

フルマラソンか10キロのいずれに参加するため、全国から4200人のランナーたちが
走ることに魅せられて会場に集まってきました。スタート前には、独特の緊張感に包まれます。
そして、それぞれのドラマがはじまります。

10キロならまだしも、42.195キロの過酷なレースに
人はなぜ挑み、走りつづけるのでしょう。

フルマラソンに数回挑戦している、夫はこういいます。
「だれも好き好んで、つらいことしたいと思わないよ。でも走ることって
日ごろ得がたい瞑想に似た状態になれるから、いろんなこと考えられるし、終わった後の達成感は、すごいよ。」

いざ、レースがはじまりました。
自分で前に進まなければ、だれも助けてくれない未知が待っています。
スタートをいったんきると、自分の感覚は自然と内省に向かい、
非日常的な状態に研ぎ澄まされるていくのを感じました。
それからは、自分の体、心、精神と対話をつづけながら走る。

「まだいけるかな。足は、心臓は、呼吸は?」
「あ~、なんで、マラソン出るっていっちゃったんだろう。なんで私は今、走ってるんだろう。」「折り返し地点は、いったいどこ??」
「あ~、でもこうして沿道には、たくさん応援してくれる人がいるんだな~。」

そのうち、そんな声もやみ、ただ口の中の乾きと筋肉の疲労だけが自分を占領していくのです。
足が前にでる規則的な運動に、ただただ身をまかせて、「ここでとまったらおしまい」という気力だけで、ゴールまで一直線。
トレーニング不足で、最後の2キロ地点でのふんばりも、追い上げもできず、数人に追い越されてのゴール。
こうして私の初レースは、幕をおろしました。

感動的だったのは、フルマラソンのゴールの瞬間。参加者はみな、自分との勝負をのりきったすがすがしい顔をしていました。
また、レース中、支えあった同志の健闘を称えあい、連帯が生まれていました。

では、「次回は、フルマラソンを走る?」って聞かれると、
その答えには躊躇してしまうんですが。。。

若潮マラソン公式HP:結果速報・アルバム等
http://www2.city.tateyama.chiba.jp/Guide/?tpcid=38&stoid=8773









最近買ったCD

2007年01月14日 | 音楽、音楽すること・Musicing
最近は、音楽配信が進んで、CDのアルバムの売れ行きや、存在価値というものを懸念されている、っていうけど、やっぱりCDを手に取る実感って好きです。

先日、久々に友人に連れられて、渋谷のタワーレコードに入ったら、久しぶりに思わずCDを衝動買いしてしまいました。

チャーリー・パーカーのCDが、10枚組みで1480円というのには、思わず「お徳!」と主婦本能で手にとってしまいました。

それを一日中聴いていると、いたるところにチャーリー・パーカー節がちりばめられていて。。。。
「あっ、この節回し、この曲でも使ってるんだ。」って発見。
でも、それがマンネリになっていない。彼独自のスタイルに昇華されている。

絵画でも、文学でも、音楽でも、その作風、文体、スタイルから、その人をアイデンティファイできるのは、芸術の真価だと思う。
でも結局その根底にあるのは、その人の生き方の証、表現そのものだなって感じます。

あとのCDは、パコ・デ・ルチアの鮮烈なフラメンコギターと、ブラジリアンの
Seu Jorgeのアルバムなど。

こんな衝動買い、たまにはいいかも。


山ごもり&新年

2007年01月06日 | 日記
2007年が明けた。

今年の抱負は?
そんな抱負は気負わないことにした。

目標がないわけではない。

ただそれに固執したり、執着することからほんの少し
楽になっれたら、と最近思う。



年末になって師走の街があわただしくなる中、5日間山小屋にこもった。
インターネットもテレビも、電気ストーブもない。もちろん人の気配も。

そんな山のなかで、暖炉の蒔きストーブの火に身を寄せ、炎の揺らぎのリズムに
身をゆだねる。そうでもして意図的にしか、もう世の中の時間の歯車にのらせれていることから逃れられない。

その間、ジェームス・ブラウンが亡くなったこと、フセインが処刑されたこと、世の中を駆け巡る重大ニュースにも無知だった。けれど、たえずニュースにさらされていた毎日よりも世の中に思いをはせるようになる。

身を温めるのにこんなに蒔きを使わなければならないのかと実感して、自然にいかされていることを感謝したり、人里はなれているからこそ、人との絆がいとおしくなるのだ。



最近、「自己実現」ってことについてよく考える。自己実現という言葉が独り歩きして、自分さえよければという自己中心的な夢追いになっていないか。Self-lessになることではじめて果たしうる自己実現もありなんではないか。

昨年はいろんな変化があったけれど、これからも現状に執着することなく、
でも信念は失わずして、変化を受け入れながら歩んでいけたらなと思う。
(それは容易なことではないけれど!)