最近、ある会員向け雑誌に書き下ろしたエッセーです。書くことで、久しぶりに今の素直な心情を再確認できたような気がします。
暗かった
あたたかい
ぷかぷか
とんとん
パパとママの声、聞こえたよ。
パパが、ぞうさん、うたってた。
パパとママが、おなかなでなでしてトントンしてお話ししてた。
『おぼえているよ。ママのおなかのなかにいたときのこと』より
子どもたちが語る鮮明な胎内記憶の数々は、赤ちゃんがお腹のなかにいるときからすでに、お母さんやお父さんと音の交流をしていることを教えてくれます。赤ちゃんはこれから生まれてくる世界の不思議に好奇心のアンテナを張り巡らしながら、周りの者とのつながりを求めているのです。心地よく守られたお腹の中から不自由も多いこの世の中に誕生してくる子どもたちのことを、私たち大人はどのように迎えることができるでしょうか。
私は普段、音楽療法士として音楽を通してさまざまな子どもたちとかかわっています。そして現在、新しい命を身ごもりながら、親になるということ、また「子ども」と「音楽」のつながりについて日常的に思いを馳せるようになりました。「子どもにとって音の世界ってどんなだろう」「音を楽しむ力ってどうやって育まれるのだろう」―音を介した子どもとの交流と絆を育む鍵とはいったい何でしょう。
ある春の休日、都心に向かう電車に揺られていると、次の停車駅で乗り込んできたある親子に遭遇しました。2歳くらいの男の子は、お父さんとお母さんの間にちょこんと座り込むと、窓の外に繰り広げられる景色を見ようと体を乗り出し、電車が走り出すのを心待ちにしています。ここまでは、よくある休日の微笑ましい電車の中の一コマでした。ところが次の瞬間、お父さんがポケットから携帯を取り出して何やらメールを打ち出すと、お母さんも同様にかばんから携帯を取り出してメールを始めたのです。電車は発車しても、携帯画面に視線を落とすお父さんとお母さんの間に挟まれた子供の視線は、空虚に外の景色を泳いだままでした。とうとう目的の駅につくまで、その親子の間に一言も会話が交わされることはありませんでした。
その男の子は景色さえ見ることができればよかったのでしょうか。私はその子が本当に楽しみにしていたのは、景色のなかの発見を両親と共有することだったのではないかと思うのです。普段の子どもの視点では比べものにならないほどスピーディーでダイナミックに繰り広げられる都会のパノラマ、耳に飛び込んでは過ぎゆく音、春の香り―電車に乗ることで得られる発見は無数あったはずです。
心理学者の浜田寿美男氏は、この世界における意味は主に親と子どもが同じ対象を志向し見つめるという三項関係における「まなざしの共有」から作られるといっています。子どもにとって、発見を受け止めてくれる人がいて初めて、眺めた世界が意味をもって自分の心の原風景となり、その子の成長を支えていくのです。同様に聴覚的な意味の形成も、いわば「耳をすますことの共有」が必要になってくるでしょう。その子と一緒に同じものを眺める、同じ音に耳をすませてみるという姿勢が子どもの世界観や自己形成にかけがえのない影響を与える大前提なんだということに気づかされます。
それに加え、音を介した子どもとの絆を育む大事な要素のひとつに「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」があるのではないかと感じています。これは地球環境への警鐘を鳴らしたことで有名な作家・海洋生物学者である
レイチェル・カーソンが、自然との共存の道を見出す希望を幼い子どもたちの感性のなかに見出したものです。彼女はこの感性こそが、物事の既存の意味を「知る」以前の「知る意欲」を耕す沃土になるのだといっています。
例えば、子供が「あれ何の音?」と尋ねたら、すぐに「せみの音よ」と教えてあげるのもやりとりのひとつでしょう。しかし、それは「ある物について」の即席的な意味づけにすぎず、そこには子どもと共に事象そのものの神秘に五感を研ぎ澄ませながら一緒に意味を見出していく過程がとばされているような気がします。
そう、私たちは大人だからといって必ずしもすぐに完璧な答えを出さなくともよいのです。むしろそんな気負いから解放されて、子どもとこの世界の不思議に心ときめかす瞬間を共有するゆとりをもってみたらどうでしょう。「何の音?」と聞かれたら、その子の好奇心に寄り添って「何の音だろうね。面白い音だね。」と、まず一緒に耳を傾け、自分のなかにも備わっている「センス・オブ・ワンダー」を呼び覚ましながら、自然界の神秘を味わう瞬間を一瞬でももってあげたいものです。そういう大人の存在が周りにあること、そのような体験を積み重ねていくことは、子どもが音をありのままに感じられる感性、そしてその子のユニークな音の世界観を創っていくのを助けるのだと思うのです。
私が音楽療法士として子供たちと音楽を通して接するときも、「子供たちひとりひとりにとっての音楽とはなんだろう」とよく考えます。そして「自分にとっての音楽」や「音楽とはこういうものだ」という既成概念を押し付けないように心がけています。なぜなら、とくに即興的なやりとりを重視する音楽療法のアプローチにおいて「何が音楽であるか」ということは、音のキャッチボールをしながら子どもと共有していく繊細な過程から生まれるのであり、音の意味を発見し共有していくことにこそ療育的な意味があるからなのです。そこには間違いや何が正しいかということもありません。その子自身の表現そのものが音楽を創造する原石なのですから。
これからも、音楽療法士として、これから親になる大人として、子どもたちと向き合い、肩を並べ、この世界の神秘に目を見張り、耳をすましていきたいと考えています。
【参考】
『おぼえているよ。ママのおなかのなかにいたときのこと』池川 明、リヨン社
『理性と暴力』世界書院 「還元としての子ども」浜田 寿美男
『子ども生活世界のはじまり』浜田 寿美男 ミネルヴァ書房