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三つ子の心 とこしえに

2017-03-20 00:26:07 | 心をラクに
小さい頃というのは、親や教師を見ましても、みんな自分よりもずっとシッカリしていて、ずっと大きい心なんだと信じて疑いませんでした。

大人なんだから当たり前、そして自分たちは子供。そういうものだと信じ切っていました。

しかし、大人になって分かりました。

私たちは、何歳になろうと何も変わらない。

確かに年齢とともに、知識や経験を積んで、大概のことは落ち着いて対処できるようになって行きます。
そうした余裕や落ち着き、あるいは物を知っているということに対して、子供の頃の私たちは安心や信頼を感じ、「大人」というイメージを
作り上げていました。

体が大きくなっていくように、心も大きくなっていくものだ。
年を取ればみんな成長していくのだ。


その錯覚は大人になった今でも、私たち自身を包み込んでしまっています。

私たちがあの頃よりも成長していると思っているのは、実は単に知識や経験の蓄積でしかないのに、心そのものも「大人」になっている
ように思い込んでしまっているということです。

身体がドンドン大きくなって、男ならば筋肉がついてガッシリしていき、女性ならば女らしくなっていく。
見た目の映像から自分という存在そのものが変わったと判断し、その中身も変わったと無意識のうちに思ってしまう。
そして年老いて身体が衰えて行くときにもまた、同じような錯覚に陥ってしまう。

そうした見た目の変化だけでなく、世の中での立ち位置も変わると、ますます、あぁそうなんだと思ってしまう。

中学生、高校生、大学生、そして社会人。
先輩となり、上司となり、課長、部長、役員となっていきます。

子供が生まれれば親となり、その子供がまた小学生から中学生、高校生…と成長していきます。

そうした社会的な立ち位置、家庭的な立ち位置の変化により、自分の身の振りかたも変化していきます。

肩書きや立場が人を成長させると言われるように、最初はぎこちなさを感じても、そのうちその立場らしい雰囲気が醸し出されていきます。

それを成長と言えばその通りなのですが、しかし、それは心の姿勢が変わっただけで、心そのものが変わったわけではありません。
つまり「成長」の定義が違うということです。
環境への適応と、経験による学習、それにより身の振り方が変わっていくというだけです。

環境の変化や立ち位置の変化によって変わったのは、私たち自身ではなく、私たちの心構えです。

社会的な立ち位置も、家庭的な立ち位置も、単なる相対的なものでしかなく、つまりは定義付け、意味づけでしかありません。

実際、どんなに偉くなろうとも昔の上司に会えばあっという間に昔の心に戻りますし、どんなに歳を取っても親の前では子どもであります。

それは別にスイッチを切り替えているわけではないですし、猫をかぶったり、演じているわけではありません。
高校や大学の頃の同級生に会えば、それは一発で体感できるでしょう。
気づけば自然とそうなっている。
つまり、心の姿勢が変わっただけということです。

小さい頃は、もうお兄ちゃんなんだから、もう中学生なんだからと歳を重ねるたびに周りから気持ちの切り替えを促されました。

そして、高校生、大学生、社会人、先輩、上司…と社会的地位が変わるごとに、今度は自分自身に対してそれを無意識にやってきました。

小学生の時には中学生は大人に見えましたし、中学生の時は大学生なんて遥かな大人に見えました。
大学生の頃は新入社員も大人に見えましたし、会社に勤めると課長や部長は随分なおじさんに見えました。

でも自分がそうした立場や年齢になっていくと、本当のところは何も変わっていないというのが実感でしょう。
子供の頃に見上げていた大人のイメージと、今の自分というのはまったく符合しないはずです。

実際それが当然であり、ごく自然な感覚であるわけです。
何故ならば、経験や知識、身の振り方や物腰が変わったとしても、私たち自身は何も変わるものではないからです。

でも、子供の前、家族の前、後輩の前、部下の前、知人の前では年相応、立場相応の振る舞いをしている。
そしてまわりは当たり前のように、そんな私たちをそういうものとして受け入れる。

だから私たち自身もよく分からなくなってしまいます。

自分というのはそういう人間なのか、と。
何も変わってないような感じがするけど、やっぱり変わっているのか、と。
変わっていないと思うのは錯覚で、やはり自分も歳を取っているのか、と。

それはただ環境適応した結果に過ぎず、見た目のものでしかないのに、中身までもそれに順応させようとする。

モヤモヤの霧を晴らすために、自分はもういい歳になったのだ、大人になったのだ、オッさんになったのだ、ジィさんになったのだと
そっち側に着地点を見いだそうとしてしまうわけです。


振る舞いというのは社会で上手くやっていくための行為でしかありません。
そしてそれは人為的というよりも、多分に自然発生的なものです。

社会という川の流れの中で、形を変えまいと肩肘を張っていると水圧を受けてシンドくなります。
川の流れに逆らわず、自然に身を任せていけば、おのずと丁度いい場所へと転がされていき、流れをサーッと流していくようになります。

そして見た目の形が変わろうとも、石は石です。
元の石に変わりは無いということです。

それはそういうものだとハッキリと自覚していないと、自らの錯覚に陥って抜け出せなくなってしまいます。

いくら歳を取ろうとも、私たちは子供の頃と何一つ変わっていない。
それが事実です。
そしてそれは恥ずかしいことでも何でもありません。

肉体や社会的ポジションは年齢とともに変わっていくのが当たり前ですし、それに応じて心の姿勢も切り替わっていくのは自然なことです。

この世は、私という人間に成りきって楽しむアミューズメントですから、肉体の成長や老化、社会や家庭での立ち位置の変化というのは
当然のもので、それによって様々な経験を味わっていけます。

しかし、どこまでいってもそれはそれだけのことであって、私たち自身が変化するということではありません。

知識やテクニックなど数多く積み重ねてきましたが、それは私たち自身とは別のものです。
私たち自身が変わったわけではありません。

物心ついた頃の、あの純粋無垢な私たちと、今の私たちは何一つ変わっていません。

だって、どんなにカッコつけたくても、子どもの頃の自分と何も変わっていないのは自分が一番よく分かっていることでしょう。
それは、成長していないということではなく、そういうものであるわけです。

でも、こんな言葉が胸に浮かんでくるかもしれません。

世の中の色々なことを知ってしまって、よこしまな気持ちと薄ぎたない我執にまみれて身を汚してしまった…
だから子供の頃の純粋無垢なんてとっくのとうに失くなった。
いまはもう、汚れちまった悲しみしか無いんだ。



違います。


色々なことを知ったにしても、よこしまな気持ちを持ったにしても、我執まみれの行ないをしたにしても、全ては知識や経験の話であって、
私たち自身の話ではありません。

たとえ自我が増幅して、我執まみれになっても、私たちの心そのものは何ひとつ変わっていません。

まだ世の中のことも知らず、垢にまみれず、真っ白だったあの頃の自分というのは、今なお何も変わることなくココに居るということです。

これは魂のことではありません。心のことです。

我欲まみれの極悪人が虫を助ける『蜘蛛の糸』はまさしくそのことを示唆しています。
極悪人の主人公は、自分のことを救いようのない悪一色の塊だと思い込んでいますが、そうではないのです。

私たちは、行ないや思いというものが汚れることはあっても、心そのものが変わるようなことはないのです。
だから虫を助けたのも、わずかに残った良心などではなく、何ら変わることなく存在し続けている純粋無垢な心の発露だったわけです。

穢れや汚れによって見えにくくなることはあっても、純粋無垢なこころ自体が無くなることはないし、変化してしまうことも無いのです。

私たちは誰もが、あの幼い頃の純粋無垢な心を、今もそのまま持っています。
そして、それはこの先、どれだけ年老いても同じであるわけです。

見た目は大きく変わろうとも、私たちはずーっと同じままです。
素直な心のまま、永遠に生き通しです。

知識や経験というものをすべて取り払って素直になってみますと簡単にそれが分かります。

公園で無邪気に遊んでいる子供たち、簡単な読み書きに悪戦苦闘している子供たちと、イイ歳こいたオッさんの私たちとは、何一つ変わらず
全くのイーブンなのです。

それは他の誰かと比較するよりも、あの頃の自分自身と今とを照らし合わせてみれば、感覚として分かるはずです。

そしてそれというのは、自分だけでなく、他人にとっても同じ話であるわけです。

会社の社長にしても、学者の大先生にしても、立派な政治家にしても、それこそ一国のトップにしても、心そのものは3歳の心と何一つ
変わってはいないということです。

どれほと威厳がある人でも、ひと皮むけば、三つ子の心のままなのです。

もちろん、だからといって軽んじたり、安く見ていいということではありません。
そこに至るまでの経験や知識、苦労や努力、培われた人格、心構え、それらは心から敬意を払うものです。

ただ、どんな人であろうと、その人の心そのものは子どもの頃の純粋で美しいままだということです。
それは華やかな表社会の人たちだけでなく、裏社会の人たちであっても何ら変わりません。

言い換えれば、いくつになろうと誰もがみな、男の子であり女の子であるということです。

少なくとも自分自身がそうであるのは揺るぎない事実でしょう。
子どもじみたことは恥ずかしい、大人げないと、はた目を気にしてやらなくなって、そのうちそうした思いも湧かなくなってしまったかも
しれませんが、それはただ自我によって押さえつけられたものでしかありません。
それというのは単に心の姿勢であって、心そのものとは別のものです。

それを、あたかも心そのものが大人になったかのように思い込んでいますが、それは「年相応」という垢の積み重ねによって身動きが取れなく
なっているだけのことです。
垢とは、思い込みのことであり、刷り込みのことです。

確かに、子どもの頃は些細なことでも本当に喜んでいました。
そして歳とともにそのようなことはドンドン減っていきました。

そうした感動の薄れを目の当たりにすると、自分はあの頃とは違う、子どもの心ではなくなったと思ってしまうかもしれません。
しかし小さなことで喜ばなくなったのは、ただ知識や経験によるもの、つまり既知になったからであって、素直さがなくなったわけではない
のです。

私たちもそうであるように、まわりで様々な振る舞いを見せる大人たちもまた、みんなあの頃の女子であり、あの頃の男子のままです。

偉そうにしたり、嫌なことを言ったりする人が居たとしても、その人もただの女の子であり男の子なのです。

おじいちゃんだっていくつになっても男子。
おばあちゃんだっていくつになっても女子。
私たちはみんな永遠に、男子と女子なのです。

もう、そうなんだから今さら背伸びしても仕方ないということです。
完全に降参して、そのまま受け入れてしまったほうが何もかもラクになるというものです。

そうしますと、色々な悩みや苦しみ、あるいは小さなことにこだわっているのがアホらしくなってくるのではないかと思います。
だって私たちは、あの頃の小さな自分と何も変わってないのですから。

子どもの頃はどうしていたでしょう。
イヤなものはもう放っといたのではないでしょう。
いつまでも抱え込んだりはしなかったと思います。

イヤな気持ちをいつまでも持ち続けてモヤモヤを心に抱え続けているのは苦しい。
だから、すぐに謝りましたし、すぐに仲直りもしました。

悩みだってそうです。
子どもなりに悩んだり苦しんだりしましたが、楽しいことがあったら、気持ちの切り替えは早かったのではないでしょうか。

私たちはみんな、未来永劫、3歳児のように無垢な心のままです。

誰だって、親の前に出れば、みんなすぐにそうなります。
だから、人質の立てこもり犯が居れば、お母さんを呼ぶわけです。

情とは、つまり心そのもののことです。
私たちがどんなに汚したとしても、ただその表面が汚れるだけで、心そのものは絶対に汚れることはないのです。

ですから、今それが見えなくても、それは昔と変わらず綺麗なまま存在しています。
それは絶対に否定できない真実です。


そして、神社を尋ねますとそのことに気づく瞬間があります。

お社に手を合わせた時に、フワーッと心の底から幸せな気持ちに全身が包まれることがあるかと思います。
よく来たね、と頭を撫でられる感覚です。

それはまさに、子どもの頃のあの充足感そのものです。
私たちがいい歳になったところで、天地の存在は、その心だけを見ているということです。

背伸びをしてたり、肩肘を張っていたり、それどころか自分自身それが真の自分だと思い込んでいても、すべてお見通し。
ハナからそんなものを飛び越えて、素っ裸の私たちそのものを優しく撫でてくれるわけです。

社会的な立場にしても、家庭のなかでの役目にしても、それはそれで大事なことです。
でも、それはそれです。
私たちの心は、純粋無垢な3歳のままです。

それらは当たり前に両立するものです。

すでに天地がそのように見ていることからも明らかですが、それより何より、そもそも私たちの親は最初から私たちをそのようにしか見て
いないではないですか。

いつまでたっても子ども扱いされることに、参ったなぁと思うかもしれませんが、それは親の思い込みなどではなく、実は私たちの思い込み
なのです。
母や父は、私たちの純粋無垢な心を、昔と変わらず、ありのままに見ているのです。

見当違いな思い込みで自己否定することはありません。

余計な縛りを捨てれば、その心は当たり前に現れます。
あとはただ安心して、野原へと駆け出せばいいのです。



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