前回の閉所恐怖について補足します
まず、その不安恐怖は、大変なものです。
ですから私は薬物療法を行います。
決して不安は大したものではない、とは考えていません。
但し、治療を行ううえで、薬物療法と、その大変さに共感するだけでなく、
その認知を見直す必要があると考えます。
その認知を見直すための説明で前回、日常を「健康に過ごせている私たちが」という表現を使いました。
健康に過ごせている私たちも、閉所は好まないと思います。
閉所は好まないが、健康に過ごせているのは、常に閉所のことは意識していなくて、
閉所に行くときは、その閉所そのものよりも、その閉所を使う目的をまず意識していて、
それによって不安にとらわれることなく、閉所を使えていると思います。
例えば、電車、飛行機、МRI、それらを怖いなと思っても、それを使って得ることをまず意識するから使えていると思います。
また不安というのは、それに注意を向けると、よけい不安が強まる悪循環が生じる性質があります。
次に前回、閉所を怖がりながら、「親子の枠」という閉所にはまる矛盾を書きましたが、
それを書くことで言いたかったのは、健康的になるというのは、その閉所、
その「親子の枠」から出て良い、自由を選んでいい、ということです。
その枠から出ていいでしょ、自由にさせて、息苦しい、というかのような、
閉所恐怖の症状があります。
まず、その不安恐怖は、大変なものです。
ですから私は薬物療法を行います。
決して不安は大したものではない、とは考えていません。
但し、治療を行ううえで、薬物療法と、その大変さに共感するだけでなく、
その認知を見直す必要があると考えます。
その認知を見直すための説明で前回、日常を「健康に過ごせている私たちが」という表現を使いました。
健康に過ごせている私たちも、閉所は好まないと思います。
閉所は好まないが、健康に過ごせているのは、常に閉所のことは意識していなくて、
閉所に行くときは、その閉所そのものよりも、その閉所を使う目的をまず意識していて、
それによって不安にとらわれることなく、閉所を使えていると思います。
例えば、電車、飛行機、МRI、それらを怖いなと思っても、それを使って得ることをまず意識するから使えていると思います。
また不安というのは、それに注意を向けると、よけい不安が強まる悪循環が生じる性質があります。
次に前回、閉所を怖がりながら、「親子の枠」という閉所にはまる矛盾を書きましたが、
それを書くことで言いたかったのは、健康的になるというのは、その閉所、
その「親子の枠」から出て良い、自由を選んでいい、ということです。
その枠から出ていいでしょ、自由にさせて、息苦しい、というかのような、
閉所恐怖の症状があります。