山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都・きぬかけの路 1(金閣寺)

2021年04月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年4月10日(土曜日)
桜の季節は終わったが、遅咲きの桜として有名な仁和寺の「御室桜」は今が盛り。これを機に仁和寺周辺を歩いてみよう。仁和寺から竜安寺をへて金閣寺まで徒歩30分ほどだ(10年ほど前に一度歩いたことがある)。この三つの世界遺産を結ぶ約3キロ弱の観光道路は「きぬかけの路」と呼ばれ、京都でも有数の観光スポットとなっている。「きぬかけ」の名称は、第59代宇多天皇が真夏に雪景色が見たいと、山の峰、麓に白絹をかけさせたという。それ以来、「絹掛け山」「衣笠山」と呼ばれるようになった、という伝承による。
金閣寺は3年ほど前に訪れた。大変な混雑で、人波に流され出口に押し出され、こんな所、もう二度と来るか、と思ったものです。でも現在は違います。自撮棒連も修学旅行生もいませんので、今がチャンスなのだ。とはいえ人気の金閣寺、観光客の少ない早朝の開門一番に訪れることにした。金閣寺をスタートに、きぬかけの路周辺の見所をおさえながら、竜安寺、そして仁和寺へと歩きます。
またこの周辺には天皇陵が多く散在していてマニアとしては見逃すことのできない地域です。時間が許す限り訪れてみたい。

 金閣寺 1(金閣まで)  



JR京都駅前から市バスで35分、金閣寺道バス停に着く。バス停から北へ歩き、金閣寺入り口に向かいます。金閣寺境内への入り口「黒門」。門といっても二本の柱が左右に建っているだけ。何か意味があるのでしょうか?。右の柱には「鹿苑寺 通称 金閣寺」と書かれています。この時期、新緑が美しく爽やかさを感じる早朝の金閣寺です。

真っすぐな参道が総門まで続き、両側は苔と新緑の美しい庭が広がる。さすが世界遺産だけあって手入れは行き届いています。9時前なので総門はまだ閉まっているので、周辺をブラ歩き。

(参道の境内図より)
★☆★>>>>>鹿苑寺(金閣寺)の歴史>>>>>★☆★
北山のこの地は鎌倉時代に権勢を誇った西園寺家の所領となり、氏寺・西園寺や山荘「北山第(きたやまだい)」が造営されていた。しかし鎌倉幕府が倒れると、西園寺家は所領と資産を没収され衰退し、北山第もしだいに荒廃していった。

室町時代に入り、室町幕府第3代将軍足利義満(1358~1408)の時に足利政権の最盛期を迎える。義満は、応安4年(1371)室町北小路に「花の御所」と呼ばれた室町第を造営し、ここに幕府を移し政治の中心地とした。応永元年(1394年)、義満は将軍職を嫡男で僅か9歳の義持に譲り、翌年には出家する。出家したとはいえ、政治の実験は握り続けた。
応永4年(1397)、義満は荒廃していた西園寺家の北山第を譲り受け、ここを改修し自らの住居として北御所、夫人・日野康子の南御所、舎利殿(金閣)、天鏡閣、泉殿などを造った(この年が金閣寺の創建年とされている)。ここは「北山殿(きたやまでん)」(または北山第)と呼ばれ、義満は亡くなるまで10年間住み、出家していたとはいえ実権を握り続け政務を執っていた。

(最高格式を示す5筋が入った「筋塀(すじべい)」→→)
応永15年(1408)、義満は死去し、遺体は足利家菩提寺だった等持院に移され荼毘に付された。北山殿は義満の妻である日野康子の居所となっていたが、康子も応永26年(1419)に亡くなる。
義満に反感を抱いていた第4代将軍足利義持(1386-1428)は北山殿の破却を行った。建物は南禅寺、建仁寺、等持寺などに寄進・移築されたが、釈迦の骨が納められた舎利殿だけは破却できず残された。翌年の応永27年(1420)、義持は義満の遺言にしたがい、残った舎利殿(金閣)を中心に禅寺「「北山鹿苑寺」とした。開基は義満、名目上の開山として臨済宗の禅僧・夢窓疎石を勧請した。寺名は義満の法号「鹿苑院殿」からくる(鹿苑の名は、釈迦が初めて説法した地名鹿野苑に因む)。本山は義満自身が創建した臨済宗・相国寺である。

(総門前に馬繋が→→)
応仁・文明の乱(1467-1477)が起こると西軍の陣地となった鹿苑寺は多くの建物が焼失し、寺は荒廃を余儀なくされた。幸い舎利殿(金閣)、石不動堂は焼失を免れた。
江戸時代に入り、相国寺の禅僧・西笑承兌(さいしょうしょうたい、1548-1607)が独住の第一世住職として寺の復興に務める。「江戸時代、徳川家康の命により鹿苑寺住職となったのが西笑承兌でした。西笑和尚は豊臣秀吉、徳川家康の二人に政治顧問として重用され「黒衣の宰相」といわれた人です。西笑承兌によって鹿苑寺はその経済的基盤を固め、以後、西笑の法系によって受け継がれてきました」(公式サイトより)。方丈、庫裏、茶室・夕佳亭の建立、大書院、小書院、鐘楼などが再建され現在の伽藍配置になっていった。

(放火事件以前の金閣寺、京都TV「京都浪漫 金閣・鹿苑寺」(2017/1/9放映)より。→→)
明治維新後の廃仏毀釈により寺地の大半を失い苦境に陥ったが、観光寺院として庭園及び金閣を一般公開し拝観料を徴収することで立て直していった。
・明治30年(1897)、舎利殿(金閣)が古社寺保存法に基づきに「特別保護建造物」に指定される。
・大正14年(1925)、庭園が史蹟名勝天然紀念物保存法によりに史跡・名勝に指定される。
・昭和4年(1929)、舎利殿(金閣)は国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定される。

ところが戦後まもなく金閣寺最大の悲劇が発生した。昭和25年(1950)7月2日未明、若き学僧の放火によって応仁・文明の乱の難をも逃れてきた国宝の舎利殿(金閣)、足利義満の木像(国宝)など焼失してしまったのです。このショッキングな放火事件は、三島由紀夫の「金閣寺」、水上勉の「五番町夕霧楼」「金閣炎上」の小説の題材になった。

(総門前の世界遺産碑→→)
その後、焼失以前に計画されていた解体修理の設計図をもとに昭和27年(1952)に再建に着工、昭和30年(1955)竣工、同年10月10日に落慶法要が営まれ、舎利殿(金閣)は創建当時の姿に復元され蘇った。
そして平成6年(1994)には「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されたのです。

総門はまだ開かない。金閣寺は舎利殿(金閣)が注目されるので一般的に「金閣寺」と呼ばれるが、正式名称は「北山鹿苑禪寺」。禅宗の臨済宗相国寺派に属し、大本山相国寺の寺外塔頭寺院(銀閣寺も同じ)。なので相国寺の僧侶が任期制で金閣寺や銀閣寺の住職を務めている。

総門の丸瓦に豊臣秀吉の家紋として有名な「五七桐」が使われている。桐は鳳凰が止まる木として神聖視され、「五七桐」は皇室の家紋として使用されてきた。そして天皇家に功績のあった臣下に下賜されることがあり、足利尊氏も後醍醐天皇から五七桐紋を下賜されたのです。しかし足利家には家紋「足利二つ引き」があったので、「五七桐」は室町幕府の紋として使ったという。金閣寺の寺紋も「五七桐」となっている。

9時、総門が開き、私を含め5人ほど入った。正面に唐門が見えます。この唐門の脇に拝観受付がある。
  拝観時間:9:00~17:00 、拝観日:無休
  拝観料 大人(高校生以上): 400円 | 小・中学生: 300円
拝観券をもらって驚いた。写真のように「金閣舎利殿 御守護」と書かれた御札になっているのです。裏面は白紙、日付も入っていない。ということは後日再利用できる・・・?

総門をくぐったすぐ左に鐘楼が建つ。鎌倉時代鋳造の梵鐘は西園寺家に由来し、西園寺家の家紋である巴紋が入っている、というが近寄れないようになっていた。唐門の左前にそそり立つ大樹が「櫟樫(イチイガシ)」。説明版によれば、江戸時代初期か、それ以前からあったもので、京都周辺ではあまり見られない常緑高木の一つ。そのため京都市指定天然記念物に指定されているそうです。

唐門の右方に目をやれば、禅寺特有の三角形の白壁に黒茶色の木組みが印象的な「庫裏(くり)」が建つ。もともとお寺の台所だったので、屋根には煙出し櫓が見られます。現在は事務所と写経場として利用されているようです。内部は非公開。

唐門前から左へ行けば入り口かあり、それを潜ればそこはもう鹿苑寺(金閣寺)庭園だ。境内のほぼ8割が庭園になっており、衣笠山、左大文字山を借景にした壮大で美しい池泉回遊式庭園です。戦前(大正14年)に史跡・名勝に指定され、戦後の昭和31年(1956)に特別史跡・特別名勝に格上げされた。






 金閣寺 2(金閣と鏡湖池)  



庭園に入るといきなり目の前に黄金色に輝くお堂が飛び込んでくる。衣笠山を背景に、鏡湖池に浮かぶように南面して建つ三層の楼閣。周りに余分な建物がないだけに、ひときわその存在感が引き立つ。観光都市・京都において、修学旅行・観光客の人気スポットとして清水寺とともに人気を二分しているのも頷けます。
金箔が貼られひかり輝くのでいつしか「金閣寺」と呼ばれるようになったが、正式には「舎利殿(しゃりでん)」で、釈迦の遺骨を納めたお堂のこと。

初層(一階)は平安時代の寝殿造風で「法水院(ほすいん/ ほっすいいん)」と呼ばれ、遊芸、舟遊びの出来る釣殿でもあった。義満は池に舟を浮かべ、四季の風景を楽しんでいたという。正面に高欄付きの広縁があり、奥の室には須弥壇が設けられ中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左に天台僧の法服をまとった足利義満坐像が安置されている。金閣寺は禅宗なのだが、なぜ天台僧の法服を?。義満は天台僧であり、華厳僧、禅僧でもあり、政治のみならず、仏教世界でも支配者であり続けることを望んだ、からだそうです。舎利殿(金閣)の内部は非公開だが、初層の蔀戸は上に吊り上げられており内部を池越しに見ることができます(左の写真)。

上の初層内部写真は京都TV「京都浪漫 金閣・鹿苑寺」(2017/1/9放映)より。

初層の西側には池に張り出した釣殿のような吹き放しの小さな小亭が付属する。「漱清(そうせい)」と呼ばれ、足利義政がここで手水を使って上がったという。

二層目、三層目は初層とは全く異なり金箔で輝いている。創建当初は、三層のみに金箔が貼られていたという。現在の金箔は、昭和62年(1987)に漆の塗り替えと金箔の張替えが行われたもの。金箔約20万枚(総重量約20kg)が二重に貼られている。後方に突き出た樋までも黄金に輝いています。
初層と二層は通し柱を用いて構造的には同形同大の造りとなっている。そのためか間には屋根もない。

(写真は京都TV「京都浪漫 金閣・鹿苑寺」(2017/1/9放映)より)
二層目は鎌倉時代の武家造の仏間風で「潮音洞(ちょうおんどう)」と呼ばれている。室内には、須弥壇が設けられ観音菩薩坐像(岩屋観音)を安置し、その周囲には四天王像が立つ。天井には飛天像が描かれ、黒漆塗の壁と床面に反射し仏像と天井絵が写し出されるような工夫がなされているそうです。

下層よりひとまわり小さく造られた三層目は中国風の禅宗仏殿造の様式で「究竟頂(くっきょうちょう)」と呼ばれている。「究竟頂」の扁額は北朝第6代、歴代第100代の後小松天皇の宸筆です。禅宗様の花頭窓が印象的だ。
三層内部は、黒漆塗りの板敷床を除き天井と壁は金箔貼りとなっており、中央に釈迦の骨を納めた仏舎利が安置されている。花頭窓の内側に明かり障子がはめられ、外光によって黄金色は黒塗りの床に反射し室内は輝いている。(内部写真は京都TV「京都浪漫 金閣・鹿苑寺」より)

宝形造りの屋根の露盤上には羽根を広げた鳳凰が南をむいている。鳳凰は中国の伝説上の鳥で、聖徳の天子の兆しとして出現すると伝えられ、宇治平等院の鳳凰堂が有名だが、金閣寺の金ピカの鳳凰も素晴らしい。現在目にするのは昭和61年(1986)に取り付けられた二代目。室町時代の創建時に造られた初代は、明治期の修理の際に尾が破損したため、取り外され保管されていた。このため、昭和25年(1950)の金閣炎上でも難を逃れ現存しています。

鏡湖池の水面に映る「逆さ金閣」が人気です。ほとんど風はないのだが、どうもうまく撮れない・・・。

雪化粧の金閣も風情があるそうです。これは園路に貼ってあった写真の写真です。

東側からみた金閣。一層は公家を、二層は武家を象徴し、一番上の三層に禅宗の寺院がのっかっている。これはすでに出家し僧侶になっていた義満が貴族や武士の上に立っていることを暗示しています。当時、池の南側には樹木がなく平安京が見渡せた。さらに池の中には日本列島を模した葦原島も造らせている。義満は最上階の窮竟頂から京の都を、さらには日本を見下ろし、満足に浸っていたと思われます。

背後から見た金閣
美、調和、雅やか、風雅、豪華・・・、金閣を見つめているといろいろな感慨がわいてくる。建物を見つめているだけで人々の心に何かを訴える、これを「伽藍説法」と呼ぶそうです。この金閣は伽藍説法の代表かもしれない。これは放火事件という悲劇も起こしたのだが。

鹿苑寺庭園の中心が、金閣の前面に広がる鏡湖池(きょうこち)。この池があってこそ金閣が浮かび上がる。鏡のように金閣を映し出すことから「鏡湖池」と名付けられたのです。浄土曼荼羅に描かれた七宝池を表すともいわれている。
池には大小さまざまな奇岩名石が配され、それぞれ名前が付けられている。

<1>葦原島(あしはらじま)
<2>淡路島
<3>入亀島
<4>出亀島
<5>畠山石
<6>赤松石
<7>出島
<8>亀島
<9>鶴島
<10>九山八海石(くせんはっかいせき)
<11>夜泊石(よどまりいし)

金閣の正面にあり鏡湖池では一番大きな葦原島(あしはらじま)。「葦原瑞穂の国」と呼ばれるように。「葦原(あしはら)」とは日本国をさします。義満は楼閣に上り葦原瑞穂の国を眺めていたのでしょうか。島の中に三尊石(A)と細川頼之の寄進による細川石(B)がある。細川頼之(1329-1392)は四国を平定し、室町幕府の菅領となり幼少の義満の補佐役となった人物です。

左端の石が「九山八海石(くせんはっかいせき)」。九山八海とは、須弥山の周りに九つの山と八つの海があるという仏教の世界観。この世界観を表す石を、義満は明の太湖から遣明船によって運ばせ、ここに配置したという。
その右側の松の生えているのが鶴島(左)と亀島(右)。写真右側に見える三角形の石が畠山石。将軍の補佐役を務めた畠山家が奉納したもので、二つの石を重ねて富士山を表しているそうです。畠山石と亀島の間に見えるのが、室町幕府四職の一家だった播磨の赤松氏の奉納による赤松石。

金閣の東隣に一列に配置された四つの小石は「夜泊石(よどまりいし)」と呼ばれる。舟屋の礎石をそのまま、夜に停泊している舟に見立てたという。実際に、この間に舟を留め置いたともみられている。



 金閣寺 3 (出口まで)  



園路をはさみ鏡湖池の東側に、本堂にあたる方丈(右端)と書院(中央)があり、その間に「陸舟の松」と呼ばれる名木がある。書院は伊藤若冲の障壁画50面で知られている(現在は保存上の問題から承天閣美術館に移されている)。方丈の南側には、絵師であった相阿弥(そうあみ)が作庭したとされる「方丈庭園」(非公開)が広がる。
発掘調査によって、この辺りが義満が造った北山殿の中心部分だったことがわかってきた。

方丈と書院の間には、舟の形をした盆栽松があり「陸舟(りくしゅう)の松」と呼ばれています。説明版には「おかふねの松」ともなっている。「足利義満公遺愛の盆栽を移し帆掛け舟の形に仕立てたと伝えられる五葉の松」(説明版)で、樹齢約600年という。その帆先は西を向き、西方浄土に向かっているそうです。京都市指定天然記念物で、宝泉院、善峯寺の松と合わせて「京都三松」とされています。

鏡湖池、金閣と別れ、庭園の奥に入っていきます。さすが実入りの多い金閣寺だけあって、よく整備され手入れの行き届いた園路が設けられている。ただし出口まで一本道で、脇に入ることはできません。
御守り所の裏にあるのが、金閣寺鎮守の春日明神を祀った「榊雲(しんうん)」。










次に現れるのが、義満がお茶の水に使ったと伝えられる「銀河泉(ぎんがせん)」。水に濡れると美しく緑色になる緑色片岩が使われている。













さらに進むと、義満公が手洗いに用いたといわれている「巌下水(がんかすい)」が見える。

10時、静かで落ち着いた金閣寺です。3年前に来た時は、午後だったのだが大混雑しており、人波みに流され出口へ、出口へと追い出されました。お堂も庭園も、ゆっくり鑑賞するならコロナ禍の今が一番良いかもしれない。ソーシャルディスタンスもしっかりとれます。
緑樹に浮かぶ金閣、どこから見ても金閣は映えます。

左側に階段が現れ、両側に背の低い竹垣が設けられている。この竹垣は「金閣寺垣」と呼ばれ、格調高く気品に満ちていることから、通路と庭の境目や小さな庭の装飾として用いられている。細い丸竹を縦に並べ、上部に三本の半割竹の玉縁(たまぶち)を渡し、下方を太い半割竹で挟みこんだもの。

落下する滝の水滴の下に、滝に打たれまさに跳ね上がらんとする「鯉魚石(りぎょせき)」が置かれている。龍門の滝を鯉が登り天に昇りきると龍に進化するといわれる中国の龍門瀑の故事「登龍門」に由来し、立身出世のたとえ「鯉の滝登り」を表しています。
これらの滝組は鎌倉時代の西園寺家北山第の池泉の遺構とされる。

鏡湖池の水源となっている「安民沢(あんみんたく)」という池です。ここは鎌倉時代の西園寺家の遺構で、池の中の小島には、西園寺家の守り神・白蛇を祀った五輪の石塔「白蛇の塚」が残っている。

境内で最も高所に建つのが、江戸時代の初め後水尾天皇を迎えるために茶道家・金森宗和に造らせたという茶室「夕佳亭(せっかてい)」 です。ここから見る夕日に映える金閣が特に佳いということから「夕佳亭」と名付けられた。。明治初年(1868に焼失したが、明治7年(1874)に再建された。
数寄屋造りの茅葺。三畳敷の茶室と、上段の間として二畳敷の茶室「鳳棲楼」からなる。中央床柱には「難を転じる」という縁起のよい南天の古木が用いられている。また三角形の棚は「萩の違い棚」として知られ、「萩の木の根の方と枝花とを交互に組合わせて中央に鶯宿梅を配す」(説明版)という。かつて「即休亭」とも称されたので扁額「即休」が掛かっています。

夕佳亭の前には、足利八代将軍義政が愛用したという富士形の手水鉢と石燈籠が、また室町幕府より移された高貴な人が座る腰掛石「貴人榻(きじんとう)」がある。

園路の出口に近づくと、安土桃山時代に宇喜多秀家が再建した不動堂が現れる。本尊として弘法大師作と伝わる等身大の石造「不動明王立像」が安置されている。この石不動は、金閣寺創建以前の西園寺家の北山第に祀られていたもの。首から上の病気、特に眼病に霊験あらたかということで江戸時代から庶民に広く信仰されてきた。秘仏だが節分と大文字送り火(8月16日)に開扉法要が営まれ本尊を拝むことができます。
(写真の石像は京都TV「京都浪漫 金閣・鹿苑寺」(2017/1/9放映)より)

出口の山門から長い階段を降りると、すぐ脇に広い休憩所があります。拝観料を払って境内に入る前に、この休憩所でお手洗いを済ませておくこと。入ってしまうと、出口近くまでトイレはありませんゾ。
現在、土曜日の朝10時半だが、この寂しさはかっての金閣寺では考えられない。京都の観光名所をゆっくり拝観するにはコロナ禍の今がチャンスかもしれない。自撮棒連も修学旅行生もいないのがいい。金閣寺の広い広い駐車場も、かっては大型バスで満杯だったが、現在はガラガラでした。

 第67代三条天皇北山陵  



金閣寺を出て、近くにある三条天皇北山陵へ向かいます。金閣寺前の道路「きぬかけの路」を北方面に10分ほど歩く。ちょうど五山送り火の「大」の字の右山裾あたり。

「きぬかけの路」に接しているのですぐわかる。左の山が「大」の字がある北大文字山。住宅街の中とはいえ、山裾の落ち着いた環境の中に陵墓は築かれている。陵域は低い生垣で囲まれ整然とし、手入れも行き届いています。どこの天皇陵も感心するほど整然としており、宮内庁の天皇家への大いなる忖度を感じさせられます。

第67代三条天皇(さんじょうてんのう、976- 1017、在位:1011- 1016)は冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・藤原超子。花山天皇の異母弟で、「居貞(おきさだ)」親王と呼ばれた。
寛和2年(986)年、従弟の第66代・一条天皇の即位により元服し、立太子になる。居貞親王の方が年長のため、「さかさ儲けの君」と呼ばれた。
寛弘8年(1011)一条天皇の譲位により36歳で即位する。
天皇の在位中は藤原道長の全盛期だったが、三条天皇は藤原兼家の外孫であるため道長とは不和であった。天皇は道長をはばかり、その娘・妍子(けんし)を皇后にする。

三条天皇の眼病による皇位継承問題がおこる。道長は娘・彰子の産んだ外孫・敦成親王(第68代・後一条天皇)の即位を望み、天皇の眼病を理由に譲位を迫った。「長和3年(1014年)三条天皇は眼病を患う。仙丹の服用直後に視力を失ったといわれる。道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。更にこの年と翌年、内裏が相次いで焼失。病状の悪化もあり、同5年(1016年)三条天皇は皇后?子の子敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い第二皇子の後一条天皇に譲位し、太上天皇となる。翌寛仁元年(1017年)4月に出家し、程なく42歳で崩御した。」(Wikipediaより)

陵墓名は「三條天皇北山陵(きたやまのみささぎ)」で、宮内庁の公式陵形は「円丘」となっている。鳥居は木製。なおここから北へ500mほどの所に一条天皇・三条天皇の火葬塚(北区衣笠鏡石町2-14)があるが、そこまで行っておられない。

記録によれば、寛仁元年(1017)に三条院で崩御、船岡山の西石陰(いわかげ)で火葬にされ、北山の小寺中に埋納された、とある。その後、墓所は不明になり、幕末の文久の修陵でも確定されなかった。
明治22年(1889)6月、尊上院のあった現在地(北区衣笠西尊上院町)に決められ、陵墓として造営された。尊上院(そんじょういん)は三条院の転訛だから、という理由で。この年は大日本帝国憲法(明治憲法)が公布された年でもあるので、万世一系の天皇制のためにも陵墓治定が急がれたのでしょう。

 敷地神社(わら天神)  



きぬかけの路から外れるが、金閣寺の南に「わら天神」があるので寄ってみる。金閣寺から15分くらいでしょうか。西大路通りに面しており、立派な石鳥居が立っているのですぐわかる。所在地は京都府京都市北区衣笠天神森町10

正しくは「敷地神社(しきちじんじゃ)」だが、「わら天神」と呼ばれるのはなぜでしょうか?。案内板に「古来より稲わらで編んだ籠に神饌を入れて神様に捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。後にそのわらを切り取り、安産の御守として妊婦さんに授与するようになったのです。そのわらの御守の珍しさから「わら天神宮」の名称が広まり定着しました。」そうです。
鳥居の額は通称名の「わら天神宮」となっている。

境内の奥に本殿、拝殿からなる社殿が、その前に立派な舞殿が建っている。近くの平野神社では同じ構造の拝殿が、平成30(2018)年の台風第21号で全壊しています(ココを参照)。平野神社の拝殿屋根は檜皮葺だったが、ここの舞殿の屋根はより重そうな瓦屋根を6本の柱で支えているだけなので心配です。

敷地神社の歴史について境内の案内板によれば、元々当地には山を神格化した北山の神が祀られていたが「天長8(831)年、この地に氷室が設けられることになり、加賀国の人々が夫役として指定されました。彼らは移住にあたり崇敬していた菅生石部神社の分霊を勧請し、その御母、木花開耶姫命を御祭神として北山の神とともに祀り、代々崇敬してきました。応永4(1397)年、足利三代将軍義満による北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))の造営にあたり参拝に不便となったことから、両者を合祀して現在地へ遷座、社号を菅生石部神社の通称である敷地神社としました。」とあります。「敷地」とは菅生石部神社の神主さんの名字らしい。

これは拝殿で、奥の本殿は見えない。本殿に祀られている主祭神は「木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)」。一夜にして懐妊し、次々と3人の子を出産したという逸話から、安産・子授け・縁結びにご利益がある神様とされている。

この神社の安産祈願のお守りには藁(わら)が入っていることで有名。そのわらに節があれば男児を、節がなければ女児を授かると伝えられている。特に戌の日は安産祈願をする参拝者で混雑するという。戌(犬)が多産でかつお産が軽いということにあやかって戌の日が選ばれるのです。拝殿に奉げられた白い布は赤ちゃんの「よだれかけ」。無事出産を終えた人がお礼にメッセージを書き込み奉納したのです。

本殿右側が摂社の六勝神社(ろくしょうじんじゃ)。傍の説明版によると、伊勢、石清水、賀茂、松尾、稲荷、春日の六柱神を祀り、平安遷都の際に平野神社の地主神として勧請され、その後西園寺家の鎮守となっていた。古くから、必勝、成功、開運及び商売繁盛の守護神として崇敬を集めてきた。明治6年(1873)に敷地神社境内に遷座された時、「必勝」の意によって「六勝神社」と改められた、という。
最近、「六(む)つかしい事に勝つ」という語呂合わせから大学受験、各種資格試験などの守護神として人気を得ているそうです。

境内本殿西側に綾杉明神(あやすぎみょうじん)がある。樹齢千数百年におよぶ神木綾杉の巨木が立っていたが、明治29年(1896)8月の台風で倒壊し、2mほどの幹を残すのみとなっていた。清原元輔(清少納言の父)が詠った「生ひ繁れ平野の原のあや杉よ、濃き紫に立ちかさぬべく」が「捨遣和歌集」に撰録されているように、古くから崇敬をあつめてきた木です。そこで残った幹に素屋根をかけ「綾杉明神」として祀るようになった、という。


 第78代二条天皇香隆寺陵  



敷地神社(わら天神)の近くには「花山天皇紙屋川上陵」もあるのだが、2年前に訪れているのでパスし(ココを参照)、「二条天皇香隆寺陵」を目指す。
いったん「きぬかけの路」に戻り西へ歩く。この辺り普通の住宅街の車道で車の往来も多い。「きぬかけの路」というさわやかな名前からくるイメージにはほど遠い。

「きぬかけの路」から馬代通りに入り、南へ歩く。小松原児童公園の南東にあるのだが、正面拝所がわからず、結局一周してしまった。閑静な住宅街の中にあり、拝所は南側にある。玉砂利と松並木の真っすぐな参道が印象的な陵墓です。東に300mほど行けば平野神社です。

第78代二条天皇(にじょうてんのう、1143-1165、在位:1158-1165)は後白河天皇の第一皇子で守仁(もりひと)親王という。生母が出産直後に急死したことで、祖父である鳥羽法皇に引き取られ、その后の美福門院に養育された。皇位継承がないと思われたので、僧侶になるため9才で仁和寺に入る。
久寿2年(1155)、近衛天皇が崩御すると父が第77代後白河天皇として即位。守仁親王も仁和寺から戻され、還俗して皇太子となった。
保元3年(1158) 父・後白河天皇の譲位によって第78代二条天皇として即位。これは守仁親王を可愛がっていた美福門院と当時の権力者藤原通憲(信西)との話し合いによるもので「仏と仏の評定」といわれた。

平治元年(1159)12月平治の乱が起こる。平清盛一族が熊野詣での旅に出たすきに、源義朝、藤原信頼が挙兵し御所を襲って火を放ち、後白河上皇を幽閉し内裏を制圧、二条天皇をも黒戸御所に軟禁した。当時の権力者だった信西は都を逃げ出したが、追っ手に迫られ山中で自害。しかし平清盛一族は急遽都に引き返し反撃に転じた。二条天皇は潜かに脱出して平清盛の六波羅邸に入った。天皇はこのとき女装して牛車に乗って御所から脱出したといわれています。平清盛軍は信頼・義朝追討の勅宣を得て意気上がり、内裏に攻撃をかけた。この戦いで勝利した平家は実権を握り我が世の春を謳歌するのです。

退位したとはいえ後白河上皇は強い力をもち、その後5代34年にわたり院政をひく。真面目で実直な二条天皇は実父・後白河上皇とは冷え切った関係にあり対立した。院政を否定して天皇中心の政治を行おうとした二条天皇の親政派と後白河上皇の院政派の二つの勢力が主導権を争ってことごとに批判・反目しあい、互いに相手の近臣の解官・流罪をくり返した。二条天皇は平清盛を重用し、その軍事力を後ろ盾に本格的な天皇親政を始めようとしました。しかし、その矢先の永万元年(1165)、病に冒され,わずか2歳の皇子・順仁親王(六条天皇)に譲位する。譲位一ヶ月後に崩御、在位8年でまだ23歳だった。

二条天皇は音楽を好み、琵琶に精通され、和歌に秀でられた。Wikipediaによれば「優れた人物で「末の世の賢王におはします」と賞賛され、愚昧とされた父・後白河上皇とは対照的だった。一方で、上皇との対立は生涯に亘って解消されることはなく、「孝道には大に背けり」という世評もあった。」という

「二条天皇香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)」と呼ばれ、宮内庁の公式陵形は「円丘」、住所は:京都市北区平野八丁柳町。
永万元年(1165年)7月28日に崩御、8月7日に香隆寺の東北の野で火葬、遺骨を一時香隆寺本堂に安置していたが、その後香隆寺境内に天皇の旧殿を移して三昧堂を造り、ここに遺骨を移納した。その後香隆寺、三昧堂とも所在は不明になり、元禄年間(1688-1704)の幕府の諸陵探索でも発見できなかった。さらに幕末の修陵の際にも決めることができなかった。
明治22年(1889)、三條天皇北山陵と同様に万世一系の天皇主権を唱える大日本帝国憲法(明治憲法)が公布されるのを機に天皇陵の確定が急がれた。陵墓を見つけることはできないが、平安時代の公家・藤原宗忠の日記「中右記」の記載から推定し現在地(大北山村字宇多川)の小高い茶畑を陵としたのです。そして間口70m、奥行き50mの陵域を確保し、その南側に遙拝所を設け、その後方に直径17mほどの低い円丘が造営された。
遙拝所正面中央に細い一本松が突き出ている。何らかの意思で残されたのだと思う。位牌か、卒塔婆か・・・、5本だけ枝葉が残されているので五輪塔かも。宮内庁の繊細な芸術感覚が表されています((^_-))


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