山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 4(哲学の道2)

2024年05月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日) 冷泉天皇陵・霊鑑寺・安楽寺・法然院に立ち寄りながら哲学の道を歩く

 冷泉天皇陵櫻本陵(さくらもとのみささぎ) 



哲学の道の中ほどにある「桜橋」です。渡った正面に見えているのは「冷泉天皇陵櫻本陵(さくらもとのみささぎ)」。さすが天皇陵への参道だけあって、哲学の道にある多くの橋の中では一番幅が広く、しっかりしています。東山の麓の景勝地に眠っている冷泉天皇は幸せな天皇です。しかし哲学の道の騒々しさからすると、安静にはおられないと思うのだが、橋を渡って天皇陵にお参りする人などだれもいません。

空中写真を見れば陵墓全体は方形だが、宮内庁発表の陵形は円丘となっている。
古い記録によれば、冷泉天皇は桜本寺前野で火葬され、その山傍に遺骨を埋葬したとある。中世以降、陵墓の所在地は不明となっていたが、明治2年(1889)に桜本寺跡として現在地が陵に確定された。また哲学の道を挟んで西側の繁みの中に冷泉天皇火葬塚が設けられている。

68代後一条天皇皇后の藤原威子(1000-1036、いし/たけこ)は、長元9年(1036)に亡くなると、ここで火葬され宇治陵(京都府宇治市木幡)に埋葬された。摂政藤原道長は娘を次々と天皇に嫁がせ権勢を得ていった。威子もその一人。

第63代冷泉天皇(れいぜいてんのう、950年- 1011年、在位:967年- 969年)。諱は憲平(のりひら)。村上天皇の第二皇子で、母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。

時の権力者だった藤原実頼・師輔の兄弟は、村上天皇の第一皇子をさしおいて第二皇子・憲平親王を生後間もなく立太子させ、康保4年(967)に村上天皇が崩御すると即位させた。これが第63代冷泉天皇で、18歳の時だった。冷泉天皇は精神に病みがあったといわれ、補佐として藤原実頼が関白につく。しかし安和2年(969)、同母弟の円融天皇に譲位し太上天皇(上皇)となる。天皇としての在位は二年間にすぎず、62歳で崩御されるまで人生の半分以上の42年間上皇として余生を過ごされ、表舞台に立つことはなかった。弟の64代円融天皇、息子の65代花山天皇、甥の66代一条天皇のほうが先に亡くなっている。
冷泉天皇は、皇太子時代から精神の病から奇行が目立ったという話が残っている。異常行動の多くは、皇太子時代から天皇在位時に多く、上皇となってからは静かに余生を過ごされたという。権謀うずまく政治の世界から開放され、精神的に落ち着かれたのでしょう。

 霊鑑寺 (れいかんじ)  



冷泉天皇陵櫻本陵を南側に周り、南東角に出ると霊鑑寺の階段と山門が見えてくる。正式名を「円成山霊鑑寺(えんじょうさんれいかんじ)」といい、臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院。
通常非公開の寺だが、春の椿と秋の紅葉シーズンに特別公開が行われる。今年(2024年)は3月20日(水・祝)~4月7日(日)。山門を入って左に受付があり、大人:800円  小学生:400円 幼児:無料

山門を潜ると、左に大玄関が見える。江戸時代初期に京都御所にあった後西天皇の御番所を移築したものという。上り口に椿の花が綺麗に飾り付けされています。この寺も「椿の寺」で、境内いたる所に椿の木が植えられています。

この場所は元々、後陽成天皇の典侍であった持明院基子の隠居所だったが、後水尾上皇が皇女・多利宮(たりのみや)を入寺させ寺院化をすすめた。承応3年(1654)、後水尾上皇は「円成山霊鑑寺」の寺名勅許し、多利宮は出家して「宗澄(そうちょう)尼」と名のった。これが霊鑑寺の創建です。それ以降明治維新まで5人の皇女皇孫が入寺し住職をつとめたので、そこから、「霊鑑寺尼門跡」、お寺の場所が鹿ケ谷(ししがたに)ということで「鹿ケ谷比丘尼(びくに)御所」または「谷の御所」などと呼ばれている。

大玄関先の中門を潜ると、椿の銘木が出迎え、奥に書院が建つ。右側の椿には「日光椿(じっこうつばき)」の名札が架かり、後水尾天皇遺愛の椿で、京都市指定天然記念物です。左側には「唐獅子」などの札が付く銘木が並ぶ。

貞享3年(1686)に後西天皇の皇女が二世住職として入られた際に、御所にあった後西天皇の御休息所を賜り移築したのがこの書院。狩野派による「四季花鳥図」などの華麗な障壁で飾られている。また、香炉、御所人形、貝あわせなど皇室ゆかりの貴重な寺宝が数多く収蔵されています。
右の写真は、表の立て看板に載っていた上段の間。これで休息所なのだ。

書院前に広がる池泉鑑賞式庭園。中央に石灯籠を置き、周りに立石を使った石組みを配置、周辺を椿の木で囲っている。石組に散る椿は、大豊神社とはまた違った味わいを見せてくれる。

小高い位置に本堂が建ち、書院と渡り廊下でつながっている。椿を鑑賞しながら階段を登る。本堂前も椿が盛んで、本堂前に黒椿があります、という寺側の説明でした。
この本堂は、寛政6年(1795)に11代将軍徳川家斉により寄進されたもので、本尊の如意輪観音像を祀っている。

本堂からさらに斜面を登り、書院の裏に降りてゆく小径が設けられ、その周辺には多くの椿が植えられています。寺を創建された後水尾天皇が椿を好まれたことから、回遊式庭園には約70種類150本以上の椿が植えられており、「椿の寺」の名にふさわしい景観を呈している。椿の花の盛期は過ぎたようだが、散椿の花びらが地面に広がる様子もまた美しい。

 安楽寺(あんらくじ)  



霊鑑寺を出て北に進み、ちょうど冷泉天皇陵の真裏に安楽寺(あんらくじ)がある。安楽寺の由緒は階段前の駒札に記されているが、より詳しく安楽寺公式サイトから紹介すると
「両上人(法然上人の弟子、住蓮<じゅうれん>と安楽<あんらく>)が称える礼讃は誠にすばらしく、両上人の前で出家を希望する人もありました。その中に、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫がおられました。両姫は、法然上人や開山両上人から念仏の教えを拝聴し感銘され、いつしか仏門に入りたいと願うようになりました。建永元年(1206)12月、両姫は後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝の留守中、夜中秘かに京都小御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵」を訪ね剃髪、出家を乞います。最初、両上人は出家を認めませんでしたが、両姫のお詠に感銘されます。
「哀れ憂き この世の中にすたり身と 知りつつ捨つる 人ぞつれなき」
19歳の松虫姫は、住蓮上人から剃髪を受け「妙智法尼」と法名を授かります。また17歳の鈴虫姫は、安楽上人から剃髪を受け「妙貞法尼」と法名を授かります。
この事を知った上皇は激怒し、念仏の教えを説く僧侶に弾圧を企てます。翌建永2年(1207)2月9日、住蓮上人は近江国馬淵(まぶち)(現在の滋賀県近江八幡市)で、同日安楽上人は京都六条河原(東本願寺近く)で斬首されました。この迫害はこれに止まらず、法然上人を讃岐国(香川県高松市)に流罪、親鸞聖人を越後国(新潟県上越市)に流罪に処します。いわゆる建永(承元)の法難です。その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明防で念仏三昧の余生を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生を遂げたと伝えられています。
また、両上人の亡き後、「鹿ヶ谷草庵」は荒廃しましたが、流罪地から帰京された法然上人が両上人の菩堤を弔うために草庵を復興するように命ぜられ「住蓮山安楽寺」と名付けられました。その後、天文年間(1532-55)に現在地に本堂が再建され、今日にいたっています。」

浄土宗の寺で、「松虫鈴虫寺(まつむしすずむしでら)」とも呼ばれている。階段下に「浄土礼讃根元地」と刻まれた石柱が建つ。公式サイトに「開山両上人は、唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山(天台宗)の礼讃声明(らいさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成されました」とある。浄土念仏のお経に独特の節回しを付け、唄うように唱えることです。

瓦葺の山門を見慣れたせいか、こうした茅葺きの山門には風情を感じます。山門は明治25年(1892)再建なので、まだ新しい。黒石を敷き詰めたなだらかな階段と茅葺きの山門のこの場所は、紅葉の名所だそうです。想像しただけで、その絶景ぶりがうかがえます。

安楽寺は、山門から内は通常非公開。ただし春の桜・つつじ・さつきの時期と、秋の紅葉の時期、7月25日のカボチャ供養日には一般公開が行われます。今年(2024年)の春の特別公開は3月29日(金)~4月7日(日)10:00~16:00、拝観料500円。

山門を潜ると庭園が広がる。庭いっぱいにサツキの刈込が演出され、中央にある一本のしだれ桜が春らしさを感じさせてくれます。

江戸時代後期に移築された本堂は、方形裳階造りの建物。内部は、本尊・阿弥陀如来像を中央に、左に法然上人張子の像を、右に住蓮上人像、安楽上人像、松虫姫像、鈴虫姫像が配置されている。
一般公開日には30分おきに約10分間、住職さんによって寺の由来や木像の説明が行われています。

毎年7月25日は中風除けを祈願するカボチャ供養の日で、参拝者には先着者限定でかぼちゃの煮付けがふるまわれます。浄土宗とカボチャ、どんなご縁があるんだろうか?。ことの起こりは、1790年頃の住職が修行中に「夏の土用の頃に、当地の鹿ヶ谷カボチャを振る舞えば中風(脳卒中の後遺症など)にならない」という霊告を受けたことに由来するそうです。瓢箪型の鹿ヶ谷カボチャは、江戸時代中頃に津軽より種子を持ち帰り栽培し、連作しているうち瓢箪型になったという。今では絶滅危惧の京野菜。
お堂の「くさの地蔵菩薩」は、古くから皮膚病や腫瘍平癒にご利益があると信仰されてきた。お堂前左右には、狛犬ならぬ「狛かぼちゃ」が愛らしく建つ。しかしこれは水掛不動らしく「右のカボチャ地蔵は中風まじない、左側のカボチャ地蔵は祈願成就としてお水をお架け下さい」と説明されています。

庭園の片隅に住蓮上人と安楽上人の墓がある。



山側へ少し階段を上がった先に松虫・鈴虫両姫の供養塔があります。

安楽寺を後にし、天皇陵の北側を回って哲学の道に戻る。この橋は「法然院橋」となっている。午後になってまた人出が増えたようです。

哲学の道の川沿いでは、夏前になるとゲンジボタルが沢山飛び交うという。あの小さなホタルがこんな貝をエサにしているとは驚きです。

残雪かと思わせるようなユキヤナギ(雪柳)が川端で垂れています。この時期、柳のように垂れさがる枝に、小さな白い花をびっしりと咲かせます。花言葉は「愛嬌(あいきょう)」とか。

少し行くと、西田幾多郎が詠んだ歌
  「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり  寸心」
と刻まれた石碑があります(昭和56年(1981)設置)。傍らに設置された石板には
「コノ歌ハ 西田幾太郎先生ノ晩年ノ作デ  書ハ 昭和十四年ノ自筆ニヨッタ  人生ノ指針ヲ 示シタ碩学ノ教エトシテ 哲学ノ道ヲ散策スル人々ニ  愛唱シテホシイチナミニ  寸心トハ  先生ノ居士号デアル  昭和五十六年 五月」  と記されている。

哲学者・西田幾多郎先生は、静寂な小径を「ゼンとは、ゼンとは・・・」と思索問答しながら歩いたのでしょう(禅でも、ゼニでもないよ、善です)。今日では観光名所となり、思索などできる道ではなくなった。

 法然院  



西田幾多郎の石碑のすぐ先に「法然院第3号橋」がある。この橋を渡り、山の方へ進むと法然院(ほうねんいん)の参道です。

法然院の由緒について法然院公式サイトから紹介すると
「鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。1206年(建永元)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。江戸時代初期の1680年(延宝8)、知恩院第三十八世萬無(ばんぶ)和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂(にんちょう)和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。
浄土宗内の独立した一本山であったが、1953年(昭和28)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となり現在に至っている。」

参道に入ると、さっきまでの哲学の道とは違った空気感が漂う。鬱蒼とした樹木に覆われ、やや薄暗く静寂な雰囲気は、お寺だということを強く感じさせてくれます。

(境内図は公式サイトより)法然院の正式名は、「善気山 法然院 萬無教寺(ぜんきさん ほうねんいん ばんぶきょうじ)」。「善気山」は法然院の背後にある山で、東山三十六峰のひとつ。「萬無」は江戸時代初期に法然院を再興した和尚。

茅葺きの山門が現れる。樹木の陰影をうけ、階段上に佇む山門は絵になります。受付パンフに「古来の門は1887(明治20)年に焼失し、その後、旧来通り再建された。昭和時代初期、倒木のため倒壊、再建されて現在に至る」とあります。
石柱「不許葷辛酒肉入山門」が建つ。臭みが強い野菜や、お酒・肉を山門内に持ち込んではならない、という意味です。

山門の上に立つと、「白砂壇(びゃくさだん)」と呼ばれる白い盛り砂が現れる。真ん中は通路となっており、そのまま本堂へ通じています。「砂壇は水を表していて砂壇の間を通ることにより心身を清めて浄域に入ることを意味している」(パンフより)。砂壇の上には、水を表す砂紋と季節ごとの文様が描かれている。この季節は桜の花びらです。

左上の白壁の建物は経蔵で、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天像と韋駄天像を安置し、また五百七十巻余りの経典の版木が所蔵されている。

中から見ると、山門の茅葺屋根はコケ蒸して、風情を感じさせる。

白砂壇と本堂の間は、中央の石畳の参道を挟んで左右に放生池(ほうじょういけ)があり、その周辺は椿などの樹木と刈込で庭園化されている。江戸初期の中興時は、池はなく3個の白砂壇があったそうです。椿花でお化粧された手水鉢が置かれている。境内に椿が多く、法然院もまた椿の寺だそうです。

庭園の右に講堂がある。元々は元禄7年(1694)建立の大浴室だったが、昭和52年(1977)に講堂として改装された。現在、講演会・個展・コンサートなどに利用されている。
放生池をまたいで大木が講堂へさし架けられている。何かの演出だろう、と思ったら、平成30年(2018)9月4日に関西を襲った台風21号による倒木でした。そのまま放置されているので、やっぱり演出?

これから玄関で履物を脱ぎ、建物の中へ入ります。ここで拝観料を支払う。
法然院の境内は、何時でも無料で自由に入れ見学できる。ただし伽藍内には入れない。伽藍内が特別公開されるのは春と秋だけ。今年(2024)の春は4/1~4/7、拝観料(入山料という):大人800円・大学生400円・高校生以下無料。
法然院公式サイト

堂内に入ったが、かなり複雑な構造をしている。図面が無く、案内もないので、現在自分がどこに居るのか、どこを撮っているのか分からなくなってくる。後で空中写真を見たが、かなりの建物が廊下で結ばれ入り組んでいる。中庭も多い。本堂の上が方丈でしょうネ?。方丈庭園は方丈の右か左か?、ワカリマセン。
堂内は撮影禁止なので、庭園のみの紹介になります。

これはどこでしょう?。とりあえずパチリ。

これは間違いなく方丈庭園だ。池は「心」の文字の形から「心字池」と呼ばれ、中央に中島があり石橋が架けられている。中島に阿弥陀三尊像に見立てた三尊石を配した浄土庭園です。
パンフに「心字池の奥には当山中興第二世忍澂和尚が錫杖で感知されたと伝わる善気水(錫杖水)が三百四十年余り絶えることなく湧き出している」とあるのだが、どこだろう?。京の名水として名高く、茶の湯に利用したり、飲むこともできるそうです。名前は法然院の裏山「善気山(ぜんきさん)」からくる。
庭園奥の石段の上には法然院の鎮守として弁才天が祀られている。

法然院も椿の名所で、多くの椿が見られます。写真は、パンフに「三銘椿(さんめいちん)の庭」と題され「本堂北側の中庭には三銘椿(花笠椿・貴<あて>椿・五色散り椿)が並ぶ」とあります。写真奥から手前に、花笠椿・貴椿・五色散り椿が、白砂の上に浮き立つように並ぶ。五色散り椿は「白色・桃色など数種類の色の花を咲かせ、花弁が一枚一枚散り落ちるのでこの名がある。花期は三月中旬から四月上旬である」そうです。

場所は分からないが、椿がメインの庭園です。手水鉢に椿の花が全面に浮かべられ、右側で獅子が眺めいっている。

堂内から表に出、本堂の東側に回る。本堂には恵心僧都源信作と伝わる本尊・阿弥陀如来坐像が祀られている。その他、観音・勢至両菩薩像、法然上人立像、萬無和尚坐像が安置されている。本堂内には入れなかったが、この場所で格子越しに拝観できます。

右側の石段上には、元禄3年(1690)忍澂和尚46歳の時に、自身の等身大の地蔵菩薩像を鋳造させ安置した「祠の地蔵」がある。

山門を出て南へ進み墓地へ向かいます。法然院の墓地は広いので谷崎潤一郎の墓などうまく探せるのか心配だったので、拝観受付で尋ねると、「谷崎潤一郎」の墓名は刻まれていないが、枝垂れ桜が目印です、と教えられた。また受付前に墓地見取り図が置かれていました。

山門から100mほどの所に墓地の入口がある。階段上の正面に見える大きな塔が「阿育王搭」です。アショーカ(阿育王は漢訳音写)は釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説王様で、古代インドにあって仏教を保護宣布したことで知られる。石塔寺(滋賀県東近江市)に伝わる阿育王塔を、江戸時代に模造したものとされています。石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大で高さは7.6mあり、国の重要文化財に指定されている。

阿育王搭のすぐ横に河上肇の墓があります。墓には「河上肇 夫人秀 墓」と刻まれている。河上肇(1879~1946)は京大教授の経済学者。マルクス経済学の研究・啓蒙に専心し、「貧乏物語」などの著作がある。

写真左の阿育王搭の先に一本の枝垂れ桜が見えている。その桜の木をはさみ左右に簡素な墓石がかれています。右の石には「空」が、左の石には「寂」という文字が刻まれている。そしてよく見ると左下に「潤一郎書」とあります。左にだけ卒塔婆が立てられているので、こちらが谷崎潤一郎の墓でしょうか。桜、目立たない小さな墓石、これは生前の谷崎の遺志だったのでしょうか。

谷崎潤一郎の墓から一段下がった所に5基の墓が並びます。中央左奥に枝垂れ桜が薄っすらと見えるので、それを元に位置関係を把握してください。一番手前が内藤湖南(1866-1934、京大教授、東洋史学者)の墓で、墓石は「湖南内藤」となっている。手前から二番目が濱田青陵(1881-1938、考古学者・京都帝国大学総長・名誉教授)の墓か?。墓名は別名だが、脇の石板に「濱田家先祖代々之霊位」とあります。奥から二つ目が九鬼周造(1888-1941、京都帝国大学教授・哲学者)の墓。

 さらに哲学の道を  



法然院からまた哲学の道に戻る。これは「洗心橋」です。
疏水分線「哲学の道」の桜並木の保全管理は京都市水道局の疏水事務所が行っている。害虫の駆除,桜の木の根の養生,立ち枯れや倒木のおそれのあるものの植え替えなど行い景観保存に努めているそうです。

哲学の道は川の右岸(山側)にも散策路が設けられているが、左岸のようにつながっているわけではない。川向こうの右岸には、独創的な建物や、おしゃれで雰囲気の良いカフェ、食事処、お土産物屋などが点在し、気分転換にちょっと立ち寄ってみるのもよい。要所要所に小橋が架けられているので、簡単に川向こうに渡れます。

今日は平日のせいか、あまり日本語は耳に入ってこない。半分以上は海外からの人のようです。コロナ期にも歩いたが、当時と雰囲気が一変しています。外国人のいない京都は京都ではありません。

川向こうに紅い幟のはためく小さなお堂の「弥勒院」が見えてきました。幟には「幸せ地蔵尊」と染め抜かれている。子どもを抱いた木造のお地蔵さんで、「今では幸せ地蔵尊として近所の方から観光に来られた方まで多くの方にお参り頂き、「幸せになった」との嬉しいお便りをたくさん頂いております」(公式サイトより)そうです。
修験道山伏のお寺・聖護院の末寺で、戦後まもなく現地に引っ越してきたようです。

銀閣寺参道へ続く「銀閣寺橋」が見えてきました。大変な人混みのようです。

銀閣寺橋上から南側を撮る。実は、哲学の道はこの銀閣寺橋が北の終点と思っていました。ところがまだ続きがあるようです。
疏水の流れは、この橋の下で西方向へ大きくカーブし、それに沿って桜並木も続いている。

東西に走る今出川通り。疏水の水はこの通りに沿って西へ流れてゆく。

疏水の流れに沿って桜が植えられ散策路が設けられている。桜のトンネルを堪能できます。地図をみれば「白川疎水通り」となっており、この橋は「銀閣寺西橋」。

銀閣寺西橋を超えたこの辺りの、今出川通りを挟んだ反対側に「白沙村荘橋本関雪記念館」が建つ。哲学の道に桜の苗木を寄贈した日本画家で、ここに住居を構えていました。そのため哲学の道の桜は「関雪桜」と呼ばれています。

写真左側に柵が見える。ここには京都市水道局疏水事務所により、哲学の道で「関雪桜」として親しまれているソメイヨシノの小枝を採取し,まったく同じ遺伝子を持つ後継クローン苗木を増殖させ、その三本の苗木が柵の中に植樹されているのです。近年,樹木が弱っていることから、関雪桜を後世に残そうとした試みです。またその先に「関雪桜」の石碑が建つ。

散策路は左右両岸ともよく整備されている。廃止された市電の軌道敷石を転用し、整然とした石畳となっており歩きやすい。

西田橋の脇へやってきた。桜のスポットとして注目される場所です。川を見ると、上流から流れてきた花びらが堰き止められピンク色の帯となっています。現在はまだゴミが溜まっている程度にしか感じられませんが、満開期を過ぎ、散り桜が盛んな頃には、何十メートルにも連なり「花筏(はないかだ)」という現象を造り出すという。川面が桜の花びらで何十メートルにもわたり覆いつくされる圧巻の光景は人々の目をクギづけにするそうです。ここは儚くも散った花ビラを見下ろす桜の名所です。咲いてよし、散ってよし、桜はやはり日本人の心だ。

ここは今出川通りと白川通りが交差する「浄土寺橋」。ここに「哲学の道」の道しるべが置かれている。哲学の道はここから始まるのだろうか。疏水の流れはさらに北西に流れ、高野川、鴨川へと流れてゆく。


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