山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

春の宇治平等院とその周辺 3

2017年06月04日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年4月5日(水)桜の季節、宇治平等院とその周辺を散策

 宇治神社と早蕨(さわらび)古蹟 


興聖寺を後にし、朝霧橋の袂まで戻る。宇治神社の一の鳥居を潜り石畳の参道を進む。参道右脇には桐原水の手洗所が置かれている。階段を上ると正面に、「桐原殿」の扁額がかる黒ずんだ建物が建つ。これは拝殿だそうです。
宇治神社の歴史・祭神については宇治上神社を参照。元々同じ神社だったので創建などは同じです。

拝殿の背後にある二の鳥居を潜り階段を上ればすぐ本殿です。本殿は赤色の廻廊に囲まれ、正面には拝殿風の門が控える。本殿は、桧皮葺きの三間社流れ造り。鎌倉時代初期の建造で、国の重要文化財にも指定されている。殿内中央には平安中期の彩色木像「菟道稚郎子命坐像」(重要文化財)が安置されている。

神社によれば、木々に囲まれた境内の奥は「パワースポット」の地で、自然と古の時代の力が感じられる場所だそうです。その一隅に白いウサギ像が置かれ、「みかえり兎」の案内板が立つ。見返りながら祭神の莵道稚郎子命をこの地まで導いたという。宇治神社(宇治上神社でも)では、兎は神様のお使いなのです。見返らないで寝そべっている「寝そべり兎」の横には「伊勢神宮遥拝所」の立て札が。







宇治神社の脇には「さわらびの道」と名付けられた遊歩道が設けられ、宇治上神社、源氏物語ミュージアムへと続いている。さわらびの道を少し歩くと、満開の桜越しに宇治上神社の赤い鳥居が見えてきます。










宇治上神社の鳥居までの中ほど右手に、「早蕨之古蹟」の石碑が置かれている。「さわらびの道」の名はこの古蹟があることからきている。
「早蕨(さわらび)」とは、芽を出したばかりのワラビのことですが、源氏物語の宇治十帖(第四帖)「早蕨」の中で
”この春はたれにか見せむ亡き人の かたみにつめる峰の早蕨”
と歌われた。この辺りにワラビが沢山芽を出していたのでしょうか、宇治十帖「早蕨」の地とされたようです。

 宇治上神社(世界遺産)  


宇治上神社の赤い鳥居から、真っ直ぐな参道が拝殿まで続く。世界遺産のせいか宇治神社と比べ、やや厳粛な雰囲気が漂う。広くない境内ですが、中は自由に歩けます。

創建について『日本書紀』は、以下のように記している。第15代応神天皇は莵道稚郎子(うじのわきらいつこ)を皇太子とし、皇位を継がせようとした。しかし博士王仁(わに)から儒教の思想を受けられ、長男相続説をとっておられた莵道稚郎子は、父・応神天皇が崩御すると異母兄・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位に即かれるよう薦める。しかし兄も辞退し、互いに皇位の譲り合いが続き、三年間の皇位空白期間が生じた。菟道稚郎子は、父の離宮(桐原日桁宮:きりはらひけたのみや)でもあったこの宇治川沿いの地を宮居とし隠棲します。最後は「自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」と入水して自害し、皇位を兄に継がせた(『古事記』では単に夭折となっている)。仁徳天皇の誕生です。皇位を継承した仁徳天皇は、父・応神天皇の離宮跡であり菟道稚郎子の宮居跡だったこの地に菟道稚郎子の霊を祀った。これが宇治上神社の始まりという。

その後、永承7年(1052)藤原頼通が「平等院」を創建するとその鎮守社となる。治暦3年(1067)には後冷泉天皇の平等院行幸に際し「離宮明神」の神位を授かる。だから明治維新前までは、宇治神社と宇治上神社は二社一体の「宇治離宮明神(八幡宮)」と呼ばれ、現在の宇治上神社は「離宮上社」、宇治神社は「離宮下社」と称されていた。ところが明治16年(1883)、上社は「宇治上神社」下社は「宇治神社」に分離され、それぞれ独立した。(その理由を探したが・・・??)

1994年(平成6年)12月、宇治上神社は平等院とともに「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録された。宇治上神社だけとなったのは、本殿が現存する日本最古の神社建築だからということらしい。

境内に入ると、まず正面に拝殿に対する。切妻造りの屋根に、正面に向拝をもつ。中央に扉をもち、その左右に蔀戸を用い、高欄をもった縁をめぐらした寝殿造風の造り。鎌倉時代前期の建物で、国宝に指定されています。

拝殿前の正面左右に円錐型の「清め砂」が盛られている。説明板によれば、八朔祭(9月1日)に氏子さんによって奉納され、境内のお清め用の砂として1年間盛られ続けられる。お正月、祭礼など大切な日に、境内に撒き散らしお清めするという。自宅のお清め用に欲しい方は、授与所で分けていただける。
拝殿裏手の階段上に本殿(国宝)がある。見たところ、普通の神社本殿の外形とはやや異なっている。本殿は、一間社流造りの三殿が並ぶ。その三棟の内殿を一つの覆い屋で覆っている。そのため本殿自体を目にすることができない。本殿は平安時代後期の1060年頃の建立で、現存する日本最古の神社建築。覆い屋の正面には「正一位離宮大神」の扁額が掲げられている。
祭神は、応神天皇とその皇子・菟道稚郎子、兄の仁徳天皇の三神(宇治神社も同じ)。

境内には、宇治七名水の中で現在でもただ一つ湧き続けているという「桐原水」の井戸がある。注連縄が張られた覆い屋で覆われ、一段下がった所に湧き水がでている。ただし「飲用しないで下さい」の注意書きが貼られています。なお「桐原」というのは、このあたりの地名だそうです。
傍にケヤキの大樹が。高さ27m、推定樹齢300年、宇治市名木百選に選ばれているが、かなり痛々しい。

 総角古蹟と大吉山(仏徳山)展望台  



宇治上神社を出て、さわらびの道に戻る。この辺り、神社の古い板塀、緑に囲まれた静かな環境、何となく「源氏物語」の空気をちょっぴり味わわせてくれる(といっても、源氏物語をよく知らないのだが・・・)。
宇治上神社から100mほど歩くと与謝野晶子の歌碑が置かれている。歌碑の横には椿の木が植樹されている。その名も「ヒカルゲンジ(光源氏)」。
与謝野晶子歌碑の背後に、大吉山(仏徳山)展望台へ登る坂道がある。その登り口に「総角之古蹟」の石碑が置かれています。
「総角(あげまき)」は、源氏物語宇治十帖の第三帖にあたる。その中で、光源氏の子・薫君が八宮の一周忌法要に事寄せて大君への想いを詠んだ「総角に 長き契りを結びこめ おなじ所に よりもあはなむ」の和歌からきている。
「総角(あげまき)結び」とは古代の髪型の一種で、伸びた髪を左右二つに分け耳の上で結ぶやり方。なので歌の意味は「あなたが縒り結んでいる総角結びのように、あなたと私が長く寄り添えるようになりたいものだ」そうです。
源氏物語に登場する八宮の山荘は平等院の向い岸ということなので、この辺りが想定され昭和45年に石碑が建てられた。

これから大吉山(仏徳山)展望台へ登り、宇治市内を展望してみます。さわらびの道の与謝野晶子歌碑の後ろに登り口がある。標識が立っているので間違うことはない。

ゆるやかな坂道が続く。山道といえ道幅は広く、車一台は通れるほどあります。展望台は仏徳山(1318m)の中腹にあるのでそれ程高くないのだが、やたら折れ曲がっている。数えたら九曲がりありました。そのため道は傾斜が緩く、山登りというほどではない。その分、距離は長くなる。約20分ほどで展望台に到着。

展望台に着くと、数人の女子高生が楽器演奏で歓迎(?)してくれました。宇治市内を見下ろしながら思い切り音を出せるので、練習には良い場所ですね。楽器を抱えて登ってくるのは大変でしょうが。
ここは展望台となっているが、仏徳山(1318m)へ登る途中の休憩所として設置されたものです。

宇治市内が一望でき、平等院、宇治公園も見下ろせる。

 宇治市源氏物語ミュージアム  



大吉山(仏徳山)展望台を降り、さわらびの道へ。与謝野晶子歌碑とは反対側へ100mほどで宇治市源氏物語ミュージアムの建物が見えてきます。
  開館時間:9時~17時(入館は16時30分まで)
  入館料:大人500円 / 小・中学生250円
  休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
源氏物語に関する多くの文献、史料、小説などのが収集・保管・展示されている。宇治特産のお茶を味わえる喫茶コーナーなども。また館外の源氏の小径や中庭には、源氏物語にちなむ四季折々の草花が植えられている。
館内は、企画展示室と映像室以外は写真撮影できます。館内に入ると、まずパネルで宇治市の歴史・環境などを紹介し、源氏物語や宇治十帖の解説がなされている。丁寧に読んでいたらいくら時間があっても足りない。源氏物語や王朝文化に特に興味があれば別なのだが・・・。

「~千年の時空を超えて~源氏物語の世界を実体験 」をモチーフに、平成10年(1998)「源氏物語 宇治十帖」ゆかりの地である宇治に開館。常設展示室には、源氏物語の世界を実体験できるように、光源氏の住まいで寝殿造の「六条院」原寸大模型が設置されている。牛車なども展示され、王朝文化の一端に触れることができます。

最後は映像室で、「浮舟」を題材にした20分ほどの映画を見て帰りました。映画は、正直退屈でした(スミマセン)。途中退場できず、終わるのが待ち遠しかった(スミマセン)。ある程度「源氏物語 宇治十帖」のストーリーを知っていれば理解できたでしょうが、少しも無いので・・・。源氏物語と宇治十帖についての、素人向け超易しい解説を期待していたのですが。なにやら宇治川を連想さす薄暗い幻想的な世界の中で、王朝貴族の男女の織り成す愛憎を主としたイメージ映像でした。映像を見る前に、館内でじっくり源氏物語の世界を勉強すればよかったのですが、なにぶん先を急いでいたもので・・・。ただ、製作監督は私でも知っていた有名な方でした。そして原作は瀬戸内寂聴と。

 橋寺放生院(はしでらほうじょういん)  


源氏物語ミュージアムを出て、来た道とは逆方向の坂道を下る。広い大通りに出ると、前方に宇治橋と京阪宇治駅が見えてくる。宇治橋の袂を左に入ると、左側に「橋寺放生院」の石柱が建ち山門が現れる。山門は通れないが、脇の戸口から入れます。境内の見学は自由にできる。
橋寺放生院(ほうじょういん)は、聖徳太子の発願で推古12年(604)に秦河勝(はたのかわかつ)が創建したと伝えられている。宇治橋の守り寺で、宇治橋を管理してきたことから「橋寺」と呼ばれてきた。弘安9年(1286)、西大寺の僧・叡尊によって宇治橋が再建された時、中州に十三重石塔を建てるとともにこの寺で大放生会を営んだ。そこから「放生院」とも呼ばれるようになる。
真言律宗の寺で、本尊は鎌倉中期の木造地蔵菩薩立像(本堂内、重要文化財)。本堂拝観は300円。

この寺が有名なのは「宇治橋断碑」(うじばしだんぴ、重要文化財)という石碑が残されていること。これは宇治橋架橋の由来を記した石碑で、宇治橋は元興寺の僧道登によって大化2年(646年)に架けられたと刻まれている。
寛政3年(1791)に橋寺放生院の境内で発見されたのは石碑の上部三分の一だけ。残りの碑身は見つからなかったが、『帝王編年記』(14世紀後半)に碑の全文が収録されており、それに基づいて補刻し欠損部を復元し寛政5年(1793年)に完成したもの。
「宇治橋断碑」は、階段を登った直ぐ左に、鍵のかけられたお堂の中に納められている。本堂前でベルを押し、見学を申し込む。”写真撮れますか?”と聞いたら”国の重要文化財なのでダメです”の返事。それならお堂を開けてもらうまでもないので断った。お堂正面の僅かな隙間から見えたので、覗き撮り。

 菟道稚郎子命墓と浮舟宮跡  


宇治上神社と宇治神社の祭神:菟道稚郎子命の墓が近くにある。京阪宇治駅の後方、むしろ一つ手前の三室戸駅に近い宇治川沿いです。歩いても行けるので、宇治駅の横を通り三室戸駅の方へ進むと、古墳風のこんもりした森が現れる。近くまで一戸建て住宅が迫っています。

松並木の整然とした参道が設けられ、れっきとした宮内庁管理の墓です。参道突き当たりの柵の先に見える石碑が源氏物語の「浮舟宮跡」。その先はすぐ宇治川です。

「応神天皇皇子 菟道稚郎子尊宇治墓」の石柱が立つ。

これだけ立派な莵道稚郎子墓は何時造られたのでしょうか?。明治時代の中頃なのです。
菟道稚郎子は、父・応神天皇から次の天皇にと約束されていたが、異母兄・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に後を継がすため自害する(宇治上神社の項を参照)。仁徳天皇の誕生です。『日本書紀』は、莵道稚郎子は「莵道の山の上」に葬られた、と記す。この記述だけが唯一の拠り所。
そこで江戸時代の享保18年(1733)儒学者・並河五一郎が、宇治川東岸の興聖寺の背後にある朝日山の山頂(標高124m)に「莵道稚郎皇子之墓」の墓碑を建てたのです。高さ1mほどの墓碑が今でも残されているそうです。

ところが明治22年(1889)、当時の宮内省はここ宇治川河畔にあった小さな円丘を菟道稚郎子の墓に治定する。「莵道の山の上」という日本書紀の記述とは相反した川岸だが、どうしてこの場所に治定したのか根拠不明のまま。周辺一帯を買収し土を盛り樹木を植え、長さ80mの前方後円墳に整形し現在の形にしたのです。以後現在まで宮内庁の管理下となっている。
菟道稚郎子の生きていた時代は、前方後円墳の全盛期。兄・仁徳天皇陵(堺市の大仙陵古墳、墳丘全長:486m)は、我が国の前方後円墳で最大規模。父・応神天皇陵(大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳、墳丘長425m)は二番目の大きさです。父や兄とは比べようのない大きさの前方後円墳だが、鳥居、垣根、植込みなどからなる正面拝所は天皇陵にも勝るとも劣らない立派な構えをしている。しかしこれは「陵墓」でなく、単なる「墓」です。「陵」は天皇だけに使われる。莵道稚郎子は天皇にならなかった(成れなかった?)。
菟道稚郎子の墓は、明治になって新しく造成された前方後円墳です。菟道稚郎子墓に限らず、全国にある多くの
天皇陵は、天皇制国家を目指す明治政府によって大修復され、何人も立ち入れぬ聖域となってしまった。世界遺産登録を目指す仁徳天皇陵とて例外ではない。(ココを参照)


「源氏物語・宇治十帖」にちなみ、古来より「宇治十帖の古跡」が設けられてきた。その中の一つ「浮舟古跡」は現在、宇治川とはかなり離れた山腹の三室戸寺境内とされている。そこに至る経緯は複雑なようだ。

莵道稚郎子墓の横に陪塚がある。その辺りにかって「浮舟宮」と呼ばれた古社があった。榎の大木が茂り「浮舟の森」とも呼ばれ、「宇治十帖」の悲劇のヒロイン浮舟を祀った社として、里人に親しまれていたという。しかし江戸時代中頃、「浮舟宮」は廃絶する。寛永年間 (1741-1744)に、その跡地に三室戸寺によって「浮舟之古蹟之碑」が建てられた。そして浮舟宮のご本尊「浮舟観音」は三室戸寺に移され、現在も浮舟念持仏として伝えられているという。明治になり、「浮舟宮」の跡地は莵道稚郎子墓造成のため宮内省により買収され、石碑も近年の開発で居り場が無くなり三室戸寺に移設され、現在にいたっている。

宇治十帖「浮舟」の由来は、浮舟が匂宮に連れだされ、小舟に乗って宇治川の対岸に渡るときに詠んだ歌、
「橘の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ」
に因む。宇治川河畔こそ「浮舟」に相応しい場所です。
平成27年(2015)有志によって、莵道稚郎子墓正面拝所脇に高さ約3.5mの「浮舟宮跡」の石碑が建立された。横には記念の枝垂れ桜も植えられた。これはあくまで浮舟宮のあった跡ということで、「浮舟古跡」ではありません。しかし何時の日か、この場所が実質「浮舟古跡」として人々に親しまれることになる思います。


詳しくはホームページ
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春の宇治平等院とその周辺 2

2017年05月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年4月5日(水)桜の季節、宇治平等院とその周辺を散策

 宇治公園(橘橋・橘島)  



11時、平等院を出てすぐ横の宇治川堤に。これから宇治川を中心とした宇治公園巡りに入ります。宇治公園は桜の名所として知られている。5年ほど前に来た時は、ちょうど「桜祭り」開催中だったのか、満開の桜の下に大勢の人と露天で大混雑していました。その時の強烈なイメージが残っていたので、今日は少し寂しく感じました。満開までには少し早すぎたようです。
橘橋を渡り、宇治川の中洲へ入る。

橘橋から宇治川上流を眺める。宇治川の中洲には「橘島」と「塔の島」という二つの島が連なっている。二つの島を総称して「中の島」と呼んでいます。手前に見えているのが橘島。
この周辺は山、川と美しい自然に囲まれた風光明媚な地。平安の昔より皇族・貴族に愛され別荘などが置かれた。川の両岸には、平等院を初めとした名勝・史跡が多く残されている。現在でも公園として整備され、多くの観光客や市民の憩いの場として親しまれています。ここは、京都府内で唯一つ「重要文化的景観」に指定されている土地なのです。

喜撰橋をこえた辺りから幅も広くなり、左側には桜の木も残されている。島の真ん中に、竹垣で囲われた「宇治川しだれ桜」が綺麗に咲いていた。公園内ではこれが一番目立つ桜でした。

 宇治公園(塔の島)  



橘島から、短い中の島橋を渡り塔の島へ入る。中の島橋の袂に鵜飼小屋がある。小屋の中には7~8頭の鵜が休息していました。関西では嵐山での鵜飼が知られているが、ここ宇治川の鵜飼も有名です。二名の女性の鵜匠さんがおり、女性の鵜匠は珍しいということで、時々テレビに出演されている。

平安時代から行われていたようですが、平安時代後期になると仏教の影響から殺生が戒められるようになり、太政官符によって宇治川の鵜飼も全面的に禁止された。この島に建つ十三重石塔も、その時に魚霊を供養したものだそうです。現在の鵜飼は大正15年に再興された。6月中旬から9月下旬にかけて行われ夏の風物詩となっている。5、6年前の春に来た時は「桜祭り」だったせいか、特別に鵜飼をやっており、川岸からすぐ近くでで見れました。風折烏帽子(かざおれえぼし、かがり火の火の粉を防ぐ)にワラの腰みの姿(水しぶきを防ぐ)の伝統的な装束を身にまとった女鵜匠さんが巧みに鵜を操り、小魚をくわえて浮き上がる鵜に、両岸の見物客から大きな拍手がおこっていたものです。

鵜飼小屋から南へ進むと、赤い喜撰橋近くに十三重石塔が建っている。
「塔の島にそびえる、高さ15メートルの石塔。これは、石塔としてはわが国最大で、重要文化財に指定されています。1286年に西大寺の僧・叡尊によって建立されましたが、そのいきさつが現代に伝わっています。叡尊は、まず朝廷の命により宇治橋の修復をおこないました。同時に、そのころ宇治川一帯でおこなわれていた網代漁を禁止するとともに、上流の中州に網代の木具や漁具を埋め、その上にこの石塔を建立して、魚霊の供養と宇治橋の安全を祈ります。その後、石塔は、洪水や地震でたびたび倒壊。現在のものは明治時代末期に発掘され、修造されたものです。」(京都府<宇治公園>のページより)
鎌倉時代後期の弘安9年(1286)に西大寺の僧・叡尊律師が宇治橋新規架け替えの際、「宇治橋が水害に弱いのは、乱獲された魚類の祟りから」と考え、魚供養の為に建立されたと伝えられている。

現在、公園周辺の宇治川では多くの重機が投入され、改修工事の真っ最中。
京都府<宇治公園>のページには「「国土交通省においては、塔の島付近の宇治川は、琵琶湖から淀川につながる治水上重要な区間であり、当地区の流下能力を増大することは緊急かつ重要な課題です。
塔の島地区は優れた景観が形成されていることを踏まえ、安全に洪水を流下させるとともに、景観、自然環境の保全などにも配慮した河川改修が進められています」とある。増水対策のために川底の掘り下げを行っているようです。この地域の特殊性から、高い堤防を築くということはできない。二つの世界遺産があり、景観が損なわれてしまうのです。ならば河底を深くするしかないか・・・。

 宇治公園(喜撰橋と「あじろぎの道」)  



十三重石塔の傍に、塔の島から平等院のある宇治川西岸へ渡る喜撰橋(きせんばし)がある。中の島(橘島と塔の島)と宇治川西岸とは橘橋と喜撰橋の二つの橋で回遊することができる。
喜撰橋上から下流を眺める。島と宇治川西岸との間の川は「塔の川」と呼ばれているようです。本流と比べて流れも弱く穏やかで、乗合の屋形舟が行き来しています。夏の鵜飼もこの辺りで行われるのでしょうか。
喜撰橋畔からでている乗合屋形舟は(600円、20分位)の遊覧だそうです。

この喜撰橋を渡って宇治川西岸へ。川岸に沿って桜と松の並ぶ散策路が設けられている。平等院傍まで続き「あじろぎの道」と名付けられている。お茶屋、料理屋さんが並んでいます。
「あじろぎの道」の中ほどに宇治市観光センターがあります。やや厳めしい建物で、周辺と違和感を感じさせている。和風造りなら周囲の景観とマッチしただろうにと思います。内部は広くゆったりとしている。周辺や宇治市の観光案内パンフも豊富に置かれている。宇治茶の無料サービスもあるので休憩するのに丁度良い。もちろんトイレもあります。

市営茶室「対鳳庵(たいほうあん)」が併設されている。「対鳳庵」の名称は、平等院の鳳凰堂に相対していることからきている。500円で、鳳凰堂を眺めながら本格的な宇治抹茶と季節のお菓子をいただけるそうです。開席時間は10時~16時まで。

観光センター前から橘島を眺める、桜は8分咲きか

観光センター前から上流側を眺める。赤い橋は、左が中の島橋で右が喜撰橋

 朝霧橋から恵心院へ  



塔の島、橘島へと戻り朝霧橋で、宇治上神社のある宇治川東岸へ渡ります。こちらは宇治川の本流で、流れが速く波打っている。
宇治川の源流は琵琶湖で、滋賀県では瀬田川と呼ばれ、京都府に入る辺りから宇治川と名を変えます。そして宇治川は木津川や桂川とも合流し淀川の大河となって大阪湾へと注ぐ。緑の山々と川の織り成す美しい風景ですが、時には川の氾濫で度々被害をもたらしてきた。現在、それを防ぐための宇治川改修工事が行われています。またここから上流側すぐの所に洪水調整のための天ヶ瀬ダム(高さ73m、長さ254m)が造られている。そのダム湖は鳥が羽を広げたような形をしていることから「鳳凰湖(ほうおうこ)」と呼ばれているとか(こじつけ?)。美しいドーム型アーチ式の天ヶ瀬ダム、鳳凰湖、天ヶ瀬吊り橋まで足を伸ばしたかったが、時間の関係で今回は断念。



朝霧橋を降り、上流側へ向かう右の道を進むと恵心院・興聖寺へ行ける。左の道は橋寺放生院から宇治駅へ。橋を降り正面の赤鳥居を潜って上って行けばすぐ宇治神社・宇治上神社です。





朝霧橋のたもとに、橋を背にして置かれているのが「宇治十帖モニュメント」。源氏物語「宇治十帖」の中で、ヒロインの浮舟(うきふね)と匂宮(におうのみや)が寄り添い小舟で宇治川に漕ぎ出す有名な情景をモチーフとしているそうです(といっても、私は源氏物語をよく知らないのですが・・・)。
ここはちょっとして休憩場所にもなっています。

朝霧橋のたもとから50mほど歩けば恵心院(えしんいん)の案内がある。緩やかな坂道を登って行けばすぐ山門が見えてきます。

由緒について寺伝は次のように伝えている。弘仁12年(821)、弘法大師(空海)により開創され、唐の青龍寺に似ているところから龍泉寺と称したという。その後平安時代中期の寛弘年間に、比叡山の横川(よかわ)にある恵心院という道場で学んでいた源信によって説法道場として再興された。そこから「朝日山恵心院」と改名された。また源信も「横川僧都」とも「恵心僧都」とも呼ばれたそうです。源氏物語「宇治十帖」の中で、宇治川に入水した浮舟を助けた「横川の僧都」は源信がモデルとか。

その後、藤原氏さらには豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、伽藍の整備が行われた。近世後期、境内には本堂、客殿、庫裏、薬師堂、鐘楼、中門、表門などがあったというが、度々の戦火などで現在は、表門、本堂、庫裏が残るのみ。
境内拝観無料、広くない境内ですがあちこちに多様な花が植えられている。住職の手植えだそうで、その素人っぽさが親しみを抱かせます。今は桜が目立ちますが、四季折々のお花が楽しめる「花の寺」だそうです。まだ知名度が低いのか、私以外に誰もいてないのでゆっくり鑑賞できるが、ちょっと心細い・・・。

 興聖寺(こうしょうじ)  



恵心院から元の宇治側沿いの道に戻る。上流側へ150mほど歩くと、また赤い橋が現れる。「観流橋」です。観流橋の左奥には宇治発電所がある。琵琶湖の水を、瀬田川を経ずに導水路で直接水を引き、発電所へ引いている。観流橋は、発電所の水を宇治川へ流し込む水路に架かる橋です。
観流橋下を見れば、現在水量も少なく穏やかだが、発電所からの放水時には増水し、大変危険なようです。警告の立て札が立てられていました。

観流橋を渡るとすぐ興聖寺の総門が現れる。総門脇には「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」と刻んだ石柱が建てられている。
曹洞宗の宗祖・道元が宋から帰国し建仁寺に身を寄せていたが、その後天福元年(1233年)京都深草に興聖寺を開創する。しかし深草の興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、道元は越前に下向し永平寺を創建する。その後興聖寺は数代続くが、結局応仁の乱など兵火を受け廃絶してしまう。
慶安元年(1648)、道元開創の興聖寺の廃絶を惜しみ、淀城主であった永井尚政が宇治七名園の一つの朝日茶園であった現在の場所に再興したのが今ある興聖寺です。伏見桃山城の遺構を移築して諸堂を整備し、また尚政は茶人でもあったので閑寂な境内をつくり三つの茶亭をつくったと伝えられています。

総門を潜ると、緩やかな坂道が続く。この坂道の参道が「琴坂」と呼ばれ、興聖寺を代表する観光スポットになっている。坂の両側にある小さな水路の水音が琴の音に似ていることから「琴坂(ことざか)」と呼ばれるようになった。琴坂はもみじの名所としても知られ、宇治十二景の一つにも数えられています。
琴坂を登りきると、お寺には珍しい門に達する。龍宮造りの門にお堂が乗っかっている様で、興聖寺境内図には「山門(竜宮門)」となっています。

竜宮門の奥から琴坂を眺めます。秋の紅葉時には、約200mの参道が鮮やかな紅葉のトンネルになるそうです。想像するだけですが、真っ赤に染まったトンネルは、まさに絶景といえそうですね。

曹洞宗永平寺派のお寺で、日本曹洞五箇禅林の一つ。本尊は釈迦三尊像。
伏見桃山城の遺構を移築した法堂(はっとう:本堂)には、鴬張りの廊下と、天井には伏見城が落城した際の血染めの板を使った天井が張られているという。
本堂拝観には300円の志納金が必要でが、境内の見学は自由になっている。本堂前の庭園には、宇治川中州の塔の島に建つ十三重石塔再建時に、破損のため使用されなかった旧相輪と九重目の笠石が置かれているそうです(どれかナ?)


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春の宇治平等院とその周辺 1

2017年05月21日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年4月5日(水)
京都と奈良の間に位置する宇治の地は、風光明媚な地として知られ、平安時代から皇族・貴族の別荘地だった。宇治といえばお茶と平等院を思い浮かべるが、平等院のある宇治川周辺は桜の名所として知られている。5年ほど前に一度訪れたことがある。宇治川の中に浮かぶ宇治公園中の島を中心に、沢山の露店が並び大勢の見物客で賑わっていました。それを期待して訪れたのでしたが・・・。
源氏物語で有名な地域ですが、何といっても観光の中心は宇治平等院。中に入るのは今回が初めて。平等院をじっくり見学し、時間があるだけ周辺の観光スポットを廻るつもりです。中の島、平等院を含む周辺は、抹茶を味わい茶味ソフトクリームを舐めながら、一日ゆっくりと散策するのに丁度良い範囲。特に春の桜、秋の紅葉シーズンが最適。
今回はタイミングを少し外し、桜の満開には少し早すぎたようです。宇治の桜は京都より少し遅めだとか。

 宇治橋と紫式部像  


京阪電車の中書島駅で京阪宇治線に乗り換え、約15分程で終点の宇治駅に着く。8時半です。駅舎を出るとすぐ横が宇治川で、目の前に宇治橋が飛び込んでくる。まず宇治川を渡り、平等院を目指します。

この宇治川に架かる宇治橋の始まりについて、橋の東詰にある橋寺放生院の「宇治橋断碑」に刻まれている。それによると、千三百年以上昔の大化2年(646)、奈良元興寺の僧道登(どうと)によって初めて架けられたと記されている。わが国最古級の橋で、「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に日本三古橋の一つに数えられる。
古今和歌集や源氏物語などの文学作品に、絵画や工芸品といった美術作品に描かれ、古くから景勝の地・宇治の象徴として親しまれてきた。その長い歴史のなかで洪水や地震などの被害、さらに戦乱に巻き込まれてきたが、そのつど架け直されてきた。現在の橋は1996年3月に架け替えられたもので、長さは155.4m、幅25m。

橋の中ほどを過ぎた辺りに、上流側に出っ張った場所が設けられている。まるで宇治川、中の島、平等院などを見渡す観望所のようだ。実際は、橋の守り神である橋姫を祀る「三の間」と呼ばれる所だそうです。豊臣秀吉が茶の湯に使う水をここで汲ませたとい逸話があり、現在でも「宇治の茶まつり」で「名水汲み上げの儀」が行われる場所です。
宇治橋を渡りきった西詰に小さな広場が設けられ、巻物を手にする紫式部像と幾つかの石碑が置かれている。「夢の浮橋広場」と呼ばれ、平成16年2月に整備されたもの。
紫式部が書き上げた「源氏物語」は全五十四帖(巻)から成るが、最後の十帖がここ宇治を舞台にしている。「橋姫」ではじまり「夢浮橋」で終わり、「宇治十帖(うじじゅうじょう)」とも呼ばれている。十帖には「橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋」の名が付けられ、宇治川周辺のそれぞれの舞台だと推定される箇所に石碑が建てられている。ここは最終章「夢浮橋」の推定地で、「夢浮橋之古蹟」の石柱が建つ。宇治川と宇治橋を背にしたこの場所こそ「宇治十帖」を象徴する場所に相応しいのかもしれない。

「宇治十帖」は「源氏物語」の中でもやや異質なので紫式部とは別の作者によるもの、という見解もあるようですが・・・。

 橋姫神社(はしひめじんじゃ)と県(あがた)神社  


夢の浮橋広場から二本の道が分岐している。一本は平等院へ続く参道で、石鳥居のあるもう一本が「あがた通り」と呼ばれる県神社への参道です。
「あがた通り」を150mほど歩けば左側にひっそりと佇む小さな神社が見える。幟がなびいていなければ通り過ぎるところだった。民家の庭のような所に、鳥居と小さな祠が置かれているだけです。
Wikipediaには「646年(大化2年)宇治橋を架けられた際に、上流の櫻谷(桜谷)と呼ばれた地に祀られていた瀬織津媛を祀ったのが始まりとある。当初は橋の守護と管理を任されていた放生院常光寺(通称「橋寺」)敷地内で橋の中ほどに張り出して造営された「三の間」に祀られたが、その後宇治橋の西詰に祀られていた。1870年(明治3年)の洪水による流出後、1906年(明治39年)10月現在の場所に移された」と記されている。
宇治橋の守り神として瀬織津比咩(せおりつひめ)を祀ったのに始まり、いつの頃か橋姫とされたようです。

「あがた通り」の参道を300mほど進むと三叉路に突き当たる。その左角が県(あがた)神社です。
創建の詳しいことは不明のようですが、説明板によれば、古く大和政権の時代に統治領域として「県(あがた)」が置かれ、その鎮守の神社として始まったという。平安時代後期に藤原頼道が平等院を建立する時、その鎮守神としたとされる。江戸時代末までは神仏混交により三井寺(園城寺、大津市)の支配を受けたが、明治維新の神仏分離によって独立した。
1936年に建てられた拝殿。その奥に江戸時代に再建された本殿が鎮座する。
本殿に祀られている祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。縁結び、安産の神としてよく知られている。拝殿脇に華麗な枝垂れ桜が垂れている。名称は「木の花桜」だそうです。そして神社の社紋は”桜”とか。

県神社で有名なのは、宇治を代表する祭りで「暗夜の奇祭」といわれる「県祭り」。私は見たことないのでWikipediaの文を引用すると「宇治の平等院の南門から100mくらいのところにある県(あがた)神社の祭礼で、6月5日の深夜、明かりのない暗闇の中で、梵天(ぼんてん)渡御と呼ばれる儀式があり、町内の男集が、梵天と呼ばれる神輿を担ぐ。この神輿の通過する間は、家々も明かりを落として、それを迎えるため「暗闇の奇祭」と呼ばれている。かつては旧暦5月15日におこなわれ、沿道の家では男女雑魚寝してお渡りを待つので性的行事の祭りとして名高く「種貰い祭」ともいった。」
梵天渡御は本来、宇治神社御旅所→県神社(神移し)→宇治神社へ渡御→県神社(還幸祭)のルートで行われていたが、近年は宇治神社と県神社で別々に分裂開催されているそうだ。宇治神社と県神社の対立があるとWikipediaは記している。

 平等院表参道  



県神社を後にし、元の夢浮橋広場へ引き返す。今度は平等院表参道へ入る。早朝なのか、まだ人通りは少なく静かな参道です。参道の両側には室町期より続く「宇治茶」の老舗が軒を並べている。体験工房やお茶を使ったスイーツのお店も並ぶ。
中ほどには、創業天正年間・将軍家御用御茶師という歴史と伝統を持つ老舗の「三星園上林三入本店」がある。なぜかスターバックスの店までも、場違いな感がします。
平等院表参道を150mほど歩くと、分岐道になる。左へ進むと桜並木の宇治川沿いの土手に出る。右の道を進むと平等院正門へ。

 平等院:阿弥陀堂(鳳凰堂)の内部拝観  


表門があり、横に拝観受付所があります。ここで拝観料を支払い、中に入る。
拝観料金:庭園 +鳳翔館 (平等院ミュージアム) 大人 600円 / 中高生 400円 / 小学生 300円
年中無休,開門 午前8:30 閉門 午後5:30 ※受付終了 午後5:15

阿弥陀堂(鳳凰堂)の内部拝観をしたい場合、この拝観受付所でその方法を教えてくれます。
平等院についてWikipediaに、次のように書かれている。
「京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。」

平等院創建時の平安時代後期は、末法思想が広がり始める。疫病や天災が続き人々の不安は深まり「末法の世」として悲観された。この不安から逃れるための厭世的な考え方から現世での救済から来世での救済を求めていった。そして極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行する。皇族・貴族とて例外でなく、藤原頼通も阿弥陀如来を本尊とし西方極楽浄土を想定した仏堂を創った。
創建期には、阿弥陀堂の他に金堂、講堂、法華堂、宝蔵などの多く堂塔が建ち並んでいたという。ただ、その後の戦乱・度重なる災害により堂塔は廃絶した。特に南北朝期の戦いで楠正成が平等院に火を放ち、多くの堂宇が喪失してしまう。そうしたなか、阿弥陀堂と阿弥陀如来像のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続しているという。
現在、平等院は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院で、平等院塔頭として浄土宗の浄土院と天台宗系の最勝院があり、両寺が共同で管理するという珍しい方式をとっている。これは江戸時代に寺社奉行が取り決めたものだそうです。現在、「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されいます。

表門を入ると目の前に阿弥陀堂(鳳凰堂)の建物が飛び込んでくる。ただし東向きの阿弥陀堂に対して北側の位置なので北翼廊が見えるだけ。
写真右脇にある建物が内部拝観の受付で、ここで別途料金300円を支払えば、○時○分と書かれた内部拝観券をくれる。即ち予約券です。阿弥陀堂内部は狭いので人数制限が必要です。そのため20分間隔で50名ほどを入れているようです。私の券は「10時10分」とある。現在9時半前なので、50分待ち。境内を一通り見学してくるのに丁度よい時間です。
内部拝観の受付は、通年 受付:9:10~16:10(9:30より拝観開始、以後20分毎に1回50名様)
時期や時間帯によっては数時間待ちもあるようです。一度平等院の外へ出ても、この内部拝観券を持っていれば指定時間までは再入場できるそうだ。


予約時間になると、係員に先導されて反橋を渡り、北翼廊の下で履物を脱ぎ堂内へ入ります。阿弥陀堂内部を自由に動き回ることはできません。内部は一室だけで狭く、阿弥陀如来像の前に整列して係員の説明を聴きます。

入口上部の格子壁に丸窓が開いている。これは、池越しに阿弥陀堂を見たとき、丸窓から阿弥陀如来像の顔が拝めるようにとのこと。以前は、池の対岸(東岸)に鳳凰堂の阿弥陀如来像を礼拝するための「小御所」という建物が存在していたという。
(内部は撮影禁止なので、拝観受付所で頂いたパンフの写真を使いました)
女性の係員が、マイクを使わず大きな声でわかり易く説明されているのが印象的でした。
堂内中央の須弥壇上には、金色の丈六阿弥陀如来坐像が端坐している。平等院の本尊で、国宝です。平安時代最高の仏師・定朝の造仏の多くは戦乱などで失われたが、この阿弥陀如来坐像は定朝のものとして確証できる唯一の遺作と云われる。像高約2.5m、寄木造りで漆箔。両手で定印(じょういん)を結び伏目がちなのは、人々が救われるのを念じているのか、「世は末なり」と嘆かれているのか・・・。

長押(なげし)上の白壁には、雲に乗った小さな菩薩像が掛けられている。ヒノキの一木彫で40~80cmほどの大きさ。それらはいろいろな楽器(琴、琵琶、鼓、笛)を演奏したり舞を舞ったり、あるいは持物(蓮台、宝珠、天蓋)をとったり、合掌したり、印を結んだり、多種多様な姿をしている。極楽浄土の華やかな雰囲気をだすためでしょうか?。全部で52体あり、「雲中供養菩薩像」として全て国宝に指定されています。ここに掛けられている半分は実物だが、残り半数の26体はレプリカで、実物はミュージアム鳳翔館のほうに陳列されている。

阿弥陀如来像の頭上に吊られた天蓋(てんがい)も像とは別個に国宝に指定されている。四角形の天蓋と、その内部の円蓋の二つの天蓋を持つのは非常に珍しいそうです。木造で、精巧な透かし彫りと螺鈿で豪華に装飾されている。
内部の板壁や扉には九品来迎図が描かれ、これも国宝。ただし剥落や変色が著しく、よく分からない。

 平等院:阿弥陀堂(鳳凰堂)の外観  


阿弥陀堂は、阿字池(あじいけ)の中島に東を正面として建ち、中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊(中堂背後の渡り廊)の4棟からなる。建物全体が鳥が羽を広げた形に似ていることから、さらに中堂屋根に一対の鳳凰が取り付けられていることから、江戸時代の初め頃から「鳳凰堂」とも呼ばれるようになった。
中堂は二層のように見えるが、裳階(もこし)を付けた単層の建物。正面14.2m、側面11.8mで、本瓦葺きの入母屋造り。屋根の出が非常に大きい。その重みを軽減するため、創建時は本瓦でなく木の瓦だったという。

均整のとれた美しい姿を水面にも映し、人々に極楽浄土の世界を想像さすのに十分です。平成24年(2012年)からの屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理も終え、より鮮やかに美しく蘇っています。

中堂の屋根両端に一対の金銅製の鳳凰像が取り付けられている。時期は阿弥陀堂の創建と同時期であると考えられている。「頭部・胴部・翼・脚部の各部は別々に鋳造され、銅板製の風切羽と共に鋲で留められ組み立てられている。一部に鍍金が残されているが、現在は全体が銅錆で覆われている。円盤状の台座に立つ鳳凰像で、頭部には鶏冠・冠毛・肉垂が表現され、太い眉と鋭い嘴をもつ。首から胴体には魚鱗紋が表現され、頚部には宝珠の付いた首輪がはめられている。風切羽は多くが後補であるが、鋤彫により波並が表現されている」(Wikipediaより)。現在目にするのはレプリカで、実物(国宝)は平等院ミュージアム鳳翔館に展示されています。

美しい鳳凰堂の建物は、昭和26年(1951)より十円硬貨表面のデザインに使用され、よく知られている。そして
左側の鳳凰像は、平成16年(2004)11月1日より発行された壱万円札の裏面に使われている。壱万円札の鳳凰像は、今回調べて初めて知りました。このお札にあまり縁が無いのかナ!(-_-;)
北側より眺める。中堂の左右から回廊が伸び、北翼廊(右)、南翼廊(左)へつながっている。この両翼廊は二階建てだが、実用的な意味は無く全体的なバランスをとる単なる飾りだそうです。内部は何も無いそうです。
南側より眺める。鳳凰堂の前は阿字池(あじいけ)を中心とした庭園となっている。浄土式庭園と呼ばれ、大正11年(1922年)に史跡・名勝に指定されています。平成2年(1990年)からの発掘調査にもとづき、小石が敷き詰められた洲浜(すはま)が復原され、北翼廊へ渡る平橋や反橋や小島も整備された。
庭園といえ華美になりすぎず、あくまでメインの鳳凰堂を引き立たせるよう慎ましやかな構成となっています。
北翼廊の背後から眺める

 平等院(鳳翔館・観音堂・最勝院・浄土院など)  


阿字池南側の高台に梵鐘が吊るされている。平安時代を代表する梵鐘の1つで、全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施した他に例を見ない鐘。「姿、形の平等院」と謳われ、「音の三井寺」、「銘の神護寺」と共に「天下の三銘鐘」に数えられている。吊るされているのは複製で、実物(国宝)はミュージアム鳳翔館に展示されています。

梵鐘の吊るされた建物の奥に、一階建ての近代的な建物が見える。これが平等院ミュージアム鳳翔館。平成13年(2001年)にそれまでの「宝物館」に代わり新しく建てられた。梵鐘、鳳凰一対、雲中供養菩薩像(半分26体)の実物が展示されている。いずれも国宝です。平等院を訪れたら、鳳凰堂(中堂)内部とこの鳳翔館だけは外すことはできません。
入口は、浄土院前の階段を登っていく。そこは鳳翔館の地下1階で、主要なものは地下1階に展示されている。二階(実際は地上1階部分)に上がれば出口で、梵鐘堂に出る。
開館 9:00~閉館 17:00(16:45受付終了)。拝観料に含まれているので、別途入館料は必要ありません。

表門を入ったすぐ左にある建物が観音堂(重要文化財)。それまで本堂のあった跡に、本尊十一面観音立像を祀る観音堂が鎌倉時代の初めに建てられた。現在、十一面観音立像(重要文化財)は鳳翔館に移されている。
手前は、長く垂れ下がっていることから「砂ずり藤」と呼ばれる藤棚です。
平等院には塔頭寺院が二つあり、共同で平等院を管理している。その一つが天台宗のこの最勝院。本尊は不動明王。承応3年(1654)京都東洞院六角勝仙院(住心院)の僧が平等院に移り、その住庵を最勝院と呼んだことに始まるという。

最勝院境内の奥まった所に源頼政の墓があります。
源頼政は保元・平治の乱で武勲をあげ、平清盛から信頼され従三位の公卿にまで登りつめた。しかし平清盛と対立していた後白河法皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)が、奢る平家打倒の令旨を発すると源頼政も参画する。治承4年(1180)5月頼政は自邸を焼くと一族を率いて近江の園城寺(三井寺)に入り、以仁王と合流し挙兵する。園城寺から南都興福寺へ向かう途中、宇治平等院で休息していたところに平知盛軍の追撃を受ける。宇治橋の橋板を落として抵抗するが、平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう。頼政は平等院境内に籠って抵抗するが、最後は軍扇をひろげて辞世の句を詠み、西に向かい「南無阿弥陀仏」と唱え、そして腹を切って自害した。齢76歳。
観音堂の北側に、源頼政が軍扇をひろげ辞世の句を詠み自害したという場所がある。「扇の芝」と名付けられ、辞世の句 「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」の碑が建っている。毎年5月26日には「頼政忌」の法要が営まれるそうです。

もう一つの塔頭・浄土院は最勝院の南隣です。平等院修復のために明応年間(1492年 - 1501年)に開創された浄土宗の寺。
本堂に小さな観音さんが置かれている。案内板に寄れば、「江戸時代以来、現在の鳳翔館南西角あたりに旅の安全と無事を祈願し、浄土院子院として観音堂が建立されていました。本尊は、波型の台座に船に乗る俗に言う「救世船乗観音」」。旅、航海だけでなく、人生の長い旅路にも大変効験あらたかだそうです。


詳しくはホームページ
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信貴山・長護孫子寺 3

2017年04月27日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月29日(火)国宝「信貴山縁起絵巻」で有名な信貴山・長護孫子寺を訪れる

 多宝塔・鐘楼堂  


本堂から山の方へ少し登ると紅い塔が現れる。多宝塔です。中には入れないが,平安中期の僧・恵心僧都(えしんそうず)の作とされる大日如来が祀られているそうです。元禄2年(1689)の建立,明治15年(1882)に修復された。
多宝塔左の道(空鉢護法堂への参道)を入っていくと行者堂に突き当たる。7~8世紀に活躍した修験道の開祖とされる役行者(役小角)が祀られています。信貴山も修験道の霊場として関係深いことから祀られたものと思われます。

色鮮やかな多宝塔の前に,対照的に黒さびた鐘楼堂が建っている。一丈四方の袴腰の上に鐘を吊るした堂がある。梵鐘には“信貴四郎”の鐘銘が刻まれ,「鐘名信貴四郎は天下に第四番の名鐘なり」と謳われていたそうです。貞享4年(1687)の再建。

これから奥之院へ向かいます。多宝塔を挟み左と右に道が分かれている。左の道は,行者堂を経て信貴山の山頂にある空鉢護法堂への参道です。右の道が奥之院への参道で,入り口に「奥之院毘沙門天王道」の石碑が建つ。

 奥之院  



奥之院は情報では,多宝塔から約2キロ,30~40分かかるという。参道というより,なだらかな山道といった風です。15分位で大谷池が現れ,何人か釣りをされている。池を過ぎると緩やかな下り道になる。車一台通れるほどの道幅。やがて広い車道が見えてきた。
地図を見れば「フラワーロード」とある。それほど車は走っていないが,この広い車道に遭遇すれば”奥之院”という神秘的なイメージが壊れてしまいます。
「奥之院」といえば,高野山,室生寺を想起します。いずれも神秘的で厳粛な世界に入っていく,又は登っていくという雰囲気に満ちていた。ここの奥之院はどうだろう。広い車道を横切り,民家のある下界に下っていくのです。お寺から下山する感じです。道脇に何ヶ所か置かれていた丁石が,唯一参道らしい趣を感じさせてくれました。

午後1時半、40分かかり奥之院に着きました。寂れたお寺といった風。
山門を潜ると左側に瓦葺の本堂がある。石鳥居や石灯篭が・・・ここは神社か?。この地はわが国で最初に毘沙門天王が出現した霊地され,本堂に御本尊として祀られている。ただしここの毘沙門天さんは「汗かき毘沙門天王」と呼ばれれています。「聖徳太子が守屋討伐の時、毘沙門天王が阪部大臣に化現して先鋒を振われ、御尊像が汗をかかれていたと伝えられております。よって当山は聖徳太子開基の信貴山奥之院、毘沙門天出現最初の地とされ、ご本尊は「汗かきの毘沙門天王」と呼ばれ、御霊験きわめてあらたかです。」と説明されている。

本堂から奥へ進むと空き地があり,その中に「やけごめ」の石碑が建つ。ここの地中から焼き米が湧出するそうだ。その焼き米は,聖徳太子の物部守屋討伐時の兵糧米だとおっしゃっている。毘沙門天王に帰依しこの焼米を頂けばどんな病気も治るそうです。

この奥之院と朝護孫子寺とはどういう関係なのだろう?。朝護孫子寺の境内図には載っているが,朝護孫子寺発行のパンフ「毘沙門天王の総本山 信貴山朝護孫子寺」(p40)には一言も載っていない。山門脇の説明版には「当院は信貴山塔頭なりしも今は奥之院と称す」と意味深な表現をしている。信貴山朝護孫子寺傘下の一寺院なのか,独立寺院なのか判然としない。建物の修理・再建のための寄付金を募集していることから独立しているようにみえるが・・・。

フラワーロードからの眺め。奈良盆地が一望できます。

 信貴山の山頂へ(信貴山城址)  



奥之院から多宝塔まで引き返し、今度は左の道に入り信貴山の山頂にある信貴山城址と空鉢護法堂を目指します。
約700mの山頂への参道は、かなりの勾配の九十九折りの道だが階段状によく整備されている。参道には多数の朱塗りの千本鳥居が続く。一願成就の願いを込めてか,成就かなっての千本鳥居か。それぞれに献納者の住所・氏名が書き込まれている。所々に丁石も置かれています。

午後3時、約20分ほどで山頂近くの広場に着く。「信貴山城」の白い幟がはためいている。
信貴山(しぎさん)は、雄岳と呼ばれる北峰(437m)と雌岳と呼ばれる南峰(400m)の二峰からなっている。城跡や空鉢護法堂があるのは雄岳。県境に位置し、西側が大阪府で東側が奈良県。金剛生駒国定公園に属しています。かの昔、聖徳太子が河内側(大阪)の物部守屋を攻めた時、この山で毘沙門天が現れ、その御加護で太子は勝利した。太子が信ずべし、貴ぶべしといったことから「信貴山」と名付けられたと伝わる。

この広場の山頂寄りに「信貴山城址」の碑が建っています。ここには戦国時代に山城「信貴山城」が建ち、大和地方をを睥睨していた。この碑の辺りに二の丸が、少し横の山頂に本丸が建っていたという。
標高437mの信貴山は大和と河内の間にある要衝の地。戦国時代の天文5年(1536)に,畠山氏の家臣・木沢長政により山城が築かれた。長政戦死の後,三好長慶の被官・松永久秀が入り修復・改修し,南北700m、東西550mに及ぶ本格的な城郭に仕上げた(永禄2年1559年)。永禄11年(1568年)筒井順慶と三好三人衆に攻められ窮地に陥るが,織田信長によって助けられる。織田信長に臣従したが,天正5年(1577)信長に謀反を起こし総攻撃を受け50日間籠城の末,落城し久秀は自殺する。この戦で長護孫子寺も焼失してしまいます。

 空鉢護法堂(くうはつごほうどう)  




信貴山城址碑の横の参道脇に、八体の石仏像が並んでいます。それぞれの仏像には「破軍星」「明星」などの名が付けれ、「星祭り本尊」と呼ばれている。さぞかし星空が美しく見えることでしょう。
星祭り本尊の前は、赤色の千本鳥居が並び、それを抜けると休憩所の様な建物の中を通って空鉢護法堂のある境内に着く。

「空鉢護法(くうはつごほう)」とは,「信貴山縁起絵巻」の「飛倉之巻(とびくらのまき)」からきている。信貴山中興の祖・命蓮上人が法力(飛鉢の法)で貪欲な山崎長者の倉を空鉢に乗せ信貴山まで飛ばしてしまうという逸話です。空鉢には毘沙門天王の侍従神にして八大龍神の最上首・難陀竜王(なんだりゅうおう)の力が備わっていた。
空鉢護法堂には,空鉢護法の神・難陀竜王が祀られている。難陀竜王は龍神即ち蛇の姿をしていおり,一願成就の神様だそうです。拝殿前にはとぐろを巻いた石造の蛇が置かれている。この蛇をなでると一つだけ願いを叶えてくれるそうです。

山頂だけあって空鉢護法堂前からの眺望も素晴らしい。大和平野が一望でき,南には二上山、葛城山の山々の連なりを遠望することができます。


山頂から西の方を見れば山の頂が見える。あれが高安山だろうか?。予定では,信貴山の山頂から尾根伝いに高安山へ登り,そこからロープウェイで大阪側へ降り帰ることにしていた。現在4時前,高安山までの距離も時間も定かでない。その上天候も曇り。高安山は断念した。仁王門近くの信貴大橋バス停まで引き返し、3時50分のバスに乗る。

詳しくはホームページ
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信貴山・長護孫子寺 2

2017年04月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月29日(火)国宝「信貴山縁起絵巻」で有名な信貴山・長護孫子寺を訪れる

 塔頭の成福院、玉蔵院  


本坊を過ぎると、小池に架かる小さな石橋があり、その先に屋上に塔をもった朱色のお堂が構えている。これが
朝護孫子寺の塔頭寺院「成福院(じょうふくいん)」です。
その由緒は「塔頭たる成福院の建立時期は不明なものの、後嵯峨天皇とのご縁から1200年代以降と思われ、1577年(天正5年)松永久秀の乱により焼失後、1790年(寛政2年)に再興され現在に至っています」(成福院公式サイトより)
朱色のお堂は、成福院の中心建物の「融通殿(ゆうずうでん)」で、後嵯峨天皇(1220~1272)が御念持仏とされていた「如意宝珠(如意融通宝生尊)」を下賜され祀られている。如意宝珠は、毘沙門天王が左手にもつ宝塔の内に納められているもの。開運・金運・勝運・良縁・子宝・息災延命等々どんな願いも叶えてくださる「融通さん」として信仰を集めています。

融通殿前に、編笠姿の人物と虎の像が置かれている。賽銭壷も。「寅大師」と書かれ「昔よりお金の事を「おあし」とか「寅の子」と言います。虎の足にさわって念じると・・・」と説明されています。賽銭無しでタップリ触っておきました。
成福院手前の小さな石橋は「宝寿橋」と呼ばれている。この周辺は、池、灯籠、植栽、紅葉などにより庭園風になっており、長護孫子寺では一番景観が豊かな場所です。
成福院融通殿前を左に行き建物の下を潜ると、信貴山の宿坊として親しまれている塔頭「玉蔵院(ぎょくぞういん)」がある。玉蔵院の本尊・毘沙門天王が祀られている浴油堂の前を通り階段を登っていくと、高台の上に赤色鮮やかな三重塔と巨大な白い地蔵菩薩像がひと際目につく。色鮮やかな三重塔様式の仏殿には阿悶如来が祀られ、地蔵菩薩像は高さ15mあり「日本一大地蔵尊」と称している。
それらの脇に建つ渋いお堂が玉蔵院融通堂。鎌倉時代に毘沙門天王様より授けられた如意宝珠の玉が祀られているそうです。「如意融通尊」と呼ばれ、「福徳円満・財宝就・如意円満の仏様で、熱心に信仰されますと、どんな願い事でも叶えていただけます」とある。アリガタヤ、アリガタヤ・・・。
玉蔵院融通堂へ向かう階段途中に億円札をくわえた寅の像が置かれています。
「この寅は聖徳太子様にお仕えした満願の寅です。全ての願い事を叶えて頂けるとの由来がございます。本堂に向かって一礼し、寅の足をさすり御真言を三辺お唱え下さい。有難い寅です。
御真言 オン ベイシラマンダヤ ソワカ」と説明されている。
笑ってしまいますネ。この寺で「聖徳太子 = お金」というのがだんだん理解できるようになってきた。
また融通堂の横には「金集弁財天」さまがお祀りされている祠がある。究極のアリガタヤ、”金が集まり融通も効く”弁財天さまだそうです。さすがにお参りする気にはならなかった。
玉蔵院融通堂前からの展望、本堂をはじめ境内が一望できます。

 本堂へ向かう  



成福院へ戻り、石畳の参道を本堂方向へ進む。途中に三宝堂や飛倉館があり、この辺りが広い朝護孫子寺境内の中心部になるでしょうか。イノシシも時々参上するようです。寅とイノシシ、相性が合うのだろうか。


石畳のよく整備された道を本堂の方へ進む。道の両側には朝護孫子寺のご本尊「毘沙門天王」の赤い幟で埋め尽くされている。

イノシシだけでなくスリさんもお参りするようです。金運・勝運祈願で訪れたついでにお仕事されるんでしょうか。おじいちゃん、おばあちゃんが狙われるのでしょう。

本堂が見えてきました。本堂階段の左側には虚空蔵堂、霊宝館、経蔵堂があります。
虚空蔵堂は、石鳥居を潜った先の水屋の脇を登った位置にあるお堂。徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院の寄進により元禄14年(1701)の建立され、虚空蔵菩薩が祀られている。
経蔵堂は現在閉められ、中へ入れない。回転さすことのできる「一切経」を納めた経厨子があるが、熱心な信者さんが功徳を得ようと一生懸命に回されたので壊れてしまったそうです。
一番奥が国宝「信貴山縁起絵巻」を展示した霊宝館。ここだけは拝観料:大人 300円(小人 200円)が必要。ただし見れるのは複製で、実物は奈良国立博物館に委託されている。毎年秋には実物の一部が里帰りし、公開されるそうです。「源氏物語絵巻」「鳥獣人物戯画」と並ぶ日本三大絵巻の一つ「信貴山縁起絵巻」は全三巻からなり平安時代後期(12世紀後半)の作と考えられているが、作者は不詳。信貴山で毘沙門天王を崇めながら修行し、不思議な法力で寺を中興した命蓮(みょうれん)上人の事績を物語風に描いた絵巻。
霊宝館にはその他、国指定重要文化財の楠木正成の兜、鎧袖、後醍醐天皇の皇子・護良親王の喉輪などの寺宝が展示されている。こちらはホンマ物です。

 本堂  


紅葉に彩られた本堂への登り階段。
本堂は,天正5年(1577)に松永久秀の信貴山城落城の際、焼失する。その後「本堂は文禄年中(1592)豊臣秀吉の再建、または慶長7年(1602)秀頼の再建とする説があり、定かではありません。後に修復を加え、延享3年(1746)に完成しました。然るに、昭和26年(1951)不慮の火災で焼失し、同33年(1958)に再建、現在に至っております。」(公式サイトより)

階段を登り正面に周ると、懸け造り(舞台造り)の上に張り出された礼拝所となっている。朱の欄干で囲まれ広々としている。ここからの展望が素晴らしい。
毘沙門天王像(中央)と吉祥天像(右)、善膩師童子像(左) (長護孫子寺発行「毘沙門天王の総本山・信貴山長護孫子寺」より)
毘沙門天は、仏法を守護する四天王および十二天の一尊で、北方を守護する武神。また仏様の言葉も衆生の言葉も等しく聞き届けてくれることから「多聞天」とも呼ばれている。
毘沙門天王がわが国で最初に降り立った地がここ信貴山で,聖徳太子に勝利をもたらした。朝護孫子寺の本尊とされ本堂に祀られている。毘沙門天王を中心に,向かって右に妃とされる吉祥天像,左に子とされる善膩師童子像(ぜんにしどうじ)の三尊で配されている。毘沙門天王像は頭に冑を被り,鎧で身を固めた軍神の姿をしている。そして右手に宝塔をささげ、左の手には如意宝珠の宝棒を持ち、足下に悪鬼邪鬼を踏み付けている。
ただし実際に目にすることができるのはお前立ちで,その奥に中秘仏そして奥秘仏が納められ,特別な行事や時期にはしかご開帳されない。奥秘仏は,聖徳太子が自ら彫刻されたという毘沙門天像で,12年に一度、寅年にご開帳されるそうです。
説明板には「毘沙門天王は七福神のなかでも、商売繁盛、金運如意、開運招福、心願成就の徳を最も厚く授けてくださる福の神です。信貴山毘沙門天王の、ご尊体に鎧兜を召されておられるのは、世の中のあらゆる、邪魔者を退散してやるというお姿で、見るからに恐ろしそうな尊顔は、心を強く持って、どんな苦しい困難に出会っても、がまん強い精神で何事も行なえということを教えておられるのです。また、右手に如意宝珠の棒を持っておられるのは、心ある者には、金銭財宝を意のままに授けて、商売繁盛させてやるぞとの思し召し、左手の宝塔は、この中に充満する福を、信ずる者の願いに任せて与えてやるとの福徳の御印です」と解説されています。
(?? 写真は左手に棒を持つが、説明板では右手に・・・??)

毘沙門天は「寅年の寅日の寅の刻」に現れるということから「寅」と縁が深い。境内どこへ行っても張子の寅を目にする。「百足(ムカデ)」も毘沙門天のお使いとされ崇められている。毘沙門天は金運・財運の神でもあるので,おあし(お金)が沢山あるということから百足(むかで)と結び付けられたようです。
扁額には、百足(ムカデ)の装飾があしらわれ,本堂の欄間のにも百足の模様が刻まれています。

本堂の下をぐるりとまわる「戒壇(かいだん)めぐり」でも知られている。「戒壇めぐり」について公式サイトに次のように説明されています。
「約800年の昔、後に紀州の国根来寺を創建されました覚鑁上人(新義真言宗の開祖)が、当山に籠って修行されました折、毘沙門天王のお告げにより、宝の珠「如意宝珠」を納められたと云われております。
この「戒壇巡り」は、心願成就を祈る修行の道場で、本堂真下の暗闇の回廊です。長さ九間四面三十六間、暗い部分で約60メートル、約5分間でお詣りができます。階段を下りたら、右手を右の壁に当てながら廻り、二番目の角を曲がってください。すると見えてくる灯明の場所には、皆様方の十二支生まれ年の守本尊、即ち千手観音や阿弥陀如来など八体の仏像がお祀りしてあります。ここで、ご自分の守本尊に身体健全、家内安全をお祈りください。次にまた、右手を右の壁に当てながら進んでください。次の角を曲って少し行きますと、又木の格子が手に当たります。その胸の高さに大きな鉄の錠前が掛っております。この錠前に触れますと如意宝珠に触れたと同じ功徳が与えられると言い伝えられ一願成就のご利益が授かります」

本堂右手に「戒壇巡り」の入り口があります。100円支払うと係りの人が親切に巡り方の説明をして下さいます。入り口をカメラで撮ったら,あわてて静止されたが・・・(撮った後でした)。階段を下り本堂地下回廊へ。角を曲がると真っ暗闇,一寸先も見えない。壁の手すりをさすりながらソロリソロリと進んでいく。暗闇は体験できるが,真っ暗な空間を進むというのはそう体験できるものではない。私以外に誰もいていない。不気味さと神秘感とが混ざり不思議な体験が得られる。手に鍵が当たる。格子の奥を見ると,ぼんやりした灯明の中に何か置かれている。こんな所から早く解放されたいという気持ちから,よく見ないで出口へ急ぐ。とりあえず錠前に触れたので,如意宝珠に触れたことになり心願成就のご利益が預かれる。

京都・鞍馬寺の本堂地下にも,似たような真っ暗な地下通路があり,中央辺りの薄明かりの中に壷が置かれていた。鞍馬寺も毘沙門天王をご本尊として祀る寺です。

特に本堂からの眺めは素晴らしく、斑鳩方面の山や町並を一望することができます

本堂横の階段上より境内を眺める。紅葉に染まった境内も綺麗だった。

詳しくはホームページ
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信貴山・長護孫子寺 1

2017年04月09日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月29日(火)
久しぶりに山登りをと、近くにある低山の信貴山(しぎさん)を選びました。調べてみると、信貴山と長護孫子寺(ちょうごそんしじ)とは一体になっているようだ。そこで長護孫子寺のお寺参りに変更。長護孫子寺は「毘沙門天」さんで知られ、また国宝「信貴山縁起絵巻」で有名なお寺で、一度訪れてみたいと思っていた。
長護孫子寺は桜の綺麗なことで知られていますが、紅葉もまずまずという。紅葉シーズンも終りに近づいているが、まだ楽しめるだろうと思い、天気も良いので出かけました。

 近鉄・信貴山下駅から開運橋まで  


近鉄・生駒駅で近鉄生駒線に乗り換え、信貴山下駅で下車。8時半です。朝護孫子寺まで歩くか、バスを利用するか思案する。駅前の広い車道を山の方へ登っていけばお寺へ行ける。地図から想定すれば40分くらいか。駅前の路線バスの時刻表を見れば、9時30分発まで1時間待たなければならない。歩こうかと思ったが、奥之院や信貴山まで登るには体力を温存しておかなければならない。結局、バスを使うことに。
10分位で信貴山バス停に着き、そこで下車する。そこから朝護孫子寺の入口・仁王門までかなり歩かされました。仁王門近くの信貴大橋バス停まで乗るべきでした。

朝護孫子寺の入口にあたる仁王門が見えてきました。門手前の右側斜面には、赤い前掛けをつけた沢山の小さな地蔵さんが整列して出迎えてくれます。「千体地蔵」と呼ばれている。室町時代中期から江戸時代にかけてのお地蔵さんとか。
仁王門について公式サイトによれば「信貴山の山門である仁王門です。宝暦10年(1760)に大阪宝栄講が再建、明治14年(1881)に大修理、大正11年(1922)に成福院鈴木恵照師の代にこの場所に移転されました」そうです。

仁王門から真っ直ぐ進めば、寺の中心部へ入れるのだが、左下の大門池の方へ降りてみる。大門池は大門ダムによってできたダム湖です。信貴大橋という紅い橋が架かり、橋を渡るとホテルやお食事、お土産などのある門前町へ行ける。
橋のたもとに、羽ばたいているように見える巨大なモニュメントが置かれている。「西方守護神白虎」とあります。信貴山のある場所は奈良県の西方に当たります。そこで平城遷都1300年祭の際に、キトラ古墳の壁画でも有名になった中国の伝説上の神獣である西方守護神・白虎を設置したようです。また虎(寅)は、毘沙門天王の由来から朝護孫子寺のシンボルでもある。

「信貴山観光iセンター」は、観光案内所兼お土産品の販売所として平成21年(2009)12月に開設された。地域の特産品が並べられ、喫茶・軽食もできる。ここでも張子の寅が目立ちます。
信貴山観光iセンターの横に見える紅い橋が「開運橋(かいうんきょう)」。大門池に架かり、門前町と長護孫子寺とを結ぶ参道でもある。鉄骨を組み合わせたトレッスル橋脚を用いた上路カンチレバー橋で、非常にめずらしい造りのため、平成19年(2007)に土木史上の文化財的価値が認められ、国の登録有形文化財に登録された。

 境内図と歴史  



信貴山観光iセンター前に掲示されている境内図です。信貴山・朝護孫子寺の創起について公式サイトに以下のように記されている。

「今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。
醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人(みょうれんしょうにん)が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。」

聖徳太子の話は用明2年(587)、醍醐天皇の「朝廷を子々孫々まで守護する」という勅号により寺名「朝護孫子寺」と名付けられたは延喜2年(902)とされる。
平安時代以降は武人の信仰を集めた。戦国時代には、松永久秀が山上に信貴山城を築いたが、織田信長の攻撃を受け落城、朝護孫子寺も兵火で全焼した。その後、豊臣秀頼の手によって再興される。江戸時代に入ると七福神の一人として、「福の神」として多くの民衆から信仰を集めた。

現在の正式名称は「信貴山歓喜院朝護孫子寺(しぎさん かんぎいん ちょうごそんしじ)」。1951年に高野山真言宗から独立し、信貴山真言宗の総本山となっている。大和七福神(信貴山朝護孫子寺、久米寺、子嶋寺、おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)の一つに数えられ、「信貴山の毘沙門さん」、「信貴山寺」などと呼ばれ、”商売繁盛”、”必勝祈願”、”金運招福”、”合格祈願”など民間信仰の場として広く親しまれています。

 絵馬堂・張子の大寅  


信貴山観光iセンターから奥へ進むと絵馬堂がある。安政年間(1854~)に大阪堂島の木綿屋梅蔵によって寄進された建物で、軒下壁面や内部の天井には多くの絵馬が飾られています。現在は、椅子などが置かれ休憩所となったいるようです。奥にはトイレもあります。

絵馬堂前を進み石鳥居を潜ると、本格的な長護孫子寺の境内に入っていく。鳥居奥に本堂の建物と、その手前に黄色い寅の姿が見える。石鳥居、本堂、寅の張りぼて・・・なにか違和感を感じます。

本堂を見上げる絶好の位置に張子の大寅が設置されている。聖徳太子の前に毘沙門天王が出現したのが寅の年、寅の日、寅の刻であったとされ、寅は毘沙門天王の御使いとして朝護孫子寺のシンボルになっている。高さ3m,長さ6mほどあり、世界一大きな張子の寅だそうです。後で知ったのだが、首が電導し掛けで上下左右に動くそうだ。
阪神タイガースの選手が、毎年必勝祈願に訪れる寺としても有名。昔年のユニホームとソックリで、オールドファンには懐かしいが、やっぱり違和感が。

 劔鎧護法堂・開山堂


 絵馬堂の並びに石鳥居と赤鳥居が建っている。鳥居をくぐり,杉林の立ち並ぶ薄暗い坂道を谷間へ降りていく。まもなく紅い旗が揺らめくなかに劔鎧護法堂(けんがいごほうどう)が現れる。

剱鎧童子(けんがいどうじ,護法童子)は毘沙門天さんのお供で,人間の災厄を守護する役目を持つ。国宝「信貴山縁起」の「延喜加持の巻」で、命蓮上人が法力で剣の護法童子を宮中に遣わして醍醐天皇の病を治したという逸話からきている。重い病にかかられた醍醐天皇の枕元に出現すると,天皇の病も治ったということから病気平癒、無病息災の守り本尊として人々の信仰を集め,祀られるようになった。
開山堂へは大寅手前左側にある階段を登って行く。開山堂は本堂と同じ高さになるように小高い丘の上に建てられているため,かなり急な階段を登ることになる。105段あるそうです。

開山堂は享保17年(1722)の建立。お堂へ入ると中央に四角い大柱のようなものがあり、一周できる。正面に信貴山開祖・聖徳太子が、右側面に歓算上人、背面に宗祖・弘法大師、左側面に中興開山・命蓮上人 が祀られています。、さらに堂内には四国八十八ヶ所のご本尊さまもお祀りされている。
開山堂の裏に,一段高く土盛りをされた上に命蓮上人の墓と伝えられる命蓮塚(みょうれんつか)が置かれている。命蓮上人は平安時代中頃,長護孫子寺を中興した高僧です。

開山堂から本堂を眺める

 塔頭・千手院、聖徳太子像とかやの木稲荷  


開山堂の丘を降り,大寅の横を奥へ進むと赤門です。赤門を通ると二手に分かれる。右へ下っていけば塔頭の千手院へ,左へ行けば聖徳太子像,かやの木稲荷,本坊の方へ行ける。

右手に見える朝護孫子寺の塔頭寺院「千手院(せんじゅいん)」は「毘沙門護摩」で知られる。千手院本堂にあたる護摩堂では,真言宗の秘法である護摩祈祷が命蓮上人の開壇以来1100年間毎日欠かさず行われている。「毘沙門護摩」は毘沙門天王を本尊とした護摩であり、信貴山だけに伝わる秘法だそうです。
千手院の左側の小阪を上がっていくと,総本山長谷寺の十一面観世音菩薩の分身を祀った観音堂と銭亀堂がある。
銭亀堂には,金運招福をもたらす銭亀善神が祀られている。ホームページに「授与所で”金運招福銭亀御守”と”壱億円札”が入った銭亀御守を授かり、このセットと財布を石臼にのせて「南無銭亀善神」と念じながら、石臼を右に廻します。 すると金運のまわりが良くなって、大変なご利益があります。毎年一度、4月の第2日曜日に銭亀善神の大祭が催され、金運招福のご利益にあずかれます。」と書かれている。
非常に心動かされる御利益だが,銭亀堂の前にある「三寅の胎内くぐり」のアトラクション?の方に足が向いてしまった。

大寅が入って来いと大口を開けている。三寅とは,毘沙門天出現の寅の年・寅の日・寅の刻を表し,また毘沙門三尊(毘沙門天・吉祥天女・禅貳師)にならい父寅・母寅・子寅を意味しているという。この寅の胎内を潜ると「三寅の福」が得られるそうです。特に入胎料がかかる訳でもないので,何度でも出入りできます。人気無いのか誰も通っていない。入ってみたが,薄暗い10mほどのトンネルの両壁に名言が書き込まれた紙が何枚も貼り付けられているだけでした。
千手院の入り口に戻り,左手の道に入る。塀のように石灯籠がぴったり並ぶ中を進むと聖徳太子像とかやの木稲荷の紅い鳥居が見えてくる。
馬に乗り笛を吹く聖徳太子像が建つ。長崎市平和記念公園の「平和祈念像」で知られる彫刻家・北村西望の造形したもの。この山で毘沙門天王を感得し排仏派の物部氏に勝利し仏教興隆のもとを築いた聖徳太子は、信貴山のシンボルです。
聖徳太子像と並んで大きな榧(かや)の木がそびえる。赤い鳥居で祀られ「かやの木稲荷」と呼ばれている。
「樹齢1500年の榧の木です。蘇我一族と物部一族が政治の実権を握るため争っていた大和朝廷の時代に、一粒の榧の実が萌芽して以来、有為転変する世相を鳥瞰してきた御神木です。この御神木を敬い稲荷社を建立しました」(公式サイト)そうです。 


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鞍馬から貴船へ   (岩倉編)

2017年02月06日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ。時間があったので、帰りに岩倉駅に途中下車し、紅葉で名高い実相院と史蹟・岩倉具視幽棲旧宅に寄りました。

 叡山電鉄・貴船口駅へ  


本宮の方に向かって来た道を引き返します。13時半過ぎ、まだまだ時間はたっぷりあるのでのんびり景色を楽しみながら歩く。
本宮の横を通り過ぎ、鞍馬山へ登る西門を横目に見ながら少し行くとバス停が見えてきた。叡山電鉄・貴船口駅まで、あるいは出町柳駅まで路線バスを利用してもよいのだが、まだ2時前で時間は十分ある。この景色、この天候なので貴船口駅まで歩くことにした。大体、1時間くらいでしょうか。

この道は「貴船道」と呼ぶそうです。車は時々通るくらいで多くなく、気を使うこともない。平日のせいでしょうか、あるいは谷間の狭い土地なので駐車場が少ないためでしょうか。

やがて紅い橋が見えてきた。「梅ノ宮橋」とある。近くの小高くなった所に「梅宮社」という小さな社が建っている、というより置かれているといった様子。梅宮社は貴船神社の末社で、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀っている。中宮の御祭神・磐長姫命の妹ですが、姉よりあまりにも美しかったためか貴船神社から冷遇されているように見えます。こんな辺鄙な場所に建てられた、吹けば飛ぶような小さな社です。

「貴船道」は「恋の道」とも呼ぶそうだ。「恋の道」から貴船川にせり出すように大きな岩があり、「蛍岩(蛍の名所)」の案内板が立つ。平安の昔、宮廷の女流歌人・和泉式部が貴船神社に詣でた時に通った道で、川沿いに飛ぶ蛍を見て、せつない心情を歌に託している。
 「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂たまかとぞみる」
現在も6月中頃に蛍が乱舞するのが見られるそうです。おじさん一人「恋の道」を行く・・・。

紅葉の美しい叡山電鉄・貴船口駅に着きました。

帰りも「もみじのトンネル」区間を撮ってみました。速度を落として運転してくれるので、車内からでも撮れる。ライトアップされる夜間も見てみたいが。

 岩倉・実相院(じっそういん)  



予定より早く鞍馬・貴船を訪ね終え、時間があったので「岩倉実相院」に立ち寄ってみることに。岩倉は叡山電鉄鞍馬線の丁度中ほどになり、岩倉にある「岩倉実相院」は京都の紅葉を紹介する場合必ずでてくる人気の紅葉スポット。
実相院目指して川沿いを歩く。京都市内とは思えないほど、のどかな里風景が広がる。向かいの山は比叡山。柿木が秋を感じさせてくれます。

駅から30分ほどかかり、やっと実相院の門が見えてきた。門前の駐車所には数台の観光バスが停まっている。やはり紅葉の名所だけある。門前に実相院の案内板が建てられているので、要約すれば。
実相院は、鎌倉時代の寛喜元年(1229年)、静基(じょうき)僧正により創建されたとされる。当初は現在の京都市北区紫野にあったが、その後、京都御所の近くに移り、さらに応仁の乱の戦火を逃れるため現在地に移転。その後、兵乱により焼失、衰微していたが、江戸時代初期に足利義昭の孫・義尊(ぎそん)が入寺し再興する。母が後陽成天皇の後宮となった関係で皇室と将軍徳川家光より援助を受けて実相院を再建。その後、天皇家の皇子や皇族が相次いで門主として入られ、門跡寺院として皇室から支援を受け、「岩倉門跡」「岩倉御殿」とも呼ばれていた。
明治に入ると、門跡は廃止され、上知により寺領の多くを失なったという。現在、実相院は元天台宗寺門派の単立寺院。本尊は不動明王(鎌倉時代作の木造立像)

拝観時間 9:00-17:00
拝観料 大人500円、小中学生250円

実相院の見所は、紅葉に彩られた庭園です。その庭園に囲まれているのが客殿(本堂)で、縁側でぐるりと一周できる。まず、客殿(本堂)の東が枯山水式庭園。遠くに比叡の山並みを借景とし、白砂と石、植栽が配された石庭です。2013年-2014年小川勝章氏監修のもと大改修が行われた。説明では「日本国を表現した石組みと苔。こころのお庭」と、わかるかな?(ワカリマセン)

縁側を通って北側に回る。”見頃”時期にまだ早いのかどうかわからないが、まだ緑葉も見られる。紅一色よりも、こうしたグラデーションの紅葉のほうが爽やかさを感じ、好きだな。
突っかい棒が痛々しい。この客殿(本堂)も、1721年に大宮御所の「承秋門院の旧宮殿」からもらったもの。それまで第113代東山天皇の中宮・承秋門院(じょうしゅうもんいん)幸子女王(1680-1720)さまが住んでおられたが、亡くなられたので下賜されたそうです。現存する数少ない女院御所。かなり古いですね。

さらに西側に周ると、客殿(本堂)と歴代の門跡が居住されていた書院に挟まれて、紅葉の綺麗な庭園が現れる。
裏山を借景とした池泉回遊式庭園で、小さいがコンパクトによくまとまっている。青苔、植栽、池、それを被うカラフルな紅葉が調和し美しい。中の池は、その形からか「ひょうたん池」と呼ばれている。日本では数少なくなったモリアオガエルが生息しているそうですが、見かけなかった。この時期、観光客が多く引っ込んでいるのでしょう。

庭園にもまして実相院を有名にしているのが「床もみじ」。
実相院の玄関を上がったすぐの所に「滝の間」がある。客殿(本堂)の一部かな?。ここは板の間で、襖の一部が開放され外の庭園が見える(仕掛けになっている)。黒っぽい床板はピカピカに磨き上げられ、鏡のように庭の紅葉を映し出している。「床もみじ」と呼ばれています。春夏の新緑の時期には「床みどり」となり、冬は「雪化床(ゆきげしょう)」だそうです。「床もみじ」は晴天の時が、「床みどり」は曇空の時が美しく見えるそうです。

1枚撮った後で、撮影禁止なのを知りました・・・(*^^)v。後で写真をよく見ると、右側柱に「撮影禁止」のステッカーが、上の欄間には監視カメラが光っています。時々、”写真撮影はできませんよ!”ってマイクが呼びかけていたのは、このカメラで見てたんだ。この日は、緑も残っており、「床みどり」と「床もみじ」の両方を鑑賞できたようです。

何故、撮影禁止にするんだろう?。フラッシュたかなければ物理的な影響は無いはず。多分、この場所に集中し混雑するからでしょう。京都を代表する紅葉スポット、東福寺の通天橋も今年から撮影禁止になった。幸い、私は前年訪れ、撮りまくったが。確かに、通天橋の上の混雑振りは異常で、お寺が危険を感じるのはわかる。しかし、写真に残し思い出にする、多くの人が望んでいることです。何か別のやり方はないものでしょうか。写真撮れないなら、もう訪れる気がしない。

 岩倉具視幽棲旧宅(いわくらともみゆうせいきゅうたく)  



15時45分、実相院を出て岩倉駅に向かう。帰りは、来た道順を変え横道に入る。実相院から三百メートルほど所で紅葉の綺麗な邸を見かけた。「史蹟 岩倉具視幽棲旧宅」の石柱が建っている。通用門が開いているので寄ってみることに。

岩倉具視(いわくらともみ、1825-1883)は公武合体派として和宮降嫁を推進したが、倒幕急進派の弾劾を受け失脚する。そして文久2年(1862)9月~慶応3年(1867)まで5年間、岩倉の地に隠棲していた。その後復権し明治新政府では要職をつとめた。受付で頂いたパンフには「明治維新の五傑 岩倉具視 再生の地」と書かれている。

開館時間:9:00~17:00(入場は16:30まで)
入場料:一般 300円、中学・高校生および高等専門学校生 200円、小学生 100円
休館日:月曜日(祝日の場合は開館、翌平日休館)、年末年始(12月29日~1月3日)

写真の右奥が入口で、左が主屋の「燐雲軒」。正面に見える紅葉とアカマツに覆われた慰霊碑は、岩倉具視の遺髪を埋葬した塚だそうです。遺髪碑の左(北)側には、具視の子息の具定、具経の碑も建っている。

受付で頂いたパンフによると、岩倉村に隠棲(実相院とか?)した2年後の元治元年(1864)に「大工藤吉の居宅であった現在の付属屋部分を、岩倉具視が購入し、主屋と繋屋を増築して住居とした」とあります。当初は、現在の敷地の半分ほどだったが、少しずつ拡張整備されていった。庭園には、造園家・小川治兵衛の手が加わっているそうです。
昭和7年(1932)に国の史跡に指定される。財団法人岩倉公旧蹟保存会が長年この史跡を守ってきたが、平成25年(2013)に京都市に寄付する。現在、京都市は指定管理者(植彌加藤造園株式会社)にゆだね、一般公開している。

主屋の「燐雲軒(りんうんけん)」は茅葺きの落ち着いた建物。建物の左側(西側)が入口と玄関で、6畳の二室からなり、両側(南北)には縁側が設けられている。質素ながら、どこか気品がある。失脚し隠棲していた邸といえ、並の人物でなかったことをうかがわせる。ここに坂本竜馬や大久保利通が訪れ、相談を重ねていたそうです。

庭園と向き合っている南側の縁側には、座布団が置かれていました。傍に説明書らしきものがあるので、岩倉具視や坂本竜馬などが座った座布団を展示しているのかな、と思ったら見学者用のものでした。

主屋「燐雲軒」(左)と附属屋(右)との間の中庭。
右の附属屋には炊事場、台所、居室がある。正面の廊下は「繋屋」と称され、板戸の奥に浴室と便所が設けられています。

中庭から主屋「燐雲軒」の内部を撮る。障子戸の間は開放され、外の庭園が鑑賞できます。左右の障子戸も内部が大きくくり貫かれ(ガラスがはめられ?)、庭園が見える仕掛けになっている。畳、障子戸そして庭園の紅葉と青葉、美しい空間を作り出している。岩倉具視が住んでいた頃はこうでなく、その後の補修で造作されたものでしょうが、一風の絵になっています。実相院の「床もみじ」よりはるかに勝る。まだ知名度が低いのか、誰もいてません。いつの日か、この「畳もみじ」に見学者が殺到し、撮影禁止にならんことを・・・・。

さあ、大阪へ帰ろう。叡山電鉄・岩倉駅と比叡山






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鞍馬から貴船へ 4

2017年01月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ。

 貴船神社の境内図と歴史  



鞍馬寺の西門を出ると、紅い「奥ノ院橋」が貴船川に架かっている。橋を渡ると、もうそこは貴船神社の門前町です。人通りが急に増えてくる。やはり貴船神社は「恋の神社」と云われるだけあって人気があるようです。
貴船神社は、手前から本宮、中宮、奥宮と三神域から成っている。それぞれ数百m離れているが、それをつなぐ道は貴船川の清流に沿い、紅葉や青葉に覆われ、またお茶屋や川床が並び退屈させない。

貴船神社の始まりについて、神社のサイトには諸説あると断りながらも
「第18代反正天皇の御代(約1600年前)、初代神武天皇の皇母・玉依姫命が御出現になり「吾は皇母玉依姫命なり。恒に雨風を司り以て国を潤し土を養う。また黎民の諸願には福運を蒙らしむ。よって吾が船の止まる処に祠を造るべし」と宣り給い、「雨風の国潤養土の徳を尊び、その源を求めて黄船に乗り、浪花の津(現在の大阪湾)から淀川、鴨川をさかのぼり、その源流である貴船川の上流のこの地(現在の奥宮の地)に至り、清水の湧き出づる霊境吹井を認め、一宇の祠を建てて水神を奉斎す」とあり、”黄船の宮”と崇められることになったと伝えられている。」とある。
神武天皇の母・玉依姫命が黄色い船に乗って淀川、鴨川を遡り、現在の奥宮の地に祠を建て水神を祀ったのが貴船神社の始まり、ということです。白鳳6年(666)、社殿の立替えの記録が残っていることから、かなり古くからあったようです。

平安時代には、水の供給を司る神を祀っていたことから、天皇の勅使が雨乞いや雨止みの祈願に訪れている。
永承元年(1046年)7月、洪水により社殿が流失したことから、天喜3年(1055)4月、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。「当社は長らく賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされてきたが、これは天喜3年の社殿再建が契起となっているとする説がある。近世以降、それを不服として訴えが続けられ、明治以降になってようやく独立の神社となった。江戸時代までは賀茂別雷神社の祭神である賀茂別雷命も祭神としていた」(Wikipediaより)

社名の「貴船」の由来について、境内の由緒書きに「古くは「貴布禰」と記したが、「黄船」「木船」「木生嶺」「気生根」などの表記も見られる。明治4年(1871)官幣中社となり、以後「貴船」の表記で統一された」とある。また読み方については、公式サイトに「地名として「貴船」を「きぶね」と発音するのが一般的だが、神社名を公式に申し上げる際には、湧き出している御神水がいつまでも濁らないようにと祈りをこめて「きふねじんじゃ」と申し上げるのである」と書かれています。

 貴船神社:本宮  

本宮入口の鳥居が見えてきた。この鳥居は「二の鳥居」で、「一の鳥居」は叡山電鉄の貴船口駅近くにあり、かなり離れている。本宮に寄らず、中宮・奥宮へ向かうには、右の車道を進めばよい。

鳥居を潜ると、貴船神社の紹介には必ずでてくる参道の階段です。最も神社らしく感じる場所。
現在の本宮は、天喜3年(1055)に、現在の奥宮より移転されたもの。元々の貴船神社は、現在の奥宮にあったが、度々の洪水で流されたため移されたそうです。全国に約450社ある貴船神社の総本社。境内は年中、自由に参拝できる。6月1日は「貴船祭」

参道石段を登り門を潜ると境内。本宮の境内は広くありません。門のすぐ左手に樹齢400年、樹高約30mの御神木の桂の木がある。根元からいくつもの枝が天に向かって伸び、上の方で八方に広がる。貴船は「気生根」とも書かれるが、この桂の木は「御神気が龍の如く大地から勢いよく立ち昇っている姿に似て」いるので御神木とされたという。
御神木・桂の木の並びに、小さな「石庭」があります。作庭家・重森三玲が昭和40年に、古代人の神聖な祭場「天津磐境(あまついわさか)」をイメージして作庭したものだそうです。玉依姫命による「黄船」伝説から、庭全体が船の形に造られ、中は黄色い土が敷きつめられている。
貴船神社は縁結び・恋の神社として有名ですが、御神木や船が多いのも特色です。
写真中央が本殿で、右が権殿、左が拝殿。流れ造り・銅板葺きの本殿は平成17年に造営し一新された建物。
ご祭神は「高おかみの神(たかおかみのかみ)」で、古くから水を司る神様として崇められてきた。

本殿前に黒馬・白馬の銅像が建ち、傍に「絵馬発祥の社(えまのふるさと)」の説明板が立っている。それによると、平安時代、雨乞い・雨止みの御祈願のため歴代天皇が勅使を遣わされれる際、雨乞のときは「黒馬」を、長雨を止めてほしいときは「白馬」又は「赤馬」を献上して祈願していたとされています。それがいつからか、生馬に変えて板に馬の絵を描いた「板立馬」を奉納するようになった。この「板立馬」が現在の絵馬の原形だそうです。だから貴船神社は絵馬発祥の地になる。

貴船神社で有名な「水占(みずうら)みくじ」。貴船神社は、水の神様と縁結びの神様が同居している。水占いとはよく考えられたものです。いつ頃から始まったのでしょう?。水占みくじの場所は拝殿前にあり、「水占斎庭」と呼ばれている。狭い御神水なので混雑しています。

占い紙は横の社務所で、1枚200円で売っている。紙は積み重ねられているが、占いなので上から順に取るのではなく、好きな位置から紙を引く。透かして見たが、さすがに文字はみえません。紙をそっと水に浮かべ、文字の浮き出てくるのを待ちます。

おじさん一人で水占いとは・・・、少々照れるがここは社会体験と挑戦してみました。私は、何気なく一番上の紙を取ってしまったのですが。10秒位で文字が浮き出てきました。「吉」で、占いの内容はまずまず。色恋沙汰をしてみたいのですが・・・。
占い紙の中ほど左右にQRコードがあります。このQRコードをスマホで読み込み、言語(五カ国)を選択すると翻訳され音声まで聴こえるそうだ。デジタルの時代はここまで来たか。

本宮は狭い境内なので、水占みくじをしなければ、あっという間に見終わってしまう。時間があったので、祈雨の行事が行われていた「雨乞の滝」へ寄ってみようとしたが入口が分らない。社務所で訊ねると、現在、禁足地になっており行くことはできない、そうです。
本宮前の貴船川沿いも紅葉の綺麗な所。写真右上の建物は、本宮の休憩所なので、お茶を楽しみながら紅葉を鑑賞できます。

 貴船神社:奥宮へ  


本宮を出て、紅葉を愛でながら貴船川に添って上流へ歩く。おじさん一人でも、十分楽しい気分になります。道沿いには料理屋、お茶屋さんが並び、京の奥座敷の雰囲気を感じさせてくれます。

中宮(結社)入口の階段だ見えてきました。次は中宮(結社)に寄りたいのだが、貴船神社には参拝順のルールがある。「三社詣」と呼ばれ、「本宮」→「奥宮」→「中宮」の順で参拝するのが、縁結びのための古くからの習わしだそうです。私も従わないわけにはいかない(^^)。
ちょうど昼過ぎ、お食事処「ひろ文」さんがあるので、昼食にします。

貴船川は貴船山と鞍馬山の谷間を流れ、賀茂川へつながる。この川沿いは大変風光明媚で、京の奥座敷といわれるだけあります。夏は川床で涼を感じ、秋は紅葉で魅了される。ライトアップされるんでしょうか、川沿いには照明器具が見えます。

川沿いを進むと奥宮の紅い鳥居が見えてきました。奥宮は本宮から700mほど奥になる。この辺りは、本宮や中宮付近にあった旅館やお茶屋、川床などなく、神域の気配が強く感じられる。
この奥宮は貴船神社創建の地で、元々本宮があったところ。度々の洪水で損壊され、天喜3年(1055)に現在の本宮の地に社殿を再建・遷座し、ここは奥宮となった。水の神様も、時には自虐的に暴れるんだ。
写真左側に、注連縄の張られた大木がある。「相生(あいおい)の杉」と呼ばれ、説明板には「御神木。同じ根から生えた二本の杉。樹齢千年。相生は「相老」に通じ、夫婦共に長生きの意味」とあります。

紅い鳥居の先に、小さな紅い橋が架けられている。橋には「思い川」「おもいかは橋」と書かれている。川を覗いてみるが、ほとんど水は流れていない。
ここが本宮だった頃、この小川で手を洗い、口をすすぎ、身を清めてから参拝していた。だから「みそぎの川」、「御物忌川(おものいみがわ)」だった。ところがここを訪れた和泉式部の恋の話と重なり、いつの頃からか「おものいみ川」が「思ひ川」と呼ばれるようになったという。

薄暗い杉並木と白い砂利の参道が続く。奥宮までくると訪れる人も少ない。本宮のような華やいだ雰囲気はなく、「気」に満ちた厳粛な雰囲気が漂う。参道奥の朱塗りの神門をくぐると、奥宮の境内です。

神門を潜ると、すぐ左側に御神木の「連理(れんり)の杉」がそびえる。杉(左)と楓(右)が一つにくっついた珍しい木で、夫婦和合・男女の仲睦まじいことの象徴として、御神木にされている。

 貴船神社:奥宮(本殿・拝殿・船形石)  



中央の能舞台のように見えるのが拝殿。左の本殿に祀られている奥宮のご祭神は 「闇おかみの神(くらおかみのかみ)」。この神は、本宮の「高おかみの神」とは「呼び名が違っても同じ神なり。一説には、高おかみは「山上の龍神」、闇おかみは「谷底暗闇の龍神」といわれる同じ龍神」(公式サイトより)で、水を司る神様。

「本殿の真下には「龍穴」と呼ばれる大きな穴があいており、誰も見ることは許されていない。この龍穴は大和の室生龍穴、岡山備前の龍穴とともに日本三大龍穴のひとつとされている」(公式サイトより)。この龍穴に物を落とすと、にわかに曇り空になり龍穴から激しく風が吹き上がるという言い伝えがある。
本殿の前の建物は拝殿ですが、見ようによっては能舞台に見えます。
貴船神社・奥宮は「丑の刻参り」ゆかりの場所としても知られている。「丑の年、丑の月、丑の日、丑の刻に、貴船の神様が牛鬼を従者にして降臨した」という故事に基づくもので、本来の「丑の刻参り」は心願成就、つまりあらゆる願い事をかなえるためのものでした。ところがいつの頃からか、「丑の刻参り」は「呪いの藁人形のまじない」というように一般に広まっていった。

Wikipediaは「丑の刻参り」について「丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという、日本に古来伝わる呪術の一種。典型では、嫉妬心にさいなむ女性が、白衣に扮し、灯したロウソクを突き立てた鉄輪を頭にかぶった姿でおこなうものである。連夜この詣でをおこない、七日目で満願となって呪う相手が死ぬが、行為を他人に見られると効力が失せると信じられた。ゆかりの場所としては京都府の貴船神社が有名」と説明している。

貴船神社にとっては迷惑なことですね。謡曲「鉄輪(かなわ)」などの影響でしょうか?。ちなみに謡曲「鉄輪」は「室町時代の謡曲の題名。「かなわ」と訓む。あらすじは後妻を娶った男を先妻が恨み、貴船神社に詣でたところ「赤い布を裁ち切り身にまとい、 顔には朱を塗り、頭には鉄輪を乗せ、ろうそくを灯せば鬼となる」とお告げを受ける。男は悪夢に悩み安倍晴明の元を訪れ鬼となった先妻と対決して鬼は消え失せる、というもの。」(Wikipediaより)
本殿横に注連縄で囲われた小さな空き地があり、中央に「権地」(ごんち)と書かれた札が立っています。
本殿真下には「誰も見てはならぬとされる神聖な龍穴」があり、そのため本殿をその位置で解体修理できない。そこで横の「権地」まで移動し、解体修理後に元の位置まで戻すのです。一種の「遷宮」で、貴船神社では「附曳神事(ふびきしんじ)」と呼んでいる。

平成23年(2011)12月29日、奥宮の本殿修復のため150年ぶりに「附曳神事」が行われた。龍穴は、絶対に誰にも見られてはいけない。そのため本殿の西に手広い菰(こも)を結び付け、本殿を権地へ曳き移すにつれ菰も引っ張られ龍穴を覆い、誰ににも見えない。さらに絶対に守らなければならないこととして「境内にいるすべての人間は声を出してはいけない」ということがある。そのため神職をはじめ宮大工、氏子、一般参加者も神の葉(榊・さかき)を口にくわえ、無言で少しずつ静かに動かしていったそうです。修理完成した翌年5月31日、元の場所に同じような方法で曳き戻された。


本殿左横に、貴船神社創建伝説の玉依姫命が乗って来たという「船形石」(ふながたいし)がある。その黄色い船が人目に触れぬように小石に覆われ囲われたものと伝えられている。船舶関係者から「船玉神」として信仰されていて、小石を持ち帰ると航海安全の御利益があるそうです。



 貴船神社:中宮(結社(ゆいのやしろ))  



13時15分、奥宮を出て貴船神社の参拝順ルールに従い、一番最後に中宮に寄ります。本宮と奥宮の中間にあるため中宮 (なかみや)と呼ばれる。本宮から上流へ300m、奥宮から下流へ400m位。
中宮の社に祀られている御祭神は「磐長姫命 (いわながひめのみこと)」。
磐長姫命の御鎮座に関して、貴船神社のサイトには以下のような伝承があることを紹介している。

昔、瓊々杵尊(ににぎのみこと)が木花開耶姫(このはなさくやひめ)に一目ぼれし、姫の父・大山祇命(おおやまつみのみこと)に結婚したいことを申し上げる。大山祇命は姉の磐長姫も添えて、二人の娘を送り出した。容姿端麗な木花開耶姫に対して、姉の磐長姫はたいへん醜かったため、瓊々杵尊は木花開耶姫だけを娶り、磐長姫を送り返した。そのため磐長姫は大いに恥じて「我長くここにありて縁結びの神として世のため人のために良縁を得させん」といわれて、この地に鎮まったという。
中宮は「結社(ゆいのやしろ)」とも呼ばれ、貴船神社は「縁結びの神様」として知られるようになった。平安時代には既に「縁結び」の神社として、貴族から庶民に至るまで参拝されるようになったという。

平安時代の女流歌人・和泉式部も、夫・藤原保昌との不仲を憂い、貴船神社にお詣りした。その甲斐あって縁が戻ったそうです。その時の心情を詠った和泉式部の歌碑が建っている。
現在でも縁結びを願う人が多いいのでしょうか、結び処には沢山の「結び文(むすびぶみ)」が結ばれ、奉納されています。以前は、境内のススキを結んでいたようですが、植物保護のため止められた。私は、縁結びとは縁無くなった歳なので、結ばなかった。






本宮には船形をした石庭、奥宮には船形石があった。ここ中宮にも「天の磐船(あめのいわふね)」がある。貴船神社の創建伝説が、神武天皇の母・玉依姫命が黄色い船に乗ってやって来たというものなので、貴船神社と「船」との関わりは深い。
苔むした舟形の大石が置かれている。平成8年(1996)京都の造園家・久保篤三氏により、結社の御祭神・磐長姫命の御料船として奉納された。長さ約3m、重さ6トンの船の形をした自然石で、貴船の山奥で見つけられたものという。

狭い境内なので、あっという間に見終わってしまう。出口の階段を下りると、昼食にカレーうどんを食べた「ひろ文」さん。恋とか、縁とかよりもこの景観ですね。気分が和みます。

帰路に着くため叡山電鉄・貴船駅へ向かいます。鞍馬と貴船は一日で周れる範囲。男性的で武骨な鞍馬を先に訪れ汗をかき、それから女性的な貴船に下りて寛ぐというのがベストだと思う。逆に貴船で寛いだ後、鞍馬へ向かうのは大変です。あの急峻な山道を俺は登りたくない・・・。


詳しくはホームページ
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鞍馬から貴船へ 3

2017年01月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ。

 源義経息つぎの水~~義経堂  


山中へ入っていくと右手に「源義経公息つぎの水」がある。修行時代の牛若丸は、九十九折参道の由岐神社近くにあった東光坊という僧院に住まい、夜毎剣術修行のため奥の院の僧正ガ谷まで通ったという。その途中にあるこの湧き水で喉を潤したそうです。現在でも湧き続け、柄杓が置かれている。


少し距離があるが山道を登って行くと「義経公背比べ石(せくらべいし)」にたどり着く。ここは奥の院参道の最頂部で、この先は下り坂となります。下って行けば僧正ガ谷、奥の院魔王殿を経て貴船へ着きます。

牛若丸16歳の時、父義朝の仇を討つため鞍馬寺を出て、関東から奥州平泉に下ります。その際、名残を惜しんでこの石と背比べをしたと伝承されています。柵の中に置かれている石は1m半ほどでしょうか。背比べしたのですから、同じくらいの高さだったのでしょうね。

鞍馬山の写真には必ずでてくる有名な「木の根道」は「背比べ石」のすぐ真ん前です。道というから、かなり距離があるのかと思ったが、50m位でしょうか。

風雨の浸食によってむき出しになったのかと思ったが、そうではなかった。ここの地質が硬いため、根が地中まで這い込めないためのようです。杉の根が浮き出て、地表を這うようにして横に伸び、奇観を呈している。
ここで牛若丸が兵法修行をしたと伝えられ、五条大橋で弁慶と争ったあの身軽さは、その成果なのでしょう。こうした場所で子供を遊ばせたら、牛若丸とまでいかなくとも丈夫でたくましいく成長すると思うが。現代の親は絶対にそうはさせません。眼の色変えて飛んできます。案内板に「できるだけ踏まないよう」と書かれているが、踏んで歩くほうが大変です。

「下に這う鞍馬の山の木の根見よ 耐えたるものはかくのごときぞ」與謝野寛(鉄幹)


木の根道を過ぎ、緩やかな斜面を降りていけばすぐ大杉権現社です。柵で囲われ、惨めな姿の大杉(?)が見える。これが祀られているご神木なのでしょうか。後で調べると、昭和25年の台風で折れてしまったそうです。この辺りは護法魔王尊のエネルギーの高い場所だそうですが、自然のエネルギーのほうが強かった。

この大杉権現社から参道に出るのに一苦労。明確な方向案内が無く、斜面のどの方向に下りていけばよいのか迷った。カンで降りていったらアタリでしたが・・・。

やっと奥の院参道の階段に出た。かなりの急階段が続いているが、降りなので楽です。やがて白幔幕の張られたお堂が見えてきた。僧正ガ谷不動堂らしい。

僧正ガ谷不動堂は昭和15年(1940)の建立で、宝形造、本瓦葺、正面に向拝が付いている。堂内には、伝教大師・最澄が天台宗開宗の悲願のために刻んだと伝わる不動明王が安置されている。

不動堂の周辺は鬱蒼と茂る杉の大樹に囲まれ、昼なお薄暗い。この辺り一帯は「僧正ガ谷」と呼ばれ、牛若丸と鞍馬天狗の出会いを題材にした謡曲「鞍馬天狗」の舞台。九十九折の道にある僧院・東光坊に預けられ住んでいた牛若丸は、昼は学問、夜はここ僧正ガ谷まで通い武芸に励んでいたという。ここで天狗と出会い、剣術や妖術を習ったのでしょう。鞍馬天狗といえば、なぜか嵐寛寿郎を思い出してしまいますが・・・。

不動堂の真ん前に義経堂がある。
源義経は平家を滅亡させたのち、兄の頼朝に憎まれ、悲劇的な最後を遂げた。鞍馬山(鞍馬寺)では、義経の魂は幼少時代を過ごした懐かしのふるさと鞍馬山へ戻ってきたと信じ、護法魔王尊の脇侍「遮那王尊(しゃなおうそん)」として祀られている。義経は神になったのです。毎年九月十五日に「鞍馬山義経祭」が行われている。

 奥の院魔王殿~~貴船へ  


僧正ガ谷からさらに10分ほど降りていくと、鞍馬寺の最奥部の奥の院魔王殿(おくのいん まおうでん)にたどり着く。11時過ぎです。この魔王殿には、650万年前に人類救済の使命を持って、金星からやってきたとされる護法魔王尊が祀られている。

建物は、昭和20年(1945)に焼失し、昭和25年(1950)に再建されたもの。見えているのは拝殿で、奥に本殿があります。幔幕の円い紋は、屏風坂の地蔵堂、大杉権現社や僧正ガ谷不動堂で見られたのと同じ紋。これは「羽団扇」という鞍馬寺の寺紋で、義経に兵法を伝授したといわれる天狗をイメージしたものだそうです。
鞍馬寺はここまで。”お疲れさま!”ということで、魔王殿前には幾つかベンチが用意されている。皆さん、食事したり地図みたり、寛いでいらっしゃる。
ここから引き返すには大変です。叡山電鉄駅のある仁王門までは2キロあり、それも坂道を登らなければならない。それより、このまま坂道を600mほど降りれば鞍馬寺の西門でありまた貴船の入口に着く。バス停も近くなのでそのまま帰ってもよし、あるいは貴船神社へ寄ってみるのもよし。私は最初から貴船へ行く予定でした。

これから降ります。西門まで何もありません。紅葉も無く遠望もきかず、ただひたすら急な坂道を下るだけ。参道のように整備もされていない。山の登山道と同じ。
この坂道を登ってくる人もかなりいる。先に貴船を訪れ、それから鞍馬寺へ向かうのでしょう。すれ違う人は皆さんキツそうです。下りで良かった。
所々、こうした木の根の芸術に出会う。これも硬い地盤のせいでしょうか?。浸食によるもののように見えますが。



ようやく見えてきました紅い橋が。貴船に着いたようです。奥の院魔王殿から20分位でしょうか。










ここは貴船側から鞍馬山への参拝口にあたる鞍馬寺・西門です。西門といっても、鳥居のような簡単な木組だけの門です。傍に登山費(愛山費?)を徴収する受付所がある。
受付の方の話によると、クマが今年は6回でたそうです。イノシシはどうですか?、と訊ねたら、普通に歩いていますよ、という返事だった。猪熊山にならんことを・・・。



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鞍馬から貴船へ 2

2017年01月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ

 鞍馬寺・本殿金堂  



最後の石段を登りきると、本殿金堂前の広場に出ます。本殿金堂は、昭和20年(1945)に焼失し昭和46年(1971)に再建され、一重、入母屋造、銅板葺の建物です。内々陣には、中央に毘沙門天像、右手に千手観音菩薩像、左手に護法魔王尊像の尊天(三本尊)が祀られています。これは秘仏で、厨子の前に立つのは「お前立」。本尊の御開帳は60年毎の丙寅の年です(次は2046年?)。

鞍馬寺公式サイトに鞍馬寺の起源について「『鞍馬蓋寺縁起』によれば、奈良時代末期の宝亀元年(770) 奈良・唐招提寺の鑑真和上(688~763)の高弟・鑑禎上人は、正月4日寅の夜の夢告と白馬の導きで鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられ、毘沙門天を祀る草庵を結びました。
桓武天皇が長岡京から平安京に遷都してから2年後の延暦15年 (796) 造東寺長官、藤原伊勢人が観世音を奉安する一宇の建立を念願し、夢告と白馬の援けを得て登った鞍馬山には、鑑禎上人の草庵があって毘沙門天が安置されていました。そこで、「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」という夢告が再びあったので、伽藍をととのえ、毘沙門天を奉安、 後に千手観音を造像して併せ祀りました。」とあります。
宝亀元年(770)寅の月、寅の日、寅の刻に、鑑禎(がんてい)上人が毘沙門天に助けられた。鑑禎上人は草庵に毘沙門天の像を祀ったのが寺の起源とされる。また寅は神使として大切にされています。

平安中期以降、京都の北方守護の寺として信仰を集め参詣が相次ぎます。『枕草子』の清少納言や『更級日記』の菅原孝標の女、紫式部などの女流文学者も来山し、鞍馬寺の様子を描写している。そして平安末期には源義経(幼名牛若丸)が少年期を過ごす。戦国時代になると、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康などの武将がしきりに戦勝祈願を行い、豊臣秀頼が由岐神社拝殿を再建しています。
鞍馬寺の伽藍は、文化9年(1812)の大火災や、昭和20年(1945)の本殿焼失などで失った。現在見られる堂宇は近年に建立されたものです。しかし、仏像などの文化財の多くは無事で、現存しているそうです。

本殿金堂前の広場。紅葉の紅色は別にして、紅色が目立ち、神社のように錯覚する。よく考えたら”本殿金堂”というのも不思議なものだ。本殿は神社の、金堂はお寺の建物を指すのが一般的。それをあえて”本殿金堂”と呼ぶのは、神と仏を統一しようとする鞍馬弘教の野心なのでしょうか。

現在の鞍馬寺で特異なのはその信仰形態です。
鞍馬山は、古くから古神道、陰陽道、修験道などの山岳宗教の山だった。8世紀末に鞍馬寺が創建され真言宗寺院として信仰を集めていたが、12世紀からは天台宗に改宗する。ところが戦後の昭和22年(1947)、住職・信楽香雲はヨーロッパの神智学の影響を受け、多様な信仰を統一して「鞍馬弘教」と称して独立する。現在、鞍馬寺は鞍馬弘教の総本山となっている。

以下は鞍馬寺公式サイトによるものです。
鞍馬山の信仰は「尊天信仰」だという。尊天とは、すべての生命を生かし存在させる宇宙エネルギーで、真理そのもの。その働きは愛と光と力になって表れる。千手観音菩薩は「愛」の象徴「月輪の精霊」、毘沙門天は「光」の象徴「太陽の精霊」、護法魔王尊は「力」の象徴「大地(地球)の霊王」だそうです。この三身を一体として「尊天」と称するという。こうして鞍馬寺は、毘沙門天、千手観音、護法魔王尊を三位一体の「尊天」と呼び、本尊として祀っている。

神智学とは何か?。興味ある人はWikipediaの詳しい解説をどうぞ。私は、チンプンカンプンでさっぱり理解できない。ただ注目したのは、幸福の科学、オウム真理教、阿含宗などの日本の新宗教にも隠然たる影響を与えたという。「オウム真理教の世界観・身体観は、用語だけでなくその構えや骨格において、〈神智学〉の強い影響がある」と書かれています。

鞍馬寺の鞍馬弘教を、そうしたオカルト宗教と同列と思いたくないが、それにしても何か違和感を覚えます。九十九折参道にあった「愛と光と力の像「いのち」」も、鞍馬弘教の思想を表現したものだったようです。鞍馬山(鞍馬寺)は、普遍的な真理を追求する哲学の場であるより、天狗が住み、牛若丸が修行した山岳霊場のままであってほしいナァ。

本殿金堂のすぐ前に、石畳の模様が描かれ、「金剛床(こんごうしょう)」と呼ばれている。中央の六角形は「六芒星」と呼ばれ、宇宙エネルギーが降臨する場所だそうです。ここに立つと宇宙エネルギーを受け取ることができ、尊天と一体化できるとか。まさにパワースポットです。難しいことはヌキにして、中心に立ってみました。

本殿金堂前の広場からの眺めで、向かいには比叡山が見えます。本殿金堂のまん前にある、朱色の欄干の出っぱりは「翔雲台」。観光客用のものかと思ったら、ご本尊がはるか南の京の都を見守る台だそうです。

本殿金堂の右側に、閼伽井(あかい)護法善神社があります。寛平年間 (889年~898年)、鞍馬寺中興の祖・峯延上人を大蛇が襲うが、逆に法力によって捕まってしまう。大蛇は魔王尊に供える水を永遠に絶やさないことを誓って命を助けられ、閼伽井護法善神(あかいごほうぜんじん)としてここに祀られたと伝わります。
本殿前には井戸があり、その脇の棚には沢山のカラフルなバケツが置かれている。信者さんが水汲み用に置かれているのでしょうか。
毎年6月20日に行われる「鞍馬山竹伐り会式(たけきりえしき)」は、この故事からきている。
長さ4メートル、太さ15センチ近くもある青竹を大蛇に見立て、僧兵姿の鞍馬法師が近江、丹波の両座に分かれ伐る早さを競い、その年の農作物の吉凶を占うそうです。

 奥の院参道へ  


閼伽井護法善神社とは反対側の本殿金堂の左手には本坊(金剛寿命院)、いわゆる鞍馬寺寺務所がある。その前に門がある。この門が奥の院参道入口です。
門の手前左に低い柵で囲われた小さな庭「瑞風庭」があり、盛り砂が置かれている。これは650万年前に人類救済のため、魔王尊が金星より降臨する様子を表現したものだそうです。「愛と光と力の像」の続編みたいなもの。

10時20分、瑞風庭の脇を通って奥の院参道へ入る。門を潜ると階段から始まる。本殿金堂までの広い階段と違い、狭く険しい山の階段です。参道となっているが、これからは山道です。階段上り口に手洗い場がある。鞍馬山へも心身を清めて入れ、ということでしょう。
ここからがいよいよ牛若丸の世界に入る。鞍馬寺の”宇宙エネルギー”とか”愛と光と力”などとは全く異質の魔境に入って行く。鞍馬山を感じるのはここからでしょう。
しばらく行くと、紅葉と白壁の霊宝殿(鞍馬山博物館)が見えてくる。その手前に与謝野晶子・寛歌碑があります。小さく、薄暗いので見逃しやすい。鞍馬寺の先代管長・信樂香雲が、歌での与謝野晶子の弟子だった縁で建てられたものでしょう。
紅葉に覆われた三階建ての建物が、鞍馬寺「霊宝殿(鞍馬山博物館)」です。
1階は鞍馬山自然科学博物苑展示室で、鞍馬山の動植物、鉱物などを展示する。2階は寺宝展示室と与謝野鉄幹・与謝野晶子の遺品等を展示した、与謝野記念室がある。3階は仏像奉安室で、国宝の木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像、木造善膩師童子(ぜんにしどうじ)立像の三尊像をはじめとする仏像奉安室。現在「清盛と義経をめぐる謎」展が開かれていました。

営業日:火曜日~日曜日 9:00-16:00
休業日:月曜日(月曜日が祝日・祭典日のときは翌日休館、12月12日~2月末日休館)
料金:200円

霊宝殿のすぐ前に「冬柏亭」(とうはくてい)という小さな書斎が置かれている。与謝野晶子の書斎ですが、彼女がこの鞍馬山で使ったという訳ではない。経緯は傍の説明板に書かれていました。
与謝野家は、昭和2年に現在の杉並区荻窪に居を移した。昭和4年12月に晶子の50歳の賀のお祝いに、弟子達から書斎「冬柏亭」が贈られ翌年に完成。晶子没後の昭和18年、冬柏亭は門下生の岩野喜久代氏の大磯の住居へ移された。書斎の所有者・岩野氏と鞍馬寺管長の信楽香雲とは同門の縁(晶子の短歌の弟子)であったことから、昭和51年(1976)に岩野氏の好意により、ここに移築されたということです。
「冬柏」の名は、与謝野鉄幹が主宰となり創刊した文芸機関誌「明星」が終刊後、昭和5年(1930)に「冬柏」の名で復刊したのに因む。
冬柏亭横の階段を登り、山門を潜ると本格的な山道が始まる。その山門脇に、鞍馬山自然科学博物苑としての注意書きと”WARNING”が貼り出されていました。
クマ、ヘビ、ハチなどと出合った時、「自然のままで観察」すべきでしょうか?。



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鞍馬から貴船へ 1

2017年01月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)
一昨日(16/11/16)高雄の紅葉を見てきたが、京都でもう一ヶ所訪れたい所があった。鞍馬から貴船です。以降の天気予報がハッキリしないので、この日に出かけることにしました。鞍馬・貴船の紅葉は、チョッと早い気がするのですが・・・。ネットの紅葉情報では”見頃”となっているが、当てにはならない。
鞍馬へは、数十年前の若かりし頃、営業をサボって友人と時間潰しに行った記憶があるが、木の根道の印象しか残っていない。貴船は初めてです。貴船はおっさん一人で行くような所ではないのだが、好学(?)のため足を向けます。

 叡山電鉄・鞍馬駅へ  


京阪電車・出町柳駅を降り、そのまま地上に出ると叡山電鉄・出町柳駅です。ローカル風の小さな駅ですが、比叡山、大原、鞍馬、貴船など京都を代表する観光地への路線なので、リュックを背負った人が多く、いつも混んでいます。
紅葉シーズン限定(11/5~11/27)の秋のもみじ展望列車「きらら」号が運行されていた。一部分ですが、窓ガラスが天井付近まで大きく、座席が窓側向きになっており、座ったまま窓外の紅葉を満喫できる。ホームへ入ると運よく止まっていた。運転席越しに写真を撮るため、最前席に座る。7時55分発「きらら」号です。

市原駅と二ノ瀬駅間の約250m区間は「もみじのトンネル」と呼ばれ、夜(16時半以降)にはライトアップされ幻想的な風景が広がるそうです。線路の両側をモミジが覆い、赤く染まる紅葉を列車の車窓から眺めることができる。車内の灯りは消され、速度を落として運転してくれます。昼間も速度を落として、楽しませてくれました。

叡山電鉄・鞍馬線の終着駅・鞍馬駅。早朝のせいか人は少ないが、ここでも中国人が目立つ。駅横に、電車の先頭部と動輪が保存・展示されている。案内板によれば、昭和3年鞍馬線開通時の車両で、平成6年に引退するまで65年間走り続けてきたという。「この車両の一部を保存展示し、当社の歴史にその名を留めたいと思います」と結ばれている。

駅前に巨大な天狗のお面が睨んでる。鞍馬寺がある鞍馬山は天狗が住む山として、古くから都の人々に畏怖されてきた。鞍馬山の天狗は「僧正坊(そうじょうぼう)」と呼ばれ、日本各地に出没する天狗の総元締めだそうです。「鞍馬天狗」、東映映画の時代劇しか思い浮かばないが・・・。

 鞍馬寺・仁王門  


8時半、まだ静かな鞍馬寺の門前町を通り、仁王門前に着く。鞍馬駅から5分程の距離。紅葉が紅い天狗の顔とダブってくる。仁王門の両側には湛慶(たんけい、運慶の長男)作と云われる仁王尊像が睨みを利かせている。柱に掲げられた仁王門の説明書きに「寿永年間(1182-1184)に建立されたが、明治24年に炎上したので、明治44年に再建され、更に昭和35年に移築修理が加えられた。向かって左側の扉一枚は寿永の頃のものである。仁王像は湛慶作と伝えられ、明治の再建時に丹波よりお移しされたという」とある。門前の左右にあるのは、狛犬ではなく阿吽(あうん)の寅。唐招提寺の開祖、鑑真和上の高弟鑑禎が夢のお告げで鞍馬山に登ると鬼女に襲われたが、毘沙門天によって助けられた。その日が寅の月、寅の日、寅の刻だったので、鞍馬寺では寅を大切にしている。

仁王門奥に受付があり、登山費名目で300円徴収されます(公式サイトでは「愛山費」となっている)。通路中央に「浄域」の立て札が。これから俗界を離れ浄域の世界に入るのです。正面石垣下に、観音様の漣華から流れ落ちる浄水があります。汚れを落とし清浄な気持ちで山へ入りましょう。
受付所には、熊出没への注意書きが貼り出されている。これは清浄な気持ではいられないゾ・・・。

鞍馬山の模型。晋明殿内にあったものです。

 晋明殿と鬼一法眼社  



仁王門からすぐの所に晋明殿がある。1992年に建てられ、一階の正面に智慧の光を象徴する毘沙門天像を祀っている。

晋明殿の二階は、鞍馬山鋼索鉄道ケーブル山門駅となっている。昭和32年鞍馬山ケーブルが敷設され、鞍馬寺という宗教法人が運営する珍しい鉄道会社。多宝塔駅まで、距離は200m、約2分で着くという日本一短い鉄道。料金は、運賃でなく”寄進料”で片道200円。「鞍馬山ケーブルは、足の弱い方や年配の方が少しでも楽に参拝できるように敷設されたもので営利事業ではありません。 そこで運賃を戴くのではなく、鞍馬山内の堂舎維持にご協力いただいた方に、そのお礼としてケーブルを利用していただくということになっています」とおっしゃっておられます。
ケーブルを使うと坂道を登らなくてもよいが、九十九折参道には、鬼一法眼社や「鞍馬の火祭り」で有名な由岐神社など見所もある。ケーブルに乗ってしまうとそれらに寄ることができない(帰りに寄る、という方法はあるが)。お寺も「清少納言や牛若丸も歩いた道です。健康のためにも、できるだけお歩き下さい」と、ケーブルカーを利用しないことを薦めている。良心的ですネ。

健康のため歩きます。すぐ右手に小橋と紅い社が見えてくる。牛若丸に兵法を授けたと云われる武芸の達人・鬼一法眼(きいちほうげん)を祀っている「鬼一法眼社」です。
鬼一法眼は伝記「義経記」に登場する人物。京の一条堀川に住んでいた陰陽師で、文武両道にもすぐれ、中国から伝わった天下の兵法書「六韜三略」(りくとうさんりゃく)を秘蔵していた。17歳の義経は噂を聞き、見せて欲しいと頼んだが断られてしまう。そこで一計をめぐらし、法眼の娘と親しくなり、鬼一の館に出入りする。そして密かに盗み読みし暗記してしまう。こうして義経の武芸者としての基が築かれていった。
鬼一法眼は創作か?、実在したか?。その後、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目「鬼一法眼三略巻」の題材となって庶民を楽しませてくれている。

右手崖上の祠には、鞍馬寺の本尊の一尊である護法魔王尊が祀られている。その前が「魔王の滝」と呼ばれ、修行の場だったようです。

 由岐神社(ゆきじんじゃ)  



「鞍馬の火祭り」で有名な由岐神社が見えてきた。入口の門と思いきや、そうではなかった。これは本殿前の拝殿です。案内板に「重要文化財の拝殿は、慶長12年(1607)、豊臣秀頼によって再建されたもので、中央に通路(石階段)をとって二室に分けた割拝殿という珍しい桃山建築で、前方は鞍馬山の斜面に沿って建てられた舞台造(懸造)となっている」と書かれている。割拝殿(わりはいでん)は幾つか見てきたが、舞台造(懸造)で通路が階段というのは初見です。

割拝殿を潜り、御神木の大杉の横の階段を登ると由岐神社の本殿です。
祭神は、大己貴命と少彦名命。由緒書きに「天変地異が続く都を鎮めるため、天慶3年(940)、御所内に祀られていた祭神をこの地に勧請したのが当社の始めとされ」とある。京都の北方を鎮護する神社として創建された。世の平穏を祈願して、矢を入れて背に負う「靫(ゆき)」を祀っていたことが、現在の神社名の由来となったという。
その祭神勧請の際に、村人がかがり火を焚き、鴨川の葦で作った松明をもって迎えたという。それにちなんで毎年10月22日に行われるのが例祭「鞍馬の火祭」です。松明が燃えさかる火の祭典として知られ、京都三大奇祭の一つとなっている。

 九十九折(つづらおり)参道  


仁王門から緩やかな坂が続いている。標高は、仁王門が250m、本殿金堂が410m。高低差160m、約1キロの坂道を登ってゆきます。折れ曲がっているところから「九十九折参道」と呼ばれている。由岐神社辺りから、本格的な九十九折の坂道となる。

由岐神社を出てすぐの左手の階段上に義経公供養塔がある。この辺りには、かつて多くの僧院が建っていたようだ。その一つに東光坊阿闍梨(とうこうぼうあじゃり)の僧坊跡があります。遮那王と名乗った幼少の牛若丸(源義経)は、7歳から約10年間ここに預けられ住み、昼は学問、夜は奥の院まで通い武芸に励んでいたという。牛若丸伝説はこの僧坊で暮らしていた時のお話です。その後義経は、16歳の時鞍馬寺を出て、関東から奥州平泉に下ります。
僧坊跡に、義経公を偲んで昭和15年(1940)に義経公供養塔が建立されました。

右側の赤い社は「川上地蔵堂(かわかみじぞうどう)」。ここの地蔵尊は義経公の守り本尊であったと伝えられ、牛若丸が日々修行に行くとき、この地蔵堂に参拝していたと伝わる。

小さな広場があり、新興宗教らしきモニュメントに出会う。「愛と光と力の像「いのち」」の説明書きがあり、読んでみると「この像は、鞍馬山の本尊である尊天(宇宙生命・宇宙エネルギー・宇宙の真理)を具象化したものです。像の下部に広がる大海原は一切を平等に潤す慈愛の心であり、光輝く金属の環は曇りなき真智の光明、そして中央に屹立する山は、全てを摂取する大地の力強い活力を表現しています。この愛と光と力こそは、宇宙生命・尊天のお働きそのものであり、先端の三角形はその象徴です」とある。なんと鞍馬寺が創作したモニュメントでした。白砂利が敷かれているのは枯山水庭園を意識しているのでしょうか?。「浄域」鞍馬山には不似合いに感じるのだが・・・。

「いのちの像」から双福苑をすぎ、しばらく緩やかな坂道を登って行きます。九十九折参道の中ほどに中門が構えている。中門は、もともと仁王門の脇にあったもので、勅使門または四脚門と呼ばれ、朝廷の使いである勅使の通る門でしたが、この場所に移築されました。

門をくぐり、更につづら折りの坂を登って行く。この中門からは敷石の道になり、本殿金堂まで石造りの階段が多くなる。
この九十九折(つづらおり)の道は清少納言が『枕草子』で「近うて遠きもの、鞍馬のつづらおりといふ道」と書き残しています。変化にとみ、日陰で心地よく、緩やかな坂道なので「近うて遠きもの」という感じはしませんでした。清少納言の時代は、これほど整備されていなかったのでしょう。
次の折れ曲がり位置に、奥に直進する道がある。この道は「新参道」と呼ばれ、鞍馬寺ケーブルの終点・多宝塔駅からの平坦な道です。ここが合流点です。

最後の急階段が待っている。これを登ると本殿金堂前にでる。階段中ほどに転法輪堂(洗心亭)がある。転法輪堂は昭和44年(1969)の建立で、内陣に丈六の阿弥陀如来像が安置されている。併設されている洗心亭は、参拝者のための無料休憩所とギャラリー。簡単な軽食も用意されているそうです。





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紅葉の高雄・三尾めぐり 5

2016年12月25日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 高山寺の境内図と歴史  


指月橋から20分くらいで、高山寺入口が見えてきます。周山街道の左脇から坂道を登って行く。落ち葉の散乱するなか、ゆるやかな山道を登る。参道の雰囲気はありませんが、この道が高山寺への表参道なのです。現在では、バス停に近い裏参道が”表”になっていますが。「世界文化遺産」の碑もある。平成6年(1994)、高山寺だけが「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されたのです。

表参道を進んで行くと入山受付小屋がある。ここで入山料:500円支払う。8時半~17時、無休。
通常は無料で境内に入れるそうですが、紅葉の季節になると表参道、裏参道共に参道の途中に小屋が設けら、入山料を徴収される。

高山寺境内略図(受付でのパンフより)

寺伝によれば、宝亀5年(774)光仁天皇の勅願によって華厳宗寺院「神願寺都賀尾坊(しんがんじとがのおぼう)」と称し開創されたのが始まりとされる。弘仁5年(814)には「栂尾十無尽院」に改称。深い山中の山寺で、隠棲修行の場所であったらしい。
荒廃していたが、神護寺の文覚の弟子であった明恵(1173-1232)が入り、建永元年(1206)後鳥羽上皇から「日出先照高山之寺」の額を下賜された。これにより寺名を「高山寺」と改称した。これが実質上の高山寺の開基とされる。
その後、藤原氏から厚い保護を受け栄えたが、室町時代の戦乱で石水院以外の伽藍を焼失する。江戸時代に入って復興が進められ、現在のような姿に再建されたのは寛永13年(1636)になってから。

平成6年(1994)年世界文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。

 石水院(国宝、鎌倉時代)  



受付所から真っ直ぐ進む参道は「金堂道」と呼ばれ金堂へ達する。右に折れる道は国宝・石水院へ行く。まず石水院から訪れることに。

「石水院」は明恵上人が後鳥羽上皇から学問所としてら賜った建物で、「五所堂」とも呼ばれた。13世紀前半鎌倉前期の建築で、明恵上人時代の唯一の遺構といわれている。明恵の住房だったとも、経蔵だったとも伝わる。
創建以来、何度も移築と改造を繰り返されてきた。現在の石水院は、明治22年(1889)に金堂横から移築されたもの。
こうして変遷多い石水院だが、国宝に指定され続けているのは、明恵上人の時代唯一の遺構であることと、鎌倉時代の初期における寝殿造の特徴を残していることによる。
先ほど受付で入山料500円徴収されたが、石水院に入るには、さらに800円の拝観料が必要である。ネットで数年前のデータでは600円だったのだが・・・。入山料は紅葉時期だけだが、石水院の拝観料は通年です。


履物を脱ぎ客殿に上がる。左に畳に間を見ながら、渡り廊下をでつながっている石水院へ。廊下の先では、一人の女性が座り込み、しばらく動かないまま室内を見入っていました。
渡り廊下の先が石水院の西面で正面にあたる「廂(ひさし)の間」です。この「廂の間」は立ち入ることが出来ず、外側の廊下を通ることに。板敷きの間で、壁のようなものは無く、菱格子戸と吊り上げられている蔀戸(しとみど)によって開放的になっている。

「廂の間」の中央に「善財童子(ぜんざいどうじ)」の小さな木像がぽつんと置かれている。陰影を落とす薄暗い板敷きと、愛くるしい小像のポーズとが何ともいえない絵を作り出しています。開け放たれた蔀戸からみえる遠景の紅葉も良い。何時までも見とれていたいシーンです。

善財童子は「華厳経」という経典に出てくる求法の旅をした童子で、菩薩行の理想者として描かれている。 インドの裕福な家に生まれたが、仏教に目覚め文殊菩薩の導きによって旅に出る。53人のさまざまな人々(善知識)を訪ね歩き、知恵や経験を学びました。そして修行を積み、最後に普賢菩薩の元で悟りを開いた、と伝えられています。
こうした善財童子を明恵上人は敬愛し、住房に善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いていたという。あの徳川家康も、善財童子の話に感銘し、江戸から京都までの宿駅を五十三と定めたという(東海道五十三次)。ホンマかいな?

ここに置かれている善財童子像は、西村虚空氏(1915~2002)が 石水院に過ごしながら彫った一木造りの像。西村虚空氏は、熊本県出身の彫刻家、画家ですが、尺八の世界でも有名な方です。


高山寺で紅葉の楽しめるのは、開山堂とこの石水院周辺だけです。ここ以外は杉林に囲まれ、鬱蒼とした山中という風景。石水院拝観料:800円は、仏像の拝観と錯覚しそうですが、仏像はありません。紅葉の拝観料です(紅葉がなくても拝観料とられますが・・・)。ですから800円分紅葉を鑑賞することになる。他の人に迷惑かからない程度に、足を投げ出し寝転んで鑑賞します。ただ神護寺、西明寺の素晴らしい紅葉を見てきた後だけに、それほど・・・。
右のガラスケースには鳥獣人物戯画の二~四巻の縮小版を展示している。

南縁の奥の間には、幾つか展示物が置かれている。欄間には「日出先照高山之寺(ひいいでて まずてらす こうざんのてら)」の扁額が掛っています。これは後鳥羽上皇(1180-1239)自筆と伝えられ、寺名の起源となったものです。「華厳経」に由来し、「日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山だ」という意味で、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められているそうです。

この南縁の室内に入った所にガラスケース入りで、高山寺を代表する宝物・鳥獣人物戯画が展示されている。もちろん模写品です。国宝で教科書にも載り、誰でも名前だけは知っている。オリジナルは、甲・丙巻が東京国立博物館に、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託保管されている。現在(10/4~11/20)は九州国立博物館で、”九州初上陸”と銘うって特別展が開かれている。
「鳥獣人物戯画」は甲乙丙丁の4巻からなる墨絵で彩色はない。甲巻、乙巻は平安時代後期(12世紀後半)、丙丁巻は鎌倉時代(13世紀)の制作と推定されている。昔、学校で鳥羽僧正作と習ったが、現在では4巻それぞれ作者は異なり、作者未詳のようです。

 高山寺(茶園、開山堂、金堂)  


石水院とは参道を挟んで反対側に、日本最古の茶園といわれる茶畑があります。竹柵で囲われ、入口に「日本最古之茶園」の石柱が建つ。
ここが我が国のお茶の発祥地。鎌倉時代初期、臨済宗の開祖として知られる栄西(1141-1215)は、留学していた中国の南宋より茶の種と茶を抹茶にして飲む喫茶手法を日本へ持ち帰った。明恵上人はその栄西より茶の種を分けてもらい、それを高山寺の境内に植えて茶園を開いた。山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。当初は薬、覚醒用に利用されたが、その後、宇治へ伝わり、そして日本各地へと広まっていった。
現在この茶園は宇治の篤志家により管理され、5月中旬に茶摘みが行われ、毎年11月8日には新茶が明恵上人廟前に献上されるそうです。

参道を少し登ると、右手に紅葉に覆われた開山堂が見える。前はちょったした広場になっており、ここも紅葉が美しい。
開山堂は、明恵上人が晩年を過ごし、入寂した禅堂院(禅河庵)の跡地に立つ。建物は室町時代に兵火をうけて焼失し、江戸時代の享保年間(1716-1736)に再建されたもの。明恵上人坐像(重要文化財、鎌倉時代、木造彩色)が安置されている。開山堂裏の、石段を登った小高い所に明恵上人御廟があります。
 
明恵(みょうえ、1173-1232)上人は、高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされる。紀州有田郡吉原(現在の和歌山県有田川町)の生まれ。8歳で両親を亡くした孤児となり、1181年9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入った。東大寺や建仁寺で学んだ後、建永元年(1206)34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。これにより寺名を「高山寺」と改称した。これが実質上の高山寺の開基とされている。

境内で最も奥の、鬱蒼とした杉木立の中に金堂が建てられている。一重入母屋造、銅板葺で、本尊「釈迦如来像」が安置されている。元々はここには本堂があったが、室町時代に焼失してしまう。現在の金堂は、寛永11年(1634年)に御室仁和寺から古御堂を移築したたものである。

金堂右手100m位の所に、以前の石水院の跡が残されています。

 サァ、帰ろう  


金堂からそのまま真っ直ぐ下れば表参道ですが、帰りは裏参道へ降りてみます。石水院のすぐ横に細道があり、栂ノ尾バス停へ降りる近道になっている。かなりの急坂で、下りるとすぐ目の前が栂ノ尾バス停です。バスでやって来て、この坂を登ってお参りされる人もおられるので、途中に入山料徴収小屋も建てられ、「裏参道」と呼ばれています。最近ではバスやマイカーで来られる人のほうが多く、表裏が逆転しているようだ。紅葉の見ごたえは裏が断然です。

栂ノ尾バス停。バスから降りると、すぐ目の前が高山寺の裏参道。表参道の方は距離も長く、紅葉もありません。裏参道を利用する人のほうが断然多い。裏表が逆転しています。ただ裏参道は急坂ですよ。

高山寺前の栂ノ尾バス停から帰りのバスに乗ってもよかったのだが、高雄バス停の坂道の紅葉を見たかったので神護寺まで引き返すことにした。30分くらいで神護寺前の高雄橋に着く。高雄バス停へ登る階段がある。七曲の坂道を登って行きます。この坂道を降りてくる人も多い。バス停や駐車場があるからです。

見下ろしても、見上げても紅葉一色。普通に歩いて5分程度の坂道ですが、この景観ですので3倍ほどかかりました。バス停には多くの人が並んで待っている。紅葉シーズンですが、30分に1本位しかありません。ですからかなり混みます。14時20分発のJRバスで四条大宮へ。四条大宮まで40分ほど。阪急電車で大阪へ。16時日本橋着。紅葉を満喫できた一日でした。

 古文書「阿不幾乃山陵記」(あふきのさんりょうき、重要文化財)について  


高山寺に残されていた「阿不幾乃山陵記」についてチョットばかり興味があった。

古文書「阿不幾乃山陵記」を知るには、まず天武・持統天皇御夫婦のお墓について説明しなければならない。天武天皇は土葬で、持統天皇は天皇として初めて火葬され、御夫婦そろって同じ「大内陵(おおうちのみささぎ)」(日本書紀、「延喜式」では「檜隈(ひのくま)大内陵」)に合葬されたと伝わる。問題はその「大内陵」がどこかです。有力地が二つあり、江戸時代から論争されてきた。一つが明日香村にある野口王墓古墳、もう一つが近鉄吉野線の岡寺駅前にある見瀬丸山古墳。両者のどちらが、天武・持統合葬陵であるかは、以降明治時代まで混乱が続いた。
見瀬丸山古墳は、奈良県では最も大きく全国でも六番目の大きさを誇る全長318mの前方後円墳。内部の横穴式石室に巨大な家形石棺が二つ納められていた。また幕末の著名な山陵家である蒲生君平や北浦定政などが主張したことから、幕末から明治の初めにかけて、見瀬丸山古墳が天武・持統天皇の合葬墓で、野口王墓古墳は文武天皇陵とされてきた。

この天武・持統天皇陵は、鎌倉時代の文暦2年(1235)に大規模な盗掘にあい、多数の副葬品が奪われたことが知られていた。当時、京の都でも大騒ぎになったという。「新古今和歌集」の選者・藤原定家も日記「明月記」の中に、人づてに聞いた話として「持統天皇の遺骨を納めていた骨蔵器が銀製であったため、盗賊がこれを墓の外へ持ち出し、持統天皇の遺骨を路上に捨てて銀製骨蔵器だけを持ち去った」と記している。その後、盗掘者は逮捕され京の街を市中引き回しにされたという。

明治13年(1880)、ここ高山寺で「阿不幾乃山陵記」(あふきのさんりょうき)という古文書が見つかった。これは上記の盗掘事件後、勅使(鎌倉幕府の役人か、あるいは天皇の勅使が)が派遣され実地検分した時の記録です。「阿不幾」は「青木」と同音で、野口王墓古墳が昔から「青木御陵」と伝承されていたことからくる。この古文書は、高山寺の僧・定真(じょうしん)が書き残したもの。明恵上人亡き後、直弟子たちがそれぞれ塔頭を持って高山寺を守ってきた。その中の一人が方便智院の定真です。この方便智院に保存されていたそうです。
陵墓内の石室・棺の大きさ・形状・配置などが寸法入りで詳しく記されている。金銅製の棺台の上に置かれた漆塗り木棺と、金銅製の外容器に銀製の骨臓器があったと記される。このことから前者が天武天皇で、後者が火葬された持統天皇のものだと断定された。

明治政府は翌明治14年2月、天皇陵の変更を行い、野口王墓古墳を天武・持統合葬陵である「檜隈大内陵」として正式に治定し、塚穴古墳(高松塚古墳のすぐ南)を文武天皇陵に治定し直した。なお、治定からはずされた見瀬丸山古墳は、今なお後円部の一部を陵墓参考地として宮内庁の管理下においている。

現在、天皇陵古墳は宮内庁の「静安と尊厳を維持」の方針によって、研究者の調査どころか立ち入りさえ認められていない。ほとんどの古代天皇陵は謎のままで、被葬者さえ確定されていない。そうしたなか野口王墓古墳は、「阿不幾乃山陵記」によって天皇陵内部の詳細な様子が判明している唯一の天皇陵で、唯一被葬者が確定できる古墳だそうです。

このような貴重な歴史資料だが、高山寺を訪れ、何も得られなかった。案内にもパンフレットにも載っていない。ところが九州で開催されている「特別展 鳥獣人物戯画」のパンフレットが置かれていた。現在(10/4~11/20)九州国立博物館で、”九州初上陸”と銘うって「鳥獣人物戯画」の特別展が開かれているのです。その出品目録の中に
●「阿不幾乃山陵記 (作者)定真筆  1巻 鎌倉時代 13世紀 (所蔵)千葉・国立歴史民俗博物館」
とあった。そこで「千葉県の文化遺産」をネットで調べると
●「9221 阿不幾乃山陵記(方便智院本) 古文書 鎌倉 国立歴史民俗博物館」とあります。
国の文化財データのサイトにも載っており
●「所在地:国立歴史民俗博物館 千葉県佐倉市城内町117、所有者名:大学共同利用機関法人人間文化研究機構」となっている。
何らかの事情で高山寺を離れ、関東に流れてしまっています。昭和39年(1964)、国の重要文化財指定を受ける。


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紅葉の高雄・三尾めぐり 4

2016年12月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 槙尾山・西明寺へ向かう  



神護寺参道の長い階段を降り、高雄橋に戻る。高雄橋を渡り、清滝川に沿って上流に歩き、西明寺を目指します。高雄はどこを見ても紅葉だらけですが、この周辺は清滝川の清流と谷間、紅い橋があり、ひときわ絵になる場所です。

清滝川に添って散策路が続いている。車はほとんど見かけない。高雄橋から西明寺の入口にあたる指月橋(しげつきょう)まで15分位でしょうか。清流とカエデの紅葉を堪能しているうちに着いてしまいます。

高雄はどれも紅い橋だが、途中に場違いな橋が現れる。これが潅頂橋(かんじょうばし)で、西明寺への近道で「裏参道」と呼ばれている。少し歩いてみたが、参道の雰囲気が感じられないので引き返す。

紅葉に見とれて歩いているうちに、赤い欄干の橋が見えてきた。西明寺の入口にあたる「指月橋」(しげつきょう)です。この指月橋周辺は、高雄でも1,2を争う紅葉の景勝地。橋上で、東南アジア系のカップルが派手な結婚衣装で抱き合い、カメラ(ビデオ)におさまっていました。

 西明寺:指月橋から表門へ  



鮮やかに色づいたカエデに迎えらて、指月橋を渡る。入山拝観券に「見下げても 見上げてもよし 槙尾山」と書かれていますが、この指月橋周辺も「見下げても 見上げても」絵になる絶景地。橋の手前には「槙尾山聖天堂」の石柱が建つ。

指月橋を渡ると拝観受付があり、拝観料500円支払う。但し、紅葉の時期以外は境内拝観自由で、本堂拝観のみ400円だそうです。拝観時間:9時~17時、無休。
西明寺も山岳寺院なので参道の石階段を登って行くことになる。神護寺ほど距離はありません。この階段が苦になる人は、緩やかなスロープだけの裏参道を利用されると良い。階段を登りきると表門です。表門は、本堂と同じ元禄13年(1700)の桂昌院の寄進により造営されたもの。

 槇尾山・西明寺(まきのおさん・さいみょうじ)  


表門を潜ると、すぐ正面が本堂です。現在の本堂は、元禄13年(1700)に五代将軍 徳川綱吉の生母 母桂昌院(けいしょういん)の寄進により再建されたものと言われるが、東福門院(後水尾天皇中宮)の寄進によるとする説もある。

本堂正面の須弥壇上の図厨子内には、本尊の木造釈迦如来立像(重要文化財)が安置されている。高さ51cmほどの小さな仏像で、鎌倉時代に仏師運慶によって彫られたものという。



本堂脇の縁越しに庭園が見える。小さい庭だが、緑の植栽や苔と、それに覆いかぶさる紅葉が美しい。









本堂の前に槙(まき、高野槙)の大木が立っています。傍の案内板には、樹齢700年で「日本最古の槙の木の一本」とある。この木が「槇尾(まきのお)」の名前の由来となったそうです。

西明寺は真言宗大覚寺派の寺院。山号は「槇尾山(まきのおさん)」、本尊は釈迦如来。受付所で頂いたパンフに、西明寺の由来について
「天長年間(824~34)に弘法大師の高弟智泉大徳が神護寺の別院として創建したのに始まると伝える。その後荒廃したが、建治年間(1275~78)に和泉国槇尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。また正応三年(1290)に平等心王院の号を後宇多法皇より命名賜り、神護寺より独立した。さらに、永禄年間(1558~70)に兵火にあって焼亡したが、慶長七年(1602)に明忍律師により再興された。現在の本堂は、元禄一三年(1700)に桂昌院の寄進により再建されたものである」
と記されている。


西明寺の境内は広くはありませんが、どこを眺めても紅葉一色。紅葉シーズンだけ、境内有料となるのもわかります。

 高山寺へ向かいます  


ちょうど正午、指月橋を後にし高山寺に向かいます。静かな道を歩き進むと、5分位で周山街道(国道162号線)に突き当たる。ここからは車の往来の激しい周山街道を歩かなければならない。これといった景色もなく、車に神経使わされるだけ。

高山寺までの中ほどに紅い欄干の白雲橋がある。国道といえ、場所柄紅い橋になっている。この周辺だけが紅葉を楽しめます。しかし車は多いですが。


詳しくはホームページ
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紅葉の高雄・三尾めぐり 3

2016年12月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 神護寺境内図  



境内は広い。山岳寺院ですが、境内に達してしまえばそれほど高低差はありません。紅葉の最盛期なので、境内全域が紅く色づいている。
楼門を入った右手に、手前から順に書院、宝蔵、和気公霊廟、鐘楼、明王堂が建ち、その先には五大堂と毘沙門堂が南向きに建つ。毘沙門堂の後方には大師堂がある。五大堂北側の石段を上った正面に金堂、その裏手の一段高いところに多宝塔が建つ。「かわらけ投げ」の地蔵院は境内西端です。

 和気清麻呂公霊廟と鐘楼  


朱塗りの板塀で囲まれているのが和気清麻呂公霊廟。もとは和気清麻呂公を祀った護王社があったが、明治19年(1886)に京都御所の西に移転し護王神社となった。この霊廟は昭和9年(1934)、山口玄洞寄進により建立されたもの。
左階段上が鐘楼です。入母屋造、こけら葺、袴腰の鐘楼は、江戸時代の元和年間(1615-1623)に建立されたもの。その鐘楼の中には国宝の梵鐘が吊るされている。「姿の平等院」、「声の三井寺」とともに「銘の神護寺」といわれ「日本三名鐘」の一つに数えられている。平安時代の貞観17年(875)の鋳造で、序の詩は学者・橘広相、銘は文人・菅原是善、書は歌人・藤原敏行によるのもで、当時の一流文人の合作で「三絶の鐘」とも呼ばれた。総高149cm、口径80.3cm。

 五大堂・毘沙門堂・大師堂  



右の五大堂は元和9年(1623)の建築で、入母屋造・銅板葺きの三間堂。不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉の五大明王像を祀っている。

五大堂の南に建つ毘沙門堂(写真では左)は江戸時代の元和9年(1623)の建築で、入母屋造、銅板葺の五間堂。昭和9年に新しく金堂が建つ前は、この堂が金堂で本尊の薬師如来像を祀っていた。現在は、厨子内に毘沙門天立像(平安時代、重文)を安置している。

毘沙門堂の西側に建つ大師堂(重要文化財)は入母屋造、こけら葺きの仏堂。神護寺の前身だった高雄山寺時代に空海が住まいとしていた「納涼房」を安土・桃山時代に復興したもの。内部の厨子に正安4年(1302)作の板彫弘法大師像(重要文化財、秘仏)を安置する。

 金堂と多宝塔  



金堂が、五大堂・毘沙門堂を見下ろすように、広い石段上に南面して建つ。この時期、艶やかなカエデ紅葉に彩られ、絵になる階段です。

金堂は昭和9年(1934)に実業家・山口玄洞の寄進で建てられたもの。入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂で、昭和仏堂建築の傑作とされる。須弥壇中央の厨子に本尊の薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光・月光菩薩立像(重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。
金堂の背後の小高い位置に建っているのが多宝塔。ここも紅葉の美しい場所です。
金堂と同じく昭和9年(1934)に、実業家・山口玄洞の寄進で建てられたもの。内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置する(毎年5月と10月に各3日間ほど公開)。

 和気清麻呂公の墓所  



金堂の右奥に、山中に入る二筋の小道がある。入口に道しるべの石標が建てられ、「右 和気清麻呂公御墓参道」、「左」には性仁法親王・文覚上人の墓への道を示している。なお高雄山(標高428m)山頂へも、この左の道を登るそうです。




石標に従い右の小道を入っていく。平坦な山道で、10分位で垣根に囲まれた和気清麻呂公の墓所が現れる。
神護寺を創建した和気清麻呂公は、延暦18年(799)67歳で亡くなると、高雄山中にその墳墓が祀られた。この墓碑は、明治31年(1898)に建てられたもの。


 かわらけ投げ  



地蔵菩薩像を祀る地蔵院前の広場、境内で一番紅葉が美しい場所です。


ここが、いわゆる「かわらけ投げ広場」で、「かわらけ投げ」の発祥地。売店で2枚100円で、直径5cmくらいの素焼きの皿「かわらけ」を売っている。「記念に持って帰る」と言ったら、売店のあばさんに怒られた。”厄を家に持って帰ってどうするの!”って。それもそうだ、厄払いのために投げるんだから。
投げる人、覗き込む人、写真撮る人、さまざまです。なかなかうまく飛ばない。紙ヒコーキのようにふんわり飛ぶより、スッーと消えたほうがよいのかも。厄だから。ここはちょうど清滝橋の真上辺りでしょうか。清滝川まで飛ばすのは、まず無理でしょう。

 伝・源頼朝像  


何かでよく見たことのある肖像画です。これは神護寺に伝わっていた国宝「伝・源頼朝像」。日本の肖像画史上の傑作として名高い。寺の史料である『神護寺略記』によって源頼朝とされてきたが、近年では異説も多く確定できない。そのため、国宝の指定名称にも「伝」の字が付されている。
絹本著色、大きさは縦143cm、横112.8cmで、ほぼ等身大に描かれている。筆者は藤原隆信というのが通説だったが、これも最近否定されてきているようです。
神護寺の所蔵だが京都国立博物館に寄託されている。毎年5月1日~5日に開かれる「曝涼(虫干し)展」では、神護寺に里帰りし一般公開されるそうです。
(写真は小冊子「高雄山 神護寺」より)


詳しくはホームページ
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紅葉の高雄・三尾めぐり 2

2016年12月06日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 清滝橋から高雄橋へ  


清滝橋上で上流を見ればダムのようなものが見える。これが”危い”と注意書きにあったダムなのうだろうか。
清滝橋を渡り、神護寺の正面に行く途中。神護寺の手前でこの絶景です。11月中旬だがもう満開、いや見頃となっている。神護寺の紅葉は京都で最も早く見頃を向かえ、京都の紅葉シーズンの始まりを示すという。
川向の「もみじ屋」別館へ渡るつり橋。「もみじばし」とあり、「ゆすったりしないで下さい」と書かれている。歩くだけで微かに揺れ、少々気持ち悪い。「もみじ屋」だけあって、絵になるもみじ風景です。この別館は「川の庵」と呼ばれ、本館は裏山の上にある。即ち高雄バス停の横。山上の本館からの眺めも素晴らしいようです。
この辺は神護寺の正面からは反対側になるので、訪れる人は少ない。皆さん、こんなに素晴らしい景観があるのをご存知ないのでしょう。高雄観光ホテル先に紅い「高雄橋」が見えてきた。ホテル横の川沿いには川床小屋が並んでいる。
高雄観光ホテルのすぐ先に、紅い欄干の高雄橋が現れる。右山上に高雄バス停や駐車場があり、坂道を下りてくればすぐ高雄橋です。だからこの高雄橋が実質上、神護寺の入口になり、この辺りから人が多くなってきます。

 参道の階段  


山岳寺院である神護寺の境内もかなり高い所にあり、階段はつきもの。階段は長いが、それほど傾斜がきつくないので苦無く登れます。なによりズッーと紅葉に覆われているので、”綺麗ネ!、ワァー絶景!”と楽しみながら登っていける。途中にお茶屋さんもあるので、休憩もできる。
お茶屋さんはお茶だけでなく、うどん、そば、おでん等のお食事もできます。名物「もみじまんじゅう」も。
参道の丁度中ほどに「硯石」(すずりいし)がある。案内板には次のように書かれている。
「空海弘法大師が神護寺に在山の時、勅願の依頼を受けられたが、急な五月雨で橋が流されたため、この石を硯として対岸に立てかけた額に向けて筆を投げられたところ、見事に「金剛定寺」の四文字を書かれたという。但しこの寺は現存していない」
弘法大師のこういう話は、どこにいっても尽きないネ。それだけ弘法大師が崇拝されていたということでしょうが。
「硯石」の傍には茶屋「硯石亭」があります。ここの名物は「もみじ餅」。他にもぜんざいや湯豆腐セットなども。しかし何と言っても一番は紅葉の美しさ。庭に入って眺めるのは自由ですが、座ってはいけません。座りたかったらぜんざいを。

 神護寺の楼門が見えてきた
  



楼門が目の前に見えてきた。階段は辛い、という人のために滑らかな坂道も用意されている。階段中央のテスリも高齢者には優しいですネ。両側の緑と紅色のグラデーションが冴えます。長い階段の参道でしたが、しんどくありませんでした。
階段途中で、硯石亭のお庭を見下ろす
登りつめると拝観受付所のある正門にあたる楼門です。鬼瓦に寛永6年(1629)の刻銘があるので、その頃の建立とされる。両脇には持国天、増長天が睨んでいます。
ここで拝観料 500円払って門を潜る。拝観時間 朝9時~夕4時,無休(ただし、紅葉の時期は朝8時から拝観できるようです)


楼門から階段を見下ろします。この時期紅葉に彩られ美しい。春の新緑も冴えそうです。

ここまで400段余りの階段があるという。しかし単調な階段でなく、折れ曲がったり、紅葉を楽しんだり、またお茶屋で一服しながら登ってきたので、あっという間でした。



 神護寺の歴史  


★ 始まり ★
奈良時代末期、桓武天皇から新都建設の最高責任者(造宮大夫)を命じられ、平安京造営に力を尽くした和気清麻呂(わけのきよまろ、733~799)は、天応元年(781)国家安泰を祈願し河内国(現在の大阪府)に神願寺(しんがんじ)を建立した。またほぼ同じ時期に、山城に愛宕五坊(白雲寺・月輪寺・日輪寺・伝法寺・高雄山寺)の一つ「高雄山寺」を建立した。
高雄山寺(現在の神護寺)は和気氏の氏寺としての性格が強く、延暦18年(799)清麻呂没後、高雄山寺にその墓所が造られ、和気氏の菩提寺としての性格を強める。

★ 最澄、空海の時代 ★
清麻呂の子息(弘世、真綱、仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄(767~822、伝教大師)、空海(くうかい、774-835、弘法大師)を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込む。

延暦21年(802)、和気氏の当主であった和気弘世(清麻呂の長男)の要請により、比叡山中にこもって修行を続けていた天台宗開祖・最澄が、高雄山寺で法華経の講説を行う。
延暦23年(804)最澄と空海は遣唐使として唐へ。
延暦24年(805)唐より帰朝した最澄は、桓武天皇の要請で高雄山寺にてわが国最初の灌頂壇を開く。
大同元年(806)空海、唐より帰朝。最澄は、帰国後1か月にもならない空海のもとに弟子・経珍をやり、空海が唐から持ち帰った経籍12部を借覧し、その後も借り続けた。
大同4年(809)空海は高雄山寺の初代の住持に迎えられ入寺する。以来14年間住み活動の拠点とし、高雄道場と呼んで真言宗を開くための基礎を築いた。
弘仁元年(810)、空海は高雄山寺において鎮護国家の修法を行う。
弘仁3年(812)最澄は弟子と共に高雄山寺に赴き、空海から灌頂(密教の重要な儀式)を受ける。この時、灌頂を受けた僧俗名を列記した空海自筆の「灌頂歴名」が現存し、国宝になっている。
この間数年間にわたり、高雄山寺を中心に最澄、空海の親交が続けられてきた。

ところがWikipediaには以下の記述がある。
「813年1月、最澄は泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山寺に留まった。しかし、このうち泰範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった。
813年11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。」
その後、最澄は空海と決別したという。

弘仁七年(816)、空海は高野山を修禅観法の道場としてその開創に着手。
弘仁13年(823)、最澄、比叡山の中道院で没、享年56歳。
弘仁14年(823)、空海は東寺を賜って住み、鎮護国家の道場としてその造営を任されている。

天長元年(824)清麻呂の子・真綱は、河内の神願寺が低湿の砂地にあり、汚れた地で密教壇場にふさわしくないという理由で高雄山寺と合併し、高雄山寺を定額寺として「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」(略して神護寺)と改称した。「神護国祚真言寺」とは、「八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺」という意味。合併の際に多くの霊宝が移された。現在、神護寺の本尊として金堂に安置される薬師如来立像(国宝)もその一つ。
承和2年(835)空海の死(62歳)。

★ 文覚上人による神護寺の再興 ★
神護寺は空海の後、弟子の実慧や真済が別当(住職)となって護持されたが、正暦5年(994)と久安5年(1149)年の二度の焼失で堂塔のほとんどを失なう。その後、神護寺は衰退、荒廃していく。
平安末期の仁安3年(1168)、文覚上人(もんがく、1139-1205)が神護寺に参詣すると、八幡大菩薩の神意によって創建され、弘法大師空海ゆかりの地でもあるこの寺が荒廃していることを嘆き、再興を始めた。早速草庵をつくり、薬師堂を建てて本尊を安置した。しかし復興が思うにまかせぬため、承安3年(1173)意を決した文覚は後白河法皇を訪ね、千石の収入のある荘園の寄進を強要した。そのため、法皇の逆鱗にふれ、伊豆に配流されてしまう。その伊豆で、同じ運命の源頼朝と親しくなり、平家打倒の挙兵を促したと伝えられている。
治承2年(1178)文覚は配流を許され寺に戻る。
寿永3年(1184)年、文覚上人が後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあ って寺の再興は進んだ。文覚自身は罪を得て対馬に流され、1205年配流先で生涯を終えた。遺骨は弟子・上覚により持ち帰られ、当寺に埋葬されたという。神護寺の再興は弟子の上覚と明恵によって続けられた。

★ 室町時代~江戸時代 ★
室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で再び兵火をうけ大師堂をのこして焼失しまう。
元和9年(1623)年、京都所司代・板倉勝重が奉行になり、細川忠興の帰依も得て、金堂(毘沙門堂)、五大堂(講堂)、明王堂、楼門などの伽藍の建て直しが行われた。江戸時代中期には堂宇七、支院九、僧坊十五を数えるまでに再興された。

★ 近代 ★
神護寺も例に漏れず、明治の神仏分離令(1868)による廃仏毀釈の弾圧を受ける。公式サイトには「ところが、明治維新後の廃仏毀釈によって愛宕山白雲寺は消滅、当寺も開創以来維持されてきた寺域はことごとく分割のうえ解体され、支院九と十五坊はたちまち焼失、別院二ヶ寺と末寺のすべては他寺に移された。」とあります。
少しでも残されただけでも幸いです。奈良県「山の辺の道」石上神宮近くの大寺院・内山永久寺は、全域果樹園に成り果てている。ただ一つ境内池が残され、松尾芭蕉がこの寺を訪れた時に読んだ句碑だけが寂しそうに立っています。

昭和10年(1935)、京都の豪商・山口玄洞の寄進により、金堂、多宝塔、清麻呂廟、唐門などの伽藍の再建、修復が行われた。
戦後の昭和27年(1952)、寺領の一部を境内地として政府より返還され今日に至っている。



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