倫理の起源53
「愛国心」についての考察をもう少し続ける。
素朴な祖国愛とか、愛郷心といったものはもちろんあり得る。しかしその場合に言われている「祖国」とか「郷」というのは、生まれ育った地域の自然と地続きになった風土であり環境である。それはこうした心情を個人に抱かせるに足るだけの具体的なイメージをはじめから具えている。そうしてそのイメージが個人の身体のなかに記憶として鮮やかに生きているのである。パトリオットとか、社稷(しゃしょく)といった概念が、この愛の対象としてふさわしいだろう。
たとえば戦場で命をかける場面において、多くの兵士たちがふるさとの山や川をわれから思い出し、それによって死に直面している自分の心境を彩ることがある。そのとき彼の内面は、自分のこれからの行動の意味を感性的な次元での共同観念によって満たそうとするのである。
だが残念ながら、これらの愛の対象としての共同観念は、近代国家の思想的骨格をなしているナショナリズムには、順接ではつながらない。それどころか、法的合理主義と政治的機能主義を統治のための看板に掲げる近代ナショナリズムは、民衆のパトリオティズム的心情やその象徴的な表現行動を裏切ることがあるし、事実、日本の近代史においてもしばしば裏切ってきた。神風連の乱、西南戦争、大本教弾圧、二・二六事件など。
またもちろん日本はとても生活しやすいから好きだとか、私は日本の伝統・文化・慣習を愛するといった言い方は大いに成り立つ。私自身もそういう感覚を持っている。しかしこの場合も、近代国家としての日本に対する「愛国心」という概念にそのまま接続するわけではない。というのも、「日本国」という虚構された運動の全体は、私たちの生活感覚からは格段に抽象度の高いレベルに置かれており、それは日ごろ国家のことなどまるで意識していない膨大な人々をもそのうちに包摂しているからである。
ある人が日本国民であることの要件は、本人がそのことを何らかの形で自覚しており、日本の法に服することを承認しており、かつ日本国籍を有するということだけであって、彼は日本人でありながら、日本の生活を忌避することもできるし、日本の伝統・文化・慣習を愛さないこともできる。つまり、いわゆる「愛国心」を持っていなくても彼はじゅうぶんに日本人なのである。逆に外国籍を持つ人であっても、日本の生活が好きであったり、日本の伝統・文化・慣習を愛する人はいくらでもいる。
私がここで何を言いたいのかというと、自分の内面に聞いてみて、家族や恋人や友人やペットを愛するのと同じように、これほど複雑な政体と社会構成をもつ「国家(近代国家)」なる抽象態を本当に愛していると断言できる人などいないのではないかということである。
もちろん、普通の人に「あなたは愛国心を持っていますか」と聞けば、多くの人が「持っている」「まあ持っている」と答えるだろう。しかしそう答えるのは、問いの形式に拘束されている部分が大きい。問いの存在しないところでは、「この日本国」を愛するという感情を日常的・かつ自覚的に抱いている人は、残念ながらそう多くないはずだ。自分たちの明日の生活をどうするかや、いかに幸せな人生を送るかが大半の人たちの共通した関心事であり、経済がそこそこ豊かで安定している限り、国家そのものを意識する人がそもそも少ないからである。そこにさらに、戦後半世紀にわたる反日・反国家イデオロギーの注入が加わる。国外からの脅威が現実的なものとなり、しかもそれが一般国民の生活空間にじかな実感として伝わってこない限り、潜在的な「愛国心」は行動につながるものとしては顕在化しないだろう。
かつて国家への「恋闕(れんけつ)」の情に己れを託して行動した思想家や文学者がいたが、それは多分に主観的な自己充足の回路に終わる観念であった。またそれは、近代国家が自身を直接的な「愛(エロス)」の対象として容易には受け入れがたい複雑で冷ややかな構造を持つからこそ、成就不可能な観念の恋として意味を持つという逆説の上に成立していたのである。近代国家はそうした情をまともに受け止めて吸収するだけの「心の用意」を具えていない。
しかしだからといって、国の成り行きを大切に思う精神とか、国のために力の限りを尽くす精神といったものが存在しないわけではないし、それらが国家にとって、またその国家に実存を深く規定されている私たち一人一人にとって重要な意義をもたないと言っているのではない。ただ私は、こうした精神を「愛国心」という粗雑で曖昧な感情用語で言い括らないほうがいいと主張しているのである。これらの精神は、ただ感情のみによって基礎づけられるのではなく、あくまで理性的な意志の参加を俟って初めてその国家的人倫としての要件が満たされるべきものなのである。
先に、国家は心情を共有しうる人々の存在を基礎として、機能的かつ合理的な統合性によって成り立つと述べた。誤解を招かないために一言しておくと、この場合の「心情」という言葉は、いわゆる「愛国心」のことではない。いま述べたように、「愛国心」のようなものを、多くの人々は日常生活のなかでいつも意識的に保持しているわけではない(国際スポーツ大会のような衛生無害な場合を除く)。それは、国家が危機に直面した時、すなわちこのままではその国の住民自身の平時の生活が脅かされるという自覚が高まった時に初めて目覚めさせられ発動する。
これに対して国家の仕組み(国体そのもの)を不断に支えるものとしての共通心情とは、私たちは同じ何国人であるから他国人よりもずっと深くわかり合えるという単なる「了解の感覚」である。これは格別の昂揚感情として示されるのではなく、日々の活動、交流、言語行為、経済行為、他国人との交渉などにおいて不断に、ごく普通に作用することによって、冷静なナショナリズムの基盤をなしているのである。
さてそこで、国家の危機をより強く意識する人々(わが国では保守派と呼ばれる)は、愛国心を持つことの大切さを強調し、教育によるその涵養の意義を訴える。極端な場合には、強制的な注入の必要を説く。この傾向には、大きく言って二つの要因が考えられる。
一つは先にも述べたように、わが国の場合、手ひどい敗戦の結果として国家否定的な左翼イデオロギーが言論界、ジャーナリズム界を席巻したため、それへの対抗として国家意識の再建が強く叫ばれたこと。もう一つは、戦後、経済が繁栄し平和が維持されたために、国民の間に国家意識が薄れて私生活中心主義が支配するようになったこと。この二つの要因が、保守派をしてしきりに、愛国心の必要を説かしめているのである。
だがじつは、愛国心を強要したり、その必要を法に謳おうとしたり、道徳教育をもって愛国心を注入しようとすることは、近代国家をきちんと成り立たせることにとってほとんど無効であり、国家(近代国家)という共同性における人倫精神のはき違えなのである。というのは、近代国家の精神は、個人個人の愛国感情によって支えられるよりも、はるかに大きく、そこに属する住民の福祉と安寧とをいかに確保するかという機能的・合理的な目的意識によって支えられているからである。
このことは軍事・外交・安全保障にかかわる施策や行動においても例外ではない。もちろん実際の戦闘時の士気を維持することにとって参加メンバーの愛国心は大いに寄与しているように見えるが、それはよく個々のメンバーの行動心理に照らしてみれば、個人の愛国の情の力の集積というよりも、大きな目的を合理的に理解した上での、各部署における職業倫理と責任意識であり、同じ目的を追求していることから生じる同朋感情であり仲間意識なのである。これらがうまく機能するとき、「強い・負けない」国家はおのずと現れる。
先に「職業」の項で、職業倫理をきちんと果たしている人は、政治家、マスコミ人、知識人、華々しい有名人などよりも、名もない市井の地道な職業人、たとえば鉄道員、郵便配達人、バスの運転手、大工や板前などの職人、看護師、自衛官、消防士、等々に多く、それは誰に対して何をどうするのかが具体的に限定されていて、役割のはっきりした職能であるからであろうという意味のことを書いた。
この事実は、いわゆる「愛国心」と称せられる感情や意志が実際に強く現実の行動として現れるのが、多くの場合、高級官僚や統帥本部などよりも、前線で戦う兵士のような現場においてであるという現象に応用することができる。彼らは命令に従って死を賭して任務に従うが、それを「愛国心」とか「報国心」とか名付けるのは、本人たちであるよりも、背後から観察し、感銘を受ける他者なのである。
兵士の内面はもっと複雑であり、そこでは、「生きたい」「愛する人の元に帰りたい」という思いと、目下の任務にあくまでも忠実たろうとする職業倫理との葛藤がすでに経験されている。しかし自分の置かれた現実状況をよく認識して職業倫理を貫かざるを得ないと観念した時、死を賭する覚悟が粛然と訪れてくるのである。それを単純に「愛国心」と呼ぶことはできない。
一般に国民生活における欲望や関心は極めて複雑多様である。その錯綜した状態をまとめ上げ、必要に応じて一つの結束をもたらすために必要なのは、ひとりひとりの心に愛国心を植え付けることであるよりも、ある政治的な意志や行動が、自分たちの生活の安寧を保障することにとっていかに有意義かということをよく理解させることである。それがよい統治なのである。
「愛国心」の必要を訴える感情的保守派は、しばしば身近な者たちや郷里への愛からそのまま地続きで、国家のようなより超越的なレベルの共同性への愛につながっていくことが可能であるかのような論理を用いる。しかし残念ながらこれは欺瞞的なお題目というほかない。というのも、じっさいにそうしたつながりを保障する具体的なステップがそろっており、小から大に至る経路が明らかにされていないかぎり、そうした主張は、単なる党派的な幻想による感情の強要に終わるほかないからである。
国家は心情を共有しうる人々の存在を基礎として、機能的かつ合理的な統合性によって成り立つ。この機能的かつ合理的な統合性は、「愛国心」のような感情的なものに依存することによって保証されるのではない(それはしばしば実存や個体生命と矛盾するために道を誤らせることがある)。身近な者たちへの愛が損なわれることのないような社会のかたち(秩序)をいかに練り上げるかという理性的な「工夫」によって保証されるのである。その工夫のあり方のうちにこそ、国家の人倫性があらわれる。いささかレトリカルに言えば、国民が国家を愛することが要求されるのではなく、国民を愛しうるような国家を存立させることが要求されるのである。
「愛国心」についての考察をもう少し続ける。
素朴な祖国愛とか、愛郷心といったものはもちろんあり得る。しかしその場合に言われている「祖国」とか「郷」というのは、生まれ育った地域の自然と地続きになった風土であり環境である。それはこうした心情を個人に抱かせるに足るだけの具体的なイメージをはじめから具えている。そうしてそのイメージが個人の身体のなかに記憶として鮮やかに生きているのである。パトリオットとか、社稷(しゃしょく)といった概念が、この愛の対象としてふさわしいだろう。
たとえば戦場で命をかける場面において、多くの兵士たちがふるさとの山や川をわれから思い出し、それによって死に直面している自分の心境を彩ることがある。そのとき彼の内面は、自分のこれからの行動の意味を感性的な次元での共同観念によって満たそうとするのである。
だが残念ながら、これらの愛の対象としての共同観念は、近代国家の思想的骨格をなしているナショナリズムには、順接ではつながらない。それどころか、法的合理主義と政治的機能主義を統治のための看板に掲げる近代ナショナリズムは、民衆のパトリオティズム的心情やその象徴的な表現行動を裏切ることがあるし、事実、日本の近代史においてもしばしば裏切ってきた。神風連の乱、西南戦争、大本教弾圧、二・二六事件など。
またもちろん日本はとても生活しやすいから好きだとか、私は日本の伝統・文化・慣習を愛するといった言い方は大いに成り立つ。私自身もそういう感覚を持っている。しかしこの場合も、近代国家としての日本に対する「愛国心」という概念にそのまま接続するわけではない。というのも、「日本国」という虚構された運動の全体は、私たちの生活感覚からは格段に抽象度の高いレベルに置かれており、それは日ごろ国家のことなどまるで意識していない膨大な人々をもそのうちに包摂しているからである。
ある人が日本国民であることの要件は、本人がそのことを何らかの形で自覚しており、日本の法に服することを承認しており、かつ日本国籍を有するということだけであって、彼は日本人でありながら、日本の生活を忌避することもできるし、日本の伝統・文化・慣習を愛さないこともできる。つまり、いわゆる「愛国心」を持っていなくても彼はじゅうぶんに日本人なのである。逆に外国籍を持つ人であっても、日本の生活が好きであったり、日本の伝統・文化・慣習を愛する人はいくらでもいる。
私がここで何を言いたいのかというと、自分の内面に聞いてみて、家族や恋人や友人やペットを愛するのと同じように、これほど複雑な政体と社会構成をもつ「国家(近代国家)」なる抽象態を本当に愛していると断言できる人などいないのではないかということである。
もちろん、普通の人に「あなたは愛国心を持っていますか」と聞けば、多くの人が「持っている」「まあ持っている」と答えるだろう。しかしそう答えるのは、問いの形式に拘束されている部分が大きい。問いの存在しないところでは、「この日本国」を愛するという感情を日常的・かつ自覚的に抱いている人は、残念ながらそう多くないはずだ。自分たちの明日の生活をどうするかや、いかに幸せな人生を送るかが大半の人たちの共通した関心事であり、経済がそこそこ豊かで安定している限り、国家そのものを意識する人がそもそも少ないからである。そこにさらに、戦後半世紀にわたる反日・反国家イデオロギーの注入が加わる。国外からの脅威が現実的なものとなり、しかもそれが一般国民の生活空間にじかな実感として伝わってこない限り、潜在的な「愛国心」は行動につながるものとしては顕在化しないだろう。
かつて国家への「恋闕(れんけつ)」の情に己れを託して行動した思想家や文学者がいたが、それは多分に主観的な自己充足の回路に終わる観念であった。またそれは、近代国家が自身を直接的な「愛(エロス)」の対象として容易には受け入れがたい複雑で冷ややかな構造を持つからこそ、成就不可能な観念の恋として意味を持つという逆説の上に成立していたのである。近代国家はそうした情をまともに受け止めて吸収するだけの「心の用意」を具えていない。
しかしだからといって、国の成り行きを大切に思う精神とか、国のために力の限りを尽くす精神といったものが存在しないわけではないし、それらが国家にとって、またその国家に実存を深く規定されている私たち一人一人にとって重要な意義をもたないと言っているのではない。ただ私は、こうした精神を「愛国心」という粗雑で曖昧な感情用語で言い括らないほうがいいと主張しているのである。これらの精神は、ただ感情のみによって基礎づけられるのではなく、あくまで理性的な意志の参加を俟って初めてその国家的人倫としての要件が満たされるべきものなのである。
先に、国家は心情を共有しうる人々の存在を基礎として、機能的かつ合理的な統合性によって成り立つと述べた。誤解を招かないために一言しておくと、この場合の「心情」という言葉は、いわゆる「愛国心」のことではない。いま述べたように、「愛国心」のようなものを、多くの人々は日常生活のなかでいつも意識的に保持しているわけではない(国際スポーツ大会のような衛生無害な場合を除く)。それは、国家が危機に直面した時、すなわちこのままではその国の住民自身の平時の生活が脅かされるという自覚が高まった時に初めて目覚めさせられ発動する。
これに対して国家の仕組み(国体そのもの)を不断に支えるものとしての共通心情とは、私たちは同じ何国人であるから他国人よりもずっと深くわかり合えるという単なる「了解の感覚」である。これは格別の昂揚感情として示されるのではなく、日々の活動、交流、言語行為、経済行為、他国人との交渉などにおいて不断に、ごく普通に作用することによって、冷静なナショナリズムの基盤をなしているのである。
さてそこで、国家の危機をより強く意識する人々(わが国では保守派と呼ばれる)は、愛国心を持つことの大切さを強調し、教育によるその涵養の意義を訴える。極端な場合には、強制的な注入の必要を説く。この傾向には、大きく言って二つの要因が考えられる。
一つは先にも述べたように、わが国の場合、手ひどい敗戦の結果として国家否定的な左翼イデオロギーが言論界、ジャーナリズム界を席巻したため、それへの対抗として国家意識の再建が強く叫ばれたこと。もう一つは、戦後、経済が繁栄し平和が維持されたために、国民の間に国家意識が薄れて私生活中心主義が支配するようになったこと。この二つの要因が、保守派をしてしきりに、愛国心の必要を説かしめているのである。
だがじつは、愛国心を強要したり、その必要を法に謳おうとしたり、道徳教育をもって愛国心を注入しようとすることは、近代国家をきちんと成り立たせることにとってほとんど無効であり、国家(近代国家)という共同性における人倫精神のはき違えなのである。というのは、近代国家の精神は、個人個人の愛国感情によって支えられるよりも、はるかに大きく、そこに属する住民の福祉と安寧とをいかに確保するかという機能的・合理的な目的意識によって支えられているからである。
このことは軍事・外交・安全保障にかかわる施策や行動においても例外ではない。もちろん実際の戦闘時の士気を維持することにとって参加メンバーの愛国心は大いに寄与しているように見えるが、それはよく個々のメンバーの行動心理に照らしてみれば、個人の愛国の情の力の集積というよりも、大きな目的を合理的に理解した上での、各部署における職業倫理と責任意識であり、同じ目的を追求していることから生じる同朋感情であり仲間意識なのである。これらがうまく機能するとき、「強い・負けない」国家はおのずと現れる。
先に「職業」の項で、職業倫理をきちんと果たしている人は、政治家、マスコミ人、知識人、華々しい有名人などよりも、名もない市井の地道な職業人、たとえば鉄道員、郵便配達人、バスの運転手、大工や板前などの職人、看護師、自衛官、消防士、等々に多く、それは誰に対して何をどうするのかが具体的に限定されていて、役割のはっきりした職能であるからであろうという意味のことを書いた。
この事実は、いわゆる「愛国心」と称せられる感情や意志が実際に強く現実の行動として現れるのが、多くの場合、高級官僚や統帥本部などよりも、前線で戦う兵士のような現場においてであるという現象に応用することができる。彼らは命令に従って死を賭して任務に従うが、それを「愛国心」とか「報国心」とか名付けるのは、本人たちであるよりも、背後から観察し、感銘を受ける他者なのである。
兵士の内面はもっと複雑であり、そこでは、「生きたい」「愛する人の元に帰りたい」という思いと、目下の任務にあくまでも忠実たろうとする職業倫理との葛藤がすでに経験されている。しかし自分の置かれた現実状況をよく認識して職業倫理を貫かざるを得ないと観念した時、死を賭する覚悟が粛然と訪れてくるのである。それを単純に「愛国心」と呼ぶことはできない。
一般に国民生活における欲望や関心は極めて複雑多様である。その錯綜した状態をまとめ上げ、必要に応じて一つの結束をもたらすために必要なのは、ひとりひとりの心に愛国心を植え付けることであるよりも、ある政治的な意志や行動が、自分たちの生活の安寧を保障することにとっていかに有意義かということをよく理解させることである。それがよい統治なのである。
「愛国心」の必要を訴える感情的保守派は、しばしば身近な者たちや郷里への愛からそのまま地続きで、国家のようなより超越的なレベルの共同性への愛につながっていくことが可能であるかのような論理を用いる。しかし残念ながらこれは欺瞞的なお題目というほかない。というのも、じっさいにそうしたつながりを保障する具体的なステップがそろっており、小から大に至る経路が明らかにされていないかぎり、そうした主張は、単なる党派的な幻想による感情の強要に終わるほかないからである。
国家は心情を共有しうる人々の存在を基礎として、機能的かつ合理的な統合性によって成り立つ。この機能的かつ合理的な統合性は、「愛国心」のような感情的なものに依存することによって保証されるのではない(それはしばしば実存や個体生命と矛盾するために道を誤らせることがある)。身近な者たちへの愛が損なわれることのないような社会のかたち(秩序)をいかに練り上げるかという理性的な「工夫」によって保証されるのである。その工夫のあり方のうちにこそ、国家の人倫性があらわれる。いささかレトリカルに言えば、国民が国家を愛することが要求されるのではなく、国民を愛しうるような国家を存立させることが要求されるのである。
私は小浜さんとは、異なる見解になります。特に、〈ひとりひとりの心に愛国心を植え付けることであるよりも、ある政治的な意志や行動が、自分たちの生活の安寧を保障することにとっていかに有意義かということをよく理解させることである。それがよい統治なのである。〉という箇所についてです。
私は、愛国心を植え付けるような教育は、ある程度は必要だと考えます。ちなみに私自身は、愛国心はそれほど強くはないですが、それほど弱くもない人間です。
私と小浜さんの見解の相違は、おそらく前提となる世界観の違いに由来するのだと思われます。相違を明確にする意味でも、一つ質問させてください。
小浜さんのようなやり方ですと、自分たちに都合の良い公共事業は賛成しますが、自分たちに利益のない公共事業には反対するような人間が出来上がるような気がします。そのような人間たちが集まった社会が理想だということでしょうか?
ちなみに私は少しだけ愛国心があるので、私にとってはメリットがない(そして税収などでデメリットが発生したとしても)辺境の地域への公共事業に(程度問題ではありますが)賛成します。
ご質問にお答えします。
ことは、愛国心教育の有効性いかんをめぐっていますね。
まず、この議論に踏み込む前に、私がこの記事の文章で、次の2点を論じていることをご確認ください。
①近代国家の複雑な構成は、素朴な愛郷心や日本が好きだという感情のようなものとなかなか順接ではつながらないこと。
②国家秩序が平穏に保たれていればいるほど、一般民衆の日ごろの生活意識の中に、「国を思う」といった感情は浮上しにくいこと。
さて愛国心教育の涵養を訴える多くの人たちは、①の難しさに思い及ばず、「故郷の山河」への思いや、昔の日本人にはこんなに偉い人がいたという情報や、日本が好きだという感情があれば、それを出発点としてだんだん積み上げていくことによって、国家としての日本の将来を本気で(冷静に)心配する意志や行動力が具体的・持続的に身につくかのように考えています。民衆というものの長年の観察からして、私はそのようには思えません。それは残念ながら②のようなあり方が実態だからです。
木下さんは、おそらく愛国心という言葉を、理性的な公共心という意味で使っていらっしゃると思うので、その点で共通了解が得られれば、私も愛国心教育の有効性を認めるにやぶさかではありません。しかしそれにしても、「教育」というのはとても長くかかり、方法も確定しがたく、しかもその結果の検証が困難であるという難点はどうしても残ります。
私はそういうおぼつかないものに過度な期待を寄せるよりも、たとえば日本の外に出ていってみて初めて日本の素晴らしさがわかったとか、私生活に直接影響を及ぼすことがわかる形で内外の危機が意識されるような異変があったとかいった経験的な契機のほうが有効だと思います。現に前者は最近じつによく耳にしますし、民主党政治の体たらくや、中国の尖閣諸島への侵略圧力や大震災などによって、眠っていた国民意識が一気に高まった、などは後者の例です。
さて、肝心のご質問内容についてですが、以下の私の記述は、たしかにやや舌足らずであったかもしれません。補足します。
≪ある政治的な意志や行動が、自分たちの生活の安寧を保障することにとっていかに有意義かということをよく理解させることである。それがよい統治なのである。≫
この場合の「自分たちの生活の安寧」という言葉ですが、この「自分たち」という言葉には、特定の個人・団体ではなく、日本国民全体という意味を込めているつもりでした。ルソーの言う「一般意志」に近いものがあります。したがって、そこには、あらかじめ「多少とも公共精神を尊重する人たち」という条件が織り込まれています。
この条件が織り込まれていれば、自分の税金が自分の私的利益に直接は還元されない形で(例えば過疎地への公共事業のような形で)使われても、それが日本国民全体の安寧に寄与するなら進んで承認するということになります。そうして、もしそういう承認の態度が、巡り巡って、結局はこの日本で生きていく自分にとってもよいことなのだと(最大多数の)国民に理解されれば、よい統治が実現したことになります。これは理性的な国家的人倫のあり方を説明するものであって、普通解釈されているような「愛国心」という感情的ニュァンスの濃厚な言葉によっては、うまく説明できないことだと思います。
『喧嘩両成敗式目』
1、天下泰平に反する戦は絶対悪である
2、戦の裁定者は客観的第三者でなくてはならない
3、戦の当事者双方はその理非を問わず罰せられねばならない
4、戦の当事者双方はその罪に相当する罰を受けねばならない
5、戦の当事者に加担した者も同様に罰せられねばならない
6、斯くして報復の連鎖は断たねばならない
因みに、私は憲法九条の支持者ではありませんので、誤解のないように。
まず①と②については、そのような傾向性があることについて基本的に同意します。
それを認めた上で、私は日本の自然や偉人や文化について教育で教え込むことが必要だと主張します。
小浜さんが誰を念頭においているかは分かりませんが、仮にそういった教育が劇的な効果を生むと主張する人がいたら、たしかに言い過ぎだと思います。ですから、そういった教育の効果が長期的なものだとか、微弱だとかいう意見には一理あると思います。
しかし、有益な効果が絶大だろうが微弱だろうが、ベクトルが有益な方へ向いているなら為すべきでしょう。過剰な愛国心教育が危険になるのは当然なので、適切な教え方を考えた上での話になりますが。
教育の効果の検証が困難だということにも同意しますが、それはどれだけの有効性があったか分かりにくいということしかなく、その必要性の否定にはならないでしょう。
私のいう「愛国心」という言葉は、〈理性的な公共心〉というより、その前提となる「感情の共有」に関わっています。〈「愛国心」という感情的ニュァンスの濃厚な言葉〉という解釈で合っています。国民意識は、理性的な利益計算ではなく、感情の共有によって可能になると考えるからです。感情の共有がなければ、そもそも理性的な公共心が成り立たないでしょう。
小浜さんは、〈日本の外に出て〉行くことや、〈内外の危機が意識されるような異変があったとかいった経験的な契機〉について、〈有効〉だと述べておられます。
しかし、私にはそれらは必ずしも有効だとは思えません。
前者については、それで日本好きになる人もいるでしょうが、外国かぶれになって日本批判し出す人だってたくさんいます。日本好きになって帰ってくる場合でも、それが安全だからとか、便利だからという理由ではあまり意味はないでしょう。
後者については、外からの危機は他国の意思によるため日本人がどうこうできるものでもないですし、内からの危機については有効だからといってわざわざ作り出すのは馬鹿げています。
そもそも内外の危機において、自国を見捨てて他国へ脱出する例は人類史において山ほどあります。特に、安全や便利さが理由で自国を好む人は、危機の際には真っ先に安全で便利な他国へ逃げ出すでしょう。
少なくとも、私には日本の自然や偉人や文化に対する敬意があります。その敬意に基づいた愛国心が少しはあります。その愛国心が私に無いなら、私は海外に行けば、そこにかぶれて日本批判するでしょうし、日本の危機には他国へ逃げ出すでしょう。
次に、〈自分たち〉という言葉が、〈日本国民全体〉を意味しているという点についてです。
「倫理の起源53」には、「自分たち」という言葉が二回出てきます。まず一回目の〈自分たち〉について、小浜さんは、〈自分たちの明日の生活をどうするかや、いかに幸せな人生を送るかが大半の人たちの共通した関心事であり、経済がそこそこ豊かで安定している限り、国家そのものを意識する人がそもそも少ないからである〉と述べているではないですか。
それなのに、二回目の〈自分たち〉という言葉が、〈日本国民全体〉を意味していると言われても、論理に飛躍があると感じられます。
そして、二回目の〈自分たち〉という言葉が〈日本国民全体〉を意味しているのを認めたとしても、なぜ〈自分たち〉を〈日本国民全体〉だと考えなければならないのか、どうして〈日本国民全体〉だと見なすことができるのかという問題が生まれます。
小浜さんは、①と②を根拠にし、その難しさを述べていたのではなかったのではないでしょうか。
〈自分たち〉という言葉が、〈特定の個人・団体〉であることは簡単です。しかし、〈自分たち〉を〈日本国民全体〉だと見なしうるには、「何か」が必要だと私には思えます。
統治によって、常に国民全体の〈生活の安寧〉が実現できると想定することは幼稚です。統治者が善意に基づいていたとしても、危機は発生し、〈自分たちの生活の安寧〉を犠牲にしてでも国家を護らなくてはならないときがありえます。
具体的に言うなら、金持ちや権力者が、自分たちの不利益を享受しええる「何か」がなければ、国家は存続しえないということです。その「何か」に該当するものとして、自国の自然や偉人や文化に対する敬意を挙げることができます。伝統や歴史と言っても良いでしょう。それらが教育なしに成り立つと考えるのは、あまりに無理があると思います。
そういった「何か」が(潜在的にせよ顕在的にせよ)あるならば、外国体験や自国の内外の危機に国民意識は沸き立ちます。しかし、その「何か」が無いのなら、外国体験は外国かぶれを産み出し、危機には国外脱出する人民を産み出すだけでしょう。
また、少なくとも私には、〈ルソーの言う「一般意志」〉が『社会契約論』のそれなら、それは論理的に破綻していると考えています。
上記のコメント「愛国心の必要性について(2)」を書いた「元」は「木下元文」のことです。
すいません。
果たしてそうでしょうか?日常生活のなかで、旬の肴で日本酒を呑んでいて、思わず「やっぱりこれだよな!」と感嘆するとき、それは「愛国心を肴に」酒を飲んでいるのではないでしょうか。小浜さんにとっての国家は概念のようですが、私たち大衆にとっての国家は「観念」なのです。この観念あるが故にナショナリズムが醸成され、倫理が成立するのではないでしょうか。概念からは倫理は出てきません。
ちょっと他のことにかまけていて、お返事が遅くなりました。
なかなか手ごわい反論ですね(笑)。
木下さんの、感情育成としての愛国心教育はやはり必要であるという論旨は、よく理解できました。以下の部分、よく論理の筋が通っており、なかなか微妙なところを突いたバランスのある主張で、これなら「しないよりはした方がマシ」という程度で、その必要を認めてもよいと思います。
≪小浜さんが誰を念頭においているかは分かりませんが、仮にそういった教育が劇的な効果を生むと主張する人がいたら、たしかに言い過ぎだと思います。ですから、そういった教育の効果が長期的なものだとか、微弱だとかいう意見には一理あると思います。
しかし、有益な効果が絶大だろうが微弱だろうが、ベクトルが有益な方へ向いているなら為すべきでしょう。過剰な愛国心教育が危険になるのは当然なので、適切な教え方を考えた上での話になりますが。≫
ただ、私がサヨクでないことは先刻ご承知でしょうが、やはり、実際に愛国心教育の必要を説いている人たちの熱心ぶりを見ていると、彼らのナイーヴさが気になります。よりよい、実力ある国家共同体をつくるために、どこに主力を注ぐべきかという点に関して、少々力の入れ場所をはき違えているのではないかという疑念がずっと私の中にあり、それが、愛国心教育の効果薄弱を論じる隠れたモチーフの一つになっていました。
具体的に名を挙げましょう。八木秀次さんや渡辺利夫さん、平沼赳夫さんといった人たちです。私は彼らの意図はよくわかりますし、著作から勉強させてもらったこともあります。その思想に共鳴できる部分もあって、実際に協調したこともあります。また彼らはけっして「劇的な効果を生む」と主張しているわけではないし、「過剰な愛国心教育」を目指しているわけでもありません。しかし私が彼らをどうもナイーヴ(愚直)だなあと感じるのは、愛国心教育や道徳教育こそが一番大事なところなのだと信じているフシがあって、そのために、たとえば経済政策の重要さなどに視野が及ばなくなっている点、また、どうしても自国のいいところばかりを強調してしまう主観的な傾向から免れがたいように思える点です。
愛国心教育も適切な経済政策も、まさに統治の方法の一つですが、私は後者のほうがはるかに重要な意味を持つと考えています(その点で、私は安倍政権に不満を持っているわけですが)。
衣食足りて礼節を知る――もし国の代表がこの優先順位を誤れば、いくら愛国心教育や道徳教育に精力を注ごうと、国は乱れ、愛国心などはすぐに吹っ飛んでしまうでしょう。
それから、この人たちの愛国心教育提唱のモチーフには、昔に比べていまの時代(戦後日本)には一種のモラルハザードが起きているという危機意識が強く、それを個人主義の弊害と結びつけて、何とかしなければならないという信念に凝り固まっているように見える点です。しかし、ある側面ではたしかにそういうことが言えても、私は全体としていまの日本が昔よりも道徳的頽廃の度を強めているという見方を取りません。昔はよかったというのはウソです。
ここでは述べませんが、これには多くの社会学的、統計学的な証拠を示すことができます。だからこそ、震災や他国の侵略圧力やテロなどがあると、愛国心教育を施したわけでもないのに、日本人同士助け合おうという合意(理性的な国民意識)がかなりの割合でいっせいに立ち上がるのだと思います。
また、感情の共有がなければ理性的な公共心も成り立たないというご意見にも賛成です。それは、私自身が、このシリーズの相前後する部分で、国家機能は同じ国民であるという心情によってこそ支えられると書いているのと、そんなに違わないと思うのですが。
繰り返しになりますが、私は「愛国心」という言葉のニュアンスが持っている幅の広さ、つまり概念のあいまいさが、ポジティブ・ネガティブ両面の価値観を与えて、そのために不毛な感情的対立を生じやすいことを問題としているのです。「心情の一致」とか「同国人意識」という言葉に比べて、「愛国心」という言葉はやや感情的に過ぎ、「それを持たない奴は非国民だ」とか、「そんなものを大切にするから戦争を呼び込むのだ」とかいった断定につながりやすいと思いませんか。つまりある場合は、粗野な排外主義に結びつき、別の場合には、国家の役割(人倫性)をきちんと認めずに空想的な平和主義・コスモポリタニズムに走る傾向を助長するーーそんな気がしてならないのです。
次に木下さんは、私が、〈日本の外に出て〉行くことや、〈内外の危機が意識されるような異変があったとかいった経験的な契機〉について、〈有効〉だと述べたことについて、必ずしも有効とは思えないと反論しています。
これも私の舌足らずが災いしているかもしれませんが、私は、愛国心教育の有効さを頭から信じるよりは、比較相対的に見てそういう自然な成り行きのほうが有効に思えると言っているだけです。ただし、これには条件が必要ですね。その条件とは、実際に自分の国の現実的状態(治安、経済、政治、安全保障、生活の利便性その他)がまあまあうまく行っていることです。そしてまさに日本は今までのところ、客観的に見て、他国に比べてこの条件がかなり満たされています。こういう国では、経験的な契機に比べて意識的な愛国心教育の効果はたいへん低いと思います。
では反対に、国の現実的状態が乱れているところで愛国心教育を躍起になって施せば、それが一般民衆の間に育つことによってそうした国の危機を克服できるかといえば、そちらのほうもまず望めないでしょう。それこそ国民は逃げ出すほうを選ぶでしょう。
木下さんは、外国に行って外国かぶれになったり日本批判をし出す人はいくらでもいると述べています。これは日本に限らず、一般論としてはその通りでしょう。しかし私は日本の健全なナショナリズムが何によって支えられているかということを問題にしたい。それは、島国という地政学的条件や、言語の同一性(他の文化圏との異質性)、相手をよく思いやる伝統的な慣習、などですね。こういうものはふだんあまり意識されませんが、それはまさにありあまる水や空気のようにありがたいものだからでしょう。こういう国では、私が述べたような経験的な契機によってより深く意識されることが多いと思います。なお私は危機待望論者ではないので、危機などはないに越したことはないのですが、ただ現実はそういうふうになっている、と指摘したいだけです。
なおまた木下さんは、安全や便利さを期待して帰国するのではあまり意味がないと述べていますが、私はそう思いません。安全や便利さは、すべてではないにしても、一般民衆がその国を好きになる(つまり愛着を持つ)大切な理由の一つとして肯定的にとらえるべきだと考えます。だからこそ、それらを保障する統治のあり方(対外関係も含めて)が厳しく問われるのではないでしょうか。私は、統治によって、常に国民全体の〈生活の安寧〉が実現できるなどと想定しているわけではありません。ただよりよい統治とは何かということを考えているだけです。少なくともそれを考えるという点で一致できるのでなければ、愛国心教育の効果についての議論も意味がないでしょう。
次に、二つの「自分たち」についてですが、私自身のあるべき国家観からすれば、別に二つは矛盾していません。日本国民全体という言い方が少し強すぎて誤解を招くとすれば、一般国民と言い換えてもよい。彼らの最大の関心事が「自分たち」の幸福と安寧にあることは否定しようもありません。しかし、「自分たち」の幸福と安寧が、ただ特定のかぎられた個人や集団のそれだけを意味するのであれば、当然、国家全体の秩序と平和は維持できませんね。過剰なエゴイズムや物欲に走って得々としている人たちを、少しでもいいから、進んでそれら(の一部)を捨てる気持ちにさせるには、どういう方法が一番いいか。議論はたぶんここをめぐっていると思うのですが、まず、彼ら(たとえばかなりブラックなグローバル企業)に「愛国心を持て」とか「いざというときには国家のために身を捨てろ」などといくら説いても無駄でしょう。ではどうすればよいか。
法による規制というのがすぐに出てくる答えですが、この法規制にしても、どうやってその意義を理解させるのかという問題が次にやってきます。
私はこの場合、七割くらいは性悪説、あとの三割は性善説に立っているので、一番有効なのは、それによって多少の不利益をこうむっても、全体としては、また長い目で見れば、まあ従っておく方が身のためだなと感じさせる納得の道をつけてやることだと思います。仮に、こういうことが可能だとして、ではなぜそれが可能なのかと考えると、それは彼らのうちにも、他の人たちの利益と幸福につながることが結局は自分の利益と幸福に結びつく、情けは人の為ならず、そういう、いい意味での功利主義精神が、彼らにも少しは宿っているからです。これは、潜在的な公共精神の萌芽といってもいい。それをうまく引き出すのが統治の技術です。
ちなみに私は、ある精神が潜在的か顕在的かを区別することは重要だと思っています。その度合いいかんによって、公共心を強く実行に移す人もいれば、ふだんは私利私欲に走っていて、なかなか腰を上げない人もいるという違いが出てくるのでしょう。後者の人たちをアゴラに連れ出す操作(これは家庭でのしつけの段階から始まっていますね)を、広い意味で「教育」と呼ぶことに私は異議を唱えませんが、なるべく上からの強制的な「教育」という印象を与えない形で、自然に、その方が自分にとっていい、と思わせるやり方のほうが得策だと思います。、
最後にルソーの「一般意志」についてですが、これを出したのはやや不用意でした。ルソーの思想は、当時の時代背景を考えないと一筋縄では理解できない複雑さを持っており、「一般意志」の概念も、誤解を受けやすい概念ですね。ただここでは、国民の大多数に共通する意志という程度に受け取っていただければ結構です。なお、ルソーと聞くと、フランス革命の生みの親のように考えて、その結果に対する毀誉褒貶の評価と直結させて論じる人が多いですが(たとえば近代民主主義の輝かしき元祖、逆に悪しき全体主義の源)、思想と現実とは必ずしも一致しませんから、私はこうした考えを取りません。
ちなみに、ご関心があれば、次の拙稿を参考にしてください。
①『表現者』54号掲載「誤解された思想家たち――ジャン・ジャック・ルソー」
②佐伯啓思著『西欧近代を問い直す』(PHP文庫)の巻末解説
自画自賛になってしまいますが、建設的な議論が展開されており、たいへん嬉しいです。
議論の内容が多岐にわたっているため、見ていただいている方たちのためにも、少しまとめさせてください。私の認識不足などあれば、ご指摘していただけると助かります。
(A)愛国心教育について
感情育成としての愛国心教育については、その程度について微妙な差はあるかと思いますが、その必要性は共有できていると思います。ありがとうございます。
(B)ナイーヴな愛国心教育について
名前を挙げられた三名については、正直なところあまり興味がありません。彼らの主張が経済政策の重要性を引き下げたり、自国を不用意に持ち上げたりする言説なのでしたら、具体的な文章を基に批判していけば良いと考えます。
(C)愛国心教育と経済政策について
> 愛国心教育も適切な経済政策も、まさに統治の方法の一つですが、
> 私は後者のほうがはるかに重要な意味を持つと考えています
相対比較になりますが、前者は感情に関わり、後者は理性に関わっています。
論理には感情と理性の両方が必要であり、ヒュームを参照するなら感情の方がより重要だと言えなくもないですが・・・。どちらもそれなりの独立性があるのですから、私は両方有益なのだから、両方やれば良いのだと考えます。
(D)衣食足りて、について
> 衣食足りて礼節を知る――もし国の代表がこの優先順位を誤れば、
> いくら愛国心教育や道徳教育に精力を注ごうと、国は乱れ、
> 愛国心などはすぐに吹っ飛んでしまうでしょう。
ここが、私と小浜さんの思想上の違いになります。
西部邁さんがどこかで述べていましたが、衣食足りて礼節を知るというのが片面の真実だとしても、衣食足りて礼節を忘れるという片面の真実もあります。
私は、そもそも衣食足りず状態になったときのためにこそ、愛国心教育が必要だと考えています。後述の(H)(J)(K)の見解につながります。
(E)道徳的頽廃について
昔はよかったというのがウソだという意見には、犯罪率などの面から同意します。
ただ私は、道徳は秩序状態と緊急事態の両面からとらえなければならないと考えています。その観点から、一側面からは頽廃しているとは言えませんが、一側面からは頽廃していると言えると思います。例えば、平然と「アメリカに守ってもらえばよい」と言うような人がいることなど。
この点については、おそらくお互いの認識にズレはないと思います。
(F)国民の心情について
> それは、私自身が、このシリーズの相前後する部分で、
> 国家機能は同じ国民であるという心情によってこそ支えられると書いているのと、
> そんなに違わないと思うのですが。
感情育成としての愛国心教育の必要性が共有されているので、同じ認識ですね。
(G)愛国心のニュアンスについて
「愛国心」という言葉があいまいに使われているなら、不毛な感情的対立になる理由を検討し、不毛にならないように定義づけをきちんとして論ずべきだと考えます。
「愛国心」という言葉はやや感情的に過ぎることには同意しますが、「心情の一致」とか「同国人意識」という言葉だって感情的でしょう。理性だけでは、「心情の一致」も「同国人意識」も原理的に出てこないからです。
また、「愛国心」の代わりに「同国人意識」という言葉に置き換えても、(右翼方面はともかく)左翼方面は同じようなイチャモンを付けてくると思います。
(H)危機の有効性の条件について
> こういう国では、
> 経験的な契機に比べて意識的な愛国心教育の効果はたいへん低いと思います。
> では反対に、国の現実的状態が乱れているところで愛国心教育を躍起になって施せば、
> それが一般民衆の間に育つことによってそうした国の危機を克服できるかといえば、
> そちらのほうもまず望めないでしょう。
う~ん。秩序状態も緊急事態も、どちらも望み薄と言っているように聞こえます。確かに、乱れきったところでは無効だとは思いますけどね。
二点ほど述べておきます。低くても有効ならちゃんとやろうというのが一点。それと、まあまあうまく行っているときに感情育成としての愛国心教育を行っておくことで、危機に際して団結力が生まれます。つまり、危機に際しての備えとして、意識的な愛国心教育が必要だというのがもう一点です。
(I)健全なナショナリズムについて
> それは、島国という地政学的条件や、言語の同一性(他の文化圏との異質性)、
> 相手をよく思いやる伝統的な慣習、などですね。
そうだと思います。だからこそ、意識的な愛国心教育が必要なのでしょう。
具体的には、国語教育(日本語能力の育成)・歴史教育(まず日本史、次いで世界史)、思想史教育(道徳そのものではなく、道徳の系譜学)が重要ということになります。
(J)意識されないときについて
> こういうものはふだんあまり意識されませんが、
> それはまさにありあまる水や空気のようにありがたいものだからでしょう。
> こういう国では、
> 私が述べたような経験的な契機によってより深く意識されることが多いと思います。
やはり、ここが意見の相違になります。
秩序状態のときにこそ、緊急事態を想定していなければなりません。この考えは、会沢安の『新論』などから学んだことです。
ですから、秩序状態のときの安全や便利さが自国への愛着になり、緊急事態への対応力につながるなら、それは肯定すべきものになります。しかし、緊急事態においてより安全で便利なところへ逃避するものでしかないなら、それは肯定できなくなります。
(K)統治について
> 私は、統治によって、
> 常に国民全体の〈生活の安寧〉が実現できるなどと想定しているわけではありません。
> ただよりよい統治とは何かということを考えているだけです。
> 少なくともそれを考えるという点で一致できるのでなければ、
> 愛国心教育の効果についての議論も意味がないでしょう。
よりよい統治を考えるという点では、私たちは一致しています。逆に、それについて一致していない人など、極端な反国家主義者を除けばほとんどいないでしょう。
私が言いたいことは、常によい統治を実現できるわけではないからこそ、緊急事態を想定せねばならず、そのときのために秩序状態のときの教育が重要になるということです。
(L)「自分たち」について
たとえ日本について同国人意識を有する人でも、「自分たち」の範囲は状況に依存するので、そこは明確化しておかないと議論が混乱するということですね。ご提案のような「一般国民」や、「日本国民」といった言い方をするのが有意義だと思います。
(M)長期的利益について
> 一番有効なのは、それによって多少の不利益をこうむっても、
> 全体としては、また長い目で見れば、
> まあ従っておく方が身のためだなと感じさせる納得の道をつけてやることだと思います。
長期的利益のために短期的不利益を享受させる方法の採用について、基本的に同意します。
ただ、それですと、特攻のような極限状況には逃げ出す人間ができあがりますね(苦笑)。
ここにも、私と小浜さんの微妙な違いがあるように思えます。ですから、私はこのような方法に「も」賛成すると言います。
私にはさらに考えておくべきことがあります。それは、この世は不条理なものであるが故に、いかんともしがたい状況がありえるということです。そのときを想定している者は、自分がそのような状況に遭遇することを踏まえた思想が必要になるのです。
オルテガの『個人と社会』に、次のような文章があります。
環境がわれわれに対してどのような出口も、したがってどのような選択もゆるさないかに見える生の極限状況を叙述しようとするとき、われわれは「剣と壁のあいだに立つ」という。死は確実なものであり、どのような抜け道もない!少しでも選択の余地があるだろうか。しかしながら、そうした表現は、剣と壁とのあいだの選択をわれわれにゆるすものであることは明らかである。これは人間の恐るべき特権であり、享受することもできれば苦悩の原因ともなる光栄である――すなわち卑怯者の死か英雄の死か、醜い死か美しい死か、など自分の死の姿を選べるという特権である。
(N)教育の印象について
> なるべく上からの強制的な「教育」という印象を与えない形で、
> 自然に、その方が自分にとっていい、と思わせるやり方のほうが得策だと思います。
これについては、おそらくはその通りなのでしょうが、私は違う道を模索しています。
それは、強制的な教育の必要性を教えた上で、教育を実施するという方法です。得策という観点からは、私の方法が今のところ不利なことは認めますが、今後煮詰めていきたいと考えています。
(O)ルソーについて
『表現者』54号掲載の論考を再読させていただきました。論考のルソーについての見解に同意します。
議論を通じて、大まかな同意には至ったのではないかと思われます。
微妙な意見の相違は、(D)(H)(J)(K)(M)(N)に見られます。
(D)(H)(J)(K)については同じ論点であり、秩序状態と緊急事態の関係にポイントがあります。
私なりに要約すると、小浜さんは秩序状態のときの愛国心教育よりも、緊急事態による理性的な国民意識の高まりが有効と言っているように聞こえます。
それに対して私は、緊急事態において理性的な国民意識が働くためには、秩序状態のときの愛国心教育が重要だという見解です。つまり、比較相対的に見てどちらが有効かを論じるというのはあまり有意義ではなく、補完関係として考えるべきだと言いたいのです。
また、(M)と(N)の見解の相違については興味深いですね。それぞれの人生観によって、意見に相違が生まれているような気がします。
木下さんが議論を深めてくれた点で、なるほどと思えたのは、秩序状態と緊急事態とを区分し、前者の場合にこそ、後者の状態のための備えが必要であると力説している点です。両者がトレードオフの関係にあるのではなく、補完関係として考えるという論点にも完全に同意します。
ことに感心したのは、実際の「愛国心教育」なるものが具体的にどのようなかたちを取ればよいのかについて、(I)で、具体的な提案をなさっている部分です。こういうふうに論点をブレイクダウンしないと、お互いが「愛国心」という概念に何を込めているのかが明らかでないまま、「必要だ、必要でない」の抽象的な議論がいつまでも繰り返されるばかりですよね。
ところでこの提案の内容なら私はまったく賛成です。特に、「日本語能力の育成」というところと、「道徳そのものではなく、道徳の系譜学」というところがいい。これらについては、私のほうからもその必要をぜひ訴えたいくらいです。もっともこれをきちんとできる教師があまりいそうもないので、その育成の課題が先立つでしょうけどね(笑)。
なおまたつけ加えるなら、(M)の指摘とも絡みますが、年少者にまともな社会人感覚(自立心と実践力と法感覚)を身につけさせる教育も必要かと思います。
これからも折に触れて、有益な議論をいたしましょう。