小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する16

2014年01月04日 23時50分04秒 | 哲学
日本語を哲学する16



第Ⅱ章 沈黙論(3)

⑤吃音障害などによるためらいから習慣化してしまう無口


 吃音とは、言語表出意識(言葉に出したいとする思い)の速度と、じっさいに音声言語を構成し表出できる速度との「ずれ」にもとづく失調状態である。前者が後者を上回るとき、ちょうど早く歩こうと思っているのに足がついていかずつんのめってしまうように、調音器官の活動と呼気との間に有機的でしなやかなつながりが保てずにどもってしまう。〔k〕〔p〕〔t〕などの無声擦過音・破裂音を発話しなくてはならない時にこの現象が多く見られることからも、右の指摘が当てはまると言えるだろう。
 吃音は、いわゆる頭の回転が速く言いたいことが多い人、ものごとに感じやすくあがりやすい人、言葉を普通の子よりも早く使い始めた幼児、驚きや恐怖や怒りなどの感情が激した時、などにしばしばみられる。また成人では男性に圧倒的に多い。
 これらの事態は大変興味深いことを示唆している。言葉を言いたい、言わねばならぬという「思い」は、共同存在としての人間が共同世界に対して持つ「自己投企」への意思の高まりであるから、そこには必ず情緒性のある様態が関与していると考えてよい。その様態とは、主体のそのつどの「思い」を、主体が浴している言語規範体系(ラング)と関係づけようとする瞬間的な過程における「動揺(焦り)」である。
 この動揺は、誰にも多かれ少なかれあるはずで、そのため多くの人は、習得したラングに自分の思いを合わせようとするとき、「えーと」「つまりその」「いわゆる」「あのー」などの、指示作用としてはほとんど無意味な修辞句を多用して時間稼ぎをする。また別の人は、「自己投企」に要する勇気を飲み込んで黙ってしまう。さらに別の人は、話し言葉は不得意という自己了解を、書き言葉への修練に向かって昇華させようとする。書き言葉は、聞き手が不在であるためにじっくりと時間をかけることが可能だからである。だがいずれにしても、人間は、話し言葉の関係世界から完全に逃れるわけにはいかない。
 吃音者と呼ばれる人は、この情緒的な動揺を早くから自覚しすぎてしまったために、その自意識に自意識を上乗せさせることになり、その結果、かえって半ば自動的に「発語という行為におけるつんのめり」を習慣化させてしまった人たちである。言うまでもなく、これまで述べてきたのと同じように、どもらない人と「吃音者」との間に明瞭な境界線があるわけではなく、両者はグラデーションをなしており、だれでも状況次第ではどもる(右、感情が激した場合の例:「た、た、たいへんだ!」)。
 また吃音者が男性に圧倒的に多いという事実は、これと裏腹に話し言葉としての外国語習得は女性のほうが得意であるという事実と相まって、男性という生き物が、エロス的な共同性への参加を苦手とする観念的な生き物であることを象徴的に物語っている。このことは、性差論として問題にすれば、哲学者、計画的な犯罪者、政治家、軍人、作曲家、勝ち負けを気にする者、などには男性が圧倒的に多いこととも関連させて捉えられる事実である。
 男性は一般に、女性に比べて、自分と世界とを連続性の相のもとに捉えず、主体と対象、自己と他者、というように対立的な相のもとに捉える傾向が強い。世界を融和的に取り入れずに、いったん内部で何事かを構成し、そして改めて自分を世界に関係づけるという面倒な性癖をもっている。内在的に言えば、身体表出←→情緒表出←→言語表出という有機的、連続的なプロセスと循環のどこかに余計な分節を打ち込みたがるのである。また比喩的に言えば、彼らはあらかじめ大地から追放されているのである(拙著『「男」という不安』PHP新書、『エロス身体論』平凡社新書参照)。
 吃音障害などが恒常的であるために、その過剰な自意識から無口になってしまうことがあるというのは、別に解説を要する必要のない、とても理解しやすい道理である。足の悪い人が家の中に引きこもりがちであるというのとそんなに変わらない。

 ちなみに、突飛に聞こえるかもしれないが、吃音現象は、詩の言葉の世界と通底している。というのは、言いたいことがうまく話せないので詩の世界に入るという機能的な理由からだけではない。吃音しているという行為それ自体が、一種の詩的行為なのである。
 逆に言えば、詩人たちは、数行の研ぎ澄まされた言葉で、〈私〉と世界との関係や〈私〉の情緒を語りきろうとする。これは、できることなら、吉本隆明の言う「自己表出」の高みだけを純粋に取り出したいという欲求に根ざしており、その欲求は、吃音者が吃音しているまさにその時点での身体的な欲求と見合っている。詩作は、指示行為を主たる目的としていないので、ラングというルールを守ることを最低限に抑え、時にはそれに反逆しても言葉によって自らの個的かつ一回的な世界感受(身体や感覚や情緒)を美的表出として構成しようとする。先に述べたように、一般に、言語の不透明性に「自己投企」を賭けるのが詩人の理想である。そしてこれは吃音状態における発語者の「思い」に意外なほど近いのである。

 
⑥寡黙で事足りる人(話が苦手、あまり必要と感じない、おしゃべりが好きじゃない、など)

 これらの諸傾向をもつ人が多く存在し、しかも普通に生きることができている事実は、言語論的には、表現された言葉というものが、人間関係の形成と維持にとって、唯一絶対の条件とは必ずしも言えないことを示している。
 私たちは、ごく簡単な、限られた語彙のやり取りでしか関係を作ろうとしない人々を、言語の貧困な人々というように、ネガティヴにみなしがちである。しかし、じっさいにやり取りが行われているさまざまな生活文脈をよく想定してみると、むしろ、ごく簡単な語彙で物事が通じているという場合というのは、よい関係である場合が多いのである。
 思想家・村瀬学氏は、「発語するということには、黙っていることに対する断念が含まれている」という逆説的な名言を吐いているし、「沈黙は金、雄弁は銀」ということわざもある。いちいち言葉を出さなくてはならないというのは、面倒くさいものである。できればなるべく言葉少なで済ませたい、と多くの人が思っているのではないだろうか。
 この問題は、次のような国民性の問題にもつながっている。
 日本は島国で、外敵の侵略を受けた歴史がなく、長い間生活様式を共有してきたため、言葉の同質性も強く(方言はあっても、文法構造が同じなので、じきに理解できる)、気脈が通じやすい。だから、親しい関係では言葉をやたら使わなくても済んでしまう。日本語には主語がないとよく言われるが、このことも、主語をはっきりさせなくても言葉が流通してしまうという事実の一例であろう。これは裏を返せば、異文化(たとえば英語圏)に接した時になかなか適応できにくいため、外交や経済交流の必要が生じたときには、意志疎通の困難として現われる。日本人は英語が下手である。生活の根のところで、必死になって異文化に橋をかけようという必要を感じていないからである。
 よく国際的な交流の場で、日本人は自分の考えをはっきり言わず、何を考えているのかわからないということが問題とされる。たしかにこれは異文化との間に橋をかけ渡さなくてはならない場面では、批判されてしかるべき傾向であり、自分たちにとってもデメリットとしてはたらく側面が大きい。しかし、こうした国民性を、ただ克服すべきものとして一概に否定することはできない。というのは、外向きには欠点として映るその同じ傾向が、内向きでは、相互理解の深さや争いの少なさ、我慢強さやマナーのよさとして実現しているからである。
 ところで言葉少なで事が済むのはよい関係である場合がけっこう多いという事実は、言語というものが、まさしく言語としての役割を果たすために、常に必然的に、「表現された形としての言語」の外側(生活文脈)との関係を要請するという本質的な事情を裏側から証拠立てている。
 例を挙げよう。

【例1】「好き……」
    「……僕も」

【例2】「いくら?」
    「五千円」
    「まけない?」
    「……四千八百円」
    「買った」

【例3】「木曜定休日」(看板の文字)
    「あ、残念!」

【例4】「あれもってきて」
    「あいよ」
    「こっち右にして、それをここにした方がいいかな」
    「これをこのへんにする方がいいかも」
    「あ、そうしよう」

 いちいち解説は必要ないと思われるが、すべて簡単にやり取りが通じている場面である。本稿の読者もまた、これらの言語的やり取りが通じている背景に、どんな生活文脈があるか、書き言葉で表記されている部分を読んだだけで、たちどころに想像できるであろう。あるいは、少なくとも発語された言語以外の状況が発語者たちに共有されており、それに支えられてこそ言語行為が成立しているのだということがすぐにわかるだろう。
 その発語された言語以外の共有された状況とは、外的には、複数の身体が織りなす非言語的な諸行為の連関であり、内的には、複数の身体間で暗黙のうちにはたらいている情緒機能なのである。
 たとえば例1では(これだけの表記ではいくらでも多様な想定が可能だが)、二人の男女のつきあいがそれ以前に行為としてあり、同時にそこに必然的に相手に対する性愛的な情緒の深まりが進行している。周りには誰もいない場所で、身体を近接させ、そして女がそれまでの思いを最も端的なことばで表現することを決断し、それに対して男の方も、最も単純な答えで応じる。この後、事態がどのように進行するかは容易に想像できるが、女の端的な決断行為としての「言葉」がこの場面で可能なのは、女の側に、これまでの相互行為の経緯と、そこに付随してきた自分の情緒的な高まりおよびそれに対する相手の情緒的な呼応の仕方とを総括したうえで、いまこそそれをいうタイミングだという「確信」に近いものが訪れてきているからである。
 また、例3では、素っ気ない看板の文字が、その素っ気なさそのものによってこそ、このレストランでうまい飯を食ってやろうと期待してきた客をぐずぐずさせずにあきらめさせることに成功している。看板の文字は、けっして店舗と客側とのこれまでの相互行為の連関と無関係なのでもなく、また、そこに作られてきた情緒的関係と無縁なのでもない。まったく逆に、「あなたを理由なく拒否しているのではありません」という根拠のある弁明によって、「定休日でない日にはぜひまたよろしく」という情緒的なつながりを継続させたい欲求の表現ともなっており、客がその欲求を正しく受け止める効果をも作り出している。何も書かれていずにドアが閉まっているだけだったら、客は「つぶれちゃったのかな」という見当違いの疑惑や不安などの情緒を抱く可能性がある。まただらだらと弁解がましい文章が書かれていれば、客側はかえってそれを時間をかけて読まなくてはならないために、店主の本意は何かという苛立ちをおぼえるに違いない。
 さらに例4では、ただの「こそあど」言葉が多用されているが、相互行為の場が共有されているために、具体的な名詞を一切使わずに事と人間関係とが滞りなく進行している。よくなじまれた共通の情緒的了解があればこそである。
 このように、寡黙でも事足りるというのは、悪いことではない。寡黙な人、ほとんど余計なことを言わない人は、その寡黙さが周囲に醸し出す雰囲気にもよるが、寡黙であることによって、かえって「ああいう人だから、それはそれでよい」として許容されることもあり、その寡黙さの傍らにいる人に安心感を抱かせる場合もあり、また時によっては、尊敬や愛情を勝ち得たりすることもある。というのも、発語行為はあくまでも身体行為が作り出す全生活文脈の特殊な一部にすぎないのであって、ただの純粋形式的な「寡黙」というものはあり得ないのである。どんな寡黙な人も、生活の各場面に応じて、言語以外の身体像をそのつどさらしており、私たちはそこにその人の存在感や、表情や、何を感じ何を考えているかなどを把握できるのだ。

 なお、一般に「文法学」という学問は、整合的な体系性を目指すために、「正しい日本語」とか「文章としての完全性」などの概念に囚われている傾向が強い。その結果、日常生活において、相互に寡黙でも何とかやっていたり、名詞や動詞や形容詞などのごく少ない単語しか使われずにコミュニケーションが成り立っていたりする場面を、「省略」とか「不完全態」として把握しがちである。
 たとえば、「大将、久保田一本!」「へい、久保田一本!」といったケースをあとから分析し、これは、「大将、私は久保田が飲みたいので一本注文します」「へい、私はあなたの注文が久保田一本であることを承知しました」という「整った文章による会話」の省略されたものである、というように。
 しかし私の基本的な考えでは、これは言語というものの本質に対する転倒した理解である。あの言語過程説というすぐれた言語哲学を引っ提げて国語学の構築に向けて格闘した時枝でさえ、この種の転倒した理解から完全には免れていない。
 言語の本質は、関係存在としての人間が、抽象的な記号によって関係を創造、維持、破壊してゆく相互自己投企であるから、ある生活文脈の中で、その場の状況にふさわしいかたちで言葉が流通していれば、それで言語の条件は完璧に満たされていると言ってよいのである。じっさい、右の例で、言葉を交わしている客と大将との主体的な表現意識を想定してみれば、そこには何も「省略」などという心理的な機制ははたらいていないことが容易に読み取れる。気脈、情緒、適切なテンポなど、あるコミュニケーションの相互了解をかたちづくるための基盤はすでに状況のうちに熟しているのだから、そこには「省略されているはずの」言語などを補う必要はまったくないのである
 もちろん、私たちは、必要と感じた時には、さまざまな言語を使うべきであるし、またそのための技術を磨くべきである。しかし豊富な言語を多用しなくてはならないと私たちが感じるのは、言語というものが、その使用によって情緒的な関係の新しいギャップを作り出す可能性を常にはらむという宿命的な矛盾を抱え込んでいるからである。たとえば、現実の会話では、「そういう意味で言ったんじゃないよ!」などの抗議がしょっちゅうなされるのが常である。
 言語の豊かな多用は、この克服不可能な宿命に対するいわば一つの「終わりなき戦い」であり、私たちはやむを得ずそうしているのである。このことは、論理的な言語においても、文学的な言語においても例外なく当てはまる。

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