インターネットなどで感想を読んでみると称賛の嵐だ。第69回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作品だから当然かもしれない。
劇場で貰ったパンフレットにも同様な評価で溢れている。
例えば、「圧倒的に打ちのめされた。他人へのやさしさを失わない気持ちが痛いほどリアルに伝わる感動作です。優しく手を差し伸べる主人公の生き方に感動した。同じことが、日本でもきっと起こる!。強い者に屈しなければ生きていけない人たちが、少しだけ勇気をもつことで、世界は変わるというメッセージのようにも思える」と、多くの「感動した!」の言葉が並ぶ。
とても良い作品だと思う。ダニエル・ブレイクの生き様から心に届くものが多かった。感涙した。しかし、僕は、映画の中盤あたりから、物語の結末を予想することができた。
そして、考えていた。この作品、そういう映画だろうか?
ダニエル・ブレイクの生き様だけに焦点をあてると単なるヒューマニズムの強い映画として終わる。だから、中盤あたりからヒューマニズム的な側面からこの映画を観てはいなかった。
ダニエル・ブレイクの哀しみの人生、、この問題の核心はどこにあるのだろうか?そればかりを考えていた。
そして、見えてきたものは以下のことだった。
僕らの生きる社会においては、民間企業が業務の効率化のために全てをITに集約していく傾向は、もはや制御できなくなってきている。時と共に益々加速していくだろう。これは止む負えない。
しかし、役所における業務の効率化は行き過ぎではないのか?この作品はそれを問題提起としているのでは?
視座をヒューマニズムの側面からだけ見ると「行き過ぎた効率化の弊害」を見落としてしまう。弊害とは、弱者に対する暴力のことである。それを見落としてしまう。
IT技術の過度な発展こそ、その発展の足枷(あしかせ)になるというパラドックスだ。その結果、社会の至るところで綻びが生まれてくる。そして、そのような社会はジワジワと衰退していく。
恐ろしいことに、社会の綻びは、必ず、弱者から生まれていく。
弱者とは、老人であり、病人であり、貧困層だ。ダニエル・ブレイクには全てに該当する。弱者は、インターネット(PC)を自由に使うことが出来ない。そのスキルがない。その必要もない。しかし、社会は「効率化」を求めて、弱者の存在をいつの間にか無視・無力化していくことになる。切り捨てである。それは暴力である。
公的機関(役所)が、そのシステムを導入することで、表面上は素晴らしい技術革新の成果を享受できる効率的な社会が誕生する。しかし、この映画のように、弱者切り捨ての暴力が日常茶飯に発露する。
社会に、弱者に寄り添う精神(<システム)が欠落した場合、その社会はジワジワと衰退していく。ITを駆使することが人間の高い知性の証明ではない。社会(特に公的機関)に柔軟的な対応が出来る時、その社会には人間の高い知性が存在していることが証明される。
柔軟的な対応とは、例えば、公的機関の全て窓口(担当者)において、弱者に対して、きちんと寄り添うことのできる成熟した人間を置いていることである。
日本でも同じ問題は生じている。益々、加速していくだろう。この矛盾と疲弊を除去できるのは、僕ら一人一人の声である。それを再考する時期にきている。そのことを、名匠ケン・ローチ監督は指摘しているのではないだろうか?
評価:☆☆☆☆