ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

「天皇即位・10連休」について

2019年02月09日 12時41分34秒 | 歴史と風土
今年のゴールデン・ウイークが10連休となるので、世間の話題になっているようです。
現天皇の譲位と新天皇の即位の為に国民の休日が増やされる処置により、休日が増えてしまうのです。
旅行業者などには喜ばしい事であるようです。
わたくしなどの年金生活者は休みが多くなろうが少なかろうが生活には何の影響もありません。

さて、休日を増やしてくれる「天皇制」についてせっかくですのでこれを機会に考えてみたいと思います。
近代日本の「天皇制」が何であったのかを理解していた人を二人挙げたいと思います。
戦前の憲法学者美濃部達吉が唱えたものに「天皇機関説」があります。歴史の教科書に載っていますので、聞いたことがある人は多いと思われます。
天皇機関説は簡単に言えば「天皇は支配制度のなかでは一つの役割に過ぎない」という考え方です。この考え方は当時の支配層にとってはけしからん考えと見なされました。それにより美濃部の著作は発禁処分を受け、著作者は権力に拘束されたのです。「万世一系」の天皇の地位を脅かす論調と見なされたのです。
さて、戦前の日本で天皇制を鋭く糾弾したもう一人の人物に北一輝がおります。「国体論及び純正社会主義」や「日本改造法案大綱」で当時の統治制度である「天皇制」に異議を唱えました。

美濃部達吉は今で言うところの「護憲派」の憲法学者です。一方、北一輝は「革命家」でした。大日本帝国に根本的な疑義をもった「過激思想の革命家」でした。「護憲派」と「過激派」の両者の天皇制に対する姿勢が同じ方向を向いていたことはなんとも面白いですね。

天皇制の近代以降の歴史的位置をここで確認しておきましょう。
明治維新のときに天皇制は反幕府勢力により担ぎ出され、それまで「忘れられた存在」であった「天皇」がにわかに脚光を浴びることになります。
武士勢力の影にあり、存在意義がないと思われていた「旧制度」が復活したのです。

ここでわが国の歴史上で「権力としての天皇制」が二度死んでいる事を思い出してみましょう。
一度目は政治権力が武士勢力に移った時期です。すなわち武士社会の確立によりそれまで権力の中枢にいた天皇を中心とする貴族から武士層に権力が移譲されたときです。それ以来、天皇制は長い「冬眠生活」をしていました。現実の政治の表舞台に登場することも無く、細々と京都で自分の家系の祭事だけを行っていたのでした。
その後の明治維新期に討幕勢力により表舞台に担ぎ出されます。「大政奉還」により天皇制が復活したのです。復活した天皇制は日本国家の主権を担う制度となります。
そしてその制度は太平洋戦争の敗戦に直面しました。敗戦の結果、天皇が「国民統合の象徴」とされ実体的な政治権力を持たないものとなりました。これが二度目の死です。この時「無権力な制度としての天皇制」が戦勝国のお情けとその後の利用可能な統治の一環として存続が許されたのです。

美濃部が唱えた「天皇機関説」は天皇を支配制度の中で果たす「実体を持つ役割」としてとらえていました。
敗戦後の天皇には「実体を持つ役割」はありません。「象徴としての位置」があるのみです。
この場合「象徴」が問題になります。「象徴」には「実体としての力」はありませんが、「非権力としての権威」は隠然として備わっていると見るべきでしょう。

かくして象徴としての天皇制は国民にとって身近な存在となっていったのです。
正田美智子さんが皇室に嫁ぎ、ミッチーブームが起きました。毎週のように女性週刊誌により天皇家に関する事柄を特集記事で紹介していました。国民にとって身近に「皇室」が感じられるようになっていったのです。「象徴としての天皇制」が象徴の意味が理解されないままに拡散されていったのです。まるで読み捨てられる週刊誌のように「消費」されていきました。
そのような天皇制の在り方を「週刊誌天皇制」と揶揄した文学者がいました。
その人は三島由紀夫でした。

実体権力を持たない象徴天皇制を三島は「週刊誌天皇制」と言いましたが、現下の天皇制は国民に休日をもたらしてくれる「連休天皇制」と言って差し支えないであろう。




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1 コメント

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北一輝ですが (猫の誠)
2019-09-02 19:29:36
日本改造法案大綱の国民の天皇、という言葉からは、表向き右翼だが皇室廃止論者かと勝手に思っています。私有財産の限度制限など、現実的共産主義者かと思われる記述もあります。

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