自分が不幸にならないと、
人の不幸がわからないのよ。
(瀬戸内寂聴/小保方晴子との対談=婦人公論6/14号)
何かにしがみつくのは人間だけだ。
鳥を見てごらん。
(スーパー歌舞伎『空ヲ刻ム者』)
人生で大切なのは、修練と勇気、
あとはゴミ!
(トットちゃん/NHKテレビドラマ『トットてれび』)
現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、
混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです。
(村上春樹『約束された場所で』あとがき)
友人の小さなギャラリーで、朗読会をすることになりました。
2016年5月21日(土)於:ギャラリー60
テーマ:O・ヘンリー 『賢者の贈り物』を読む
今日は、ニューヨークを舞台とした短編小説で広く知られていますO・ヘンリーの作品を朗読したいと思います。
有名な作家ですので、皆さんも何か一遍くらいは読んだことがるのではないかと思います。
いちばん有名なのは、「最後の1葉」ですね。今もあります、この写真(★写真1)のようなニューヨークの住宅グローブ・コートを舞台に描いたとされる作品です。
病に臥せった女性が、窓辺に見えるつたの葉を数えながら、あの葉っぱが全部落ちた時に自分の命も終わるのだと言って生きる意欲を失なっている。そしてついに嵐がやってきて、今夜には最後の一葉も落ちてしまうかという日、朝目覚めると、まだその葉っぱは落ちないで、1葉だけ生き残っていた。それを見た女性は、あんな大嵐の中でもあの葉は力強く生き残っんだからと、自分ももう一度頑張って生きようと決意する、というお話ですね。その葉っぱが実は階下に住む、まだ一度も作品を仕上げたことがない老画家の手になるもので、雨の中での作業に肺炎を起こして彼は、初めての作品をそこに残して死んでしまっていた、というのが筋書きです。
彼はこうした短編のほとんどを(381編のうちの200編あまり)40歳でニューヨークに出てきてのちの4年間で書き上げるのです。
住んだのは、この写真にある有名なグリニッジ・ヴィレッジのユニオン・スクエア、アーヴィング・プレイス55番地で、今現在は、このような(★写真)サル・アンソニーという有名なレストランになっているビルで暮らしながら、その斜め向かいに今もあるピーツ・タヴァーンというレストラン&カフェ(★写真)でウイスキーを飲みながら書いたのが、今日朗読します、「賢者の贈り物」と言われています。今でも、この店の中には、ここでO・ヘンローが「賢者の贈り物」を書いたという看板が掛けられいるそうです。
40歳でニューヨークに出てきた彼は、ニューヨーク・ワールドという新聞の日曜版に毎週1編、2000から3000字の原稿を書くという契約を結んで、4年間書き続け、48歳と数ヶ月で亡くなります。
彼のお墓は、生まれ故郷のノースカロライナ、アッシュビルという町にありますが、そこにはO・ヘンリーの名はなく、本名のウィリアム・シドニー・ポーターとだけ刻まれているそうです。
なぜ、ポーターはO ・ヘンリーと名乗り、そして自らの碑文にはその名を刻ませなかったのか? O・ヘンリーと名乗るまでの彼の人生をたどった後から、「賢者の贈り物」を朗読をしたいと思います。
彼が生まれたのは米・南部のノース・カロライナでした。
父親は薬剤師兼医師で、母親の方に文才と画才があったようです。でも、その母は3歳のとき肺結核でなくなります。それで、父の姉である叔母に育てられます。その叔母が教師をしており、文学好きだったことから早くから小説を読むようになったようです。大学に進みたかったのですが、それは諦めて、15歳で、叔父の経営するドラッグストアで見習い薬剤師として働きはじめます。そして、4年後に正規の薬剤師になります。
が、20歳の頃、10歳の頃から咳き込むことの多かった彼は、気管支の病の療養のために医師の勧めでテキサスに移り、2年半ほど牧場暮らしをします。知人の二人の息子がそこで牧場管理の仕事をしていたからでした。その後、オースティンという州都に出て、帳簿係として働いたのち、牧場主の息子がテキサス州の土地管理局長官に就任することになった時、その手引きで、製図工補佐につきます。そして、6か月後にアソル・ローチという娘と結婚するのですが、その後、彼の家庭生活には次々と苦難が押し寄せてきます。
(1)結婚の翌年に生まれた長男が、生後わずか数時間で亡くなった。
(2)次の年、長女を出産した妻が、衰弱して肺結核を発病してしまう。
(3)土地管理局に斡旋してくれた長官が州知事選挙に出て、負けてしまい、その余波で彼も職を辞することになる。そして、ファースト・ナショナル銀行の出納係として再就職します。
ところが、当時の銀行業務はずさんで、情実がらみの融資が行われていて、法律違反は日常茶飯事。こうした内情にヘキヘキしながらも、彼は家族の生活を守るために働くのですが、少しでも生活の足しにと原稿を書いて新聞社や出版社に送るようになります。
そして、ついに、義父や友人たちの支援を受けて、彼自身が主筆、イラスト、編集も担当するという週刊新聞「ローリング・ストーン」を創刊します。
そして、新聞社に専念するために退職するのですが、
ここで、大きな問題に直面するのです。
勤めていた銀行に連邦銀行検査官の査察が入り、帳簿の収支が合わないことが指摘されたのです。
”出納係が金を横領した”という噂が流れ、彼が起訴されてしまうのです。
1896年の2月14日の事、裁判所に出廷するため、ヒューストンからオースティンに向かう列車に乗り込んだ彼は、どうしたことか、途中の乗り換え駅のハムステッド駅で、反対方向、ニューオーリンズ行きの列車に飛び乗ってしまったのです。
こうして10か月に及ぶ逃亡が始まります。結局、妻の重体の知らせを受けて帰郷し、逮捕。禁固5年という重い判決を受けることになり、オハイオの州立刑務所に収監されてしまうのです。
刑務所内では、彼は薬剤士だったということがとても役に立って、医師の手伝いを任されたことから、医師や看守長に可愛がられて、作品を刑務所内から発表する手助けをしてもらいながら作品を書くことになります。模範囚として3年3か月で出所するのですが、彼は、この逃亡と服役の経験から人生を学び、文学の基礎を作り、作品を生み出すインスピレーションの源泉を得たのもここでの経験だったと言われています。そうして刑務所を出るときには立派な小説家になっていた、と言われています。この服役時代に、法律違反の新聞社や出版社への原稿投函を見逃し、親身になって接してくれた看守長が、Oririn Henryという人物で、そこからO, Henryの筆名を用いたのではないかという説もあります。が、本人はそのことについて何も書き残していないので、真相は闇のままです。
ところで、彼は、この3年3か月に渡った刑務所時代を、彼を支えてくれた義父や数人の友人にしか語りませんでした。実の娘でさえ、そのことを知ったのは、彼が死んで9年後のことだったといいます。有名になってからのインタビューでも年齢を3年縮めて、その時代はなかったかのように語っていた、ということです。
実は、この時代の銀行はいい加減で、最終的に収支があっていれば文句はなく、行員が自らの投資資金に使っても、のちに穴埋めさえしておけばいいという具合で、法律違反に問われることもなかったそうなんです、ですから、彼も素直に出廷していれば、多分無罪になっただろうと、当時の裁判官も後に語っています。
そんな彼が出所後、数ヶ月を過ごしたピッツバーグに愛娘マーガレットを残して単身ニューヨークに乗り込んで、ビーツ・タヴァーンで書き上げたという作品を、それでは読みたいと思います。
ーーーー「賢者の贈り物」を読む。ーーーー
2016年5月21日(土)於:ギャラリー60
テーマ:O・ヘンリー 『賢者の贈り物』を読む
今日は、ニューヨークを舞台とした短編小説で広く知られていますO・ヘンリーの作品を朗読したいと思います。
有名な作家ですので、皆さんも何か一遍くらいは読んだことがるのではないかと思います。
いちばん有名なのは、「最後の1葉」ですね。今もあります、この写真(★写真1)のようなニューヨークの住宅グローブ・コートを舞台に描いたとされる作品です。
病に臥せった女性が、窓辺に見えるつたの葉を数えながら、あの葉っぱが全部落ちた時に自分の命も終わるのだと言って生きる意欲を失なっている。そしてついに嵐がやってきて、今夜には最後の一葉も落ちてしまうかという日、朝目覚めると、まだその葉っぱは落ちないで、1葉だけ生き残っていた。それを見た女性は、あんな大嵐の中でもあの葉は力強く生き残っんだからと、自分ももう一度頑張って生きようと決意する、というお話ですね。その葉っぱが実は階下に住む、まだ一度も作品を仕上げたことがない老画家の手になるもので、雨の中での作業に肺炎を起こして彼は、初めての作品をそこに残して死んでしまっていた、というのが筋書きです。
彼はこうした短編のほとんどを(381編のうちの200編あまり)40歳でニューヨークに出てきてのちの4年間で書き上げるのです。
住んだのは、この写真にある有名なグリニッジ・ヴィレッジのユニオン・スクエア、アーヴィング・プレイス55番地で、今現在は、このような(★写真)サル・アンソニーという有名なレストランになっているビルで暮らしながら、その斜め向かいに今もあるピーツ・タヴァーンというレストラン&カフェ(★写真)でウイスキーを飲みながら書いたのが、今日朗読します、「賢者の贈り物」と言われています。今でも、この店の中には、ここでO・ヘンローが「賢者の贈り物」を書いたという看板が掛けられいるそうです。
40歳でニューヨークに出てきた彼は、ニューヨーク・ワールドという新聞の日曜版に毎週1編、2000から3000字の原稿を書くという契約を結んで、4年間書き続け、48歳と数ヶ月で亡くなります。
彼のお墓は、生まれ故郷のノースカロライナ、アッシュビルという町にありますが、そこにはO・ヘンリーの名はなく、本名のウィリアム・シドニー・ポーターとだけ刻まれているそうです。
なぜ、ポーターはO ・ヘンリーと名乗り、そして自らの碑文にはその名を刻ませなかったのか? O・ヘンリーと名乗るまでの彼の人生をたどった後から、「賢者の贈り物」を朗読をしたいと思います。
彼が生まれたのは米・南部のノース・カロライナでした。
父親は薬剤師兼医師で、母親の方に文才と画才があったようです。でも、その母は3歳のとき肺結核でなくなります。それで、父の姉である叔母に育てられます。その叔母が教師をしており、文学好きだったことから早くから小説を読むようになったようです。大学に進みたかったのですが、それは諦めて、15歳で、叔父の経営するドラッグストアで見習い薬剤師として働きはじめます。そして、4年後に正規の薬剤師になります。
が、20歳の頃、10歳の頃から咳き込むことの多かった彼は、気管支の病の療養のために医師の勧めでテキサスに移り、2年半ほど牧場暮らしをします。知人の二人の息子がそこで牧場管理の仕事をしていたからでした。その後、オースティンという州都に出て、帳簿係として働いたのち、牧場主の息子がテキサス州の土地管理局長官に就任することになった時、その手引きで、製図工補佐につきます。そして、6か月後にアソル・ローチという娘と結婚するのですが、その後、彼の家庭生活には次々と苦難が押し寄せてきます。
(1)結婚の翌年に生まれた長男が、生後わずか数時間で亡くなった。
(2)次の年、長女を出産した妻が、衰弱して肺結核を発病してしまう。
(3)土地管理局に斡旋してくれた長官が州知事選挙に出て、負けてしまい、その余波で彼も職を辞することになる。そして、ファースト・ナショナル銀行の出納係として再就職します。
ところが、当時の銀行業務はずさんで、情実がらみの融資が行われていて、法律違反は日常茶飯事。こうした内情にヘキヘキしながらも、彼は家族の生活を守るために働くのですが、少しでも生活の足しにと原稿を書いて新聞社や出版社に送るようになります。
そして、ついに、義父や友人たちの支援を受けて、彼自身が主筆、イラスト、編集も担当するという週刊新聞「ローリング・ストーン」を創刊します。
そして、新聞社に専念するために退職するのですが、
ここで、大きな問題に直面するのです。
勤めていた銀行に連邦銀行検査官の査察が入り、帳簿の収支が合わないことが指摘されたのです。
”出納係が金を横領した”という噂が流れ、彼が起訴されてしまうのです。
1896年の2月14日の事、裁判所に出廷するため、ヒューストンからオースティンに向かう列車に乗り込んだ彼は、どうしたことか、途中の乗り換え駅のハムステッド駅で、反対方向、ニューオーリンズ行きの列車に飛び乗ってしまったのです。
こうして10か月に及ぶ逃亡が始まります。結局、妻の重体の知らせを受けて帰郷し、逮捕。禁固5年という重い判決を受けることになり、オハイオの州立刑務所に収監されてしまうのです。
刑務所内では、彼は薬剤士だったということがとても役に立って、医師の手伝いを任されたことから、医師や看守長に可愛がられて、作品を刑務所内から発表する手助けをしてもらいながら作品を書くことになります。模範囚として3年3か月で出所するのですが、彼は、この逃亡と服役の経験から人生を学び、文学の基礎を作り、作品を生み出すインスピレーションの源泉を得たのもここでの経験だったと言われています。そうして刑務所を出るときには立派な小説家になっていた、と言われています。この服役時代に、法律違反の新聞社や出版社への原稿投函を見逃し、親身になって接してくれた看守長が、Oririn Henryという人物で、そこからO, Henryの筆名を用いたのではないかという説もあります。が、本人はそのことについて何も書き残していないので、真相は闇のままです。
ところで、彼は、この3年3か月に渡った刑務所時代を、彼を支えてくれた義父や数人の友人にしか語りませんでした。実の娘でさえ、そのことを知ったのは、彼が死んで9年後のことだったといいます。有名になってからのインタビューでも年齢を3年縮めて、その時代はなかったかのように語っていた、ということです。
実は、この時代の銀行はいい加減で、最終的に収支があっていれば文句はなく、行員が自らの投資資金に使っても、のちに穴埋めさえしておけばいいという具合で、法律違反に問われることもなかったそうなんです、ですから、彼も素直に出廷していれば、多分無罪になっただろうと、当時の裁判官も後に語っています。
そんな彼が出所後、数ヶ月を過ごしたピッツバーグに愛娘マーガレットを残して単身ニューヨークに乗り込んで、ビーツ・タヴァーンで書き上げたという作品を、それでは読みたいと思います。
ーーーー「賢者の贈り物」を読む。ーーーー
友人の小さなギャラリーで、朗読会をすることになりました。
2016年5月14日(土)於:ギャラリー60
テーマ:ホセ・ムヒカ(世界で一番貧しい大統領)のスピーチ
今日は、とても興味深い映像を見つけましたので、まずはそれを写してみたいと思います。
★映像1(サウジの皇太子の自家用ジェット)
もう一つあります。
★映像2(ビル・ゲイツのクルーザー)
最初の映像は、2016年時点で(雑誌フォーブス/3月1日)世界41位の富豪と言われるサウジアラビアのアルワリード・ビン・タラール王子の所有する、一機400億円の最新鋭旅客機エアバスA380です。100億円をかけて内装を一流ホテルのように改装したプライベートジェットの内部です。
こんなものもあります。黄金のフェラーリです。これも同じサウジの王族一族の子供がベルリンの学校に通うのに使っている車としてネットにアップされていました。親子の往復書簡が添えられていて、お金持ちの生活ぶりがしのばれます。
でも、このビン・タラール王子も、現在は世界の41位です。2006年では8位でした。この年に全資産を段階的に慈善団体や女性の権利向上のために寄付すると表明して減ってきています。
では、世界の第1位は誰でしょうか? みなさん、よくご存知のビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)ですね。写真は彼が毎夏、家族とのバカンスに使用しているクルーザー(建造費330億円)です。内部はこんな風になっています。ただし、こちらは所有しているのではなく、一週間の貸出(チャーター)料5億円で借りているものです。ちなみに彼の2016年3月時点の資産は約8兆4,750億円。タイの国家予算に相当すると言われています。ちなみに日本の2016年度の予算は96兆7,218億円。彼もプライベートジェット(写真)を持っていますが、こちらはビン・タラールと比べる、ちょっと控えめですが、それでも約53億円のカナダ・ボンバルディアGlobal7000,20人乗りの”空飛ぶ高級ホテル”と言われるものです。
それでは、ここらで、今回取り上げます、去年まで南米・ウルグアイの大統領(2010年3月から2015年2月末まで)であったホセ・ムヒカという人を見てみましょう。
このホセ・ムヒカという人は、これですが(★画像)、皆さんも多分、ご存知ではないかと思います。
ちょうど一ヶ月ほど前、4月5日に初来日しまして、東京外国語大学での講演や、フジテレビでの池上彰さんとの対談をやって、京都などを訪ねた後、12日に帰国されていますので、ニュースなどでもよく見かけられたかと思います。
”世界で最も貧しい大統領”と呼ばれ、このような絵本(★画像)にもなって、日本でも発売されています。来日前で16万部が売れていたということですから、この来日で、もっと増えているでしょうね。
このホセ・ムヒカさん(5月20で80歳になる)が有名になったのは、今から4年前の2012年6月に、ブラジルのリオで開催された地球サミット2012でした。世界188か国から97名の首脳や閣僚を含む約3万人が参加した国連の持続可能な開発会議で行った演説でした。その人がまた、とても質素で慎ましい生活をしているということが伝えられて、ますます注目を浴びたということもあると思われます。
大統領ですから、月収は約97万円ほど(日本の安倍首相は205万円)なのだそうですが、その9割は慈善事業に寄付して、残りの約10万円を生活費として暮らし、個人資産は約18万円相当と言われる1987年式のフォルクスワーゲン・ビートル1台(★映像)だけという人です。この車はアラブの大富豪が1億1,600万円で買いたいと言ってきたそうですが、売らなかったそうです。
今日は、このホセ・ムヒカ元大統領のリオでの有名な演説を読む予定にしていたのですが、実は、来日に合わせて、フジテレビがニュース番組の中で大きく取り上げていました。テレビでその来日の経緯と演説の全文を紹介されました。ご覧になった方もいるかと思われます。
私のようなものが、稚拙な朗読をするよりも、その中で、羽佐間道夫さんというすばらしい声優さんが読んでいますので、今日は、まずはそれを聞いていただくことにします。
羽佐間道夫さんの有名な声としては、映画ロッキーのシルヴェスター・スタローンでしょうね(★写真)。後は、ポール・ニューマンとかロバート・デ・ニーロも彼が吹き替えています。
(★映像)
以上です。
実はこれで、本日は終わりにしたいのですが、それでは朗読会という看板に偽りアリということになってしまいます。
それで、本日は、ムヒカさんのスピーチとは直接関係ないのですが、型破りなスピーチを二つご紹介することで、お茶を濁させていただきたいと思います。
はじめは、短いスピーチです。落語家の立川志の輔師匠が、「ハンドタオル」という落語の中で紹介している、師匠が実際に体験したという結婚披露宴でのスピーチです。
★スピーチ1
新潟のあるディレクターの結婚披露宴に呼ばれた時だったそうです。制作会社のディレクターさんの結婚式でしたので、その会社の社長さんが出てまいりまして、こんなスピーチをされたのだそうです。
志の輔さんといえども、こういう祝辞は聞いたことがありませんでした、と言っていました。
「えー、新郎新婦、おめでとう。
ご両家のご両親様、えー、本日は誠におめでとうございます。
私は、今、司会者の方にご紹介いただきました
新郎が勤務しております会社の社長をなどというものをやっております。
えー、私、新郎新婦に申し上げたいことは、多々あるのでございますが・・・
えー、そのー、私事で誠に恐縮なんではございますが、
実は3ヶ月ほど前に、再婚いたしまして・・・・、
まあ、会社に行きますと、この歳にして再婚、再婚と、
それは冷やかされてばかりいる毎日なのでございます。
それで、まあ、私、今、正直に思っていることを申しますと、
その~ですね、
変えてみても、あまり、変わりはなかったと・・・、
まあ、そういうことでございます。
まあ、新郎新婦も、これから山あり谷あり、
いろいろな、辛いこともあると思われます。
が、
その時は、どうか、私の言葉を思い出していただきまして・・・、
変えてみても大差はないぞと・・・
そういうことでございます。
甚だ
簡単ではございますが・・・。
これにて、両君へのはなむけの言葉としていただきます」
二つ目は、アメリカのシラキュース大学という大学の卒業式でジョージ・サンダースという先生が行ったスピーチです。シラキュース大学というのはニューヨーク州にある有名な大学です(★写真)。ジャーナリズム学部が有名で、多くのテレビ関係者や記者を排出していることで知られています。有名な卒業生としては現在のアメリカ副大統領のバイデン(★写真)、映画ではコロンボ刑事で有名なピーター・フォーク(★写真)などがいます。
その大学で、2013年に卒業生の一人で、短編作家でもあるサンダース教授が行った卒業生へのスピーチです。
★スピーチ
「おまえら、おやじっていうのは、金づるだとしか、思っちゃねえだろ? っていうか・・・、昔のロック、例えばThe Whoのヒット曲を思い出せないときに、「ねえ、あれなんだっけ」とか尋ねてみたり・・・、
まあ、お前らにとって親父の出番っちゃあ、そんなとこなんだろうさ。
で、たまたま気が向いた時に、「このおやじはなんでこんなんになっちまったんだろう?」とか興味を持ったりしてさ、
「ねえ、人生でさ、一番、後悔してることは、何なの?」
なんて、失礼千万な質問をぶつけてきたりする、だろ? ま、もちろん、そんな質問されても、こっちはへっちゃらだけどね。逆に言い聞かせてやるさ、聞きたくないって言われたって、ふんづかまえてでも、話してやる。 で、おれは誰かって・・・?、まあ、「成功した」と一般には思われてる作家のおれだけどね。
お前ら、おれが、人生で、一番後悔してることは、なんだと思ってるんだ? たまに、ビンボーしてたこと? 違うね。
えげつない仕事に明け暮れたこと? それも違う。 あ、あれか。スマトラで川に落っこちて、それを300匹のサルたちに笑われたってこと?
いや、違うな。 そういえば、あいつら、盛大に川にウンチをしやがって・・・、その水を飲んでしまったおれは、病気になって、7か月も入院したんだぜ。 大失態だった?
でも、違うな。
ホッケーの試合で、好きだった子の前でヘマをしてさ、嫌われてしまったことがあったっけ。 でも、そんなことじゃないんだ。 あれは、確か、中学校1年のときだった。 エレンちゃんって女の子が転校してきた。
エレンちゃんはさ、ばあさんしかしないような大きな眼鏡をしていて、いつも、ピリピリしてたな。緊張すると、金髪の髪を口にもっていって、噛んでた。 クラスのやつも、近所の連中も、ほとんど、彼女を無視してた。そして、たまに、からかった。
「お前の、髪、いい味するの?」なんてね。 もちろん、おれは、そんなことには加担しなかったよ。どちらかといえば、そんなことから、彼女を守ろうとした・・・、つもりだったんだ。 だけど、何もしなかった。
でも、知ってたんだよ。 彼女が、朝、学校へ行く前、家を出て学校へいくのを、まるで恐れるように、長い間、家の前庭で立ち止まっているのをね。 そのうち、彼女は、行っちまった。 転校して、いなくなった。 まあ、それだけの話だ。
でも、
そいつがさ、42年経った今でも、おれは忘れられないんだ。 おれが、人生で、一番、後悔しているのは、そういうこったよ。 なんで、あの時、親切になれなかった、んだろう・・・。 さすがにね、いまじゃ、おれの目の前に、ひどく困った人間が現れたら、すんなりと同情できるし、親切に、やれることをやる。 なぜ、親切になるのは難しいのかね? ダーウィン流に、生き残るための間違った意識が遺伝子の中に組み込まれているんだと、おれは推測することにしているんだ。
つまり、こんな風に、思違いしてるんだよ、みんな。 (1)自分こそが世界の中心だ、とか、 (2)自分は世界から切り離された存在だ、とか、 (3)自分の命に終わりはない、とかね。 頭じゃ、わかっているのさ、誰でも。でも、本能的に、そんな風に考えて行動しちまうのが、人間ってものなのさ。 どうやったら、そんな思違いを払しょくできるんだろう? 難しい問題だ。・・・子犬を飼ってみるとか、いろいろあるんだろうけどね。
おや、もう、スピーチの時間が3分を切った。(時計を見る)
あたりまえの方法を言っても仕方ない。先にすすむぜ。
これについちゃ、まあ、自分で考えてみてくれ。 でも、まあ、ちょっと待ってくれ。この件についちゃ、やっぱり言っておきたいこともあるんだ。
おれたちは、歳をとると、自然に、ある程度は、「親切に、やさしく」なるもんだよ。 人生、いろいろと辛いことがあっても、助けられることだってあって、社会とつながってるし、みんな助け合って生きているんだっていうことが、実感できるようになるのもなんだ。 知り合いが、ポロポロと死んでいきゃあ、否が応でも、自分もそのうち、あちら側へ行くことが、実感として、わかるようになるしな。
そうさ、おれみたいな人間でも、たいていの人間は、歳をとると、優しくなるものなんだよ。 だから、ひとつ教えておいてやるよ。 いいかい、なんだかんだ言ったって、おまえのその「おれがおれが」っていう利己心は、歳をとるにしたがって、いつか薄れていくよ。 で、お前の存在の中心にあった「おれ」はどうなるかって・・・・、
照れくさいけどね、これだけははっきり教えてやる、
「愛」さ、愛って奴に、置き換わっていることに、いつか気づくんことになるんだよ。
おまえら、思ってるだろ? なんで、父ちゃんと母ちゃんは、たいしたこと成し遂げてないのに、あんなに幸せそうなんだろう、って・・・。 お前の父ちゃんと母ちゃんの中心は、今のお前のように「おれ」じゃないんだよ、
「お前に対する愛」に置き換わってるんだぜ。
だから、あんなにも、幸せそうなんだ。 お前ら、全然、わかっちゃいないだろ? お前も、いずれ、そうなるんだ。 まあ、ともかく、卒業、おめでとう。
で、お前ら、これから社会に出て、成功したいって、思ってるんだろ。いい大学出て、いい会社に入って、きれいな嫁さんもらって、稼ぎのいい旦那を見つけてって・・・ もちろん、天職をみつけて、その分野で成功したいと思ってるだろ。 いいよ、それでいいんだよ。 がんばれよ! でも、知っておいたほうがいいぜ。 そう言った成功は、カゲロウみたいなもんだ。 知ってるだろ? カゲロウってやつ、それを目指して、いくら歩いても、どんどん遠ざかって、結局到達できない。 「成功」を追っかけて、「成功」は手にしたけど、それが思っていたもんじゃなかった、って場合もある。 「成功」ばかりを追っかけてると、人生、間違えることもあるんだ。 だから、おれがお前らに、頼みたいのは、こういうことだよ。 どうせ、お前らは、歳とともに、親切な、利己的でない人間に、なっていくんだから。いくら、お前が、いま、親父やおふくろを理解できなくてもな。 だから、今、急げよ、そのスピードを上げろって。 「成功」を追っかけるな、と言ってるんじゃないんだ。追っかけろよ! スピードを上げて! 金持ちになってみろ、名誉を求めろよ、胸を焦がす恋に落ちろよ、旅をしろよ、革新を起こせ、リーダーシップをとってみろ! そういうこったよ。 そして、裸でジャングルの川に飛び込んで、存分に遊べ!
(ただし、サルたちのうんちには気をつけろ。)
だけど、やがて、歳とともに、自分の中で大きくなる光、人のことを深く思いやるお前の芯にある灯、そいつの存在を信じて、大切に育てることを忘れちゃいけないぜ。 それを大きく、大きく育てるんだ。 何か困難な問題に直面して迷った時は、その光の照らす方へ進めばいい。それこそが、お前を大きな成功に導くはずだよ。 そして、万一、社会的な成功が、お前の目前で、誰かほかの者の手に落ちたところで、そんなこと、どうだっていうんだ? その灯を育てること、その輝きを放つこと、それ以上に、大切なことなんてないぜ。 そして、いつか、シェイクスピアのように、ガンジーのように、マザーテレサのように、その灯を、まぶしいばかりの輝きにするんだ。 で、お前らが80才になったときにさ、110才になったおれがもし生きてたらだけど、「おれの人生は、素晴らしかった」って聞かせてくれ。 以上だ、卒業、おめでとう!
2016年5月14日(土)於:ギャラリー60
テーマ:ホセ・ムヒカ(世界で一番貧しい大統領)のスピーチ
今日は、とても興味深い映像を見つけましたので、まずはそれを写してみたいと思います。
★映像1(サウジの皇太子の自家用ジェット)
もう一つあります。
★映像2(ビル・ゲイツのクルーザー)
最初の映像は、2016年時点で(雑誌フォーブス/3月1日)世界41位の富豪と言われるサウジアラビアのアルワリード・ビン・タラール王子の所有する、一機400億円の最新鋭旅客機エアバスA380です。100億円をかけて内装を一流ホテルのように改装したプライベートジェットの内部です。
こんなものもあります。黄金のフェラーリです。これも同じサウジの王族一族の子供がベルリンの学校に通うのに使っている車としてネットにアップされていました。親子の往復書簡が添えられていて、お金持ちの生活ぶりがしのばれます。
でも、このビン・タラール王子も、現在は世界の41位です。2006年では8位でした。この年に全資産を段階的に慈善団体や女性の権利向上のために寄付すると表明して減ってきています。
では、世界の第1位は誰でしょうか? みなさん、よくご存知のビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)ですね。写真は彼が毎夏、家族とのバカンスに使用しているクルーザー(建造費330億円)です。内部はこんな風になっています。ただし、こちらは所有しているのではなく、一週間の貸出(チャーター)料5億円で借りているものです。ちなみに彼の2016年3月時点の資産は約8兆4,750億円。タイの国家予算に相当すると言われています。ちなみに日本の2016年度の予算は96兆7,218億円。彼もプライベートジェット(写真)を持っていますが、こちらはビン・タラールと比べる、ちょっと控えめですが、それでも約53億円のカナダ・ボンバルディアGlobal7000,20人乗りの”空飛ぶ高級ホテル”と言われるものです。
それでは、ここらで、今回取り上げます、去年まで南米・ウルグアイの大統領(2010年3月から2015年2月末まで)であったホセ・ムヒカという人を見てみましょう。
このホセ・ムヒカという人は、これですが(★画像)、皆さんも多分、ご存知ではないかと思います。
ちょうど一ヶ月ほど前、4月5日に初来日しまして、東京外国語大学での講演や、フジテレビでの池上彰さんとの対談をやって、京都などを訪ねた後、12日に帰国されていますので、ニュースなどでもよく見かけられたかと思います。
”世界で最も貧しい大統領”と呼ばれ、このような絵本(★画像)にもなって、日本でも発売されています。来日前で16万部が売れていたということですから、この来日で、もっと増えているでしょうね。
このホセ・ムヒカさん(5月20で80歳になる)が有名になったのは、今から4年前の2012年6月に、ブラジルのリオで開催された地球サミット2012でした。世界188か国から97名の首脳や閣僚を含む約3万人が参加した国連の持続可能な開発会議で行った演説でした。その人がまた、とても質素で慎ましい生活をしているということが伝えられて、ますます注目を浴びたということもあると思われます。
大統領ですから、月収は約97万円ほど(日本の安倍首相は205万円)なのだそうですが、その9割は慈善事業に寄付して、残りの約10万円を生活費として暮らし、個人資産は約18万円相当と言われる1987年式のフォルクスワーゲン・ビートル1台(★映像)だけという人です。この車はアラブの大富豪が1億1,600万円で買いたいと言ってきたそうですが、売らなかったそうです。
今日は、このホセ・ムヒカ元大統領のリオでの有名な演説を読む予定にしていたのですが、実は、来日に合わせて、フジテレビがニュース番組の中で大きく取り上げていました。テレビでその来日の経緯と演説の全文を紹介されました。ご覧になった方もいるかと思われます。
私のようなものが、稚拙な朗読をするよりも、その中で、羽佐間道夫さんというすばらしい声優さんが読んでいますので、今日は、まずはそれを聞いていただくことにします。
羽佐間道夫さんの有名な声としては、映画ロッキーのシルヴェスター・スタローンでしょうね(★写真)。後は、ポール・ニューマンとかロバート・デ・ニーロも彼が吹き替えています。
(★映像)
以上です。
実はこれで、本日は終わりにしたいのですが、それでは朗読会という看板に偽りアリということになってしまいます。
それで、本日は、ムヒカさんのスピーチとは直接関係ないのですが、型破りなスピーチを二つご紹介することで、お茶を濁させていただきたいと思います。
はじめは、短いスピーチです。落語家の立川志の輔師匠が、「ハンドタオル」という落語の中で紹介している、師匠が実際に体験したという結婚披露宴でのスピーチです。
★スピーチ1
新潟のあるディレクターの結婚披露宴に呼ばれた時だったそうです。制作会社のディレクターさんの結婚式でしたので、その会社の社長さんが出てまいりまして、こんなスピーチをされたのだそうです。
志の輔さんといえども、こういう祝辞は聞いたことがありませんでした、と言っていました。
「えー、新郎新婦、おめでとう。
ご両家のご両親様、えー、本日は誠におめでとうございます。
私は、今、司会者の方にご紹介いただきました
新郎が勤務しております会社の社長をなどというものをやっております。
えー、私、新郎新婦に申し上げたいことは、多々あるのでございますが・・・
えー、そのー、私事で誠に恐縮なんではございますが、
実は3ヶ月ほど前に、再婚いたしまして・・・・、
まあ、会社に行きますと、この歳にして再婚、再婚と、
それは冷やかされてばかりいる毎日なのでございます。
それで、まあ、私、今、正直に思っていることを申しますと、
その~ですね、
変えてみても、あまり、変わりはなかったと・・・、
まあ、そういうことでございます。
まあ、新郎新婦も、これから山あり谷あり、
いろいろな、辛いこともあると思われます。
が、
その時は、どうか、私の言葉を思い出していただきまして・・・、
変えてみても大差はないぞと・・・
そういうことでございます。
甚だ
簡単ではございますが・・・。
これにて、両君へのはなむけの言葉としていただきます」
二つ目は、アメリカのシラキュース大学という大学の卒業式でジョージ・サンダースという先生が行ったスピーチです。シラキュース大学というのはニューヨーク州にある有名な大学です(★写真)。ジャーナリズム学部が有名で、多くのテレビ関係者や記者を排出していることで知られています。有名な卒業生としては現在のアメリカ副大統領のバイデン(★写真)、映画ではコロンボ刑事で有名なピーター・フォーク(★写真)などがいます。
その大学で、2013年に卒業生の一人で、短編作家でもあるサンダース教授が行った卒業生へのスピーチです。
★スピーチ
「おまえら、おやじっていうのは、金づるだとしか、思っちゃねえだろ? っていうか・・・、昔のロック、例えばThe Whoのヒット曲を思い出せないときに、「ねえ、あれなんだっけ」とか尋ねてみたり・・・、
まあ、お前らにとって親父の出番っちゃあ、そんなとこなんだろうさ。
で、たまたま気が向いた時に、「このおやじはなんでこんなんになっちまったんだろう?」とか興味を持ったりしてさ、
「ねえ、人生でさ、一番、後悔してることは、何なの?」
なんて、失礼千万な質問をぶつけてきたりする、だろ? ま、もちろん、そんな質問されても、こっちはへっちゃらだけどね。逆に言い聞かせてやるさ、聞きたくないって言われたって、ふんづかまえてでも、話してやる。 で、おれは誰かって・・・?、まあ、「成功した」と一般には思われてる作家のおれだけどね。
お前ら、おれが、人生で、一番後悔してることは、なんだと思ってるんだ? たまに、ビンボーしてたこと? 違うね。
えげつない仕事に明け暮れたこと? それも違う。 あ、あれか。スマトラで川に落っこちて、それを300匹のサルたちに笑われたってこと?
いや、違うな。 そういえば、あいつら、盛大に川にウンチをしやがって・・・、その水を飲んでしまったおれは、病気になって、7か月も入院したんだぜ。 大失態だった?
でも、違うな。
ホッケーの試合で、好きだった子の前でヘマをしてさ、嫌われてしまったことがあったっけ。 でも、そんなことじゃないんだ。 あれは、確か、中学校1年のときだった。 エレンちゃんって女の子が転校してきた。
エレンちゃんはさ、ばあさんしかしないような大きな眼鏡をしていて、いつも、ピリピリしてたな。緊張すると、金髪の髪を口にもっていって、噛んでた。 クラスのやつも、近所の連中も、ほとんど、彼女を無視してた。そして、たまに、からかった。
「お前の、髪、いい味するの?」なんてね。 もちろん、おれは、そんなことには加担しなかったよ。どちらかといえば、そんなことから、彼女を守ろうとした・・・、つもりだったんだ。 だけど、何もしなかった。
でも、知ってたんだよ。 彼女が、朝、学校へ行く前、家を出て学校へいくのを、まるで恐れるように、長い間、家の前庭で立ち止まっているのをね。 そのうち、彼女は、行っちまった。 転校して、いなくなった。 まあ、それだけの話だ。
でも、
そいつがさ、42年経った今でも、おれは忘れられないんだ。 おれが、人生で、一番、後悔しているのは、そういうこったよ。 なんで、あの時、親切になれなかった、んだろう・・・。 さすがにね、いまじゃ、おれの目の前に、ひどく困った人間が現れたら、すんなりと同情できるし、親切に、やれることをやる。 なぜ、親切になるのは難しいのかね? ダーウィン流に、生き残るための間違った意識が遺伝子の中に組み込まれているんだと、おれは推測することにしているんだ。
つまり、こんな風に、思違いしてるんだよ、みんな。 (1)自分こそが世界の中心だ、とか、 (2)自分は世界から切り離された存在だ、とか、 (3)自分の命に終わりはない、とかね。 頭じゃ、わかっているのさ、誰でも。でも、本能的に、そんな風に考えて行動しちまうのが、人間ってものなのさ。 どうやったら、そんな思違いを払しょくできるんだろう? 難しい問題だ。・・・子犬を飼ってみるとか、いろいろあるんだろうけどね。
おや、もう、スピーチの時間が3分を切った。(時計を見る)
あたりまえの方法を言っても仕方ない。先にすすむぜ。
これについちゃ、まあ、自分で考えてみてくれ。 でも、まあ、ちょっと待ってくれ。この件についちゃ、やっぱり言っておきたいこともあるんだ。
おれたちは、歳をとると、自然に、ある程度は、「親切に、やさしく」なるもんだよ。 人生、いろいろと辛いことがあっても、助けられることだってあって、社会とつながってるし、みんな助け合って生きているんだっていうことが、実感できるようになるのもなんだ。 知り合いが、ポロポロと死んでいきゃあ、否が応でも、自分もそのうち、あちら側へ行くことが、実感として、わかるようになるしな。
そうさ、おれみたいな人間でも、たいていの人間は、歳をとると、優しくなるものなんだよ。 だから、ひとつ教えておいてやるよ。 いいかい、なんだかんだ言ったって、おまえのその「おれがおれが」っていう利己心は、歳をとるにしたがって、いつか薄れていくよ。 で、お前の存在の中心にあった「おれ」はどうなるかって・・・・、
照れくさいけどね、これだけははっきり教えてやる、
「愛」さ、愛って奴に、置き換わっていることに、いつか気づくんことになるんだよ。
おまえら、思ってるだろ? なんで、父ちゃんと母ちゃんは、たいしたこと成し遂げてないのに、あんなに幸せそうなんだろう、って・・・。 お前の父ちゃんと母ちゃんの中心は、今のお前のように「おれ」じゃないんだよ、
「お前に対する愛」に置き換わってるんだぜ。
だから、あんなにも、幸せそうなんだ。 お前ら、全然、わかっちゃいないだろ? お前も、いずれ、そうなるんだ。 まあ、ともかく、卒業、おめでとう。
で、お前ら、これから社会に出て、成功したいって、思ってるんだろ。いい大学出て、いい会社に入って、きれいな嫁さんもらって、稼ぎのいい旦那を見つけてって・・・ もちろん、天職をみつけて、その分野で成功したいと思ってるだろ。 いいよ、それでいいんだよ。 がんばれよ! でも、知っておいたほうがいいぜ。 そう言った成功は、カゲロウみたいなもんだ。 知ってるだろ? カゲロウってやつ、それを目指して、いくら歩いても、どんどん遠ざかって、結局到達できない。 「成功」を追っかけて、「成功」は手にしたけど、それが思っていたもんじゃなかった、って場合もある。 「成功」ばかりを追っかけてると、人生、間違えることもあるんだ。 だから、おれがお前らに、頼みたいのは、こういうことだよ。 どうせ、お前らは、歳とともに、親切な、利己的でない人間に、なっていくんだから。いくら、お前が、いま、親父やおふくろを理解できなくてもな。 だから、今、急げよ、そのスピードを上げろって。 「成功」を追っかけるな、と言ってるんじゃないんだ。追っかけろよ! スピードを上げて! 金持ちになってみろ、名誉を求めろよ、胸を焦がす恋に落ちろよ、旅をしろよ、革新を起こせ、リーダーシップをとってみろ! そういうこったよ。 そして、裸でジャングルの川に飛び込んで、存分に遊べ!
(ただし、サルたちのうんちには気をつけろ。)
だけど、やがて、歳とともに、自分の中で大きくなる光、人のことを深く思いやるお前の芯にある灯、そいつの存在を信じて、大切に育てることを忘れちゃいけないぜ。 それを大きく、大きく育てるんだ。 何か困難な問題に直面して迷った時は、その光の照らす方へ進めばいい。それこそが、お前を大きな成功に導くはずだよ。 そして、万一、社会的な成功が、お前の目前で、誰かほかの者の手に落ちたところで、そんなこと、どうだっていうんだ? その灯を育てること、その輝きを放つこと、それ以上に、大切なことなんてないぜ。 そして、いつか、シェイクスピアのように、ガンジーのように、マザーテレサのように、その灯を、まぶしいばかりの輝きにするんだ。 で、お前らが80才になったときにさ、110才になったおれがもし生きてたらだけど、「おれの人生は、素晴らしかった」って聞かせてくれ。 以上だ、卒業、おめでとう!
友人の小さなギャラリーで、朗読会をすることになりました。
2016年4月23日(土)於:ギャラリー60
テーマ:芥川龍之介『桃太郎』を読む
今日は芥川龍之介の『桃太郎』を読みますが、最初に『桃太郎』の話を確認しておきたいと思います。。
これから写すのは、絵本ムービーです。(★ビデオ)
みなさんの、覚えている『桃太郎』も、この通りでしたか?
多分、同じはずですが、
実は、これは明治20年に国定教科書に掲載されてかららしいのです。
それまでは、いろいろな『桃太郎』が語られていました。四国の香川の方では、桃太郎は女の子で、あまりのかわいらしさに鬼が連れて行ってしまわないように男の子の名前にして育てたことになっていたそうですし、お供になった猿、犬、雉も、地方によっては、カニや臼、卵、水桶なのだったらしいのです。
それから、今の『桃太郎』とは、
3つ、大きな違いがあったようなんです。
(1つは)流れてきた桃は普通の大きさの桃だった。
一つ食べたおばあさんが、おじいさんのために、一つ持って帰った。おじいさんが芝刈りから戻ると、若返ったおばあさん。おじいさんも食べると若返り、子供のなかった二人に赤ん坊が生まれた。
(2つは)3年寝太郎のように、力持ちで大きな体だったが、怠け者で寝てばかり。おじいさんたちも、持て余していた。
(3つは)戦装束など(日の丸の鉢巻、陣羽織、ノボリを立ててえ出陣)していなかったし、動物も道連れになっただけで、上下(主従)関係はなかった。
この昔の『桃太郎』を実際に聞いたという人に、本当か、確かめたかったのですが、明治20年生まれといえば今年139歳ですから、もう確かめようがないのです。
それから、『桃太郎』といえば、落語にも同名の出し物があって、多くの落語家に演じられています。
その最初の『桃太郎』を演じたのが、江戸から明治にかけて活躍した三遊亭円朝だったんです。
この円朝という人は、現代まで続く落語の中興の祖と言われている人です。とにかく話がうまくて、あまりの巧さに嫉妬され、師匠の圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまう。たまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようになり、多数の新作落語を創作した、と言われています。
その円朝が、ある日、知り合いの集まりに招かれた時、
『何か一つやってくれないか』と声がかかります。
ところが、あるお偉いさんらしい人が、『桃太郎』が聞きたいと言う。
何で、この俺が桃太郎のような昔話をしなきゃならないんだ、冗談じゃない、俺を馬鹿にしているのか、と思った円朝は、即座に席を立ってしまった。
ところが、その人物が山岡鐵舟と知った円朝は、大人気なかったと全生庵に鐵舟を訪ねて、ぜひ聞いていただきたいとお願いする。すると、遊んでいた子供を集めて、ぜひあの子たちに『桃太郎』を聞かせてやってくれと言われた。
山岡鉄舟という人は、江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立って、勝から全権を委任されて駿府に乗り込んで無血開城への道を開いたという人物です。明治維新後、無刀流の開祖となった人で、また西郷からの求めによって10年間明治天皇の侍従を務めました。そして、その後、谷中に全生庵という臨済宗の寺を建てて、維新で没した士族を弔ったという人です。
当時、すでに世間では名人と言われ、名を成していた円朝は、内心ムッとしながらも、再びケツをまくって帰るわけにも行かなかった。
そこで円朝は、それこそ一世一代の『桃太郎』を聞かせてやろうじゃないかと、腕によりをっけて子供達に聞かせる。
ところが、「もういい」、と鐵舟に遮られてしまった。
そして、こう言われるのです。
「お前の話はうまい。うまいが舌で語るから、話が死んでおる。
私は3つの頃から母に毎晩、桃太郎の話を聞かされた。それでも、飽きなかった。それは、母の話は生きておったからだ」
円朝は絶句して、家に戻り、
『ふざけるな、鐵舟の馬鹿野郎』と大声で叫んだそうです。
円朝は悔しがって、それから、『桃太郎』を手直しして創作落語として演じるようになると、それが人気を呼び、ますます人気者になっていった。
しかし、彼の頭の中では、舌で話しているからダメだといった鐵舟の言葉が引っかかって離れない。
とうとう我慢できなくなって、
全生庵に鐵舟を訪ねて、
「どうか弟子にしてください。どうしたら、舌を使わないで話ができるようになるのでしょうか?」
そして、それから2年の間、円朝は無心になって座禅を組み、修業しました。
そして、明治13年のある日、鐵舟の侍医(お抱え医師)千葉立造の新居披露宴の席で、鐵舟がいる前で、『桃太郎』を演じる機会を得ます。
じっと聞いていた鐵舟は、同席していた滴水和尚(天龍寺)に、2年の修業を終えて、ここまできました、号を与えてやってください、というと、滴水和尚が書いてくれたのが
『無舌居士』
全生庵に今もある円朝の墓石には、だから、三遊亭円朝無舌居士と彫られています。
そして、その横に、彼の辞世の句である
『耳しひて 聞き定めけり 露の音』
(聴力を失って、初めて音を聞く)が彫られています。(★写真)
・・・円朝は69歳で亡くなりましたが、後年は進行性の麻痺にかかっていて、難聴だったそうです。
こうしてみてくると、この円朝の『桃太郎』をぜひ、聞いてみたいと思うのですが、残念ながら、その声は残っていません。
円朝が死んだのが、1900年(明治33年)、NHKが放送用にDENON(電音)に録音機の一号機を作らせたのが1939年(昭和14年)です。
そこで、多分、円朝の『桃太郎』とは違うと思うのですが、去年亡くなった桂米朝の『桃太郎』がありますので、それを聞いてから、芥川龍之介の『桃太郎』を朗読したいと思います。
これも、映像はなくて、音声だけです。『桃太郎』という昔話の意味がとてもよくわかると思います。(★桂米朝音声)
芥川龍之介の『桃太郎』を読む。
★
昔むかしの大昔、ある深い山の奥に、1本の大きな桃の木がありました。
そして、その実が元気な赤ん坊を生み、ある老夫婦に拾われたのは、皆さん、よくご存知のことと思います。
そして、その赤ん坊が立派に成長したある日のこと、
「爺さん、婆さん、世話になったな。
俺は鬼の成敗に行ってくる。
山だの、川だの、畑だの、ちまちま働くのは、性に合わん」
老夫婦は、それを聞いて、大喜びしました。
日頃から、桃太郎のわんぱくに、愛想をつかしていたのです。
一刻も早く追い出したさに旗とか太刀とか陣羽織とか、出陣の支度に入用のものは云うなり次第に持たせることにした。のみならず途中の兵糧には、これも桃太郎の註文通り、黍団子さえこしらえてやったのである。
桃太郎は意気揚々と鬼が島征伐の途に上った。すると大きい野良犬が一匹、饑えた眼を光らせながら、こう桃太郎へ声をかけた。
「桃太郎さん。桃太郎さん。お腰に下げたのは何でございます?」
「これは日本一の黍団子だ。」
桃太郎は得意そうに返事をした。勿論実際は日本一かどうか、そんなことは彼にも怪しかったのである。けれども犬は黍団子と聞くと、たちまち彼の側へ歩み寄った。
「一つ下さい。お伴しましょう。」
桃太郎は咄嗟に算盤を取った。
「一つはやられぬ。半分やろう。」
犬はしばらく強情に、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回しない。こうなればあらゆる商売のように、所詮持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。犬もとうとう嘆息しながら、黍団子を半分貰う代りに、桃太郎の伴をすることになった。
桃太郎はその後犬のほかにも、やはり黍団子の半分を餌食に、猿や雉を家来にした。しかし彼等は残念ながら、あまり仲の好い間がらではない。丈夫な牙を持った犬は意気地のない猿を莫迦にする。黍団子の勘定に素早
い猿はもっともらしい雉を莫迦にする。地震学などにも通じた雉は頭の鈍
い犬を莫迦にする。――こういういがみ合いを続けていたから、桃太郎は彼等を家来にした後も、一通り骨の折れることではなかった。
その上猿は腹が張ると、たちまち不服を唱え出した。どうも黍団子の半分くらいでは、鬼が島征伐の伴をするのも考え物だといい出したのである。すると犬は吠えたけりながら、いきなり猿を噛み殺そうとした。もし雉がとめなかったとすれば、猿は蟹の仇打ちを待たず、この時もう死んでいたかも知れない。しかし雉は犬をなだめながら猿に主従の道徳を教え、桃太郎の命に従えと云った。それでも猿は路ばたの木の上に犬の襲撃を避けた後だったから、容易に雉の言葉を聞き入れなかった。その猿をとうとう得心させたのは確かに桃太郎の手腕である。桃太郎は猿を見上げたまま、日の丸の扇を使い使いわざと冷かにいい放した。
「よしよし、では伴をするな。その代り鬼が島を征伐しても宝物は一つも分けてやらないぞ。」
欲の深い猿は円い眼をした。
「宝物? へええ、鬼が島には宝物があるのですか?」
「あるどころではない。何でも好きなものの振り出せる打出の小槌という宝物さえある。」
「ではその打出の小槌から、幾つもまた打出の小槌を振り出せば、一度に何でも手にはいる訣ですね。それは耳よりな話です。どうかわたしもつれて行って下さい。」
桃太郎はもう一度彼等を伴に、鬼が島征伐の途を急いだ。
★
鬼が島は絶海の孤島だった。が、世間の思っているように岩山ばかりだった訣ではない。実は椰子の聳えたり、極楽鳥の囀ったりする、美しい天然の楽土だった。こういう楽土に生を享けた鬼は勿論平和を愛していた。いや、鬼というものは元来我々人間よりも享楽的に出来上った種族らしい。
・・・・・
鬼は熱帯的風景の中に琴を弾いたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったり、頗る安穏に暮らしていた。そのまた鬼の妻や娘も機を織ったり、酒を醸したり、蘭の花束を拵えたり、我々人間の妻や娘と少しも変らずに暮らしていた。殊にもう髪の白い、牙の脱けた鬼の母はいつも孫の守りをしながら、我々人間の恐ろしさを話して聞かせなどしていたものである。――
「お前たちも悪戯をすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものは角の生えない、生白い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛の粉をなすっているのだよ。それだけならばまだ好いのだがね。男でも女でも同じように、はいうし、欲は深いし、焼餅は焼くし、己惚は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」
★
桃太郎はこういう罪のない鬼に建国以来の恐ろしさを与えた。鬼は金棒を忘れたなり、「人間が来たぞ」と叫びながら、亭々と聳えた椰子の間を右往左往に逃げ惑った。
「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
桃太郎は桃の旗を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好い家来ではなかったかも知れない。が、饑えた動物ほど、忠勇無双の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛みに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴に鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺す前に、必ず凌辱を恣にした。……
あらゆる罪悪の行われた後、とうとう鬼の酋長は、命をとりとめた数人の鬼と、桃太郎の前に降参した。桃太郎の得意は思うべしである。鬼が島はもう昨日のように、極楽鳥の囀る楽土ではない。椰子の林は至るところに鬼の死骸を撒き散らしている。桃太郎はやはり旗を片手に、三匹の家来を従えたまま、平蜘蛛のようになった鬼の酋長へ厳かにこういい渡した。
「では格別の憐愍により、貴様たちの命は赦してやる。その代りに鬼が島の宝物は一つも残らず献上するのだぞ。」
「はい、献上致します。」
「なおそのほかに貴様の子供を人質のためにさし出すのだぞ。」
「それも承知致しました。」
鬼の酋長はもう一度額を土へすりつけた後、恐る恐る桃太郎へ質問した。
「わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、御征伐を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明し下さる訣には参りますまいか?」
桃太郎は悠然と頷いた。
「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱えた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお三かたをお召し抱えなすったのはどういう訣でございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子をやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
鬼の酋長は驚いたように、三尺ほど後へ飛び下ると、いよいよまた丁寧にお時儀をした。
★
日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物の車を引かせながら、得々と故郷へ凱旋した。――これだけはもう日本中の子供のとうに知っている話である。しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送った訣ではない。鬼の子供は一人前になると番人の雉を噛み殺した上、たちまち鬼が島へ逐電した。のみならず鬼が島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の屋形へ火をつけたり、桃太郎の寝首をかこうとした。何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂である。桃太郎はこういう重ね重ねの不幸に嘆息を洩らさずにはいられなかった。
「どうも鬼というものの執念の深いのには困ったものだ。」
「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩さえ忘れるとは怪しからぬ奴等でございます。」
犬も桃太郎の渋面を見ると、口惜しそうにいつも唸ったものである。
その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ほどの目の玉を赫かせながら。……
2016年4月23日(土)於:ギャラリー60
テーマ:芥川龍之介『桃太郎』を読む
今日は芥川龍之介の『桃太郎』を読みますが、最初に『桃太郎』の話を確認しておきたいと思います。。
これから写すのは、絵本ムービーです。(★ビデオ)
みなさんの、覚えている『桃太郎』も、この通りでしたか?
多分、同じはずですが、
実は、これは明治20年に国定教科書に掲載されてかららしいのです。
それまでは、いろいろな『桃太郎』が語られていました。四国の香川の方では、桃太郎は女の子で、あまりのかわいらしさに鬼が連れて行ってしまわないように男の子の名前にして育てたことになっていたそうですし、お供になった猿、犬、雉も、地方によっては、カニや臼、卵、水桶なのだったらしいのです。
それから、今の『桃太郎』とは、
3つ、大きな違いがあったようなんです。
(1つは)流れてきた桃は普通の大きさの桃だった。
一つ食べたおばあさんが、おじいさんのために、一つ持って帰った。おじいさんが芝刈りから戻ると、若返ったおばあさん。おじいさんも食べると若返り、子供のなかった二人に赤ん坊が生まれた。
(2つは)3年寝太郎のように、力持ちで大きな体だったが、怠け者で寝てばかり。おじいさんたちも、持て余していた。
(3つは)戦装束など(日の丸の鉢巻、陣羽織、ノボリを立ててえ出陣)していなかったし、動物も道連れになっただけで、上下(主従)関係はなかった。
この昔の『桃太郎』を実際に聞いたという人に、本当か、確かめたかったのですが、明治20年生まれといえば今年139歳ですから、もう確かめようがないのです。
それから、『桃太郎』といえば、落語にも同名の出し物があって、多くの落語家に演じられています。
その最初の『桃太郎』を演じたのが、江戸から明治にかけて活躍した三遊亭円朝だったんです。
この円朝という人は、現代まで続く落語の中興の祖と言われている人です。とにかく話がうまくて、あまりの巧さに嫉妬され、師匠の圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまう。たまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようになり、多数の新作落語を創作した、と言われています。
その円朝が、ある日、知り合いの集まりに招かれた時、
『何か一つやってくれないか』と声がかかります。
ところが、あるお偉いさんらしい人が、『桃太郎』が聞きたいと言う。
何で、この俺が桃太郎のような昔話をしなきゃならないんだ、冗談じゃない、俺を馬鹿にしているのか、と思った円朝は、即座に席を立ってしまった。
ところが、その人物が山岡鐵舟と知った円朝は、大人気なかったと全生庵に鐵舟を訪ねて、ぜひ聞いていただきたいとお願いする。すると、遊んでいた子供を集めて、ぜひあの子たちに『桃太郎』を聞かせてやってくれと言われた。
山岡鉄舟という人は、江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立って、勝から全権を委任されて駿府に乗り込んで無血開城への道を開いたという人物です。明治維新後、無刀流の開祖となった人で、また西郷からの求めによって10年間明治天皇の侍従を務めました。そして、その後、谷中に全生庵という臨済宗の寺を建てて、維新で没した士族を弔ったという人です。
当時、すでに世間では名人と言われ、名を成していた円朝は、内心ムッとしながらも、再びケツをまくって帰るわけにも行かなかった。
そこで円朝は、それこそ一世一代の『桃太郎』を聞かせてやろうじゃないかと、腕によりをっけて子供達に聞かせる。
ところが、「もういい」、と鐵舟に遮られてしまった。
そして、こう言われるのです。
「お前の話はうまい。うまいが舌で語るから、話が死んでおる。
私は3つの頃から母に毎晩、桃太郎の話を聞かされた。それでも、飽きなかった。それは、母の話は生きておったからだ」
円朝は絶句して、家に戻り、
『ふざけるな、鐵舟の馬鹿野郎』と大声で叫んだそうです。
円朝は悔しがって、それから、『桃太郎』を手直しして創作落語として演じるようになると、それが人気を呼び、ますます人気者になっていった。
しかし、彼の頭の中では、舌で話しているからダメだといった鐵舟の言葉が引っかかって離れない。
とうとう我慢できなくなって、
全生庵に鐵舟を訪ねて、
「どうか弟子にしてください。どうしたら、舌を使わないで話ができるようになるのでしょうか?」
そして、それから2年の間、円朝は無心になって座禅を組み、修業しました。
そして、明治13年のある日、鐵舟の侍医(お抱え医師)千葉立造の新居披露宴の席で、鐵舟がいる前で、『桃太郎』を演じる機会を得ます。
じっと聞いていた鐵舟は、同席していた滴水和尚(天龍寺)に、2年の修業を終えて、ここまできました、号を与えてやってください、というと、滴水和尚が書いてくれたのが
『無舌居士』
全生庵に今もある円朝の墓石には、だから、三遊亭円朝無舌居士と彫られています。
そして、その横に、彼の辞世の句である
『耳しひて 聞き定めけり 露の音』
(聴力を失って、初めて音を聞く)が彫られています。(★写真)
・・・円朝は69歳で亡くなりましたが、後年は進行性の麻痺にかかっていて、難聴だったそうです。
こうしてみてくると、この円朝の『桃太郎』をぜひ、聞いてみたいと思うのですが、残念ながら、その声は残っていません。
円朝が死んだのが、1900年(明治33年)、NHKが放送用にDENON(電音)に録音機の一号機を作らせたのが1939年(昭和14年)です。
そこで、多分、円朝の『桃太郎』とは違うと思うのですが、去年亡くなった桂米朝の『桃太郎』がありますので、それを聞いてから、芥川龍之介の『桃太郎』を朗読したいと思います。
これも、映像はなくて、音声だけです。『桃太郎』という昔話の意味がとてもよくわかると思います。(★桂米朝音声)
芥川龍之介の『桃太郎』を読む。
★
昔むかしの大昔、ある深い山の奥に、1本の大きな桃の木がありました。
そして、その実が元気な赤ん坊を生み、ある老夫婦に拾われたのは、皆さん、よくご存知のことと思います。
そして、その赤ん坊が立派に成長したある日のこと、
「爺さん、婆さん、世話になったな。
俺は鬼の成敗に行ってくる。
山だの、川だの、畑だの、ちまちま働くのは、性に合わん」
老夫婦は、それを聞いて、大喜びしました。
日頃から、桃太郎のわんぱくに、愛想をつかしていたのです。
一刻も早く追い出したさに旗とか太刀とか陣羽織とか、出陣の支度に入用のものは云うなり次第に持たせることにした。のみならず途中の兵糧には、これも桃太郎の註文通り、黍団子さえこしらえてやったのである。
桃太郎は意気揚々と鬼が島征伐の途に上った。すると大きい野良犬が一匹、饑えた眼を光らせながら、こう桃太郎へ声をかけた。
「桃太郎さん。桃太郎さん。お腰に下げたのは何でございます?」
「これは日本一の黍団子だ。」
桃太郎は得意そうに返事をした。勿論実際は日本一かどうか、そんなことは彼にも怪しかったのである。けれども犬は黍団子と聞くと、たちまち彼の側へ歩み寄った。
「一つ下さい。お伴しましょう。」
桃太郎は咄嗟に算盤を取った。
「一つはやられぬ。半分やろう。」
犬はしばらく強情に、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回しない。こうなればあらゆる商売のように、所詮持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。犬もとうとう嘆息しながら、黍団子を半分貰う代りに、桃太郎の伴をすることになった。
桃太郎はその後犬のほかにも、やはり黍団子の半分を餌食に、猿や雉を家来にした。しかし彼等は残念ながら、あまり仲の好い間がらではない。丈夫な牙を持った犬は意気地のない猿を莫迦にする。黍団子の勘定に素早
い猿はもっともらしい雉を莫迦にする。地震学などにも通じた雉は頭の鈍
い犬を莫迦にする。――こういういがみ合いを続けていたから、桃太郎は彼等を家来にした後も、一通り骨の折れることではなかった。
その上猿は腹が張ると、たちまち不服を唱え出した。どうも黍団子の半分くらいでは、鬼が島征伐の伴をするのも考え物だといい出したのである。すると犬は吠えたけりながら、いきなり猿を噛み殺そうとした。もし雉がとめなかったとすれば、猿は蟹の仇打ちを待たず、この時もう死んでいたかも知れない。しかし雉は犬をなだめながら猿に主従の道徳を教え、桃太郎の命に従えと云った。それでも猿は路ばたの木の上に犬の襲撃を避けた後だったから、容易に雉の言葉を聞き入れなかった。その猿をとうとう得心させたのは確かに桃太郎の手腕である。桃太郎は猿を見上げたまま、日の丸の扇を使い使いわざと冷かにいい放した。
「よしよし、では伴をするな。その代り鬼が島を征伐しても宝物は一つも分けてやらないぞ。」
欲の深い猿は円い眼をした。
「宝物? へええ、鬼が島には宝物があるのですか?」
「あるどころではない。何でも好きなものの振り出せる打出の小槌という宝物さえある。」
「ではその打出の小槌から、幾つもまた打出の小槌を振り出せば、一度に何でも手にはいる訣ですね。それは耳よりな話です。どうかわたしもつれて行って下さい。」
桃太郎はもう一度彼等を伴に、鬼が島征伐の途を急いだ。
★
鬼が島は絶海の孤島だった。が、世間の思っているように岩山ばかりだった訣ではない。実は椰子の聳えたり、極楽鳥の囀ったりする、美しい天然の楽土だった。こういう楽土に生を享けた鬼は勿論平和を愛していた。いや、鬼というものは元来我々人間よりも享楽的に出来上った種族らしい。
・・・・・
鬼は熱帯的風景の中に琴を弾いたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったり、頗る安穏に暮らしていた。そのまた鬼の妻や娘も機を織ったり、酒を醸したり、蘭の花束を拵えたり、我々人間の妻や娘と少しも変らずに暮らしていた。殊にもう髪の白い、牙の脱けた鬼の母はいつも孫の守りをしながら、我々人間の恐ろしさを話して聞かせなどしていたものである。――
「お前たちも悪戯をすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものは角の生えない、生白い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛の粉をなすっているのだよ。それだけならばまだ好いのだがね。男でも女でも同じように、はいうし、欲は深いし、焼餅は焼くし、己惚は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」
★
桃太郎はこういう罪のない鬼に建国以来の恐ろしさを与えた。鬼は金棒を忘れたなり、「人間が来たぞ」と叫びながら、亭々と聳えた椰子の間を右往左往に逃げ惑った。
「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
桃太郎は桃の旗を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好い家来ではなかったかも知れない。が、饑えた動物ほど、忠勇無双の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛みに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴に鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺す前に、必ず凌辱を恣にした。……
あらゆる罪悪の行われた後、とうとう鬼の酋長は、命をとりとめた数人の鬼と、桃太郎の前に降参した。桃太郎の得意は思うべしである。鬼が島はもう昨日のように、極楽鳥の囀る楽土ではない。椰子の林は至るところに鬼の死骸を撒き散らしている。桃太郎はやはり旗を片手に、三匹の家来を従えたまま、平蜘蛛のようになった鬼の酋長へ厳かにこういい渡した。
「では格別の憐愍により、貴様たちの命は赦してやる。その代りに鬼が島の宝物は一つも残らず献上するのだぞ。」
「はい、献上致します。」
「なおそのほかに貴様の子供を人質のためにさし出すのだぞ。」
「それも承知致しました。」
鬼の酋長はもう一度額を土へすりつけた後、恐る恐る桃太郎へ質問した。
「わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、御征伐を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明し下さる訣には参りますまいか?」
桃太郎は悠然と頷いた。
「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱えた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお三かたをお召し抱えなすったのはどういう訣でございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子をやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
鬼の酋長は驚いたように、三尺ほど後へ飛び下ると、いよいよまた丁寧にお時儀をした。
★
日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物の車を引かせながら、得々と故郷へ凱旋した。――これだけはもう日本中の子供のとうに知っている話である。しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送った訣ではない。鬼の子供は一人前になると番人の雉を噛み殺した上、たちまち鬼が島へ逐電した。のみならず鬼が島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の屋形へ火をつけたり、桃太郎の寝首をかこうとした。何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂である。桃太郎はこういう重ね重ねの不幸に嘆息を洩らさずにはいられなかった。
「どうも鬼というものの執念の深いのには困ったものだ。」
「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩さえ忘れるとは怪しからぬ奴等でございます。」
犬も桃太郎の渋面を見ると、口惜しそうにいつも唸ったものである。
その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ほどの目の玉を赫かせながら。……
友人の小さなギャラリーで、朗読会をすることになりました。
2016年4月16日(土)於:ギャラリー60
テーマ:スティーブ・ジョブズ「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」
今日は有名なアメリカのIT企業の創立者であるスティーブ・ジョブズという人の行ったスタンフォード大学の卒業式でのスピーチを朗読したいと思っています。
その前に2分半ばかりですが、ビデオを見ていただきたいと思います。(★ビデオ)
驚きましたでしょう?
1か月ほど前のニュースで、米グーグル傘下の企業が開発した囲碁の人工知能「アルファ碁」というのが、世界最強の棋士と言われる韓国のイ・セドル9段を4勝1敗で下して、世界中で大きな話題を呼日ましたけれども、コンピュータ技術の進歩で、ロボットも、ここまで来ているんですね。
このロボットを開発したのはボストン・ダイナミックスというベンチャー企業ですが、こちらもすでに現在世界No.1の時価総額を誇るIT企業のグーグルによって買収されました。
そのグーグルという会社に今年1月に一時的に抜かれるまで、時価総額で世界の第1位に立っていたのが、アップルという会社でした。
今日、朗読しますスティーブ・ジョブズという人は、このアップルの創業者です。それから、様々な苦難を乗り越えて、現在みなさんも使われていると思いますが、こうしたスマホというものをIPhoneという形で、世に生み出した人でもあります。
このiPhoneで、アップルは世界1の企業になったわけですが、ジョブズという人が歴史に刻まれるのは、このiPhoneの成功というよりも、もっと違う形だと思います。
この写真のように初期のコンピュータというのは、大企業の研究室とか大学とかにしか置けない大掛かりな装置でした。それを、今あるようなデスクの上でも使えるもの、それも、難解なコンピュータ言語をマスターしなければ使いこなせなかったものを、小学生でも簡単に使えるもの、つまりパソコンというものに変える端緒を開いた人物としてだろうと思います。
そのスティーブ・ジョブズがアメリカでも4本の指に入るスタンフォード大学の卒業式に呼ばれた時のスピーチが、今から朗読するものです。
時は2005年の6月12日でした。
★
「私は今日ここに、世界で最も優秀な大学の一つ、スタンフォード大学の卒業式に、こうしてあなた方と共にあることを、とても光栄に思います。
私は大学を卒業しませんでした。 ですから、今日が私にとって、最も大学の卒業に近い経験になります。
今日、私がお話ししたいのは、私が人生から学んだ三つの話です。
それだけです。
大したものではありません。
たった3つです。
最初は、「点と点を繋いでいく」という話です。
私はリード大学という大学を半年で退学しました。しかし実際に辞めるまで一年半ほど、遊びの学生としてブラブラしながら居残っていました。
なぜ辞めることになったのでしょうか?
話は、私が生まれる前に遡ります。
私の実の母は未婚の大学院生でした。そして私を産んだら養子に出そうと決めていました。 彼女は、自分の子供は大学卒の人のところに養子に行くべきだと強く思っていましたから、弁護士とその妻によって育てられる手はずが整っていたのです。
ところが、私が産まれる最後の段になって、彼らは女の子を望んでいたと言い出しました。
そうした経緯があって、養子縁組待ちのリストにあった私の両親の所に、夜遅い時間に電話が入ったのです。そして、こう言われたそうです。
「予定外の男の赤ちゃんが生まれました。養子縁組を希望しますか?」
「もちろんです」と、両親は答えました。
しかし、私の産みの母親はそのあとになって、私の母が大学を出ていないことを知りました。父は高校すら卒業していませんでした。 生みの母親は養子縁組の最終書類にサインするのを拒んだのです。
彼女が折れたのは、数か月が経ってからでした。
両親が、私を大学に行かせると約束したからです。
これが、私の人生の始まりです。
17年が経ち、私は大学に入りました。
さしたる考えもなしに、私は、スタンフォードと同じくらい学費がかかる大学を選んでしまいました。 労働者階級だった両親の貯えの全ては、私の大学の学費に消えていってしまいます。
半年が経った頃、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていたのです。自分が人生で何がやりたいか全く分からず、大学がその手助けをしてくれるかも全く分からない。それなのに自分はここにいて、両親が生涯をかけて貯めた金を残らず使い果たそうとしている。
だから、退学すると決めたのです。
それで全てうまく行くと信じていました。
もちろん内心ではとても怖かったのですが、今こうして振り返ってみると、あれは人生で最良の決断だったと思います。
退学した瞬間から興味のない必修科目を取ることから解放されたので、興味のあるクラスだけを聴講できたからです。
もちろん、全てがいい話というわけではありません。寄宿舎に私の部屋はもうありませんでしたから、友人の部屋の床(ゆか)で寝泊まりさせてもらいました。コーラの瓶を回収して持って行くと5セントもらえたので、それで稼いで食費の足しにしました。日曜日の夜になると11kmほど離れたヒンズー教の寺院、ハーレクリシュナ寺院まで歩いて行って、そこで振舞われる食事にありついたのです。あれは大好きでした。
そんな風に、自分の興味と直感に従って動き回っているうちに出会ったものの多くが、あとになってわかったのですが、計り知れないほど価値あるものだったのです。
例をひとつ挙げてみましょう。
私が一時期通っていたリード大学は、当時おそらく国内最高水準のカリグラフィ(飾り文字を使った文字を美しく見せるための書法)教育を提供する大学だったのです。キャンパスの至るところにあるポスターから戸棚のラベルの一つ一つに至るまで、美しい手書き文字で書かれていました。
私は退学していましたし、もう普通のクラスを取らなくても良かったので、とりあえず、このカリグラフィのクラスに出て、そのやり方を学んでみようと思ったのです。
セリフ(ローマン体、ヒゲ飾りの付いた英文書体)やサンセリフ(ゴシック体と呼ばれるセリフの無い書体)の書体を学びました。活字の組み合わせに応じ文字と文字の間を調整する手法を学び、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かも学びました。
それはとても美しく、歴史があり、科学では捉え切れない繊細で芸術性を持つ世界です。私はすっかり虜になってしまいました。
もちろんその時、これらが人生の上で実際に役に立つ可能性があるなどとは思ってもみませんでした。しかし、その後10年が経ち、最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計することになった時、その時の経験のすべてが私の中に蘇ってきたのです。
私たちは、その全てをMacに組み込みました。それでMac は美しいフォントを備えた世界初のコンピュータとなったのです。
もし、私が普通に大学の授業を受けていて、このカリグラフィの授業に潜り込んでいなかったら、Macには複数の文字のタイプも字間を調整したバランスのとれたフォントも入っていなかったでしょう。
ウィンドウズは単にMacをコピーした物なので、そういうものを備えているパソコンは世界に一台として存在していなかったことになります。
もし、私が退学していなかったら、私はこのカリグラフィの授業を覗かなかったでしょうし、そうしていたら、パソコンは今のような美しい文字で飾られることも無かったことになります。
もちろん、当時大学生だった私には、この点と点が繋がって、現在のパソコンの姿になるなどとは思い描くことはできませんでした。でも、10年経って振り返ってみたとき、はっきりと見えてきたのです。
繰り返しますが、先を読んで点と点を繋ぐことはできません。後から振り返って初めてできるわけです。
ですから、今はバラバラな点だとしても、将来、それが何らかの形できっと繋がっていくと信じることが大切なのです。
未来に先回りして、点と点をつなげてみることはできません。出来るのは過去を振り返ってみたとき、点と点が繋がっていたと分かるだけです。
でも、そうだとしても、あなたたちは、現在の点が、とにかくあなたたちの未来に繋がるということを信じるのです。
何かを信じるのです。
・・・・それは、自分のガッツでもいいし、運命でもいい、人生でも、カルマ(業)でも、何でもいいでしょう。 その点が繋がり、いつか道となると信じることが、あなたの心に自信を与えます。 たとえそれが皆の通る道からは外れるとしても、それですべてのことが間違いなく変わるはずです。
二つめは「愛」と「敗北」についての話です。
私は幸運でした。
自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができたからです。
実家のガレージを改装してウオズ(スティーブ・ウオズニアック、ジョブズの5歳歳上)と二人でアップルを創業したのは、私が20歳のときでした。
無我夢中で働きました。
そして10年が経ったとき、アップルは二人の会社から4000人以上の従業員を抱える20億ドル企業になっていました。
しかし私たちの最高傑作であるマッキントッシュを発表して1年後、30回目の誕生日を迎えた矢先に、私は会社をクビになってしまいました。
自分が始めた会社をどうして首にならなくてはならないのか?
要するに、こういう話です。
会社が成長するにつれて、私たちは、私とともに会社を経営してくれる非常に有能だと思える人物を雇いました。最初の一年ほどはうまくいったのです。しかし、私たちの将来のビジョンにズレが生じてしまいました。決裂する段階になり、取締役会が支持したのは彼のほうだったのです。
こうして、私は30歳にして会社を追い出されてしまいました。
私が追放されたことは、当時大分世間を騒がせましたので、世の中に広く知れ渡っていました。
自分が大人になって以来全てをかけて打ち込んできたものが消えたのですから、私はもうボロボロでした。
2、3か月、何も手につきませんでした。私は、前の世代の起業家達の実績に傷をつけてしまったように感じていました。がっかりさせたと感じました。
手渡されたバトンを落としてしまったのだと、感じました。
デイビッド・パッカード(IBMと並ぶアメリカを代表するコンピュータ会社の創業者、ジョブズは13歳の時、彼の会社でアルバイトしていた)とボブ・ノイス(インテルの共同創業者、集積回路を発明した)に会って、全てを台無しにしてしまったことを詫びもしました。
私は敗者として知れわたっており、シリコンバレーから逃げ出すことすら考えました。
しかし、やがて、何かがゆっくりと見えてきたのです。
私は私がやってきた仕事が好きだったのです。
アップルで経験した様々な嫌な出来事も、その私の気持をほんの少しも変えていないことに気づきました。
私は振られてしまったわけですが、それでもまだ好きだったのです。
だから、もう一度、一からやり直してみようと決めたのです。
当時は気づきませんでしたが、やがて、アップルをクビになったこの経験が、自分の人生の最良な出来事だった、ということがわかってきました。
成功者である事の重み、それが、もう一度初心者であることの身軽さに変わったのです。
あらゆる物事に対して以前ほど自信も持てなくなっていましたが、同時に、自由の身となり、解放され、その後の私の人生を、再び最もクリエイティブな時期の一つにしたのです。
それに続く5年間のうちに、私はNeXTという名前の会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性ロレーヌと恋に落ち、後に彼女は私の妻になりました。
ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創りました。そしてそれは今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオとなっています。
そして思いもしなかったことに、私の作った会社NeXTはアップルに買収され、私はアップルに復帰することになったのです。
NeXTで開発した技術は現在のアップルの中核的なものとなって使われています。
ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。
私は断言できます。
私がアップルをクビになっていなかったら、こうした事は何ひとつ起こらなかった。
それはひどく苦い薬でしたが、患者には必要な薬でした。
時として人生には、レンガで頭を殴られるようなひどいことも起きます。しかし、どんな時も信念を失ってはいけません。私がここまでやってこられたのは、自分のやっている仕事を愛しているというその気持があったからです。
これはみなさんの仕事や恋愛においても同じです。
皆さんも、これから卒業すると、仕事が人生の大きな部分を占めるでしょう。そこで、自分が本当に心の底から満足を得たいと思うなら、自分が素晴しいと信じる仕事に取り組む、それしかありません。
好きなことを仕事にすることです。まだ見つかってないなら探し続けてください。
ひとつの場所に固まっていてはいけません。
心というのはよくしたもので、それは見つければ、すぐにピンときます。そして、素晴らしい恋愛と同様に、歳を重ねるごとに良くなっていきます。
ですから、見つけるまで探し続けてください。ひとつの場所に固まってしまってはいけません。
3つめは、「死」に関する話です。
私は17歳の時、こんな言葉をどこかで読みました。
「毎日、これが人生最後の日と思って生きなさい。いつか、必ず、そういう日が来ますから」
それは強烈な印象を与える言葉でした。
そしてそれから現在に至る33年間、私は毎朝鏡を見て、こう自分に問い掛けてきました。
「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることは、私が本当にやりたいことだろうか?」
それに対する答えが“NO”の日が何日も続くと、これは何かを変える必要があるな、と気が付くわけです。
自分が死に直面するという状況を想像することは、これまでに人生を左右する大きな選択を迫られた時、いつもその決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。
ほとんど全ての物事…つまり、他人からの評価とか、自分のプライドとか、恥を掻くかもしれないということや、失敗するかもしれないという恐怖…
こういったものは、私たちが死に直面すれば、全て吹き飛んでしまいます。
そして、本当に重要なことだけが残ります。
自分も死に向かっているという自覚は、私の知る限り、何かを失ってしまうかもしれないという、思考の落とし穴を避けるための最善の方法です。
あなたはすでに丸裸で、失うものなんて何もありません。自分の心の赴くまま生きてはならない理由など、ひとつもありません。
今から1年ほど前です。
朝の7時半にCTスキャンを受けると、私のすい臓にははっきりと腫瘍が映っていました。
私はその時まで、すい臓が何かも知りませんでした。
医師達は私に言いました。
「これはほぼ確実に治療不可能な種類のガンです。余命は、3ヶ月から6ヶ月だと思ってください」
主治医は私に、家に戻り、仕事を片付けるようアドバイスしてくれました。
そして、付け加えました。
「子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあれば、この数ヶ月の間に伝えておきなさい」
それはつまり、自分の家族がなるべく心安らかな気持で私の死に対処できるようしておきなさい、ということです。
医師の世界では「死に支度をしろ」という意味の言葉だそうです。
私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。
そしてその日の夕方遅くになり、もう一度、生体検査を受けることにしました。
確実を期するために、喉から内視鏡を入れ、中を診てもらったのです。
内視鏡は胃を通って腸の中に入り、そこから医師達はすい臓に針で穴を開け、腫瘍の細胞を採取しました。
私は鎮静剤を投与されていましたのでよくわからなかったのですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、医師は顕微鏡で私の細胞を見た途端、叫び出したのだそうです。
何故なら、私のそれは手術で治すことができる、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍だったからです。
私は手術を受け、ありがたいことに今もこうしています。
これは私がこれまでで最も死に近づいた経験ということになりました。私の人生はこの先何十年かわかりませんが、これ以上近づく経験は、願いさげ下げにしたいものです。
こうした経験を生き抜いてきて、私は死を考えることが有益だということを、頭で考えて言っていた頃より、少しだけですが、自信を持って言うことができるようになりました。
誰も死にたいと思っている人なんていません。
天国に行きたいと願う人でも、まさかそこに行くために死にたい、とは思わないでしょう。
それでも、死は誰もが向かう終着駅です。死を免れた人は誰一人としていません。
それは、そうあるべきなのです。
何故なら、死は、生が生んだ唯一無比の、最高の発明だからです。
死が生き物を循環させます。
死によって「古いもの」が「新しいもの」に道を譲るのです。
今、「新しいもの」とはあなたたちです。でも、いつか遠からず、あなたたちも古くなり、「新しいもの」にとって代わられます。取り除かれる日が来ます。少し過激な言い方で申し訳ありませんが、それが真実です。
あなたたちの持つ時間は限られています。他人の人生を生きて、時間を無駄にしないでください。自分以外の誰かの人生に、自分の時間を費やす時間などありません。
常識や固定概念にとらわれ、自分の内なる声や心、直感が掻き消されてしまわないようにしてください。
あなたの心や直感に従う勇気を持つことが、一番重要なことです。
自分の内なる声、心、直感というのは、あなたたちが本当に望んでいる姿は何か、既に知っています。
それ以外のこと全ては、二の次です。
私が若い頃、”The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)”という驚くべき本があって、私の世代の間ではバイブルのようなものになっていました。
それはスチュアート・ブランドという人が、ここからそれほど遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的な表現が、それに生命を吹き込んでいました。
1960年代後半のもので、パソコンやデスクトップ印刷がまだない頃ですから、タイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで全てが作られていました。
それはまるでグーグルのペーパーバック版のようなものと言ったらいいでしょうか。グーグルが35年前に登場したかのようなものでした。
それは理想主義的で、いかしたツールや凄いアイデアがいっぱい詰まっていました。
スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”(全地球カタログ)を何度か発行しましたが、一通りやり尽くしたとして、最終号を出しました。
それは1970年代半ばで、私がちょうど今のあなたたちと同じ年の頃です。
その最終号の背表紙に、早朝の田舎道の写真が載っていました。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクの途上で一度は出会えそうな、そんな早朝の光景です。
写真の下には、こんな言葉が書かれていました。
「Stay hungry. Stay foolish.」
「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」
それが、彼らの別れのメセージでした。
「Stay hungry. Stay foolish.」
「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」
私は常に、自分自身そうありたいと、願い続けきました。
そして今、卒業して、新たな人生に踏み出すあなたたちにも、そうあってほしいと願っています。
Stay hungry. Stay foolish.
「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」
ご清聴ありがとうございました」
★
以上です。お疲れ様でした。
付け加えますと・・・、
このスピーチが行われた数年後に、確かイギリスのテレビ番組制作会社によって作られた「スティーブ・ジョブズの子供たち」というテレビ番組がNHKのBSで放映されたことがあります。
この時の卒業式に出ていた何人かのその後を追ったドキュメンタリーです。その中で、一人は、当時初任給2000万円といわれた有名証券会社の内定を蹴って、政治家を目指している青年でした。州議会議員選挙に立候補したものの、落選して、ボランティア活動をしながら次の選挙では市会議員を目指していました。
もう一人は、やはり証券会社を辞めて母国のインドに帰り、子供達にコンピュータ技術を教える塾のようなものを立ち上げていました。
もう一人は女性でしたが、就職した放送局のリストラに遭い、田舎町の小さな新聞社で再起を目指している姿でした。
スティーブ・ジョブズ本人は、その後6年生きて、2011年の10月に、がんのため死去しています。56歳でした。
2016年4月16日(土)於:ギャラリー60
テーマ:スティーブ・ジョブズ「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」
今日は有名なアメリカのIT企業の創立者であるスティーブ・ジョブズという人の行ったスタンフォード大学の卒業式でのスピーチを朗読したいと思っています。
その前に2分半ばかりですが、ビデオを見ていただきたいと思います。(★ビデオ)
驚きましたでしょう?
1か月ほど前のニュースで、米グーグル傘下の企業が開発した囲碁の人工知能「アルファ碁」というのが、世界最強の棋士と言われる韓国のイ・セドル9段を4勝1敗で下して、世界中で大きな話題を呼日ましたけれども、コンピュータ技術の進歩で、ロボットも、ここまで来ているんですね。
このロボットを開発したのはボストン・ダイナミックスというベンチャー企業ですが、こちらもすでに現在世界No.1の時価総額を誇るIT企業のグーグルによって買収されました。
そのグーグルという会社に今年1月に一時的に抜かれるまで、時価総額で世界の第1位に立っていたのが、アップルという会社でした。
今日、朗読しますスティーブ・ジョブズという人は、このアップルの創業者です。それから、様々な苦難を乗り越えて、現在みなさんも使われていると思いますが、こうしたスマホというものをIPhoneという形で、世に生み出した人でもあります。
このiPhoneで、アップルは世界1の企業になったわけですが、ジョブズという人が歴史に刻まれるのは、このiPhoneの成功というよりも、もっと違う形だと思います。
この写真のように初期のコンピュータというのは、大企業の研究室とか大学とかにしか置けない大掛かりな装置でした。それを、今あるようなデスクの上でも使えるもの、それも、難解なコンピュータ言語をマスターしなければ使いこなせなかったものを、小学生でも簡単に使えるもの、つまりパソコンというものに変える端緒を開いた人物としてだろうと思います。
そのスティーブ・ジョブズがアメリカでも4本の指に入るスタンフォード大学の卒業式に呼ばれた時のスピーチが、今から朗読するものです。
時は2005年の6月12日でした。
★
「私は今日ここに、世界で最も優秀な大学の一つ、スタンフォード大学の卒業式に、こうしてあなた方と共にあることを、とても光栄に思います。
私は大学を卒業しませんでした。 ですから、今日が私にとって、最も大学の卒業に近い経験になります。
今日、私がお話ししたいのは、私が人生から学んだ三つの話です。
それだけです。
大したものではありません。
たった3つです。
最初は、「点と点を繋いでいく」という話です。
私はリード大学という大学を半年で退学しました。しかし実際に辞めるまで一年半ほど、遊びの学生としてブラブラしながら居残っていました。
なぜ辞めることになったのでしょうか?
話は、私が生まれる前に遡ります。
私の実の母は未婚の大学院生でした。そして私を産んだら養子に出そうと決めていました。 彼女は、自分の子供は大学卒の人のところに養子に行くべきだと強く思っていましたから、弁護士とその妻によって育てられる手はずが整っていたのです。
ところが、私が産まれる最後の段になって、彼らは女の子を望んでいたと言い出しました。
そうした経緯があって、養子縁組待ちのリストにあった私の両親の所に、夜遅い時間に電話が入ったのです。そして、こう言われたそうです。
「予定外の男の赤ちゃんが生まれました。養子縁組を希望しますか?」
「もちろんです」と、両親は答えました。
しかし、私の産みの母親はそのあとになって、私の母が大学を出ていないことを知りました。父は高校すら卒業していませんでした。 生みの母親は養子縁組の最終書類にサインするのを拒んだのです。
彼女が折れたのは、数か月が経ってからでした。
両親が、私を大学に行かせると約束したからです。
これが、私の人生の始まりです。
17年が経ち、私は大学に入りました。
さしたる考えもなしに、私は、スタンフォードと同じくらい学費がかかる大学を選んでしまいました。 労働者階級だった両親の貯えの全ては、私の大学の学費に消えていってしまいます。
半年が経った頃、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていたのです。自分が人生で何がやりたいか全く分からず、大学がその手助けをしてくれるかも全く分からない。それなのに自分はここにいて、両親が生涯をかけて貯めた金を残らず使い果たそうとしている。
だから、退学すると決めたのです。
それで全てうまく行くと信じていました。
もちろん内心ではとても怖かったのですが、今こうして振り返ってみると、あれは人生で最良の決断だったと思います。
退学した瞬間から興味のない必修科目を取ることから解放されたので、興味のあるクラスだけを聴講できたからです。
もちろん、全てがいい話というわけではありません。寄宿舎に私の部屋はもうありませんでしたから、友人の部屋の床(ゆか)で寝泊まりさせてもらいました。コーラの瓶を回収して持って行くと5セントもらえたので、それで稼いで食費の足しにしました。日曜日の夜になると11kmほど離れたヒンズー教の寺院、ハーレクリシュナ寺院まで歩いて行って、そこで振舞われる食事にありついたのです。あれは大好きでした。
そんな風に、自分の興味と直感に従って動き回っているうちに出会ったものの多くが、あとになってわかったのですが、計り知れないほど価値あるものだったのです。
例をひとつ挙げてみましょう。
私が一時期通っていたリード大学は、当時おそらく国内最高水準のカリグラフィ(飾り文字を使った文字を美しく見せるための書法)教育を提供する大学だったのです。キャンパスの至るところにあるポスターから戸棚のラベルの一つ一つに至るまで、美しい手書き文字で書かれていました。
私は退学していましたし、もう普通のクラスを取らなくても良かったので、とりあえず、このカリグラフィのクラスに出て、そのやり方を学んでみようと思ったのです。
セリフ(ローマン体、ヒゲ飾りの付いた英文書体)やサンセリフ(ゴシック体と呼ばれるセリフの無い書体)の書体を学びました。活字の組み合わせに応じ文字と文字の間を調整する手法を学び、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かも学びました。
それはとても美しく、歴史があり、科学では捉え切れない繊細で芸術性を持つ世界です。私はすっかり虜になってしまいました。
もちろんその時、これらが人生の上で実際に役に立つ可能性があるなどとは思ってもみませんでした。しかし、その後10年が経ち、最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計することになった時、その時の経験のすべてが私の中に蘇ってきたのです。
私たちは、その全てをMacに組み込みました。それでMac は美しいフォントを備えた世界初のコンピュータとなったのです。
もし、私が普通に大学の授業を受けていて、このカリグラフィの授業に潜り込んでいなかったら、Macには複数の文字のタイプも字間を調整したバランスのとれたフォントも入っていなかったでしょう。
ウィンドウズは単にMacをコピーした物なので、そういうものを備えているパソコンは世界に一台として存在していなかったことになります。
もし、私が退学していなかったら、私はこのカリグラフィの授業を覗かなかったでしょうし、そうしていたら、パソコンは今のような美しい文字で飾られることも無かったことになります。
もちろん、当時大学生だった私には、この点と点が繋がって、現在のパソコンの姿になるなどとは思い描くことはできませんでした。でも、10年経って振り返ってみたとき、はっきりと見えてきたのです。
繰り返しますが、先を読んで点と点を繋ぐことはできません。後から振り返って初めてできるわけです。
ですから、今はバラバラな点だとしても、将来、それが何らかの形できっと繋がっていくと信じることが大切なのです。
未来に先回りして、点と点をつなげてみることはできません。出来るのは過去を振り返ってみたとき、点と点が繋がっていたと分かるだけです。
でも、そうだとしても、あなたたちは、現在の点が、とにかくあなたたちの未来に繋がるということを信じるのです。
何かを信じるのです。
・・・・それは、自分のガッツでもいいし、運命でもいい、人生でも、カルマ(業)でも、何でもいいでしょう。 その点が繋がり、いつか道となると信じることが、あなたの心に自信を与えます。 たとえそれが皆の通る道からは外れるとしても、それですべてのことが間違いなく変わるはずです。
二つめは「愛」と「敗北」についての話です。
私は幸運でした。
自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができたからです。
実家のガレージを改装してウオズ(スティーブ・ウオズニアック、ジョブズの5歳歳上)と二人でアップルを創業したのは、私が20歳のときでした。
無我夢中で働きました。
そして10年が経ったとき、アップルは二人の会社から4000人以上の従業員を抱える20億ドル企業になっていました。
しかし私たちの最高傑作であるマッキントッシュを発表して1年後、30回目の誕生日を迎えた矢先に、私は会社をクビになってしまいました。
自分が始めた会社をどうして首にならなくてはならないのか?
要するに、こういう話です。
会社が成長するにつれて、私たちは、私とともに会社を経営してくれる非常に有能だと思える人物を雇いました。最初の一年ほどはうまくいったのです。しかし、私たちの将来のビジョンにズレが生じてしまいました。決裂する段階になり、取締役会が支持したのは彼のほうだったのです。
こうして、私は30歳にして会社を追い出されてしまいました。
私が追放されたことは、当時大分世間を騒がせましたので、世の中に広く知れ渡っていました。
自分が大人になって以来全てをかけて打ち込んできたものが消えたのですから、私はもうボロボロでした。
2、3か月、何も手につきませんでした。私は、前の世代の起業家達の実績に傷をつけてしまったように感じていました。がっかりさせたと感じました。
手渡されたバトンを落としてしまったのだと、感じました。
デイビッド・パッカード(IBMと並ぶアメリカを代表するコンピュータ会社の創業者、ジョブズは13歳の時、彼の会社でアルバイトしていた)とボブ・ノイス(インテルの共同創業者、集積回路を発明した)に会って、全てを台無しにしてしまったことを詫びもしました。
私は敗者として知れわたっており、シリコンバレーから逃げ出すことすら考えました。
しかし、やがて、何かがゆっくりと見えてきたのです。
私は私がやってきた仕事が好きだったのです。
アップルで経験した様々な嫌な出来事も、その私の気持をほんの少しも変えていないことに気づきました。
私は振られてしまったわけですが、それでもまだ好きだったのです。
だから、もう一度、一からやり直してみようと決めたのです。
当時は気づきませんでしたが、やがて、アップルをクビになったこの経験が、自分の人生の最良な出来事だった、ということがわかってきました。
成功者である事の重み、それが、もう一度初心者であることの身軽さに変わったのです。
あらゆる物事に対して以前ほど自信も持てなくなっていましたが、同時に、自由の身となり、解放され、その後の私の人生を、再び最もクリエイティブな時期の一つにしたのです。
それに続く5年間のうちに、私はNeXTという名前の会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性ロレーヌと恋に落ち、後に彼女は私の妻になりました。
ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創りました。そしてそれは今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオとなっています。
そして思いもしなかったことに、私の作った会社NeXTはアップルに買収され、私はアップルに復帰することになったのです。
NeXTで開発した技術は現在のアップルの中核的なものとなって使われています。
ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。
私は断言できます。
私がアップルをクビになっていなかったら、こうした事は何ひとつ起こらなかった。
それはひどく苦い薬でしたが、患者には必要な薬でした。
時として人生には、レンガで頭を殴られるようなひどいことも起きます。しかし、どんな時も信念を失ってはいけません。私がここまでやってこられたのは、自分のやっている仕事を愛しているというその気持があったからです。
これはみなさんの仕事や恋愛においても同じです。
皆さんも、これから卒業すると、仕事が人生の大きな部分を占めるでしょう。そこで、自分が本当に心の底から満足を得たいと思うなら、自分が素晴しいと信じる仕事に取り組む、それしかありません。
好きなことを仕事にすることです。まだ見つかってないなら探し続けてください。
ひとつの場所に固まっていてはいけません。
心というのはよくしたもので、それは見つければ、すぐにピンときます。そして、素晴らしい恋愛と同様に、歳を重ねるごとに良くなっていきます。
ですから、見つけるまで探し続けてください。ひとつの場所に固まってしまってはいけません。
3つめは、「死」に関する話です。
私は17歳の時、こんな言葉をどこかで読みました。
「毎日、これが人生最後の日と思って生きなさい。いつか、必ず、そういう日が来ますから」
それは強烈な印象を与える言葉でした。
そしてそれから現在に至る33年間、私は毎朝鏡を見て、こう自分に問い掛けてきました。
「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることは、私が本当にやりたいことだろうか?」
それに対する答えが“NO”の日が何日も続くと、これは何かを変える必要があるな、と気が付くわけです。
自分が死に直面するという状況を想像することは、これまでに人生を左右する大きな選択を迫られた時、いつもその決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。
ほとんど全ての物事…つまり、他人からの評価とか、自分のプライドとか、恥を掻くかもしれないということや、失敗するかもしれないという恐怖…
こういったものは、私たちが死に直面すれば、全て吹き飛んでしまいます。
そして、本当に重要なことだけが残ります。
自分も死に向かっているという自覚は、私の知る限り、何かを失ってしまうかもしれないという、思考の落とし穴を避けるための最善の方法です。
あなたはすでに丸裸で、失うものなんて何もありません。自分の心の赴くまま生きてはならない理由など、ひとつもありません。
今から1年ほど前です。
朝の7時半にCTスキャンを受けると、私のすい臓にははっきりと腫瘍が映っていました。
私はその時まで、すい臓が何かも知りませんでした。
医師達は私に言いました。
「これはほぼ確実に治療不可能な種類のガンです。余命は、3ヶ月から6ヶ月だと思ってください」
主治医は私に、家に戻り、仕事を片付けるようアドバイスしてくれました。
そして、付け加えました。
「子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあれば、この数ヶ月の間に伝えておきなさい」
それはつまり、自分の家族がなるべく心安らかな気持で私の死に対処できるようしておきなさい、ということです。
医師の世界では「死に支度をしろ」という意味の言葉だそうです。
私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。
そしてその日の夕方遅くになり、もう一度、生体検査を受けることにしました。
確実を期するために、喉から内視鏡を入れ、中を診てもらったのです。
内視鏡は胃を通って腸の中に入り、そこから医師達はすい臓に針で穴を開け、腫瘍の細胞を採取しました。
私は鎮静剤を投与されていましたのでよくわからなかったのですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、医師は顕微鏡で私の細胞を見た途端、叫び出したのだそうです。
何故なら、私のそれは手術で治すことができる、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍だったからです。
私は手術を受け、ありがたいことに今もこうしています。
これは私がこれまでで最も死に近づいた経験ということになりました。私の人生はこの先何十年かわかりませんが、これ以上近づく経験は、願いさげ下げにしたいものです。
こうした経験を生き抜いてきて、私は死を考えることが有益だということを、頭で考えて言っていた頃より、少しだけですが、自信を持って言うことができるようになりました。
誰も死にたいと思っている人なんていません。
天国に行きたいと願う人でも、まさかそこに行くために死にたい、とは思わないでしょう。
それでも、死は誰もが向かう終着駅です。死を免れた人は誰一人としていません。
それは、そうあるべきなのです。
何故なら、死は、生が生んだ唯一無比の、最高の発明だからです。
死が生き物を循環させます。
死によって「古いもの」が「新しいもの」に道を譲るのです。
今、「新しいもの」とはあなたたちです。でも、いつか遠からず、あなたたちも古くなり、「新しいもの」にとって代わられます。取り除かれる日が来ます。少し過激な言い方で申し訳ありませんが、それが真実です。
あなたたちの持つ時間は限られています。他人の人生を生きて、時間を無駄にしないでください。自分以外の誰かの人生に、自分の時間を費やす時間などありません。
常識や固定概念にとらわれ、自分の内なる声や心、直感が掻き消されてしまわないようにしてください。
あなたの心や直感に従う勇気を持つことが、一番重要なことです。
自分の内なる声、心、直感というのは、あなたたちが本当に望んでいる姿は何か、既に知っています。
それ以外のこと全ては、二の次です。
私が若い頃、”The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)”という驚くべき本があって、私の世代の間ではバイブルのようなものになっていました。
それはスチュアート・ブランドという人が、ここからそれほど遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的な表現が、それに生命を吹き込んでいました。
1960年代後半のもので、パソコンやデスクトップ印刷がまだない頃ですから、タイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで全てが作られていました。
それはまるでグーグルのペーパーバック版のようなものと言ったらいいでしょうか。グーグルが35年前に登場したかのようなものでした。
それは理想主義的で、いかしたツールや凄いアイデアがいっぱい詰まっていました。
スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”(全地球カタログ)を何度か発行しましたが、一通りやり尽くしたとして、最終号を出しました。
それは1970年代半ばで、私がちょうど今のあなたたちと同じ年の頃です。
その最終号の背表紙に、早朝の田舎道の写真が載っていました。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクの途上で一度は出会えそうな、そんな早朝の光景です。
写真の下には、こんな言葉が書かれていました。
「Stay hungry. Stay foolish.」
「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」
それが、彼らの別れのメセージでした。
「Stay hungry. Stay foolish.」
「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」
私は常に、自分自身そうありたいと、願い続けきました。
そして今、卒業して、新たな人生に踏み出すあなたたちにも、そうあってほしいと願っています。
Stay hungry. Stay foolish.
「ハングリーなままであれ、愚かなままであれ」
ご清聴ありがとうございました」
★
以上です。お疲れ様でした。
付け加えますと・・・、
このスピーチが行われた数年後に、確かイギリスのテレビ番組制作会社によって作られた「スティーブ・ジョブズの子供たち」というテレビ番組がNHKのBSで放映されたことがあります。
この時の卒業式に出ていた何人かのその後を追ったドキュメンタリーです。その中で、一人は、当時初任給2000万円といわれた有名証券会社の内定を蹴って、政治家を目指している青年でした。州議会議員選挙に立候補したものの、落選して、ボランティア活動をしながら次の選挙では市会議員を目指していました。
もう一人は、やはり証券会社を辞めて母国のインドに帰り、子供達にコンピュータ技術を教える塾のようなものを立ち上げていました。
もう一人は女性でしたが、就職した放送局のリストラに遭い、田舎町の小さな新聞社で再起を目指している姿でした。
スティーブ・ジョブズ本人は、その後6年生きて、2011年の10月に、がんのため死去しています。56歳でした。