ビタミンP

苦心惨憺して書いている作品を少しでも褒めてもらうと、急に元気づく。それをトーマス・マンはビタミンPと呼んだ。

『一体全体、自分たちを何様と

2007年12月30日 01時06分06秒 | Weblog
心得ているのか。彼らの行動の自由にも限界があることを教えてやらねばならない。イスラエル軍と英仏連合軍が(スエズ)運河を占拠しようとする時点で、アイゼンハウアーは撤退を命じた。その命令がまちがいなく実行されるように、これら三国の最大の弱点をついた。撤退しないかぎり、アメリカの経済的、金融的支援は一切中止するとしたのである』

 2007年に読んだ本の中で、いちばん記憶に残るのは何か、と自らに問うと、このウォルター・リップマンについて書いた『現代史の目撃者 リップマンとアメリカの世紀』(TBSブリタニカ)の中のロナルド・スティールの言葉に突き当たる。

 1956年10月、スエズ運河の国有化を宣言したエジプトの指導者ナセルに激怒したイギリスとフランスはイスラエルと共同歩調をとって運河奪回作戦に出る。イスラエル軍のシナイ半島侵攻に呼応して英仏連合軍はスエズに上陸したのだが・・・、両国はそこで、アメリカの激しい反応にあって、度肝を抜かれるのである。
 運河占拠を目前に、イギリスが白旗を掲げる。するとフランスには一人で立ち向かう力はなかった。勝利を目前にしていたイスラエルも進撃を中止。
 こうして、英仏といえども、外交における自主性はワシントン(アメリカ)の許容範囲の問題であることが白日の下にさらされることになり、アメリカの世紀が始まる。かつての二大帝国は、いまやいかに斜陽化したかを劇的に知らしめられたのである。第2次世界大戦で疲弊し崩壊寸前のイギリス経済は、アメリカドルの支援を絶たれては立ち行かないところまで追い込まれており、大英帝国の栄光にしがみつくことを許さなかった。

 それから半世紀がたった2007年・・・。世界を牛耳ってきたアメリカ経済がサブプライム問題でひとつの転換点に立った、と考えるのは私だけだろうか?
 苦境が伝えられたシティグループを救ったアブダビ投資庁(アラブ首長国連邦)、
 同じく苦境のメルリリンチを支援したテマセクホールディングス(シンガポール)、
 モルガンスタンレーに投資した中国投資(中国)、
 スイスの大手銀行UBSを救ったシンガポール投資銀行(シンガポール)、
 アメリカ経済の凋落と中東とアジアの時代の幕開け。時代の潮目という冷厳な事実が透けて見えていないだろうか?


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『二十歳のころ、

2007年12月20日 16時07分57秒 | Weblog
何をしてましたか?』

 と問われたら、たぶん、考え込んでしまうだろう。
 年表を繰ってやっと、それが1968年で、昭和の年号でいうと昭和43年になるということがわかった、というのが実情である。それくらい、昔の出来事を、年齢なり、年代なりと照合して、正確に思い出すのは難しい。
 近頃話題になっている社保庁の年金記録問題で、「年金特別便」というものが発送され始めたそうだが、それが不親切極まりない書面で、“宙に浮いた年金記録に紛れ込んでいる可能性があるから”と送られてくるにも関わらず、それがどれかは明記されず“自分で探して報告せよ”、というやり方で、特別便というやつが送られてきたわけではないが、周りには怒りをつのらせている人が多い。
 テレビで、ある人が、欠けていたと思われる部分を指摘して持参したら、その会社はどこにあって、社長の名前は? 上司や同僚で思い出せる名前は? と質問され、頭を抱えるシーンが放映されていた。自分だって、卒業して最初に入った会社の社長を今は思い出せない。それくらい記憶というものはあいまいなものだ。社保庁も、調べて判明したから送るのだから「これこれという事実が出てきましたが、確認できますか?」というくらいの配慮があってしかるべきではないのか、と、こちらまで憤ってしまう、このごろだ。

 お役人のやることは、おしなべてそんなものなのだろうが、『二十歳のころ、何をしてただろうか?』ということに戻ると、
 私は、二十歳の夏を、北海道で迎えた。
 上野から夜行列車で青森に向かい、青函連絡船、そしてまだ煙を出して走っていた蒸気機関車を乗り継いで、帯広から単線の士幌線(今は廃線となっている)で終点の十勝三股まで行き、三股小学校の校庭でテントを張った翌日、大雪山系の縦走に出発した。初めて背負う30キロのキスリングが肩に食い込んだ記憶は鮮明にある。人の背丈よりも高い蕗(フキ)が道沿いに密生しており、「これなら傘になるよ」と、皆で言い合った。このときの山行をよく覚えているのは、この縦走の途中で、雪渓の水で頭を洗ったことがたたって、かぜをひき高熱を出して寝込んでしまったからだ。悪いことに、その夜は嵐になり、稜線を走る雷の光にびくびくしながら、テントの中で震えていた。翌朝、麓の富良野まで下ろされ、旭川の病院に入院した。それが、記憶に残る二十歳の出来事だ。
 懲りないやつだったな、と思う。退院後、下山した仲間3人と、その足で利尻島に渡り、雨の中を利尻山頂まで登頂した。
 残念ながら、そのほかのことは、二十歳の記憶としては思い出すことができない。

 それで、いったい何を言いたかったのかというと、そうは言っても、多くの人は、「二十歳のころ?」と問われて、結構しっかりと思い出し、語れるものなんだなと、感心したからである。

『これがいい! と思った1時間後には、もうガーナ大使館の扉を叩いていましたね。そしてユネスコの試験を受けてガーナに行くことになった』(秋山仁/数学者)
『それから、もう1冊は、アンドレ・ジッドの『狭き門』です。僕が最初に読んだフランスの本で、この本で僕はキリスト教を恐ろしいものだ、と感じて、出来るだけキリスト教から離れていようと決めた』(大江健三郎/小説家)
『一人の人に恋をしてたんだけど、私は数少ない女子団員の一人として、男子団員全員に対して平等に愛を持たなくてはいけないと考えていたの。だから恋を伝えられなくて、最後にさよならのラブレターを出してけじめをつけたわけ。そして芝居を辞めたんです』(加藤登紀子/シンガーソングライター)
『その時はねぇ、巨人の合宿やってたんだよ。合宿所というか、巨人寮という寮でね、三田四国町にあったんですよ。当時女優の高峰三枝子というのがいたんですけど、その家の斜め前でした。だから要領のいい奴は女優の家へ遊びにいってご飯をご馳走になったりしとったんだけど、僕なんかは田舎者だからそういうのは恥ずかしくてさ、寮にばかりいた』(川上哲治/元巨人軍監督)

“有名無名・老若男女、68の青春群像”と銘打たれた『二十歳のころ』(立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ/新潮社)を、アマゾンの中古商品で買って、読み終えた。




 


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「寝室を出る時から、

2007年12月11日 01時04分00秒 | Weblog


今日は死ぬ番であると、
心に決めなさい」

 藤沢周平の『盲目剣谺返し』(文春文庫『隠し剣秋風抄』所収)を読みながら、どこかに書き留めたはずだと思い、古い手帳を繰って、藤堂高虎のこの言葉を確認した。戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将で、伊予今治藩主、伊勢津藩主であった藤堂高虎は、何人も主君を変えた。そのことから、変節の人、不忠義の人と歴史書には描かれることが多いようだが、仕えた主君には実に忠実で、最後の主君・徳川家康からも信頼が厚く、外様では唯一、臨終の席に立ち会うことを許されている。
 
『盲目剣谺返し』は、映画になった『武士の一分』(山田洋次監督)の原作ということで手に取った。毒見役の主人公・新之丞が、毒に当たって失明し、藩への奉公がかなわなくなったにもかかわらず、禄をそのままにとめおく代償として妻に手をかけた島村という上司に果し合いを申し込み、それを果たすまでの物語である。
 盲目になっても、意地と誇りは失わない。新之丞は、一刀流の剣士に立ち向かっていく。
「勝つことがすべてではなかった。武士の一分が立てばそれでよい。敵はいずれ仕掛けてくるだろう。生死を問わず、そのときが勝負だった」

 連日テレビや新聞で伝えられる防衛省前事務次官の贈賄事件や厚労省の薬害事件にかかわった役人だけでなく、船場吉兆や赤福といった老舗企業人の不祥事。意地と誇りはどこに行ってしまったのか。人はなぜここまで劣化してしまったのか。



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