満州ブログ

記紀解読  大和朝廷成立の謎

3-22 諏訪氏と諏訪大社

2012-10-10 | 記紀解読
今回から少し話を変えよう。出雲の国譲りが史実だった証拠、それは、国譲りの時の子孫が実在する事である。
しかも、現代まで男系で繋がる子孫が、大国主・天穂日、双方にいる。
単純に考えれば、子孫がこの世にいるという事は、先祖も実在した事になる。問題は、彼らが本物の子孫かどうかである。

1542年、武田信玄は諏訪へ攻め込み、戦国大名の諏訪頼重を甲府へ連れ去り、自害させる。
ドラマなどでは「神代から続く諏訪氏を滅ぼした」と表現されるが、これは、諏訪氏が建御名方の子孫と称していたからである。
その後信玄は、頼重の娘を妻とし、二人の間に生まれた子に勝頼と名付ける。「頼」というのは諏訪氏の通字である。
後に、この勝頼が武田の本家を継いだため、諏訪勝頼は誕生しなかったが、信玄が諏訪氏の血統を尊重していた事が分かる。

戦国大名にとって、諏訪氏が建御名方の子孫であるという伝承は、簡単に無視できるものではなかったようである。
では、我々現代人は、この伝承をどう評価すればいいのだろうか。今回は、この問題について考えてみる事にする。



「諏訪氏=建御名方の子孫」が信用できるかどうか判断するには、複雑で独特な諏訪大社について知っておかなくてはならない。


大和朝廷の時代、地方の豪族達は、「世俗と宗教」の2つの力を持った半独立的な存在だった。
土地と人民を所有し、独自の武力を持つ。それと同時に、後に神社と呼ばれるようになった場所で祀りを取り仕切っていた。

律令制では、こうした地方豪族の権限に制限が加えられ、平安時代になると、多くの旧豪族が没落していった。
これと入れ替わるように、地方では、武士が支配階層となっていく。
旧豪族の中には武士化して生き延びたものもいる。また、世俗の力を捨て、神官として家系を保ったものもいる。
注目すべきは、新興の武士達は、広大な荘園を持ち、官職につき、神社を保護しても、自らが神官にはならない点である。

最後の戦国大名の諏訪頼重も、諏訪大社の神官(大祝)を経験している。(後に、弟に譲る)
また、それ以前も、惣領家と神官家とに権力が分かれた事はあるが、諏訪氏一族が世俗と宗教の力を常に持ち続けてきた。
この事だけも、諏訪氏が、少なくとも、大和朝廷の時代から続いてきた氏族だという事が分かる。
武士と神官を兼ねながら家系が続き、戦国大名にまでなったのはめずらしく、他には、熊本の阿蘇氏ぐらいである。


現在では一般に、「諏訪大社」と呼ばれるが、正確には、上社本宮・上社前宮・下社春宮・下社秋宮の4つの神社である。
江戸末までは、上社(かみしゃ)と下社(しもしゃ)の2つに分かれており、それぞれの神官も全く別の家系が継承していた。
上社・下社とも、最高の神官位を、大祝(おおはふり:現在の読みは、おおほうり)と呼ぶ。
上社の大祝は、代々、建御名方の子孫であり、この氏族は後に諏訪氏を名乗る。
下社の大祝は、神武天皇の皇子である神八井耳の子孫がつとめた。この氏族は、信濃の国造と同族で、後に金刺氏を名乗る。

大和朝廷の時代、一つの地域に、土着の豪族と、中央から来た天皇の皇子の子孫が共存するのは、めずらしい事ではない。
垂仁・景行天皇の皇子達が、地方に封じられ、その子孫が「別(わけ)」という姓(かばね)を受けたのが、典型的な例である。
在地系の豪族と皇子系の豪族とのバランスで、大和朝廷の地方支配は成り立っていたのである。

2つの神官家の存在からも分かるとおり、大和朝廷の時代の諏訪の地には、諏訪氏と金刺氏という2大豪族が存在した。
諏訪氏=建御名方の子孫という伝承も、神武の皇子の子孫を名乗る金刺氏に、チェックされ承認され続けて来たのである。


諏訪大社と聞いて多くの人が思い出すのは、御柱祭だろう。
上社本宮・前宮・下社春宮・秋宮では、四隅に立っている大きな柱(御柱)を、寅年と申年の6年に1回新しい物に取り替える。
急な斜面を御柱がすべり落ちる「木落とし」が有名であるが、木を切り出した山から境内へ運ぶまで全てが御柱祭である。

現在の日本の神社の祭りは、全国どこでも、似たような感じである。極端に違いがあるのは、縄文系の祭である事が多い。
諏訪の御柱祭も、東日本で広く見られる縄文系のミシャグジ信仰と関係があると考えられている。

諏訪大社では、御柱祭以外にも、他の神社では見られない行事・儀式が多い。
上社で四月に行われる、御頭祭(おんとうさい)では、江戸時代まで75匹の鹿を殺して生け贄として捧げていたらしい。
(古い時代には、諏訪一族の8才~15才の男子から選ばれた「大祝」も、この儀式で生け贄として殺したという説もある)

重要なのは、上社での、こうした独特の儀式を実際に行うのが、大祝の諏訪氏ではなく、ナンバー2の守矢氏だという点である。
「3-14 建御名方の逃走」でも書いたが、建御名方が諏訪盆地に入る時に、先住民のモリヤ族と戦ったという伝承がある。
上社では大祝に次ぐ神官を神長官(じんちょうかん)と呼ぶが、神長官を世襲した守矢氏は、この時のモリヤ族の子孫とされる。

弥生人が自ら進んで縄文系の祭を行うとは考えにくい。上社の主要な祭・儀式が縄文系だという事は、歴史の大きな証拠となる。
諏訪へ入った弥生人は、縄文系の人々を完全に滅ぼした訳ではなかった。諏訪の弥生化は縄文系との共存だったのである。
また、縄文系の儀式を行う守矢氏は先住民のモリヤ族の子孫を自称し、自身は大祝の諏訪氏に次ぐ第2の地位で満足している。
これらの事を考えると、建御名方とモリヤ族との戦いの伝承も、史実だった可能性が高いのである。



大和朝廷の時代、先祖が有名な人物でない場合、偽りの家系を主張する地方豪族がいたかも知れない。
また、戦国時代では、大名が先祖を偽るのは、よくある事である。

しかし、諏訪氏の場合、これらの例とは大きく異なり、系図を信ずべき複数の根拠がある。
諏訪大社(上社)の大祝の地位を継承してきた事から、少なくとも、諏訪氏が大和朝廷の時代から続いていた事は確かである。
また、「諏訪氏=建御名方の子孫」は、神武の皇子の子孫の金刺氏・モリヤ族の子孫の守矢氏によって、確認され続けてきた。
さらに、上社での縄文系の儀式・諏訪氏と守矢氏の二重の権力構造から、建御名方の諏訪入りの伝承も史実だった可能性が高い。


最後に、諏訪氏と守矢氏が現在どうなっているか簡単にまとめておこう。

武田氏によって一度は滅ぼされた諏訪氏だが、本能寺の変の後、頼重の従兄弟の諏訪頼忠が再興し、最終的に徳川家康に従う。
頼忠の子の頼水が諏訪の大名として認められ(高島藩)、以後、江戸時代を通じて、頼水の子孫が高島藩の大名となる。
大祝には頼水の弟の頼広がつき、これ以降、大名家と大祝家は分かれる。大祝家では、漢字を「諏訪」から「諏方」へと改める。
明治になると、大名の諏訪氏は子爵となるが、初代子爵の忠誠のあとは娘婿が継いだため、嫡流の男系はここで途切れる。
大祝家の「諏方」氏の方は、頼広から数えて15代目の諏方弘氏が2002年に跡継ぎがないまま死去し、現在大祝はいない。
(13代目は、京都の公家鳥居家から養子で来た、というのをネット上で見るが、これについては確認がとれない)

神長官の守矢家には一子口伝の秘伝があった。これには、儀式の秘法の外、建御名方の諏訪入りの詳細もあった可能性がある。
明治政府は、神職の世襲をほぼ全面的に禁止し、上社の神長官も廃止した。この時の神長官が、76代目の守矢実久氏である。
実久氏の弟の真幸氏は、神長官の地位には就かなかったが、守矢家の77代目の当主となり、一部の秘伝を受けた。
現在の78代目は、真幸氏の孫で女性の守矢早苗氏である。早苗氏は祖父から簡単な話は聞いたようだが、秘伝は受けていない。
76代の実久氏が系図を文字に残したが、それ以外の大部分の秘伝は、76代・77代の時に失われてしまった。
守矢家の方は、何度も養子を迎えているようで、神代の時代から血縁で繋がっている可能性は低いと思われる。