満州ブログ

記紀解読  大和朝廷成立の謎

6-26 弥生時代は労働生産性重視

2014-12-13 | 記紀解読
今回は、弥生時代の水稲の生産性について、今までとは違った角度から考えてみる事にする。


水稲、或いは、農業の生産性について考える時には、次の質問が重要になる事がある。
「日本とアメリカの水稲(農業)では、どちらの生産性が高いか?」

日本人、特に、農家の人々は、日本の方が高いに決まっているじゃないかと、答えるかも知れない。
日本では、別の場所で丁寧に育てられた苗を等間隔に植え、計算された量の肥料を与え、除草剤などで雑草も生やさない。
それに対してアメリカでは、種も直播きで田植えをしない。除草剤や肥料の散布もおおまかで、多少の雑草は気にしない。
水稲以外でも同様で、日本のきめ細かい農法の方が、生産性が高いのは明らかだ。

この答えが正しいのは間違いない。しかし、これは土地生産性で比較した場合である。生産性を考える時には、別の視点もある。

アメリカの農家は、次のように答えるかも知れない。
日本人は、狭い農地で、芸術品を作るような、懲りに懲った作業をする。自分たちは、種も除草剤も肥料も飛行機で撒く。
稲作の平均作付け面積は数百ha。日本と桁が2つ違う。同じ労働時間で比べれば、アメリカの生産性の方が高いのは疑いない。

この答えも、また正しい。生産性では、大きく、同じ面積の土地で比較する場合と、同じ労働量で比較する場合があるのである。


日本では土地生産性をより重視し、アメリカでは労働生産性をより重視する事が多いが、これは、どちらも合理的な行動である。

江戸時代以降、平和な時代が続き、常に、人口増加の圧力があった。利用可能な土地は、ほぼ全て開墾して水田にしてしまった。
長い間、土地が不足し、人手が過剰だったのである。こうした条件下で、土地生産性を重視する農業が生まれたのは当然である。

それに対し、歴史が新しく国土が広大なアメリカでは、人手に対して土地が過剰であり、労働生産性の方が重要となってくる。

もっとも、最近の日本では状況が変わってきている。
米余りから半強制的な減反が何年も続いている。最近では、農業を続けてきた高齢者がやめると、後継者がいなくなる事も多い。
現在では、土地があまり、人手が足りない状況に変わってきているのである。

こうした変化を受け、日本でも、水稲での直播き農法が一部で行われるようになっている。
面積当たりの収穫は落ちるが、田植えやその準備の手間・費用が省けるので、採用する所が増えてきているようである。


我々日本人は、つい土地生産性で考えてしまいがちだが、そうした先入観を捨て、弥生水稲の生産性を改めて考えて見よう。

当時の水田は、ヨシ原などを切り開いて作られた所が多いと考えられている。
ヨシ原は縄文的な生活ではあまり利用されておらず、水田に変える労働力さえあれば、土地の確保は難しくなかったと思われる。
この状況は、国の誕生から三百年も経っていないアメリカと似ており、弥生時代には労働生産性の方が重要だったと推測できる。

もちろん、労働生産性の方をより重視していたとしても、土地生産性も高い方がいいのに決まっている。
ここで気をつけなくてはならないのが、土地生産性を考える時にも、現在とは別の視点が必要だという点である。
現在、水稲の生産性の比較では、反収(1反=約10アール当たり、何キロの米が取れるか)が使われる事が多い。
ところが弥生時代では、こうした面積当たりの収穫高よりも、水田の利用サイクルの中での休耕の年数の方が重要になってくる。
耕作2年・休耕8年(20%利用)と耕作3年・休耕5年(37.5%利用)では、土地の効率が2倍近く異なるのである。

弥生水稲では、土地生産性よりも労働生産性を重視し、土地生産性でも、耕作と休耕の年数の比率を重視すべきなのである。