満州ブログ

記紀解読  大和朝廷成立の謎

6-35 弥生水稲のまとめ

2015-01-30 | 記紀解読

6-16 色々な雑草対策」から前回まで、弥生時代の水稲について書いてきたが、この辺でまとめる事にしよう。

弥生時代や古墳時代の水稲では、休耕があったという説が広まりつつあるが、休耕の理由を今までうまく説明できなかった。
また、こうした時代の水稲での雑草対策についても、はっきりとした事が分かっていなかった。

これらの謎も、雑草対策にヨシを利用する農法があったと考えると、すっきりと説明できる。


「雑草対策にヨシを利用する農法とは」
ヨシというのは、イネ科の多年生で、浅い水地でも湿った陸地でも生息できる。
主に地下茎から発芽し、春から夏までのわずか数ヶ月で、1.5~2mまで成長する。
成長の速さ・高さから、他の植物との競争力が非常に高く、水地でも陸地でも、放置すると数年でヨシが優勢になる。
こうしたヨシの性質から、弥生時代の水田は、もともと、ヨシの原野だった所が多かったと推測されている。

雑草対策にヨシを利用する農法では、草取りをしない。何年か水稲して、雑草が増えすぎたら、休耕してその土地を放置する。
3~5年くらい放置すると、雑草同士の競争力が強いヨシが、他の雑草を排除し、ヨシだらけになる。
この段階では、地下に他の雑草の種子や発芽可能な根・茎が残るが、放置を続けると、それらの発芽能力が徐々に失われていく。
地下の種子などが十分に減った時点で、人間がヨシを除去すれば、しばらくは雑草が生えてこないので、水稲を再開できる。


ヨシを利用する水稲のサイクルを簡単にまとめると、以下のようになる。
何年間か水稲すると雑草が増えすぎる→土地を放置して、ヨシに他の雑草を排除させる→人間がヨシを除去する→(最初に戻る)


休耕の期間があるので、水田全体では、土地をローテーションして使う必要がある。
仮に、水稲の期間が3年・休耕の期間が6年だったとすると、次のようにローテーションすれば、毎年同じ収穫になる。
(「水稲1」は、水稲1年目の意味であり、「休2」は、休耕2年目の意味である。他も同じ。)

      区画1 区画2 区画3 区画4 区画5 区画6 区画7 区画8 区画9
1年目   水稲1 水稲2 水稲3 休1  休2  休3  休4  休5  休6
2年目   水稲2 水稲3 休1  休2  休3  休4  休5  休6  水稲1
3年目   水稲3 休1  休2  休3  休4  休5  休6  水稲1 水稲2
4年目   休1  休2  休3  休4  休5  休6  水稲1 水稲2 水稲3
5年目   休2  休3  休4  休5  休6  水稲1 水稲2 水稲3 休1
6年目   休3  休4  休5  休6  水稲1 水稲2 水稲3 休1  休2
7年目   休4  休5  休6  水稲1 水稲2 水稲3 休1  休2  休3
8年目   休5  休6  水稲1 水稲2 水稲3 休1  休2  休3  休4
9年目   休6  水稲1 水稲2 水稲3 休1  休2  休3  休4  休5
10年目             1年目と同じ
11年目             2年目と同じ
                   ・
                   ・


「ヨシを利用する農法の特徴」
我々は、同じ水田で毎年水稲する農法しか知らないので、休耕させ、ヨシに他の雑草を排除させるという発想が浮かびにくい。
実際、雑草対策にヨシを利用する農法について書いてあるのは、このブログくらいである。
しかし、水稲が始まった頃には、特にひらめきがなくても、自然に生まれてくる農法である。

水稲を始めるには、先ず、天然のヨシ原を切り開く。何年か水稲を続けると、雑草が増え、その土地は放棄せざるを得なくなる。
別の場所で、ヨシを刈って水稲を始めるが、そこも同様に、何年かで水稲を続けられなくなる。
これを何回か繰り返すうちに、最初に水稲していた場所がヨシ原に戻るので、ヨシを除去すれば、その場所で再び水稲ができる。

ヨシを利用する農法は、このようにして生まれたと推測できる。


また、この農法は、弥生時代には、非常に合理的なものである。

江戸時代以降、長く土地不足が続いた。同じ水田で毎年水稲しなくてはならず、そのためには、年に3回の草取りが必要だった。
しかし、水稲が始まったばかりの弥生時代には、地域内にも、日本列島内にも、未使用な水稲可能な場所がまだ多く残っていた。
そのため、同じ場所で水稲する事に、こだわる必要はなかった。草取りなどせず、雑草が増えれば、別の場所に移ればよかった。
ヨシだらけの土地の復田は、草取り1回より大変だが、一度ヨシを除去すれば、少なくとも2~3年は草取りなしで水稲できる。
土地に余裕があれば、毎年毎年草取りするよりも、はるかに合理的なのである。


そもそも、弥生時代には、草取りをして毎年同じ場所で水稲する事が、事実上不可能だった可能性もある。

雑草は、草取りだけで、抑える訳ではない。田植え(種まき)前に、水田を耕す事には、雑草の発芽を減らす効果がある。
特に、水が抜かれ乾いた水田を、牛馬に引かせる犂で深く耕す事が、除草剤がない時代の雑草対策では重要だったとされている。

ところが、弥生時代の木製農具では、乾いた水田を耕す事ができなかったという説がある。また、牛馬に引かせる犂はなかった。
鉄製農具や犂があった戦前でも、同じ水田で毎年水稲するには、年に3回の全面的な草取りが必要だった。
こうした農具がなかった弥生時代には、草取りをして同じ水田で毎年水稲する事が、困難を通り越し不可能だった可能性もある。

それに対し、ヨシだらけになった土地の復田は、非常に手間が掛かる作業だが、弥生時代の道具でも不可能ではない。
弥生時代の水田の多くは、元々ヨシ原だったと推測されている。つまり、水田を作る時に、ヨシの除去に成功しているのである。


こうした事を考えると、弥生時代に、草取りをして、毎年同じ場所で水稲をしていたとは思えない。

また、上で書いたような状況は、弥生時代の日本だけに限らず、水稲が生まれた中国でも同様だったと考えられる。
つまり、ヨシを利用する農法は、水稲とともに中国で生まれ、水稲と同時に日本に持ち込まれたと推測できるのである。


「ヨシを利用する農法が行われていた証拠」
遺跡からは、ヨシを雑草対策に利用する農法が行われていた証拠らしきものが、いくつか見つかっている。

最近では、古い時代の水田が見つかると、花粉やプラントオパールなどの生物学的な調査も行われるようになってきている。
イネのプラントオパールが見つかる水田跡からは、一緒に、ヨシのプラントオパールが見つかる事が多い。
これを、「何年か水稲→放置してヨシが優勢→(最初に戻る)」のサイクルの証拠と考える事もできる。

ただし、多くの人は、イネとヨシのプラントオパールが同時に見つかるのは、水田が元々ヨシ原だった証拠とみている。
そうした中、注目されるのが、鳥取県の門前上屋敷遺跡の水田である。
この遺跡では、いくつかの地層からイネのプラントオパールなどが見つかっているが、イネが増えるとヨシも増えている。
これは、「何年か水稲→放置してヨシが優勢→(最初に戻る)」というサイクルだったと考えないと、うまく説明できない。


そして、最も有力な証拠が、農学者の佐藤洋一郎氏が調査した、静岡県の曲金北遺跡の水田である。
この遺跡では、約5haの「古墳時代」の水田が発見され、全1万区画の内の約100区画で、花粉などの調査が行われた。
この遺跡の古墳時代の水田は、洪水で埋もれており、その時の状態が保存されていると考えられる。

水田には、「雑草の種子が多い区画」・「ヨシの茎が多い区画」・「水稲をしていた区画」の大きく3種類があった。
これは、ヨシを利用する農法が行われていた決定的な証拠である。
特に重要なのは、プラントオパールではなく、ヨシの茎が水田から見つかっている点である。
プラントオパールだけでは、ヨシが存在していたのが、水田ができる前か後かはっきりしない。

また、ヤナギタデという雑草の種子が、非常に多く見つかった区画があった事も、強力な証拠となる。
ヤナギタデは、水地でも湿った陸地でも生息できる雑草であり、現在でも、水田を大豆の畑などに変えた時に優占する事がある。
つまり、ヤナギタデが多い区画があったという事は、何年か水稲を続けた後に水を抜いて放置していた証拠となるのである。


ヨシを利用する農法を行っていた直接の証拠ではないが、草取りをしていなかった証拠もある。

岡山県の百間川遺跡では、弥生後期の田植えの跡が見つかっているが、そこでは、坪当たり412株もの苗が植えられていた。
現在の田植えでは、坪当たり60株が標準であり、大部分が30~80株の範囲に収まる。

縦横9cm間隔の格子状に植えると、坪当たり400株となる。9cmの間隔では、足が入らない。
百間川遺跡の水田では、田植えの後に、草取りするために田んぼに入ろうとしても、苗の密度が高すぎて入れないのである。


このブログでは、こうした証拠だけでも、ヨシを利用する農法が、弥生時代に広く行われていた可能性が高いと考えている。
しかし、同時に、多くの人を納得させるには、さらなる証拠が必要だという認識も持っている。
今後、遺跡から新たな水田が見つかった場合、曲金北遺跡のような、大きなサンプル数での区画の比較が望まれる。


「前期の水稲拡大と生産性向上」
弥生早期には、北部九州や瀬戸内海沿いの一部にしか広まらなかった水稲が、前期には、西日本に爆発的に拡大した。
早期の水稲と前期の水稲との間には、大きな違いがあった可能性がある。

水稲拡大の理由として、弥生水稲の温帯ジャポニカが、縄文陸稲の熱帯ジャポニカと、遺伝子交雑したからという説がある。
また、土木技術が向上した結果、水稲が広まった可能性も考えられる。

しかし、やはり、水稲が一気に拡大した背景には、水稲の生産性の大幅な上昇があったのではないかと考えたくなる。


ここで注意しなくてはならないのが、生産性と言っても、我々が通常考える生産性と少し異なる点である。
現在、稲作の生産性を考える時には、反収(1反=10a当たりの収穫)を使う事が多い。
しかし、弥生時代には、こうした面積当たりの収穫高よりも、労働生産性の方が重要だったと考えられる。

仮に、全ての農作業に掛かる時間が半分になったとしよう。土地に余裕があれば、同じ労働時間で2倍の面積を耕作できる。
面積当たりの収穫が変わらなくても、一人当たりの収穫は2倍になるのである。


弥生式の水稲の全作業の中で、最も手間が掛かるのは、水稲再開の前のヨシの除去である。
ただし、水田に生えたヨシは、毎年冬に刈り取られ、素材として利用されていたはずであり、除去の対象は地下茎が中心となる。

ヨシの地下茎は、太さが1~2cmで、主に深さ15~40cmの地中を、水平に伸びていく。
地下茎が残ると、そこからヨシが発芽するので、水稲を再開するには、ヨシの地下茎をきれいに除去しなくてはならない。

田植えや稲刈りでは、1~2分もあれば、かなり広い範囲の作業が終わる。
それに対して、ヨシの地下茎の除去の場合、1~2分くらいでは、ほとんど同じ場所でしか作業できないだろう。
ヨシの除去は、他の作業に比べて、格段に手間と時間が掛かるのである。


このように、弥生時代の水稲では、ヨシの地下茎の除去の負担を軽減する事が、生産性の向上に大きく関係してくる。
そして、これに成功すれば、それをきっかけとして、水稲が爆発的に拡大した可能性も考えられるのである。


「田植えと乾田化」
では、どのようにしたら、ヨシの地下茎の除去が楽になるだろうか。

最も直接的なのが、地下茎を掘り出す作業を速くする事である。
何年もヨシの除去をしていれば、少しずつ、作業の時間が短くなるだろう。そして、新たな道具が生まれるかも知れない。
弥生時代の遺跡からは、多くの木製農具が見つかっているが、その中には、用途がはっきりしないものもある。
先が三つ叉・四つ又に分かれた鍬・鋤などは、ヨシの地下茎の除去のためのものだった可能性も考えられる。


こうした作業時間の短縮だけでなく、水稲サイクルでの耕作と休耕の年数も、地下茎の除去の負担に大きく影響してくる。

水稲2年・休耕8年だったサイクルが、何らかの理由で、水稲4年・休耕8年になったとしよう。
ヨシの除去は、水稲を再開する前に一度だけ行えばよい。また、土地に余裕があれば、休耕の年数は、無視して考えてもよい。
従って、上のケースでは、水稲2年に1回必要だったヨシの除去が、水稲4年に1回に、半減された事になる。

また、休耕の年数を短くする事にも、ヨシの除去の負担を軽くする効果がある。
ヨシの地下茎は毎年成長するので、休耕の年数が短いほど、除去すべき地下茎の量が減り、除去の作業時間も短くなる。

このように、水稲の年数を伸ばし、休耕の年数を縮める事で、ヨシの除去の負担は大幅に軽減されるのである。


水稲や休耕の年数に大きく影響を与えたと推測されるのが、「田植え」の導入と水田の「乾田化」である。

弥生時代の水稲では草取りをしないので、直播きでも田植えでも、雑草が徐々に子孫を増やし、最終的に水稲ができなくなる。
種の直播きの場合、イネと雑草がほぼ同時に発芽して成長の競争が始まるが、田植えの場合、イネには高さのハンデがある。
田植えをすれば、夏・秋まで成長する雑草の割合が減り、子孫が増えるペースが落ちるので、連続して水稲できる年数が伸びる。

休耕を終え水稲を再開するには、地上だけでなく、地下にある雑草の種子や発芽可能な根・茎も十分に減らなければならない。
地下の種子などは、何もしなくても、徐々に発芽能力を失っていく。特に、根・茎は、ほとんどが3~5年で発芽できなくなる。
湿田では、水を抜けないので、休耕して何年かは水田雑草が成長する。この期間は、地下の雑草の種子などが増えていく。
それに対して、乾田では、水を抜いて放置する事が可能で、休耕1年目から、ほとんどの水田雑草が成長できなくなる。
湿田より、乾田の方が、休耕の年数が短くなるのは明らかである。

少し分かりづらいが、乾田で田植えを行う事には、意外な相乗効果がある。
弥生時代の粗放な農法では、専用の苗代を作るような事はせず、田植えで植える苗は、休耕中の水田で育てたと推測できる。
田植え前の休耕中の水田に、水を入れて種籾を撒くと、イネだけでなく、雑草も発芽する。
イネの苗が他に移植された後には、発芽した水田雑草が残るが、この後水田の水を抜けば、大部分が枯れてしまう。
雑草が発芽して枯れるという過程により、地下の種子などが大きく減り、その結果、休耕の年数も大幅に短縮できるのである。


このように、田植えの導入と乾田化により、水稲1年当たりで比べた、ヨシの地下茎の除去の負担を、大きく減らす事ができる。
問題となるのは、田植えや乾田が、いつ日本に現れたかである。

弥生早期の菜畑遺跡の日本最古の水田は、湿田だったが、早期から前期にかけての板付遺跡の水田は、乾田だった。
乾田化が、前期の水稲の爆発的な拡大の原因となった可能性は十分に考えられる。
ただし、朝鮮半島のオッキョン遺跡や麻田里遺跡の水田も乾田とされており、この点に注意が必要である。

朝鮮半島では、李氏朝鮮の時代まで、田植えがなかったという説が有力であり、日本の田植えは日本で始まったと考えられる。
日本最古の百間川遺跡の田植えの跡は、弥生後期のものだが、いつ田植えが始まったか、正確な事は分かっていない。
現時点では、水稲が西日本に一気に広がった弥生前期までに、田植えが行われていたどうか、肯定も否定もできないのである。


田植えと乾田を組み合わせた農法が生まれ、ヨシの除去の負担が大幅に軽減された結果、水稲が爆発的に拡大した。
このような事が起こった可能性も十分に考えられる。

しかし、仮説としては非常に魅力的だが、これを史実だと主張するには、証拠が足りないのが現状である。


「まとめ」
弥生時代の水稲では、草取りをしなかった。雑草が増えすぎると、水稲を休み、土地を放置する。
何年かすると、雑草同士の競争力の強いヨシが他の雑草を排除するので、そのヨシを人間が除去すれば、水稲を再開できる。

このような農法が存在したとすれば、今まで謎だった弥生時代の雑草対策や休耕の理由をすっきりと説明出来る。

現代人にとって、ヨシに他の雑草を排除させるという発想は浮かびづらいが、水稲を始めた頃には自然に生まれる農法である。
また、水稲が始まったばかりで、土地に余裕のある弥生時代には、毎年草取りする農法より、はるかに合理的なものである。
さらに、鉄製農具や犂がなかった弥生時代には、草取りして毎年同じ場所で水稲するのが、事実上不可能だった可能性もある。

雑草対策にヨシを利用する農法が行われていた証拠と考えられるものも、いくつか見つかっている。
弥生時代も含め、古い時代の水田跡からは、イネとヨシのプラントオパールが一緒に見つかる事が多い。
特に、鳥取県の門前上屋敷遺跡では、イネのプラントオパールが増えると、ヨシのプラントオパールも増えている。
決定的な証拠は、静岡県の曲金北遺跡である。ここでは、水稲の区画・雑草が多い区画・ヨシが多い区画が同時に存在していた。
岡山県の百間川遺跡の水田で見つかった田植えの跡では、苗が非常に密集しており、草取りのために水田に入れない。

このブログでは、上にあげたような根拠・証拠だけでも、ヨシを利用した農法が存在した可能性が高いと考えている。

この農法において、最も負担が大きいのが、何年かに1回行わなければならない、ヨシの地下茎の除去である。
田植えの導入と乾田化は、この作業の負担を大きく軽減する。
それをきっかけに、前期に水稲が爆発的に拡大した可能性も考えられるが、この点に関しては、証拠不足と言わざるを得ない。