満州ブログ

記紀解読  大和朝廷成立の謎

4-25 まとめ:神武は出雲から来た

2013-10-16 | 記紀解読
3章では、出雲でどのような事が起こったか推理し、4章では、国譲り後の歴史を推理した。
その結論は、高天原に出雲を追われた人々が、大和を作ったというものだった。
かなり長く書いてきたので、この辺で、これまでの事を、一度まとめておく事にしよう。


「大国主は、実在の人物である」
戦後長い間、「神代」はもちろん、初期の天皇も創作と考えられてきた。また、出雲は、考古学的に何も無い所とされてきた。
こうした状況も、荒神谷遺跡の銅剣や加茂岩倉遺跡の銅鐸の発見で大きく変わり、出雲を無視する事が出来なくなった。

出雲での相次ぐ発見の中でも、記紀を考える上で特に重要なのが、出雲大社の境内で見つかった巨大な柱である。
出雲大社の本殿が日本一の高さだった事については、色々な伝承が残っているが、この時の発見でそれが考古学的に確認された。
大手ゼネコンの大林組は、その建設費用を121億円と推定している。また、平安から鎌倉時代に7回の本殿倒壊の記録がある。
架空の人物のために、これほどの巨額の費用をかけてまで、何度も本殿を建て直すとは考えにくい。


「国譲りは、史実である」
大国主が実在の人物である可能性が高くなってくると、次に考えなくてはならないのが、国譲りが史実かどうかである。
もちろん、国譲りが史実かどうかといっても、大国主が国を譲ったという脚色までもが、史実かどうかという意味ではない。
大国主の出雲から、高天原の出雲へと、権力の交替が実際にあったかどうかという意味である。


出雲大社で祀られているのは大国主であるが、それを代々宮司として祀ってきたのは、天穂日の子孫である国造家である。
この事からも分かるように、出雲には大国主の子孫が残らず、出雲の支配者となったのは外部から来た高天原系の人達である。

出雲で権力交替があった事は、考古学からも確認ができる。
弥生時代が終わる頃、出雲の中心が神門川・斐伊川周辺の「西の出雲」から、意宇川・飯梨川周辺の「東の出雲」へ移っている。

重要なのは、これら2つの変化が全く別のものではなく、相互に関連がある点である。
出雲国風土記では、大国主の館など、大国主の生活や権力の基盤に関する話は西の出雲だけにある。
天穂日を祀る能義神社は飯梨川河口に、国造家が代々「火継ぎ式」を行ってきた熊野大社・神魂神社は意宇川沿いにある。

こうした事を考えると、「大国主の西の出雲」から「出雲国造家の東の出雲」への権力交代が、史実だった可能性は非常に高い。

この他にも、「出雲の国譲り」=「出雲での権力交替」を史実とすべき理由には、次のようなものがある。
大国主・天穂日のそれぞれに、現代まで続く子孫がいる。
奈良・平安の人々は、大国主の祟りを信じていた。この時代の人々は、大国主が国を奪われた事を史実と考えていたのである。
国譲りが創作である可能性は、国譲りが史実である可能性より、はるかに低い。


「国譲りの年代推定」
国譲りが史実である可能性が高いとすると、さらに考えなくてはならないのが、その年代である。

国譲りの年代推定で鍵となるのが、飯梨川河口にある「荒島墳墓群」である。
ここでは、弥生後期後半から、四隅突出型墳丘墓が築かれ、古墳時代に入ると、方墳・前方後方墳と行った四角い墓が造られた。

この日本統一の前後での荒島墳墓群の変化の様子は、出雲の国造家と、ちょうど重なり合う。
国造家は、出雲振根の時に、出雲の神宝を崇神天皇に差し出すが、その後も一族が出雲の支配者として存続する。
荒島墳墓群でも、四隅突出型墳丘墓の造営は断念するが、前方後円墳を受け入れず、同じ場所で四角い墓を造り続ける。
両者とも、崇神の時代=箸墓の時代に、日本を統一した大和に「屈服」はするが、その後も「存続」を許されているのである。

こうした事を考えると、国譲りが史実であり、国造家が実在したなら、荒島墳墓群が彼らの墓だと考えざるを得ない。
荒島墳墓群のすぐそばに、国造家の始祖である天穂日を祀る能義神社がある事も、これを裏付けている。


荒島墳墓群で四隅突出型の造営が開始した弥生後期後半の始まりは、実年代でいうと、2世紀半ば頃と推定されている。
ただし、国譲りが、この年代より、どのくらい前かはっきりしない。国譲りから墓の造営まで数十年以上かかった可能性もある。

そこで、大国主が作ったとされる葦原中国からも、国譲りの年代の手掛かりを得る事が期待されるが、これが意外と難しい。
現在、大国主のものと考えられる遺跡は見つかっていない。荒神谷の銅剣も年代推定が難しく、大国主の物かはっきりしない。

葦原中国についての考古学的証拠がないため、今の所、国譲りの年代は2世紀中頃より前という事しか言えないのである。

(ここまでは、3章で書いた事をまとめたものである)


「出雲と大和の関係」
他では、ほとんど取り上げられる事がないが、このブログで注目しているのが、国譲りと大和誕生との関係である。
2世紀の途中、それまでの近畿の支配者だった唐古・鍵遺跡とは別と考えられる勢力が、大和に出現し、やがて日本を統一する。

この大和に誕生した政権は、出雲との関係が非常に深い。
大和朝廷での最高神は、三輪山に祀られている大物主である。(通常、大物主は、大国主の別名とされている)
また、初期の天皇が宮をおいたとされる葛城地方は、大物主の子孫の鴨氏の本拠地のような所である。
さらに、日本書紀によれば、初期天皇の后は、事代主の娘や孫が続く。
考古学的にも、出雲の影響は確認されている。卑弥呼の神殿と騒がれた建物は、出雲周辺にしか伝わっていない大社造りだった。

重要なのは、十分な証拠がある訳ではないが、出雲の国譲りと、初代神武天皇が、ほぼ同時期だという点である。
上記の通り、国譲りが、荒島墳墓群で四隅突出型墳丘墓が築かれ始める2世紀中頃より前なのは、ほぼ間違いない。
そして、前回まで数回にわったて書いてきたように、神武天皇の実年代も、西暦120~150年頃と推定できるのである。


出雲本国では、高天原から来た天穂日の子孫が支配者となり、大国主に代表される出雲在来の勢力が姿を消す。
そしてその代わりに、ほぼ同じ頃、大和では、出雲だらけの新政権が誕生する。
大国主は、葦原中国として日本の広い範囲を統一したとされ、大和以外にも、出雲からは諏訪に、建御名方が逃げ込んでいる。

こうした事を考えれば、大和朝廷は高天原に出雲を追われた人達が作ったと考えのが自然である。


「北部九州VS大和」
出雲の人々が大和を作ったという事は、高天原があったと考えられる北部九州と、大和との関係からも推測できる。
(高天原が北部九州にあった根拠・理由については、後に、章を設けて書く予定である)

纏向からは、山陰・北陸・山陽・東海など各地の土器が多数出土しているが、北部九州の物はほとんど出ない。
また、弥生時代が終わる頃まで、鉄の流通は北部九州が支配していたと考えられるが、大和や周辺からは鉄の出土が少ない。

これらは、北部九州の高天原と、葦原中国との戦いが、出雲だけでは終わらず、全国的規模で行われたと考えると説明がつく。

出雲陥落後も、葦原中国の人々の中には戦闘を続ける人がいたが、高天原の攻撃を食い止められたのは、大和の地でだけだった。
大和の地形は、生駒山地が天然の城壁となり、大阪湾が天然の堀となっており、西からの攻撃に対して非常に強い。

高天原の征服を防いだ大和へは、旧葦原中国の各地から抵抗を続ける人々が集まってきた。これが現在、土器として表れている。
また、高天原の北部九州は、敵対する大和に対して、鉄の供給を止める。それが、大和周辺の遺跡の鉄不足の原因である。

北部九州(高天原)と出雲(葦原中国)との戦いは、場所を移して、北部九州VS大和として続いたのである。


「日向三代の挿入」
もちろん、大和は出雲の亡命政権であるという仮説は、記紀に書かれている事に反するものである。
記紀では、出雲の国譲りの後に、日向三代(ニニギ・山幸彦・ウガヤフキアエズ)の物語が続き、神武東征へつながる。

しかし、これらの日向に関係する部分は、どれも不自然なものばかりである。
出雲を都とする葦原中国を譲り受けた後に、ニニギが日向へ行くのはおかしい。出雲へは、天穂日の子の天夷鳥が天降っている。
日向を舞台とするニニギ・山幸彦・ウガヤフキアエズの物語は、神話・説話のような物ばかりで、歴史的事実は含まれていない。
記紀に書かれているような日向から大和への東征は、戦力的に、実現不可能と思われる。

このように、ニニギの天降りから神武東征までは、そのままでは史実と思えない話が連続している部分なのである。
そして、上にも書いた通り、国譲りと神武天皇は、ほぼ同じ時代だった可能性がある。

こうした事を考えると、元々は、出雲の国譲りの後に神武天皇の話が続いていたのではないかと疑いたくなる。
ニニギの天降りから神武東征までは、後の時代に挿入されたものと考えると、全てがうまく説明できるのである。


ニニギから神武東征までを取り除いて記紀を読むというのは、決して、記紀を無視・軽視するものではない。

日本書紀では、神武天皇の后の父が、大国主の子の事代主とされている。(古事記では、神武の后の父は大物主)
これを信じれば、国譲りと神武天皇がほぼ同時代となり、国譲りの後に日向三代が南九州で過ごしたとする部分と矛盾する。

このように、記紀は内部矛盾を抱えており、記紀を信じようとしても、記紀の全てが史実という訳にはいかない。
日向三代の物語と、神武が事代主の娘婿という系図の、少なくともどちらかは、史実でないのである。

今までは、あまり深く考えずに、前者を信じ、後者を無視してきた。
しかし、考古学での成果により状況は変わっている。国譲りと神武天皇が同時代である可能性が高まっている。
どちらか片方しか真実でないのなら、後者を史実と考える方が、現時点では、記紀重視の立場としては正しいのである。


「国譲りと神武天皇の年代」
出雲の国譲りの後には神武の話が続いていたという仮説にも、問題点がない訳ではない。
葦原中国の遺跡や初期天皇の葛城時代の遺跡が未発見なため、国譲りと神武天皇が同時代だと考古学的に証明できないのである。

国譲りが史実であるならば、その時期は、荒島墳墓群に四隅突出型墳丘墓が築かれ始める前である事は、まず間違いない。
しかし、大国主が作ったとされる葦原中国が、考古学的に確認できないため、国譲りがどのくらい前かはきっりしない。

纏向遺跡の開始は、2世紀末とされているが、神武から数代は、纏向ではなく、葛城地方に本拠地を置いていたと考えられる。
しかし、この葛城時代の様子も、考古学的に確認が取れないため、神武天皇の年代もはっきりしない。
(このため、前回までに行った神武天皇の年代推定では、豪族達の系図の世代差を使った計算で、年代を推定した)

このように、国譲りの年代も神武天皇の年代も、考古学による正確な推定が出来ず、両者が同時代だと断定できないのである。


「まとめ」
我々は長い間、記紀から歴史を読み取れないでいた。記紀を信じようとしても、解読できないでいた。
しかし、日向三代の物語と、神武の后は事代主の娘という、矛盾する2つの部分の内、後者を信じる事によって問題は解決する。
出雲の国譲りの後に、神武天皇の話が続いていたとすると、記紀は、次のようなストーリーになる。

出雲を都とする葦原中国と、北部九州の高天原が対立する。高天原が出雲へ軍を派遣すると、大国主は死に、出雲は陥落する。
戦いは、出雲以外でも、日本の各地で続く。劣勢の葦原中国側は、西からの攻撃に強い大和の地で、初の勝利をあげる。
高天原の攻撃を食い止めた大和へは、葦原中国の各地から人が集まる。大和は態勢を整え、やがて、反撃に転じる。

このように、日向に関連する部分を取り除くと、記紀は非常に自然なストーリーになる。
また、大和は出雲の亡命政権という仮説は、記紀以外の文献や、日本各地の伝承とも大きな矛盾がない。
(ニニギの天降りや、神武東征に関するものを除く)
そして、魏志倭人伝などの中国の歴史書に書かれた「倭国大乱・相攻伐」とも一致する。
さらに、この仮説を使うと、大和の鉄不足など、これまで解けなかった考古学の多くの謎が、説明可能となるのである。


このブログでは、大和と北部九州との戦いの行方や、高天原が北部九州にあった根拠については、まだ書いていない。
そのため、これを書いている時点では、「初代神武は出雲から来た」という仮説に、説得力に欠ける所があるかも知れない。

しかし、これまでに書いた事だけでも、この仮説が、とんでもない仮説でない事は、分かってもらえたのではないだろうか。