前回は、旧石器時代の石器についてまとめた。縄文時代でも石器は重要だが、より大きな意味を持つのは土器の違いである。
今回は、縄文時代の土器のうち、新たな渡来人と関係がありそうな土器を、取り上げる事にする。
(今回も、年代に関しては、不正確な所があるかも)
「神子柴型石器と無文土器」
旧石器時代から縄文時代に変わる頃、神子柴型石器と呼ばれる、尖頭器と石斧を特徴とする非常に優美な石器が誕生する。
美しいだけでなく、大型であり、未使用で発見される事があるため、実用品ではなく、祭祀などで使われたという説もある。
また、貨幣のような使われ方をしていたのではという見方もある。
神子柴型石器は九州でも出土するが、東日本が中心であり、一部の遺跡では、日本最古の土器型式である無文土器を伴う。
その中でも、青森県大平山元1遺跡の約16500年前の土器が、日本最古の土器とされている。
神子柴型石器にしろ無文土器にしろ、これらがどこで生まれたか、はっきりしない所がある。
バイカル湖周辺で見つかった石器が神子柴型石器に似ているという指摘があり、その起源はシベリアだと書いているものが多い。
北海道の旧石器時代終末期の石器群は本州の神子柴文化の影響を受けたとの見方もあり、本州発祥の可能性も捨てきれない。
今の所、シベリア最古の土器は、ガーシャ遺跡の13000年前頃の物のようであり、大平山元1遺跡の土器の方が古い。
しかし、日本でもシベリアでも、最古級の土器の出土は少なく、より古い土器がシベリアに眠っているかも知れない。
このように、現時点では、神子柴型石器や無文土器が、日本起源なのかシベリア起源なのか、判断がつかない。
もし、どちらか、あるいは、両方が、シベリアから来たのなら、その時に、渡来人も一緒に来た可能性がある。
「豆粒文土器と隆起線文土器」
日本最初の土器は、神子柴文化圏で生まれた無文土器だが、その後、隆起線文土器という土器が日本の広い範囲に広がった。
全国的に見ると2番目の型式となるのが隆起線文土器だが、この土器は意外な所から始まった。
隆起線文土器は有舌尖頭器という石器を伴う事が多いが、九州では、細石刃と一緒に出土する事もある。
細石刃の方が有舌尖頭器より古いので、隆起線文土器は九州で生まれたと考えられている。
佐世保市の泉福寺洞窟では、隆起線文土器より下から、豆粒文土器という土器が出土し、約12000年前の物と推定された。
同じ佐世保市の福井洞窟では、やはり約12000年前と判定された隆起線文土器も見つかっている。
これらは大平山元1遺跡の土器を除けば、日本で最古級のものである。
豆粒文土器として生まれた土器が、長崎県の佐世保市で隆起線文土器へと型式変化し、その後全国へ広まった可能性が高い。
問題となるのは、この豆粒文土器がどのようにして誕生したかである。現時点では、次の3つの可能性が考えられる。
A:無文土器が、九州まで伝わり、それを元に豆粒文土器が生まれた。
B:泉福寺洞窟や福井洞窟周辺の人達が、独自に、豆粒文土器を生み出した。
C:2つの洞窟がある佐世保市は、日本の西の端に位置する。中国大陸のどこからか、土器作りの技術を持った人々が渡来した。
どれが正しいか分からないが、もしBかCが史実ならば、日本の土器には、別々の起源を持つ2つの系統があった事になる。
そして、もしCが正しいのなら、豆粒文土器の製作が始まるときに、新たな渡来人が来た可能性が高い事になる。
「貝文土器」
縄文早期の南九州に、貝文土器という特徴的な土器が現れる。この土器が他と違うのは、貝で文様をつける点だけではない。
縄文早期の土器は、熱効率を高めるためか、底が尖った物がほとんどである。それに対し、貝文土器は平底である。
円柱形の土器が多いが、平底で上から見て四角形のものまである。画像で他の縄文土器と比べると、異質である事がよく分かる。
貝文土器以外にも、この時期の鹿児島県の遺跡には、竪穴式住居・連穴土坑・集石遺構・石皿といった共通点が見られる。
連穴土坑は、火をたき、煙で肉を燻製にするための穴である。集石遺構は、集めた石を熱して調理に使った跡である。
石皿は、ドングリ等をすりつぶして粉にする道具である。
こうした縄文早期の貝文土器の文化圏で、日本の定住が始まったと考えられている。
約11000年前頃、南九州では冬期だけの季節的な定住を行っていたと考えられる遺跡が現れ、やがて通年の定住が始まる。
最古の本格定住の遺跡とされる鹿児島県の上野原遺跡では、一部の竪穴住居が約9500年前の桜島の火山灰で埋まっていた。
はっきりとした証拠はないようだが、こうした文化を持ち込んだのは、スンダランド起源の南方の人々と考えられている。
前回書いたが、旧石器時代には、屋久島・種子島と、奄美大島・徳之島の間に、本土と南西諸島の2つの文化圏の境界があった。
縄文早期になって初めて、南側の人々は、はっきりとした痕跡を残す形で、本土側に進出するようになったのである。
ただし、それ以前の南西諸島では土器が見つかってないので、貝文土器が南方から持ち込まれた訳ではないようである。
南九州へ来て土器という物にふれた南方系の人々が、彼らの好みで新たな土器を作り始めた可能性が高いのである。
前々回も書いた通り、約7300年前の鬼界カルデラの大爆発により、縄文早期の南九州の人々はほぼ全滅する。
しかし、三重・愛知・静岡・関東などで連穴土坑が見つかっており、一部の人々が噴火の前後に東へ逃れた可能性もある。
「鬼界カルデラ爆発後の曽畑式土器」
鬼界カルデラの爆発で降った火山灰は、現在、広い範囲で「アカホヤ」と呼ばれる地層として確認できる。
縄文時代の早期と前期は、このアカホヤの層の上下で分けられる。つまり、約7300年前からが、縄文前期である。
縄文前期の九州には、曽畑式土器と呼ばれる土器が広まる。この土器は、朝鮮半島の櫛目文土器の影響を受けているとされる。
2つの土器は、表面の模様が似ているだけでなく、土器の元になる粘土に、滑石という石の粉を混ぜている点も共通している。
普通に考えれば、噴火でほぼ無人となった九州に、朝鮮半島から渡来人が来たのは、ほぼ間違いないように思える。
実際、鬼界カルデラの爆発後、櫛目文土器を作っていた人々が朝鮮から九州へ来たと書いてあるものも少なくない。
前回書いたように、旧石器時代にも、同じような事があった。
約29000年前に、姶良カルデラが爆発し、各地に「シラス」と呼ばれる地層を形成させるほどの火山灰を降らせた。
九州では、「シラス」の上の層から、沿海州や朝鮮半島で見られる剥片尖頭器が出土する。
火山灰の地層の上から、それまで出土しなかった大陸の石器や土器が見つかる。2つの噴火は、非常によく似ている。
しかし、姶良カルデラの噴火の後には渡来人が来た可能性が高いのに対し、鬼界カルデラの爆発後の渡来については疑問もある。
この点に関しては、少し長くなるので、次回に。
今回は、縄文時代の土器のうち、新たな渡来人と関係がありそうな土器を、取り上げる事にする。
(今回も、年代に関しては、不正確な所があるかも)
「神子柴型石器と無文土器」
旧石器時代から縄文時代に変わる頃、神子柴型石器と呼ばれる、尖頭器と石斧を特徴とする非常に優美な石器が誕生する。
美しいだけでなく、大型であり、未使用で発見される事があるため、実用品ではなく、祭祀などで使われたという説もある。
また、貨幣のような使われ方をしていたのではという見方もある。
神子柴型石器は九州でも出土するが、東日本が中心であり、一部の遺跡では、日本最古の土器型式である無文土器を伴う。
その中でも、青森県大平山元1遺跡の約16500年前の土器が、日本最古の土器とされている。
神子柴型石器にしろ無文土器にしろ、これらがどこで生まれたか、はっきりしない所がある。
バイカル湖周辺で見つかった石器が神子柴型石器に似ているという指摘があり、その起源はシベリアだと書いているものが多い。
北海道の旧石器時代終末期の石器群は本州の神子柴文化の影響を受けたとの見方もあり、本州発祥の可能性も捨てきれない。
今の所、シベリア最古の土器は、ガーシャ遺跡の13000年前頃の物のようであり、大平山元1遺跡の土器の方が古い。
しかし、日本でもシベリアでも、最古級の土器の出土は少なく、より古い土器がシベリアに眠っているかも知れない。
このように、現時点では、神子柴型石器や無文土器が、日本起源なのかシベリア起源なのか、判断がつかない。
もし、どちらか、あるいは、両方が、シベリアから来たのなら、その時に、渡来人も一緒に来た可能性がある。
「豆粒文土器と隆起線文土器」
日本最初の土器は、神子柴文化圏で生まれた無文土器だが、その後、隆起線文土器という土器が日本の広い範囲に広がった。
全国的に見ると2番目の型式となるのが隆起線文土器だが、この土器は意外な所から始まった。
隆起線文土器は有舌尖頭器という石器を伴う事が多いが、九州では、細石刃と一緒に出土する事もある。
細石刃の方が有舌尖頭器より古いので、隆起線文土器は九州で生まれたと考えられている。
佐世保市の泉福寺洞窟では、隆起線文土器より下から、豆粒文土器という土器が出土し、約12000年前の物と推定された。
同じ佐世保市の福井洞窟では、やはり約12000年前と判定された隆起線文土器も見つかっている。
これらは大平山元1遺跡の土器を除けば、日本で最古級のものである。
豆粒文土器として生まれた土器が、長崎県の佐世保市で隆起線文土器へと型式変化し、その後全国へ広まった可能性が高い。
問題となるのは、この豆粒文土器がどのようにして誕生したかである。現時点では、次の3つの可能性が考えられる。
A:無文土器が、九州まで伝わり、それを元に豆粒文土器が生まれた。
B:泉福寺洞窟や福井洞窟周辺の人達が、独自に、豆粒文土器を生み出した。
C:2つの洞窟がある佐世保市は、日本の西の端に位置する。中国大陸のどこからか、土器作りの技術を持った人々が渡来した。
どれが正しいか分からないが、もしBかCが史実ならば、日本の土器には、別々の起源を持つ2つの系統があった事になる。
そして、もしCが正しいのなら、豆粒文土器の製作が始まるときに、新たな渡来人が来た可能性が高い事になる。
「貝文土器」
縄文早期の南九州に、貝文土器という特徴的な土器が現れる。この土器が他と違うのは、貝で文様をつける点だけではない。
縄文早期の土器は、熱効率を高めるためか、底が尖った物がほとんどである。それに対し、貝文土器は平底である。
円柱形の土器が多いが、平底で上から見て四角形のものまである。画像で他の縄文土器と比べると、異質である事がよく分かる。
貝文土器以外にも、この時期の鹿児島県の遺跡には、竪穴式住居・連穴土坑・集石遺構・石皿といった共通点が見られる。
連穴土坑は、火をたき、煙で肉を燻製にするための穴である。集石遺構は、集めた石を熱して調理に使った跡である。
石皿は、ドングリ等をすりつぶして粉にする道具である。
こうした縄文早期の貝文土器の文化圏で、日本の定住が始まったと考えられている。
約11000年前頃、南九州では冬期だけの季節的な定住を行っていたと考えられる遺跡が現れ、やがて通年の定住が始まる。
最古の本格定住の遺跡とされる鹿児島県の上野原遺跡では、一部の竪穴住居が約9500年前の桜島の火山灰で埋まっていた。
はっきりとした証拠はないようだが、こうした文化を持ち込んだのは、スンダランド起源の南方の人々と考えられている。
前回書いたが、旧石器時代には、屋久島・種子島と、奄美大島・徳之島の間に、本土と南西諸島の2つの文化圏の境界があった。
縄文早期になって初めて、南側の人々は、はっきりとした痕跡を残す形で、本土側に進出するようになったのである。
ただし、それ以前の南西諸島では土器が見つかってないので、貝文土器が南方から持ち込まれた訳ではないようである。
南九州へ来て土器という物にふれた南方系の人々が、彼らの好みで新たな土器を作り始めた可能性が高いのである。
前々回も書いた通り、約7300年前の鬼界カルデラの大爆発により、縄文早期の南九州の人々はほぼ全滅する。
しかし、三重・愛知・静岡・関東などで連穴土坑が見つかっており、一部の人々が噴火の前後に東へ逃れた可能性もある。
「鬼界カルデラ爆発後の曽畑式土器」
鬼界カルデラの爆発で降った火山灰は、現在、広い範囲で「アカホヤ」と呼ばれる地層として確認できる。
縄文時代の早期と前期は、このアカホヤの層の上下で分けられる。つまり、約7300年前からが、縄文前期である。
縄文前期の九州には、曽畑式土器と呼ばれる土器が広まる。この土器は、朝鮮半島の櫛目文土器の影響を受けているとされる。
2つの土器は、表面の模様が似ているだけでなく、土器の元になる粘土に、滑石という石の粉を混ぜている点も共通している。
普通に考えれば、噴火でほぼ無人となった九州に、朝鮮半島から渡来人が来たのは、ほぼ間違いないように思える。
実際、鬼界カルデラの爆発後、櫛目文土器を作っていた人々が朝鮮から九州へ来たと書いてあるものも少なくない。
前回書いたように、旧石器時代にも、同じような事があった。
約29000年前に、姶良カルデラが爆発し、各地に「シラス」と呼ばれる地層を形成させるほどの火山灰を降らせた。
九州では、「シラス」の上の層から、沿海州や朝鮮半島で見られる剥片尖頭器が出土する。
火山灰の地層の上から、それまで出土しなかった大陸の石器や土器が見つかる。2つの噴火は、非常によく似ている。
しかし、姶良カルデラの噴火の後には渡来人が来た可能性が高いのに対し、鬼界カルデラの爆発後の渡来については疑問もある。
この点に関しては、少し長くなるので、次回に。