満州ブログ

記紀解読  大和朝廷成立の謎

5-3 縄文時代の土器

2013-12-20 | 記紀解読
前回は、旧石器時代の石器についてまとめた。縄文時代でも石器は重要だが、より大きな意味を持つのは土器の違いである。
今回は、縄文時代の土器のうち、新たな渡来人と関係がありそうな土器を、取り上げる事にする。
(今回も、年代に関しては、不正確な所があるかも)


「神子柴型石器と無文土器」
旧石器時代から縄文時代に変わる頃、神子柴型石器と呼ばれる、尖頭器と石斧を特徴とする非常に優美な石器が誕生する。
美しいだけでなく、大型であり、未使用で発見される事があるため、実用品ではなく、祭祀などで使われたという説もある。
また、貨幣のような使われ方をしていたのではという見方もある。

神子柴型石器は九州でも出土するが、東日本が中心であり、一部の遺跡では、日本最古の土器型式である無文土器を伴う。
その中でも、青森県大平山元1遺跡の約16500年前の土器が、日本最古の土器とされている。

神子柴型石器にしろ無文土器にしろ、これらがどこで生まれたか、はっきりしない所がある。

バイカル湖周辺で見つかった石器が神子柴型石器に似ているという指摘があり、その起源はシベリアだと書いているものが多い。
北海道の旧石器時代終末期の石器群は本州の神子柴文化の影響を受けたとの見方もあり、本州発祥の可能性も捨てきれない。

今の所、シベリア最古の土器は、ガーシャ遺跡の13000年前頃の物のようであり、大平山元1遺跡の土器の方が古い。
しかし、日本でもシベリアでも、最古級の土器の出土は少なく、より古い土器がシベリアに眠っているかも知れない。

このように、現時点では、神子柴型石器や無文土器が、日本起源なのかシベリア起源なのか、判断がつかない。
もし、どちらか、あるいは、両方が、シベリアから来たのなら、その時に、渡来人も一緒に来た可能性がある。


「豆粒文土器と隆起線文土器」
日本最初の土器は、神子柴文化圏で生まれた無文土器だが、その後、隆起線文土器という土器が日本の広い範囲に広がった。
全国的に見ると2番目の型式となるのが隆起線文土器だが、この土器は意外な所から始まった。

隆起線文土器は有舌尖頭器という石器を伴う事が多いが、九州では、細石刃と一緒に出土する事もある。
細石刃の方が有舌尖頭器より古いので、隆起線文土器は九州で生まれたと考えられている。

佐世保市の泉福寺洞窟では、隆起線文土器より下から、豆粒文土器という土器が出土し、約12000年前の物と推定された。
同じ佐世保市の福井洞窟では、やはり約12000年前と判定された隆起線文土器も見つかっている。
これらは大平山元1遺跡の土器を除けば、日本で最古級のものである。
豆粒文土器として生まれた土器が、長崎県の佐世保市で隆起線文土器へと型式変化し、その後全国へ広まった可能性が高い。

問題となるのは、この豆粒文土器がどのようにして誕生したかである。現時点では、次の3つの可能性が考えられる。

A:無文土器が、九州まで伝わり、それを元に豆粒文土器が生まれた。
B:泉福寺洞窟や福井洞窟周辺の人達が、独自に、豆粒文土器を生み出した。
C:2つの洞窟がある佐世保市は、日本の西の端に位置する。中国大陸のどこからか、土器作りの技術を持った人々が渡来した。

どれが正しいか分からないが、もしBかCが史実ならば、日本の土器には、別々の起源を持つ2つの系統があった事になる。
そして、もしCが正しいのなら、豆粒文土器の製作が始まるときに、新たな渡来人が来た可能性が高い事になる。


「貝文土器」
縄文早期の南九州に、貝文土器という特徴的な土器が現れる。この土器が他と違うのは、貝で文様をつける点だけではない。
縄文早期の土器は、熱効率を高めるためか、底が尖った物がほとんどである。それに対し、貝文土器は平底である。
円柱形の土器が多いが、平底で上から見て四角形のものまである。画像で他の縄文土器と比べると、異質である事がよく分かる。

貝文土器以外にも、この時期の鹿児島県の遺跡には、竪穴式住居・連穴土坑・集石遺構・石皿といった共通点が見られる。
連穴土坑は、火をたき、煙で肉を燻製にするための穴である。集石遺構は、集めた石を熱して調理に使った跡である。
石皿は、ドングリ等をすりつぶして粉にする道具である。

こうした縄文早期の貝文土器の文化圏で、日本の定住が始まったと考えられている。
約11000年前頃、南九州では冬期だけの季節的な定住を行っていたと考えられる遺跡が現れ、やがて通年の定住が始まる。
最古の本格定住の遺跡とされる鹿児島県の上野原遺跡では、一部の竪穴住居が約9500年前の桜島の火山灰で埋まっていた。

はっきりとした証拠はないようだが、こうした文化を持ち込んだのは、スンダランド起源の南方の人々と考えられている。
前回書いたが、旧石器時代には、屋久島・種子島と、奄美大島・徳之島の間に、本土と南西諸島の2つの文化圏の境界があった。
縄文早期になって初めて、南側の人々は、はっきりとした痕跡を残す形で、本土側に進出するようになったのである。

ただし、それ以前の南西諸島では土器が見つかってないので、貝文土器が南方から持ち込まれた訳ではないようである。
南九州へ来て土器という物にふれた南方系の人々が、彼らの好みで新たな土器を作り始めた可能性が高いのである。


前々回も書いた通り、約7300年前の鬼界カルデラの大爆発により、縄文早期の南九州の人々はほぼ全滅する。
しかし、三重・愛知・静岡・関東などで連穴土坑が見つかっており、一部の人々が噴火の前後に東へ逃れた可能性もある。


「鬼界カルデラ爆発後の曽畑式土器」
鬼界カルデラの爆発で降った火山灰は、現在、広い範囲で「アカホヤ」と呼ばれる地層として確認できる。
縄文時代の早期と前期は、このアカホヤの層の上下で分けられる。つまり、約7300年前からが、縄文前期である。

縄文前期の九州には、曽畑式土器と呼ばれる土器が広まる。この土器は、朝鮮半島の櫛目文土器の影響を受けているとされる。
2つの土器は、表面の模様が似ているだけでなく、土器の元になる粘土に、滑石という石の粉を混ぜている点も共通している。

普通に考えれば、噴火でほぼ無人となった九州に、朝鮮半島から渡来人が来たのは、ほぼ間違いないように思える。
実際、鬼界カルデラの爆発後、櫛目文土器を作っていた人々が朝鮮から九州へ来たと書いてあるものも少なくない。


前回書いたように、旧石器時代にも、同じような事があった。
約29000年前に、姶良カルデラが爆発し、各地に「シラス」と呼ばれる地層を形成させるほどの火山灰を降らせた。
九州では、「シラス」の上の層から、沿海州や朝鮮半島で見られる剥片尖頭器が出土する。

火山灰の地層の上から、それまで出土しなかった大陸の石器や土器が見つかる。2つの噴火は、非常によく似ている。
しかし、姶良カルデラの噴火の後には渡来人が来た可能性が高いのに対し、鬼界カルデラの爆発後の渡来については疑問もある。

この点に関しては、少し長くなるので、次回に。

5-2 旧石器時代の石器

2013-12-14 | 記紀解読
同じ旧石器時代でも、時代や地域によって、異なった石器が作られた。
新しい石器が出現したのなら、当然、新たな渡来人が来た可能性が高い事になる。
今回は、旧石器時代の石器と、それを列島に持ち込んだかも知れない渡来人について、まとめる事にする。
(旧石器時代の年代に関しては、正確な推定が難しいようである。今回ここに挙げた年代にも、間違いがあるかも知れない。)


「中期旧石器時代」
縄文時代の前の時代は、先土器時代・旧石器時代などと呼ばれるが、旧石器時代は、日本だけでなく世界共通の用語である。
旧石器時代は、前期(260万年前~)・中期(30万年前~)・後期(5万年前~)に分けられる。

前期・中期の旧石器として日本で報告された物の大部分は、「神の手」と呼ばれる人物による捏造である。
しかし、島根県の砂原遺跡(12万年前)や、岩手県の金取遺跡(8~9万年前)等では、本物と思われる石器が出土している。
後期に比べて遺跡の数は格段に少ないが、中期旧石器時代の日本に、人類がいたのは確かなようである。
ただし、この時代の人々は、縄文人や現代人につながるホモ・サピエンス(新人)ではなく、旧人だったと考えられている。


「最初のホモ・サピエンス」
後期旧石器時代の35000年前頃から、台形様石器や局部磨製石斧という石器が、日本各地で見られるようになる。
これが、日本列島における、最初のホモ・サピエンスの痕跡と考えられている。
この時期には、まだ、日本列島内で石器の地域差がない。また、これらの石器を使った人々が、どこから来たかは不明である。


「石刃技法とナイフ形石器」
約30000年前に、「石刃技法」と呼ばれる画期的な石器製造法が伝わってきた。
これは、1つの原石から、「石刃(ブレード)」と呼ばれる厚さ1~2cmほどの板状の石片を、大量に作り出す技法である。
原石を予め割れやすい形に加工し、角や骨のタガネをあてて間接的にたたくと、板状の石片(剥片)が、次々と剥がれていく。
1つ1つの剥片が、さらに加工されて石器となるので、同じ大きさの原石から得られる石器の数が飛躍的に増大する。

石刃技法は、ユーラシア西部で誕生し、本州へは華北・朝鮮を経て伝わったと考えられている。
この時に、華北から、新しい技術とともに、渡来人が来た可能性が高い。

剥片は、様々な用途の石器に加工されるが、日本では、ナイフ形石器と呼ばれる石器が数多く作られた。
これは、名前に「ナイフ」とついているが、棒の先につけ槍として使われる事が多かった。
注目すべきは、この段階で、本州の東西で、石器の作り方に違いが出てくる点である。
西日本では、瀬戸内技法という石刃技法とは少し異なった方法で剥片が作られ、ナイフ形石器などになった。
(瀬戸内技法は、日本で生まれたと考えられており、東日本とは別の渡来人が来た訳ではない)

この時代の北海道には別の文化が存在した。ナイフ形石器は、広郷型という北海道独自の型で、出土する数も多くはない。
当時は、サハリン・北海道が大陸と陸続きだったので(本州と北海道の間は海)、シベリアから別の渡来があった可能性がある。

前回書いた縄文時代の鬼界カルデラとは別に、旧石器時代の約29000年前には、鹿児島の姶良カルデラが爆発した。
九州では、この噴火の後に、沿海州や朝鮮半島と似た剥片尖頭器が見つかる。
これらの地域から、噴火で人口の減った九州へ、渡来があった可能性が考えられる。


「細石刃」
30000年前頃、シベリアのバイカル湖周辺で、細石刃という革命的な石器が生まれる。
細石刃は、長さ3cm以下、幅0.5cm以下の、驚くほど小さくて薄い石器であり、使い方も大きく変わった。

ナイフ形石器などの、それまでの石器を使った槍では、棒の先につけた尖った石器が、獲物の体に突き刺さる。
それに対し、細石刃はカミソリのような使い方をする。獲物に突き刺さる槍の本体は、先の尖った木や骨の棒となる。
この棒の両側の側面に溝を掘り、数枚の細石刃をうめる。アスファルトなどで固定する事もあったようである。
細石刃を使った槍は、貫通力が上がったとされる。また、同じ原石から、石刃技法より、さらに多くの槍を作れるようになった。

日本には、20000年前、あるいは、24000年前頃、先ず北海道へ、細石刃が伝わってきた。
北海道での細石刃の作り方は、シベリア・サハリンと共通である。
バイカル湖からシベリアを東に進み、サハリンを経由して北海道に来た集団がいた事は、ほぼ定説となっている。

細石刃のように小さく薄い石片を連続して剥がし取るには、事前に原石を剥離しやすい形に加工しておかなくてはならない。
日本列島では、この時に、クサビ形の石核にする方法と、円錐形の石核にする方法の、2つの技法が用いられた。

クサビ形を使う湧別技法と呼ばれる北海道の技法は、18000年前頃、本州に伝わり、茨城・山形・新潟の辺りまで広まった。
これより西では、矢出川技法という、円錐形の石核から細石刃を作り出す技法が主流となる。
また、大陸に近い西北九州では、初めは円錐形の石核を使っていたが、途中から、福井型と呼ばれるクサビ形の石核に変わる。

中国大陸でも、クサビ形と円錐形という異なった形の石核が使われていた事が、徐々に明らかになってきた。
こうした研究の成果などにより、矢出川技法や福井型の石核は中国(華北)から伝わってきたという説が、有力になりつつある。
そして、これらの仮説が正しければ、細石刃の作製技術と一緒に、華北から渡来人が来た可能性も高い事になる。


「スンダランドからの人々」
鹿児島県の南の島々と、沖縄県の島々をあわせて、南西諸島と呼ぶ。
鹿児島側は、北から、屋久島・種子島の「大隅諸島」、小さな島々の「トカラ列島」、奄美大島・徳之島の「奄美諸島」である。
種子島では、細石刃が出土しているが、奄美諸島以南では、本土で広く見られるナイフ型石器・細石刃は見られない。
旧石器時代、奄美以南の南西諸島には、本土とは別の人々がいたのである。

旧石器時代は氷河期で、海面は現在より100m以上も低かった。今は海底となっていても、当時は陸地だった所も多い。
インドネシアの島々と大陸のタイ・マレーシアの間にも、かつては広大な陸地があり、現在そこをスンダランドと呼ぶ。
スンダランドからは、オーストラリア・オセアニアに人々が渡っており、日本にも渡来人が来ていたとしても不思議ではない。

沖縄県では、港川フィッシャー遺跡・山下町第1洞穴・白保竿根田原洞穴などで、旧石器時代の人骨が見つかっている。
港川フィッシャー遺跡で見つかった「港川人」は、インドネシアのワジャク洞窟で発見された人骨と似ているという。
また、奄美諸島の複数の遺跡からは不定形剥片石器が出土しているが、これは東南アジアの島々・台湾・中国南部と共通という。
こうした事などから、旧石器時代の奄美以南の人々は、スンダランドから来た南方系の人々と考えられている。

本土の旧石器人は奄美諸島より南に行ってないようだが、南方系の人々は、もっと北にまで来ていたのかも知れない。
スンダランドの石器には、上に書いた不定形剥片石器の他に、重量石器という別の系統の石器もあった。
種子島の立切遺跡・横峯B遺跡、東京の西之台B遺跡・中山谷遺跡などの石器を、こうした南方系の重量石器とする見方もある。
また、旧石器時代には、伊豆諸島の神津島の黒曜石が本州に運ばれているが、これは南方系の人々が運んだとする説もある。
基本的に、大隅諸島と奄美諸島の間が旧石器時代の2つの文化圏の境界だが、南の一部の人々はこれを越えていた可能性もある。